パーソナルエンスン

和名:パーソナルエンスン

英名:Personal Ensign

1984年生

鹿毛

父:プライヴェートアカウント

母:グレシャンバナー

母父:ホイストザフラッグ

2歳時の故障から復帰してBCディスタフなど13戦無敗の完璧な競走成績を残した名牝は、繁殖成績も見事な成績を収めて全てにおいて完璧だった

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績13戦13勝

「競馬に絶対は無い」という格言が日本にあるが、同様の格言は米国にもあり、“There’s an old saying which proclaims, you can’t win ’em all.(古人曰く、勝つと宣言したそれらの全てを勝つ事は出来ない)”というそうである。しかし例外の無い法則は無いわけで、上記格言の反例として挙げられる名牝が1頭存在している。それが生涯無敗の戦績を誇った本馬パーソナルエンスンである。繁殖牝馬としても非常に優秀な成績を収めた本馬が語られる際には、多くの場合で“Perfect”という文字が使用される。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州クレイボーンファームにおいて、バックパサーの生産・所有者として知られる名馬産家オグデン・フィップス氏により生産・所有された。2歳になった本馬を預かったのは、当時35歳のクロード・R・“シャグ”・マゴーヒーⅢ世調教師だった。マゴーヒーⅢ世師は、本馬の祖父ダマスカスや曽祖父トムロルフ等を手掛けたフランク・イーウェル・ホワイトリー・ジュニア調教師の元で修業した後に28歳で開業していた。この前年の1985年には管理馬ヴァンランディンガムが、サバーバンH・ジョッキークラブ金杯・ワシントンDC国際Sを制してエクリプス賞最優秀古馬牡馬に選出された事で有名になっており、この1986年からフィップス氏の専属調教師になったばかりだった。デビュー前調教から優れた素質を見せていた本馬だったが、皮膚病を患った影響があり、デビューは少々遅くなった。

競走生活(2歳時)

2歳9月にベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンの未勝利戦が初戦となった。主戦となるランディ・ロメロ騎手を鞍上に、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された。スタートダッシュが悪く、最後方からの競馬となってしまったが、重馬場の中をすぐに位置取りを上げていき、三角手前では既に2番手まで押し上げてきた。そして三角途中で先頭に立つと、直線だけで後続との差を10馬身以上広げて、最後は2着グレースフルダービーに12馬身3/4差で大圧勝して脚光を浴びた。このグレースフルダービー(ちなみにグラスワンダーの伯母である)も後にニジャナS・クイーンエリザベスⅡ世CCS・ヴァイオレットH・クイーンシャーロットHとグレード競走を4勝もする実力馬だったにも関わらず、この着差であった。

その15日後のフリゼットS(GⅠ・D8F)では、僅か3頭立てのレースだった事もあり、キャリア1戦ながら1番人気に支持された。後にセリマS・ガーデニアSを勝つアディロンダックS2着馬コリンズが好スタートから先頭に立ち、スタートダッシュが良くなかった本馬はすぐに追いあげてコリンズの後方外側につけた。そのままレースは2頭のマッチレースの様相を呈し、向こう正面から四角を回って直線に入ってくるまで2頭の併走が続いた。直線でも2頭の叩き合いとなり、ゴールまでどちらが勝つのか分からない接戦が続いたが、本馬が最後に頭差だけ前に出て勝利した。

この勝利により、サンタアニタパーク競馬場で行われるBCジュヴェナイルフィリーズの有力馬として注目を集めたが、それに向けての調教中に左後脚の球節を2箇所骨折してしまった。生命には支障無かったが、この怪我では競走馬としての経歴は終わったと関係者の誰もが思った。しかし本馬を診察した獣外科医のラリー・ブラムレッジ博士は、この骨折は通常より固定しやすいと考え、患部に5本のボルトを埋め込むという大手術を実行した。ブラムレッジ博士の見立てどおりに、本馬の状態は着実に良化していき、骨折から10か月後の翌年9月に競走復帰を果たした。

競走生活(3歳時)

