和名:マンノウォー |
英名:Man o'War |
1917年生 |
牡 |
栗毛 |
父:フェアプレイ |
母:マフバー |
母父:ロックサンド |
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圧勝に次ぐ圧勝で大人気を博し「ビッグレッド」と呼ばれて現在も米国民から愛され続ける米国競馬史上最高の名馬 |
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競走成績:2・3歳時に米加で走り通算成績21戦20勝2着1回 |
現在でも米国民の誇りとされている米国史上最高の名馬
日本の競馬ファンが、日本と直接の縁が無い米国の歴史的名馬について学ぶための教科書が存在するとしたら、その中で最も多くのページを割かれるのは本項の主人公である“Big Red(ビッグレッド)”ことマンノウォー、そして2代目“Big Red”ことセクレタリアトの2頭であろう。しかしながら実際にこの2頭が日本で取り上げられるとき、その記事量は本馬よりセクレタリアトのほうが断然多い。セクレタリアトは31馬身差で圧勝した伝説のベルモントSを始めとする大半のレースが映像で残されており、日本の競馬ファンでもその走りを見た人が多い。しかし生誕から100年近くが経過する本馬についてはレース映像が殆ど残っていない。部分的に映像が残っているレースは複数あるが、スタートからゴールまで全て映像で撮られているのは現役最後のレースとなったケニルワースパーク金杯のみである。そもそも本馬の現役当時の技術では、楕円形の競馬場を周回しながら走る競走馬達を終始撮るという事が難しく、このケニルワースパーク金杯が、スタートからゴールまで映像で撮られた世界初のレースだったのである。その走りを見たことが無い本馬よりも、見たことがあるセクレタリアトのほうが、記事が多くなるのは至極当然の事である。
ところが、筆者が本項を書くために本馬に関する海外の資料を漁ると、そのあまりの多さに驚かされた。セクレタリアトの資料も他の追随を許さないほど多かった(筆者がこの名馬列伝集で書いた文章量は本馬を除けばセクレタリアトが最多である)が、本馬のほうが圧倒的に多く、正直途中で資料漁りが嫌になってしまったほどだった。種牡馬として後世に与えた影響力の違いもあるのだろうが、やはり米国民にとっては本馬こそが史上最高の名馬であり続けているのだろう。
昔の馬は詳細なレース記録を見つけるのが困難である場合が多く、それが筆者にとって悩みの種なのだが、本馬に関しては全競走が網羅された詳細なレース記録を簡単に見つける事が出来た。そこで、本項では米国競馬史上最大のスーパースターである“Big Red”を日本一詳しく紹介する事を試みてみる(その結果として本馬の記事量はこの名馬列伝集中最多となってしまった)。
本馬が人気を得た理由ともなった当時の米国競馬の状況
本馬に関して語る前に、本馬が走っていた当時の米国競馬の状況を振り返っておく。本馬が米国最高の名馬と言われる理由には、その時代背景もあるからである。自由の国アメリカは建国当初からアルコール類やギャンブルを愛する人々が多く、競馬に限らず各種のギャンブルが全米各州で盛んに実施されていた。しかし米国では極端な思想を持つ一部キリスト教宗派が幅を利かす事がしばしばあり、アルコール類やギャンブルを禁止しようとする運動が活発化した時期があった。犯罪減少を目的として1920年に成立した禁酒法は、酒の密輸入組織であるギャングをのさばらせて逆に犯罪が増加する事態を招き、多くの農家や労働者を失業に追い込んだ米国史上屈指の悪法として日本でも有名である。
一方、ギャンブルに関しても、1908年にニューヨーク州でハート・アグニュー法という賭博禁止法が成立している。現在でも米国競馬の中心地であるニューヨーク州は当時も米国競馬の中心地だったのだが、賭博禁止法の煽りを受けてニューヨーク競馬は大打撃を受けた。多くの実力馬が米国外に流出し、1911・12年にはベルモントSが中止され、ニューヨーク州以外の州でも競馬を一部又は全面禁止する州が相次ぐなど、米国競馬における最大の暗黒時代となった。この動きは1912年頃まで続いたが、禁酒法と同様に失業者の増加を招く結果となり、各方面から不満が噴出したため、1913年にニューヨーク州の賭博禁止法は廃止され、米国の反賭博運動は終焉した。しかし僅か数年間の中断期間ではあっても、それが競馬界に与えた悪影響は大きく、1913年当時の競馬の賞金は、米国における近代競馬が始まって以降では最低水準にあったとされている。
しかし思わぬ出来事が競馬界に活気をもたらした。その出来事とは1914年に勃発した第一次世界大戦である。大戦にすぐに参戦しなかった米国は、戦場となった欧州に物資を輸出するなどして、景気が良くなった。それに伴い収入が増えた労働者達は、復活して間もない競馬に多くの財を投じ、米国競馬界は瞬く間に活気を取り戻した。本馬が誕生した時期の米国競馬界は、こういった状況だったのである。
誕生と命名の経緯
本馬を生産したのは、オーガスト・ベルモント・ジュニア氏である。この名馬列伝集でも過去に幾度も登場してきた人物であるが、ここで改めてその経歴を振り返っておく。1853年に銀行家オーガスト・ベルモント氏(ベルモントSのレース名の由来となっている)の息子としてニューヨークに生を受けたベルモント・ジュニア氏は、父の死後にその地位を受け継いだ。彼は銀行業だけでなく鉄道業にも進出しており、ニューヨークに初めて地下鉄を敷いたのは彼の会社である。父が競馬好きだった事もあって彼もまた競馬好きであり、米国ジョッキークラブの初代会長やニューヨーク州競馬委員会の会長を務め、米国障害競走協会の創設者の1人でもあった。米国で反賭博活動が吹き荒れた際に、それに抵抗を続け、遂に米国競馬の復活に漕ぎ着けたのも彼の功績である。
彼は父がニューヨークに設立したナーサリースタッドで馬産も開始しており、1880年代には乗馬仲間だったハリー・ペイン・ホイットニー氏と一緒にケンタッキー州に土地を買い、ここをナーサリースタッドの馬産の本拠地としていた。そして自身が生産した名馬フェアプレイをここで種牡馬入りさせ、さらに英国三冠馬ロックサンドも英国から輸入して種牡馬入りさせていた。
本馬は、1917年3月29日の未明にナーサリースタッドにおいて、米国でこの年に産まれたサラブレッド1680頭のうちの1頭として産声を挙げた。本馬が誕生した直後の1917年4月6日、米国は独国に宣戦布告して第一次世界大戦に参戦した。当時65歳だったベルモント・ジュニア氏は老齢にも関わらず志願兵となり、米国陸軍に従軍して仏国へと向かった(所属は航空部隊だった)。
話が少し逸れるが、ベルモント・ジュニア氏は28歳時に幼馴染の女性と結婚していたものの、彼が45歳時に先立たれていた。その後はしばらく男やもめだったが、57歳時に26歳年下の舞台女優エレノア・ロブソン夫人と再婚していた。エレノア夫人はブロードウェイで華々しく活躍していた人気女優で、劇作家ジョージ・バーナード・ショーの有名な戯曲「バーバラ少佐」は彼女が主演となる事を念頭に書かれたものだった。しかし結婚を期に女優業を引退し、その後は世界有数の歌劇場であるメトロポリタン歌劇場の創設に携わるなど、裏方で活躍した。本馬に“Man o' War”と命名したのは、そのエレノア夫人である。“Man o' War”とは“Man of war”、すなわち「戦争に行った男」といった意味であるから、志願兵となった夫を意識した命名である事はほぼ間違いないだろう。なお、当初は“My Man o' War”だったのが、馬名登録の段階で“My”が削除された(故意なのか過失なのかは不明)のだとする海外の資料も多数存在する。ちなみに英国王立海軍が所有する武装軍艦や、18世紀にポルトガルが所有していた武装帆船の事も“Man o' War”と呼ぶが、ベルモント・ジュニア氏は海軍ではなく陸軍に参加しているし、女優だったエレノア夫人が他国の軍事用語を知っていたとも考えにくいから、おそらく本馬とは無関係である。また、クラゲに似た有毒の海洋生物(日本ではカツオノエボシ、通称電気クラゲの名で知られる)の事を、英語では上記ポルトガルの帆船に似ている事からやはり“Man o' War”と呼ぶが、これも多分無関係である。