復帰初戦となったベルモントパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走では、同日行われたアーリントンミリオンに参加するためにシカゴに行っていたロメロ騎手に代わって、ジェリー・ベイリー騎手が1戦限りで騎乗した。ここには、GⅠ競走アッシュランドSを勝ちマザーグースSで3着していたシックシリーンの姿があり、故障休養明けの本馬にとっては厄介な相手だった。シックシリーンが好スタートから先手を取ったが、今回は普通のスタートダッシュを見せた本馬も好位の4番手を無理なく追走した。三角に入ったところで本馬が外側から仕掛けて、四角途中で先頭に立った。そしてそのまま直線を押し切り、2着シックシリーンに3馬身3/4差をつけて快勝した。

18日後のベルモントパーク競馬場ダート8ハロンの一般競走では、鞍上がロメロ騎手に戻った。ここでは好スタートを見せると、他馬2頭を先に行かせて3番手につけた。本馬の手応えは抜群で、三角手前で前2頭をかわして早々に先頭に立つと、直線ではロメロ騎手が微動だにしない状態で後続を引き離し、2着ウィズアツイストに7馬身3/4差をつけて圧勝した。

次走はそれから16日後のレアパフュームS(GⅡ・D9F)となった。対戦相手は、シックシリーン、加オークス・シリーニS・フューリーS・スターシュートSの勝ち馬でクイーンズプレート3着のワンフロムヘヴン(この年のソヴリン賞最優秀3歳牝馬)などだった。ここでも馬群の好位3~4番手辺りにつけると、三角手前では既に先頭に立つという得意のレースぶりを披露した。そのまま後続を一度も寄せ付けることは無く、やはり直線では馬なりのまま走り、2着ワンフロムヘヴンに4馬身3/4差で快勝した。

その僅か8日後にはベルデイムS(GⅠ・D10F)に出走した。主な対戦相手は、デラウェアH・ジョンAモリスH・ラフィアンHとGⅠ競走3連勝中で臨んできた前年2着馬クープドフュジル、ジョンAモリスH・ラフィアンHで2着してきたクラバーガール、テンプテッドS・コティリオンHの勝ち馬でセリマS・テストS・ガゼルH3着のサイレントターンなどだった。クープドフュジルが1番人気に支持され、本馬は単勝オッズ2.3倍で生涯唯一の2番人気となった。スタートが切られると、クープドフュジルが内枠発走を利して先頭を伺ったが、外枠発走の本馬がそれをかわしていき、2番手につけた。三角手前で本馬が先頭に立つと、クープドフュジルも内側を突いて位置取りを上げてきた。しかし四角では本馬が器用に外側から内側に進路変更し、逆にクープドフュジルは外側に膨らんだために、2頭の差は縮まらなかった。そして直線でもその差は縮まらず、本馬がクープドフュジルを2馬身1/4差の2着に下して快勝した。

この年のBCディスタフは米国西海岸のハリウッドパーク競馬場で行われたため、無理はせず回避して翌年に備えた。3歳時の成績は4戦4勝だった。

競走生活(4歳時)

半年間の休養を経て、4歳5月にモンマスパーク競馬場で行われたシュヴィーH(GⅠ・D8.5F)で復帰した。一番の強敵は、前年のベルデイムS4着後にBCディスタフで2着して2週間前のGⅠ競走トップフライトHを勝ってきたクラバーガールで、他にも前年のケンタッキーオークス2着馬ホームタウンクイーンの姿もあった。久々だったためか本馬はあまりスタートダッシュが良くなく、当初は最後方の位置取りだった。しばらくして位置取りを上げて、道中は3番手に落ち着いた。2番手だったビショップスディライトが三角手前から一気に加速して先頭に立ち、後続を引き離しにかかった。すると本馬も追撃を開始し、四角ではビショップスディライトに外側から並びかけていった。本馬が先頭に立とうとしたところに、後方外側からクラバーガールが追い上げてきて、3頭が並んで直線を向くことになった。しかし直線半ばで本馬が抜け出し、2着クラバーガールに1馬身3/4差、3着ビショップスディライトにはさらに3馬身1/4差、4着ホームタウンクイーンにはさらに2馬身3/4差をつけて勝利した。