ベルモント・ジュニア氏が生産した同世代の馬は他にも多数いたのだが、何故エレノア夫人がその中から本馬を選んでこの名前を付けたのかというと、本馬の母マフバー(Mahubah)の名前がアラビア語で「良い知らせ」という意味であったからで、夫に無事に帰ってきて欲しいという彼女の願いが込められていたのだろう。彼女の希望は叶い、ベルモント・ジュニア氏は本馬が誕生した翌1918年の11月に第一次世界大戦が終結すると無事に復員してくる事になるのだが、エレノア夫人も含む当時の人々は1918年に戦争が終わるという確証を持っていなかった。米国が味方した連合国側がすぐさま優勢になったわけではなく、1918年に入ってから同盟国側で次々に革命や反乱が起きるまで戦況は予断を許さなかったのである。ベルモント・ジュニア氏がいつ帰国するのかも分からなかった(無事に帰ってくるという保障も無かった)し、エレノア夫人自身も赤十字の活動を支援するために米国陸軍キャンプに参加したから、夫の代わりに馬主業を営む余裕などはなかった。そこでエレノア夫人は本馬を含むベルモント・ジュニア氏の所有馬を全て売却することに決めた。
サミュエル・ドイル・リドル氏により購入される
そして1918年8月17日にサラトガで実施されたセリに出品された本馬は、サミュエル・ドイル・リドル氏により5千ドルで購入された。当時の5千ドルは現在の貨幣価値で7万8千ドルに相当するそうである。このセリにおける平均取引価格は1038ドルだったらしいから、平均価格の約5倍で購入された本馬の評価は高かったのだと書きたくなるところであるが、実際にはそれほどの高評価ではなかったようである。先述したとおり賭博禁止法の影響で競馬界は不況に陥っていたが、第一次世界大戦の影響で好転に転じていた。それを踏まえると、1038ドルという平均価格自体がかなりの安値であり、5千ドルという額もそれほどの高額ではなかった。なお、同じセリにおける最高落札額は、リドル氏の従姉妹ウォルター・M・ジェフォーズ夫人によって購入されたゴールデンブルームの1万5600ドル(1万4千ドルとする資料もある)だった。
さらに言うと、本馬はセリの最後まで売れ残ったらしく、ロバート・L・ジェリー卿という人物がかなり安い価格で購入する寸前まで行ったのだが、リドル氏がセリの終了間際になって5千ドルを提示して攫っていったらしい。
ちなみに、リドル氏の代理人として本馬を実際にセリで購入したのは、リドル氏の友人エド・ビューラー氏だったとする話もある。ビューラー氏の甥は史上最高の競走馬画家と言われたリチャード・ストーン・リーヴズ氏であり、リーヴズ氏が後に本馬の絵を描くように依頼された時に「実はこの馬を買ったのは私のおじさんなんですよ」と語ったのがその根拠らしいが、真相は不明である。
本馬を購入したリドル氏は、1861年に米国ペンシルヴァニア州フィラデルフィアの南西にある小さな町グレンリドルで誕生した。生誕地と彼の名前が似ているのは偶然ではなく、彼の父親サミュエル・リドル氏は愛国からの移民で、米国移住後に居住地グレンリドルの町の名前を苗字にしたのだった。長じて織物業者として成功したリドル氏は、生まれ故郷の名前から採ったグレンリドルファーム名義で馬主活動も開始していた。本馬の息子ウォーアドミラルの宿敵だった本馬の孫シービスケットを主人公とした小説や映画ではまるで悪役のように描かれているリドル氏だが、死後に全財産を地元グレンリドルの病院建設のために提供するなどしており、単なる悪役という言葉では括れない人物である。
本馬を管理することになったのは、ルイス・C・フェウステル調教師だった。1884年にニューヨークに産まれたフェウステル師は、10歳時に競馬界に身を投じて、本馬の父フェアプレイを手掛けたアンドリュー・ジャクソン・ジョイナー調教師の元で見習い厩務員や調教助手として働いた後、24歳で調教師になっていた。彼はベルモント・ジュニア氏に気に入られており、ウィザーズS・ブルックリンダービー・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションSを制して1913年の米最優秀3歳牡馬に選ばれたロックビューなど、その所有馬の多くを手掛けていたが、ベルモント・ジュニア氏の所有馬全てが売却される事が決定すると、自らの仕事を守るためにリドル氏に接近。サラトガセールに出品された本馬を購入するようにリドル氏に薦めたのも他ならぬフェウステル師だった。リドル氏本人はセリに出された本馬をあまり評価していなかったのだが、リドル夫人が夫の尻を叩いて無理矢理購入させたとも言われる。