翌6月にベルモントパーク競馬場で出走したヘンプステッドH(GⅠ・D9F)でも、クラバーガール、ビショップスディライト、ホームタウンクイーンとの顔合わせとなった。本馬はクラバーガールと一緒に5頭立ての3~4番手を追走した。今回はスタートから先頭を走っていたビショップスディライトに三角で詰め寄っていくと、四角では外側から並びかけていった。直線に入るとビショップスディライト以下を置き去りにして瞬く間に後続との差を広げ、最後は2着に追いこんできたホームタウンクイーンに7馬身差をつけて圧勝した。

翌7月のモリーピッチャーH(GⅡ・D8.5F)では、エイコーンS・ブラックアイドスーザンS・ヴェイグランシーHの勝ち馬でマザーグースS2着・モンマスオークス3着のグリーシャンフライト、アグリームHの勝ち馬でエイコーンS・マザーグースS2着のルラルジャンが挑んできた。しかし本馬がグリーシャンフライトを8馬身差の2着に、ルラルジャンをさらに7馬身差の3着に破って大勝した。

続いて本馬はサラトガ競馬場に向かい、牡馬混合戦であるホイットニーH(GⅠ・D9F)に参戦した。対戦相手は僅か2頭だった。しかしその2頭は、ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・ウッドメモリアル招待S・メトロポリタンH2回・カーターH・サラトガスペシャルS・ベイショアS・トレモントS・ポトレログランデHとGⅠ競走6勝を含むグレード競走10勝を挙げて、ノーフォークS・ホイットニーH・ウッドワードS・カリフォルニアンSで2着、ベルモントS・オークローンHで3着していたガルチ、ヴォスバーグS・ボールドルーラーS・ブージャムH・アケダクトH・アソールトH2回・ウエストチェスターH・スタイミーH・グレイラグHを勝ち前走トムフールSでガルチを2着に破っていた“The King of Aqueduct”ことキングズスワンであり、いずれも本馬にとってはかつて無い強敵だった。泥だらけの不良馬場の中でスタートが切られると、この年のBCスプリントを制してエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれるガルチがその快速を活かして先頭に立ち、キングズスワンが1馬身差の2番手、本馬が最後方となった。三角に入ったところで本馬が突如加速してキングズスワンを抜き去り、先頭のガルチに外側から並びかけてきた。それに気付いたガルチ鞍上のホセ・サントス騎手が仕掛けるとガルチも加速。この2頭が並んで四角を回り、直線に入ってきた。そして2頭の激しい叩き合いが展開されたが、残り半ハロン地点で本馬が前に出て、最後は1馬身半差で勝利した(3着キングズスワンはガルチから17馬身後方)。斤量差は牡牝の標準差である6ポンドだったから、本馬は牡馬のトップクラスを真っ向勝負で打ち破った事になった。

翌月に出走したマスケットS(GⅠ・D8F)は牝馬限定競走だったが、ガルチ以上に手強いかもしれない1頭の強豪牝馬が待ち構えていた。それはこの年のケンタッキーダービーを逃げ切って優勝していたサンタアニタオークス・サンタアニタダービーの勝ち馬でラスヴァージネスS2着・プリークネスS3着のウイニングカラーズだった。斤量は3歳馬ウイニングカラーズより古馬である本馬のほうが5ポンド重く、前走ホイットニーH以上に厳しい戦いが予想された。スタートが切られるとやはりウイニングカラーズが先頭に立った。一方の本馬は普通にスタートを切ったものの、あまり積極的には進出せずに最後方からの競馬となった。そのために快調に先頭を飛ばすウイニングカラーズとの差はどんどん開き、一時は10馬身差ほどの差をつけられた。向こう正面半ばになってようやく本馬の速度が上がり、三角途中で2番手まで上がってきた。この時点でもウイニングカラーズとの差は5馬身ほどあったが、ここからさらに差を縮めていき、直線入り口では1馬身差まで詰め寄ってきた。そして内埒沿いを必死に逃げるウイニングカラーズに、外側から本馬が並びかけて叩き合いに持ち込んだ。1ハロン以上に及ぶ2頭の一騎打ちは、3/4馬身差で本馬が勝利を収めた。

次走のベルデイムS(GⅠ・D10F)では、ヘンプステッドHで本馬の3着に敗れた後にチュラヴィスタH・ランチョベルナルドHを勝ちジョンAモリスHで3着していたクラバーガール、本馬が勝ったマスケットS3着後にラフィアンHを勝ってGⅠ競走の勝ち馬となっていたシャムセイ、フリゼットS・ガゼルHとGⅠ競走で2勝を挙げ前走ラフィアンHで2着してきたクラシッククラウン(チーフズクラウンの半妹でリーチザクラウンの祖母)との対戦となった。スタートからクラシッククラウンが先頭を伺って道中は2番手につけ、本馬は3番手の好位につけた。三角手前で本馬が先に仕掛けると、クラシッククラウンも負けじとスパートした。しかし四角途中で先頭に立った本馬が、直線でクラシッククラウンを突き放し、最後は5馬身半差をつけて危なげなく2連覇を達成した。

BCディスタフ:無敗伝説の完成

デビューから12戦無敗の本馬は、競走生活の締めくくりとして、チャーチルダウンズ競馬場で行われたBCディスタフ(GⅠ・D9F)に出走した。この年のBCディスタフには、ウイニングカラーズ、クラシッククラウン、前走3着のシャムセイの他にも、ケンタッキーオークス・マザーグースS・CCAオークス・デモワゼルS・ハリウッドスターレットS・ラスヴァージネスSとGⅠ競走6勝のグッバイヘイロー、前走スピンスターSを勝ってきたヘイルアキャブ、前年のBCジュヴェナイルフィリーズを制してエクリプス賞最優秀2歳牝馬に選ばれたエピトム、アッシュランドSの勝ち馬でガゼルH・スピンスターS2着・ケンタッキーオークス・アラバマS3着のウィラオンザムーヴ、ホーソーンH・アグリームHの勝ち馬でミレイディH・スピンスターS3着のインテグラといった実力馬が揃っており、戦前から激戦模様だった。本馬が単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持され、ウイニングカラーズとクラシッククラウンの同厩馬2頭がカップリングで単勝オッズ5倍の2番人気、グッバイヘイローが単勝オッズ6.5倍の3番人気、ヘイルアキャブとエピトムの同厩馬2頭がカップリングで単勝オッズ11.3倍の4番人気、ウィラオンザムーヴが単勝オッズ23.2倍の5番人気となった。

当日にハリケーンが襲来し、大雨が降る中、沼地のような馬場でレースが行われた。スタートすると予想どおりウイニングカラーズがすぐに先手を取って単騎の逃げに持ち込み、その3馬身ほど後方にグッバイヘイローとウィラオンザムーヴの2頭、さらにその後方馬群の中にいた本馬は、先頭のウイニングカラーズから8馬身ほど後方だった。非常に走りにくい馬場状態だった故か、他馬勢がウイニングカラーズとの差を詰めてきたのは、ようやく四角に入ってからだった。しかしウイニングカラーズを管理していたダレル・ウェイン・ルーカス調教師が過去最高の走りをしたとレース後に賞賛したほど快調に逃げていたウイニングカラーズの脚色は衰えず、四角を回りながらスパートをかけて逃げ込みを図った。直線に入った時点で先頭のウイニングカラーズと2番手グッバイヘイローの差は3馬身ほど、四角で大外に持ち出しながら加速してきた3番手の本馬とグッバイヘイローの差も3馬身ほどあった。やがてグッバイヘイローと本馬の差が縮まってきて、残り1ハロン地点でようやく並びかけたが、まだウイニングカラーズとの差は3馬身ほどあった。しかしグッバイヘイローと併せ馬になった本馬の闘争心に火がついたのか、ここから爆発的な末脚を繰り出した。そしてウイニングカラーズとの差を瞬く間に縮めると、ほとんど同時にゴールした。結果は写真判定に縺れ込んだが、本馬が僅かに前に出ていたのは誰の目にも明らかだった。やがて鼻差で本馬の勝利が告げられた(グッバイヘイローは半馬身差の3着、4着シャムセイはさらに5馬身後方)。このレースは1980年代の米国競馬、及びブリーダーズカップ史上屈指の名勝負として名高い。