フェウステル師が本馬をリドル氏に薦めた理由は、本馬の秘められた素質を見抜いたから、と書きたいところだが実は違うらしい。気性が激しいフェアプレイ産駒であれば、仮に競走馬として走らなくても、闘争心を武器にした優秀な狩猟用の馬になるだろうというのが本当の理由だったという。フェウステル師はかつて本馬の祖父ヘイスティングスや父フェアプレイの世話をしていた事もあったから、その2頭の気性については熟知していたのだった。これらの逸話や購入金額を見る限りでは幼少期における本馬の評価は低かったようで、幼少期の時分から見た人全てを虜にしたセクレタリアトとは対象的である。
なお、本馬の低評価は実はベルモント・ジュニア氏の策略だったという説もある事は付け加えておく。本馬の素質を評価したベルモント・ジュニア氏は、一番良い馬だけを手元に残したと悪口を言われないように、本馬もセリに出品させるようにエレノア夫人に指示したが、本馬を売る準備は不十分にして見栄えを悪くするようにも指示しており、意図的に本馬が売れ残るようにしようとしたのだという。ただし、この話は紹介している資料においても「詩的な伝説」と表現されており、信憑性という点では疑問である。
デビュー前の状況:旺盛な食欲による著しい成長、激しかった気性の良化
誕生時点で肩の高さが42インチ(約107cm)あったらしい本馬は幼少期から大きな馬だったが、どちらかと言えば脚がひょろ長い印象を与える馬体だった。本馬を見たリドル氏が購入を躊躇ったのも、それが理由だったらしい。本馬はメリーランド州の調教施設で調教を施されたが、この調教施設はリドル氏の従姉妹ジェフォーズ夫人も使用しており、リドル氏とジェフォーズ夫人は所有する優秀な馬同士を試走させるようにしていた。そしてジェフォーズ夫人によって本馬の3倍以上の額で購入された前述のゴールデンブルームと本馬は一緒に走ったのだが、ゴールデンブルームが先着して本馬は負けてしまった。本馬は脚が長かったために非常に大きな跳びで走る馬であり、全盛期には25~28フィート(約7.6~8.5m)の跳び(海外の資料には史上最長の跳びと思われると書かれている。ちなみにセクレタリアトもほぼ同じ跳びだったらしい)で走ったらしく、この時点においては長い脚を持て余していたのだと説明されている。
しかしその後に本馬はどんどん逞しくなっていった。本馬が急成長した理由の一つは、とにかく食欲旺盛な馬だった事が挙げられる。本馬の毎日の食事量はオート麦12クォート(約13.2リットル)ほどであり、これは平均的な競走馬より優に3クォートほど多い量だった。そしてそれらの食事は脂肪ではなく筋肉に化けたのだった。デビュー直前の体重は1020ポンド(約463kg)までなっていたという。
しかし気性面では問題があり、身体に馬具を装着されるのも、背中に人を乗せるのも嫌がった。調教が施されようとした際の本馬の様子に関してリドル氏は次のように語っている。「彼は虎のように抗いました。そして怒りを込めて叫びました。彼は徹底的に私達に逆らい、まともに扱えるようになるまでに数日間を要しました。」
また、紹介されている当の資料でも誇張されている可能性が非常に高いと書かれているが、以下のような逸話も残されている。本馬はメリーランド州に来る前にニューヨーク州サラトガで調教を受けていた。このときに本馬に乗っていたのは、後に主戦となるジョニー・ロフタス騎手だった。ところが本馬はいきなりロフタス騎手を振り落とし、ロフタス騎手は40フィート(約12m)も空中を飛んだ。そして空身になった本馬は自由気儘にその辺りを走り回り、15分間後にようやく捕獲されたというのである。
父フェアプレイや祖父ヘイスティングスといった先祖達も気性が激しい事で知られていた(さらに書けばウォーアドミラルを始めとする本馬の子孫達も全体的に気性が激しかった)から、この気性は遺伝だと思われる。
こうした気性が激しい馬を扱う調教師は、大別して3つの方法を行う事になる。1つは無理矢理にでも言うことを聞かせる事。1つは去勢してしまう強硬手段。そして1つは馬がその気になるまで待つ方法である。フェウステル師が採用したのは、1番最後の方法であり、彼は本馬に走る事を強制したりせず、走る気になるまで辛抱強く待ったという。この方法は、本馬の孫であるシービスケットのように気性が激しくても頭が良い馬でなければ通用しないのだが、本馬はまさにそのタイプだったようで、このフェウステル師の忍耐力が、本馬の驚異的な競走能力を生んだのだと、海外の資料では評価されている。前述のロフタス騎手を振り落とした逸話が載っている資料には、リドル氏が「ジョニー(ロフタス騎手)を振り落としたのが、マンノウォーが行った最後の悪事でした。その後の調教で他の同厩馬と一緒に走るようになったマンノウォーは落ち着きました」と語ったと記されている。
また、本馬はメジャートリートという名前のポニーと仲が良く、メジャートリートが一緒にいると機嫌が良くなったという。しかし祖父ヘイスティングス譲りと思われる噛み付き癖は結局治らなかった。もっとも、人や他馬に容赦なく噛み付こうとしたと言われるヘイスティングスと異なり、本馬は自分の蹄を噛んでいた。本当は人や他馬に噛み付きたかったのを、自分を噛むことで堪えていたのではないかと言われている。
デビューから6連勝
そんなこんなで肉体的にも精神的にも非常に逞しくなった本馬は、2歳6月6日にベルモントパーク競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦で、ロフタス騎手を鞍上にデビューした(本当はハヴァードグレイス競馬場でデビューする予定だったのだが、華氏106度(≒摂氏41度)の熱が出てしまったためにデビューが少しずれ込んだらしい)。このベルモントパーク競馬場は、本馬の生産者ベルモント・ジュニア氏の父ベルモント氏の功績を讃えて命名された競馬場であり、本馬がデビューする場所としては一番相応しかったと評されている。本馬のレース直前調教を見た観衆の1人がその速さに驚き、本馬の担当厩務員に「あの凄い馬はどの種牡馬の子どもですか?」と尋ねると、厩務員は“He’s by hisself(マンノウォーはマンノウォーによって誕生したのです)”と応えたという。
さて、レースでは本馬が単勝オッズ1.6倍で7頭立ての1番人気に支持され、デヴィルドッグとアメリカンボーイの2頭が単勝オッズ5倍の2番人気で並んだ。絶好のスタートを切った本馬は、リトリーヴという馬を先に行かせて2番手を追走。三角でリトリーヴをかわして先頭に立つと、直線入り口では既に勝負を決めてしまった。直線ではロフタス騎手が手綱を引き絞りながら走り続けたが、それでも2着リトリーヴに6馬身差をつけて圧勝した。このレースぶりはすぐに評判となり、ニューヨークモーニングテレグラフ紙は「マンノウォーは、他の有望な2歳馬達をまるで200ドルで取引された駄馬のようにしてしまいました」と伝えた。
それから3日後にはベルモントパーク競馬場でキーン記念S(D5.5F)に出走した。本馬が単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持され、単勝オッズ5倍の2番人気が翌年のローレンスリアライゼーションSで本馬に100馬身ちぎられるフッドウインク、単勝オッズ6倍の3番人気が本馬の父フェアプレイの宿敵だったコリンの息子オンウォッチ(後のナショナルS・クイーンシティHなどの勝ち馬。米国顕彰馬スタイミーの母父であり、サンデーサイレンスにもその血が流れている)、単勝オッズ9倍の4番人気がラルコ、単勝オッズ13倍の5番人気がアニヴァーサリーだった。泥だらけの不良馬場の中でスタートが切られると真っ先に飛び出したラルコが先頭に立ち、続いて飛び出した本馬が2番手につけた。やがて単勝オッズ51倍の最低人気馬マイラディーが上がってきて先頭を奪ったが、前走とは異なり本馬は三角に入っても動かなかった。そして3番手で直線に入ってきたのだが、残り1ハロン地点でロフタス騎手が合図を送ると本馬は素晴らしい反応を見せて一気に加速。瞬く間に前の2頭を抜き去ると、最後は追い込んできた2着オンウォッチに3馬身差をつけて快勝した。
それから12日後にはジャマイカ競馬場でユースフルS(D5.5F)に出走した。対戦相手は、オンウォッチ、セントアラン、レディブルメルの3頭だった。この時点で既に本馬と他馬の間には決定的な実力差があると判断されており、本馬の斤量は120ポンドで、オンウォッチは108ポンド、他2頭が105ポンドだった。それでも本馬が単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持され、オンウォッチが単勝オッズ6倍の2番人気だった。スタートが切られるとセントアランが先頭を伺ったが、本馬がそれに競りかけて2頭が並んで先頭を走った。向こう正面でセントアランは競り潰されて失速し、本馬が単独で先頭に立った。そして後続との差を維持しながら直線に入ると、ゴール前では馬なりのまま走り、2着オンウォッチに2馬身半差をつけて勝利した。