本馬はこれを最後に4歳時7戦7勝、通算13戦無敗で現役を退いた。米国競馬のチャンピオン級における無敗馬誕生は1908年に15戦全勝の成績を残して引退したコリン以来80年ぶりの快挙だった。この年のエクリプス賞年度代表馬はBCクラシック勝ち馬アリシーバが選出されたために逃したが、エクリプス賞最優秀古馬牝馬に選出された。

血統

Private Account Damascus Sword Dancer Sunglow Sun Again
Rosern 
Highland Fling By Jimminy
Swing Time
Kerala My Babu Djebel
Perfume
Blade of Time Sickle
Bar Nothing
Numbered Account Buckpasser Tom Fool Menow
Gaga
Busanda War Admiral
Businesslike
Intriguing Swaps Khaled
Iron Reward
Glamour Nasrullah
Striking
Grecian Banner Hoist the Flag Tom Rolfe Ribot Tenerani
Romanella
Pocahontas Roman
How
Wavy Navy War Admiral Man o'War
Brushup
Triomphe Tourbillon
Melibee
Dorine Aristophanes Hyperion Gainsborough
Selene
Commotion Mieuxce
Riot
Doria Advocate Fair Trial
Guiding Star
Donatila Congreve
Dona Ines

プライヴェートアカウントは当馬の項を参照。

母グレシャンバナーは現役成績6戦1勝だが、本馬の全兄パーソナルフラッグ【サバーバンH(米GⅠ)・ワイドナーH(米GⅠ)・ナッソーカウンティH(米GⅡ)・クイーンズカウンティH(米GⅢ)】も産んだ名繁殖牝馬。本馬がBCディスタフを、パーソナルフラッグがサバーバンHを勝った1988年には、ケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選ばれている。本馬とパーソナルフラッグの全姉プライヴェートカラーズの娘チームカラーズは繁殖牝馬として日本に輸入され、ゴッドオブチャンス【京王杯スプリングC(GⅡ)】を産んだ。また、ゴッドオブチャンスの半姉ヘルワの子にはストロングスート【コヴェントリーS(英GⅡ)・レノックスS(英GⅡ)・チャレンジS(英GⅡ)】がいる。チームカラーズの半妹ブラックアイコンの孫にはジャコム【サンマルティン将軍大賞(亜GⅠ)】がいる。

グレシャンバナーの母ドリンは亜国産馬で、亜国の大競走パレルモ大賞・5月25日大賞・ヒルベルトレレーナ大賞・エンリケアセバル大賞・クリアドレス大賞などを勝ち、亜最優秀3歳牝馬・亜最優秀古馬牝馬に選ばれた名牝。競走馬を引退した後に繁殖牝馬として米国に輸入されていた。本馬の母系は元々南米で発展したものであり、近親にも南米における活躍馬が多く、ドリンの母ドリアも亜国の大競走マイプ大賞の勝ち馬である。→牝系:F6号族①

母父ホイストザフラッグはアレッジドの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、生まれ故郷のクレイボーンファームで繁殖入りした。競走馬としても超一流だった本馬は、繁殖牝馬としても超一流の成績を挙げることになった。

6歳時には初子の牡駒マイナーズマーク(父ミスタープロスペクター)を産んだ。マイナーズマークは、ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)・ジムダンディS(米GⅡ)・コリンS(米GⅢ)勝ちなど18戦6勝の成績を挙げ、早くも母の繁殖牝馬としての名声を不動のものとした。

7歳時には2番子の牡駒アワーエンブレム(父ミスタープロスペクター)を産んだ。アワーエンブレムは現役成績27戦5勝。ステークス競走を勝つ事は出来なかったが、カーターH(米GⅠ)・トムフールS(米GⅡ)・フォアゴーH(米GⅡ)で2着、メトロポリタンH(米GⅠ)・ヴォスバーグS(米GⅠ)で3着するなどの成績を残した。

8歳時には3番子の牝駒ペナントチャンピオン(父ミスタープロスペクター)を産んだ。ペナントチャンピオンは7戦2勝だった。

9歳時には4番子の牝駒マイフラッグ(父イージーゴア)を産んだ。マイフラッグは現役成績20戦6勝。BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・アッシュランドS(米GⅠ)・CCAオークス(米GⅠ)・ガゼルH(米GⅠ)・ボニーミスS(米GⅡ)を制した。マイフラッグがGⅠ競走3勝を挙げ、ベルモントS(米GⅠ)で3着した1996年に、本馬はケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選出された。