それから僅か2日後にはアケダクト競馬場でハドソンS(D5F)に出走した。対戦相手は4頭いたが、本馬とまともに戦えそうな馬はおらず、本馬には他馬勢より15~21ポンドも重い130ポンドが課せられた。2歳戦のこの時期に130ポンドが課せられるというのは前例がほぼ無かったのだが、それでも本馬は単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持された(正確には同じくリドル氏の所有馬だったロッキングホースとのカップリングである)。本馬は1回フライングスタートを切ってしまったが、仕切り直しの正規スタートでも抜群のスタートを切った。そして後続に1馬身ほどの差をつけて先頭を走り続けた。直線に入ると、後方から21ポンドのハンデを与えたヴァイオレットティップという馬が追いかけてきた。本馬との差が徐々に縮まったが、鞍上のロフタス騎手にはまだ余裕があった。ヴァイオレットティップは必死で追ってきたが、ロフタス騎手は結局最後まで本馬を必死に追うことは無く、2着ヴァイオレットティップに半馬身差をつけて勝利した。着差だけ見れば辛勝だが、デイリーレーシングフォーム紙のレース総評に“an easy victory(楽勝)”と書いてあるとおりの内容だった。
次走は月が変わって7月のトレモントS(D6F)となった。対戦相手は、ラルコ、エースオブエーシーズの2頭のみだった。本馬が130ポンドの斤量ながらも単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持され、115ポンドのラルコが単勝オッズ11倍の2番人気だった。スタートが切られると本馬がすかさず先頭を奪い、2番手のラルコに1馬身ほどの差をつけて逃げ続けた。直線に入るとラルコが必死に追い始めたが、本馬には例によって余裕があり、ラルコと本馬の差は広がることも縮まることも無かった。結局は本馬が2着ラルコに1馬身差で勝利した。
その後はちょうど4週間の間隔を空けて、8月2日にサラトガ競馬場で行われたユナイテッドステーツホテルS(D6F)に出走した。ここでは9頭の馬が本馬の前に立ち塞がった。今までのレースと比べると対戦相手の層は確実に上がっており、ファッションS・グレートアメリカンS・ジュヴェナイルSの勝ち馬ボニーメアリー(名種牡馬ブラックトニーの半妹)、最終成績32戦22勝のカーマンデール、そして本馬を語る上で外せない馬であるアップセットの姿があった。本馬には130ポンドが課せられたが、ボニーメアリーは127ポンド、カーマンデールは125ポンドであり、本馬だけが過酷な斤量を課せられたわけではなかった(アップセットは115ポンドだった)。本馬が単勝オッズ1.9倍の1番人気、ボニーメアリーが単勝オッズ5.5倍の2番人気、アップセットが単勝オッズ7倍の3番人気だった。ここでも絶好のスタートを切った本馬は、今までのように後続を引きつける逃げではなく、後続を3馬身ほど引き離す単騎逃げを打った。2番手にカーマンデール、3番手にアップセットがつけ、スタートで出遅れたボニーメアリーは後方からの競馬となっていた。四角でカーマンデールが失速し、ボニーメアリーも伸びを欠く中で、本馬に追いすがってきたのはアップセットと、中団後方で脚を溜めていた最軽量112ポンドの伏兵ホームリーだった。しかし直線入り口で後続に4馬身ほどの差をつけていた本馬が余裕を持って押し切り、2着アップセットに2馬身差で勝利した。この時点で、本馬はかつてのコリンやサイソンビーに匹敵する器であるとの評判を獲得した。
サンフォードS:世紀の番狂わせ
それから11日後の8月13日には、同じサラトガ競馬場でサンフォードS(D6F)に出走した。このレースには、リドル氏の従姉妹ジェフォーズ夫人が本馬の3倍以上の価格で購入し、デビュー前試走において本馬を破った事もあるサラトガスペシャルSの勝ち馬ゴールデンブルームも出走していた。本馬とゴールデンブルームの2頭にはいずれも130ポンドが課せられ、斤量3位のアップセット(115ポンド)とは15ポンドの差があった。本馬が単勝オッズ1.55倍の1番人気、ゴールデンブルームが単勝オッズ3.5倍の2番人気、アップセットが単勝オッズ9倍の3番人気で、ドナコナ、キャプテンオルコック(後のサバーバンH・ブルックデールH・ボウイーH・ハヴァードグレイスH・ベイビューH・エッジメアH・サーウォルターH・ガーデンシティH・ピムリコCなどの勝ち馬)など他の出走馬4頭は全て単勝オッズ31倍以上だった。