10歳時には5番子の牡駒プラウドアンドトゥルー(父ミスタープロスペクター)を産んだ。プラウドアンドトゥルーは9戦3勝、ボルチモアBCH(米GⅢ)で3着などの成績を残し、引退後は米国で種牡馬入りした。

13歳時には6番子の牡駒トラディショナリー(父ミスタープロスペクター)を産んだ。トラディショナリーは現役成績20戦5勝、オークローンH(米GⅠ)を制して本馬産駒3頭目のGⅠ競走勝ち馬となり、引退後は新国で種牡馬入りした。

16歳時には7番子の牝駒ポッシビリティ(父エーピーインディ)を産んだ。ポッシビリティは7戦1勝だった。

18歳時には8番子の牝駒サルート(父アンブライドルド)を産んだ。サルートは10戦1勝だったが、デモワゼルS(米GⅡ)で2着、テンプテッドS(米GⅢ)で3着する活躍を見せた。

19歳時には9番子の牝駒タイトルシーカー(父モナーコス)を産んだ。しかしタイトルシーカーは不出走に終わった。

21歳時には10番子の牡駒バロニアル(父キングマンボ)を産んだ。バロニアルは19戦1勝だったが、血統が評価されて米国で種牡馬入りした。

22歳時には11番子の牡駒(父フォレストワイルドキャット)を産んだが、この子は名前が付けられる前に他界した。これを最後に本馬は繁殖牝馬を引退。その後はクレイボーンファームで余生を過ごしていたが、2010年4月に老衰のため26歳で他界した(安楽死ではなく自然死だった)。遺体は父プライヴェートアカウントと同じく同牧場内のマーチモント墓地に埋葬された。

後世に与えた影響

本馬の優れたところは孫世代以降からも活躍馬が出ているところである。ペナントチャンピオンは、アニマルスピリッツ【バーボンS(米GⅢ)】の母、インターアクティフ【米国競馬名誉の殿堂博物館S(米GⅡ)・ウィズアンティシペーションS(米GⅢ)・バーボンS(米GⅢ)】、オチョオチョオチョ【デルタダウンズジャックポットS(米GⅢ)】、ディヴァインオース【アメリカンダービー(米GⅢ)・ケントS(米GⅢ)・WLマックナイトH(米GⅢ)】の祖母となった。

マイフラッグは、ストームキャットとの間にストームフラッグフライング【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・パーソナルエンスンH(米GⅠ)・メイトロンS(米GⅠ)・フリゼットS(米GⅠ)・シュヴィーH(米GⅡ)】を産んだ。ストームフラッグフライングのBCジュヴェナイルフィリーズ制覇は、史上初の母子3代ブリーダーズカップ制覇という快挙でもあった(ただし、ストームフラッグフライングがBCジュヴェナイルフィリーズを勝つ前年のBCディスタフを勝ったアンブライドルドエレインと、その父であるBCジュヴェナイル勝ち馬アンブライドルズソング、祖父であるBCクラシック勝ち馬アンブライドルドの例があったため、史上初の親子3代ブリーダーズカップ制覇という栄誉は1年遅れで逃している)。マイフラッグの孫にはパレーディング【ディキシーS(米GⅡ)・ベンアリS(米GⅢ)】もいる。

サルートはミスタースピーカー【ベルモントダービー(米GⅠ)・コモンウェルスカップS(米GⅡ)・デイニアビーチS(米GⅢ)・レキシントンS(米GⅢ)】の母となったし、タイトルシーカーはシーキングザタイトル【アイオワオークス(米GⅢ)】の母となった。

また、種牡馬となったアワーエンブレムはケンタッキーダービー・プリークネスSの勝ち馬ウォーエンブレムの父となった。

まさにパーソナルエンスンは競走成績も繁殖成績も完璧な真の女王であった。1998年には、これらの功績を称えて、サラトガ競馬場で行われていたGⅠ競走ジョンAモリスHが、パーソナルエンスンHへと改称されている(現在の名称はパーソナルエンスンS)。1993年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第48位。

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