今まではスタートに失敗した事が無かった本馬だが、ここでは珍しくスタートに失敗した。当時はスターティングゲートなる物は無く、スタートラインの手前で待機する出走各馬が、旗が振り下ろされた瞬間に走り始める方式だったのだが、本馬がいったんスタートラインから遠ざかったタイミングで旗が振り下ろされたのである。対照的に好スタートを切ったゴールデンブルームとアップセットの2頭が馬群を牽引し、本馬は4番手を追走した。そしてゴールデンブルームが先頭、アップセットが2番手、本馬が3番手で直線に入ってきた。ゴールデンブルームはやや伸びを欠き、代わりにアップセットが先頭に立ってゴールへと突き進んだ。本馬鞍上のロフタス騎手は、アップセットではなくゴールデンブルームを敵と見なしており、ゴールデンブルームが伸びていくことを見越して、ゴールデンブルームが抜け出すはずの内側を突いて進出しようとした。ところがゴールデンブルームが伸びなかった上に、ゴールデンブルームとアップセットの2頭の間に隙間が出来なかったために、内側を突くことに失敗してしまい、改めて外側に持ち出すロスを蒙った。ロフタス騎手は、アップセットに騎乗していたウィリー・ナップ騎手が“like a crazy man(狂人のように)”と表現するほど何かを叫びながら死に物狂いで本馬を追い、本馬もそれに応えて猛然とアップセットを追い上げたのだが、時既に遅く、アップセットが真っ先にゴール板の前を駆け抜け、本馬は半馬身差の2着に敗れてしまった。なお、3着となったゴールデンブルームは元々健康面に不安があり、このレース直後に故障を起こして、その後は殆ど競走に出られないまま引退種牡馬入りしている。
このレースにおける本馬の敗因については当時から議論の対象となった。スタートの出遅れと、直線で内を突こうとして失敗した事が直接の敗因である事自体は間違い無いのだが、問題はそれが過失だったのか意図的なものだったのかである。過失であればまだ仕方が無いが、意図的なもの、すなわち八百長であれば大問題である。当時も今も世界各国のスポーツ界において八百長が横行しているのは事実であり、“The Thoroughbred Record”をして「忌々しい騎乗でした」と酷評されたロフタス騎手の乗り方が、八百長を疑わせるものであったのは間違いない。サンフォードSの1着賞金がそれほど高額ではなかった(3925ドル。ちなみに2着賞金は700ドル)事に加えて、ロフタス騎手と、アップセットに騎乗していたウィリー・ナップ騎手の両名がこのシーズン終了後に米国ジョッキークラブから騎手免許更新を拒否されたという事実も八百長疑惑に拍車をかけている。
ただ、様々な資料を検討すると、おそらくこれは八百長ではなく、スタートで出遅れたロフタス騎手が冷静さを欠いてしまったのが原因であると思われる。別にこれは筆者だけがそう思っているわけではなく、この八百長疑惑に関して検証している海外の資料においても概ねそう書かれている。ロフタス騎手と共に騎手免許更新を拒否されたナップ騎手が後の1969年に米国競馬の殿堂入りを果たしているのも、本件が八百長では無かったと公式に認められた証拠の1つと言える。
しかし故意か過失かに関わらず本馬の敗因がロフタス騎手の騎乗にあった事は衆目が一致して認めるものであり、彼は各方面から徹底的な非難を浴びた。ロフタス騎手はこのレース後に50年以上生きたが、その間に数え切れないほど本件について他人から質問を受けたらしく、後にスポーツ・イラストレイテッド誌のインタビューに応じた際に「私はもう何百回も説明しました。私はスケープゴートにされたのです。その時はたまたま私でしたが、それは誰にでも降りかかる恐れがある災いです。野球選手が失策をしてもすぐに忘れてもらえるのに、何故このレースの事は忘れてもらえないのでしょうか?」と語っている。1986年の英ダービーで2着に敗れたダンシングブレーヴに騎乗していたグレヴィル・スターキー騎手は、その優れた騎手成績にも関わらず、彼の訃報を報じる新聞記事は揃って「英ダービーでダンシングブレーヴに騎乗して失敗した騎手」と伝えた。歴史的名馬は時に関わった人間の人生をも狂わせるというのは、かつて五冠馬シンザンを紹介したテレビ番組か何かのフレーズだったと思うが、それは至言であり、本馬の主戦を務めたのはロフタス騎手にとって最大の幸運だっただけでなく最大の不幸でもあったのである。
なお、ロフタス騎手の他にもう1人、世間から非難された人物がいる。それは当時サラトガ競馬場のスターターを務めていたマーズ・キャシディ氏という人物である。キャシディ氏は病気のためこのレース当日はスターターをする事が出来なかった。その代わりにチャールズ・H・ペティンギル氏という人物がスターターに起用されたのだが、昔は優秀なスターターだったらしいペティンギル氏もこの時点では70代後半の老齢であり、視力の低下が指摘されていた。ペティンギル氏は前年のアメリカンダービーでスターターを務めたのだが、なんと40回もスタートをやり直してレースが1時間半も遅延する結果を招き、ワシントンパーク競馬場に詰め掛けていた観客達が暴動を起こす事態となっていた。そしてペティンギル氏はこのサンフォードSにおいて、本馬がまだスタート態勢に入っていないにも関わらず旗を振り下ろしてしまったのだった。高齢のペティンギル氏ではなく病欠したキャシディ氏に対して非難の矛先が向いたわけだが、さすがにそれはお門違いであろう。
それらとは対照的に本馬自身に非難の矛先が向くことは無かった。むしろゴール前の走りは賞賛され、「彼の闘争心に関しては疑問の余地がありません」と評価された。しかしこの敗戦に関して本馬自身に責任が全く無かったかと言えば、そんな事はない。実は本馬はスタートが悪い馬だったのである。後のセクレタリアト、アリダー、イージーゴア、ゼニヤッタなどがそうだったように、米国競馬における巨漢馬は総じてスタートが悪い傾向があり、本馬も例外ではなかった。本馬のスタートダッシュの悪さを解消するために、リドル氏とフェウステル師は本馬のデビュー前に協議を行い、スタート前にラインから後退して、旗が振り下ろされる前の段階から徐々に加速するという戦術を決めていた。この戦術はこれまで本馬が出走したレースではいつも上手くいっていたのである。このサンフォードSの冒頭で筆者が記載した「本馬がいったんスタートラインから遠ざかった」というのはそういう理由である。本馬が仮にスタートが上手な馬であれば、スターターの能力に問題があったとしても出遅れることは無かったはずであり、慌てたロフタス騎手が最後の直線で内側を突いて失敗する事も無かったかもしれないのである。
いずれにしても本馬が敗れたこのサンフォードSは、米国競馬史上に残る歴史的敗戦とされており、レースが実施されたサラトガ競馬場が「チャンピオンの墓地」の異名で呼ばれるきっかけとなった。
勝ったアップセットは皮肉にも本馬の生産者ベルモント・ジュニア氏と一緒にケンタッキー州に土地を買った友人ホイットニー氏の生産・所有馬だった。また、アップセットを管理していたのは、サー・ジェームズ・G・ロウ調教師だった。ロウ師と言えば生涯戦績15戦無敗を誇ったコリンの管理調教師である。このレースで本馬が勝っていたらその生涯戦績は21戦無敗となっていたわけであるから、ロウ師は自身の管理馬で本馬を破ることにより、自身の最高傑作であるコリンが保持する米国競馬の一線級における最多無敗記録が現在まで残る結果を生んだのだった。
英語のアップセット(Upset)には「(物を)引っくり返す・転覆させる」「動転・狼狽させる」などの他に「番狂わせ」という意味もある。しかし「番狂わせ」という意味で使用されるようになったのは、他の用法よりも後である。遅くとも1877年には“Upset”が「番狂わせ」の意味で使用されていた事例はあった(ニューヨーク・タイムズ紙の記者が2002年になって当該事例を発見している)のだが、一般的な使用法ではなかった。しかしこのサンフォードSの直後にワシントンポスト紙の記者が「マンノウォーを破った馬の名前が“Upset”であった事は、あらゆる種類の語呂合わせの中で最も的確なものでしょう」と書いたことにより、本馬に敗北の屈辱を味あわせたアップセットの名前は、競馬という枠を飛び越えて各方面に広まり、“Upset”という言葉が全米のスポーツ界において「番狂わせ」という意味で使用される契機となった。筆者はこの名馬列伝集を編む際に数多くの英語の資料に目を通したのだが、“Upset”なる単語を目にした回数は数え切れないほどである。
衝撃の敗戦後に出走した2歳戦3競走
サンフォードSの衝撃の敗戦から10日後、本馬はグランドユニオンホテルS(D6F)に出走した。対戦相手は、アップセット、ブレイゼズ(後のブリーダーズフューチュリティ・ローレスH・メリーランドH・エクセルシオールH・ブルックデールH・デラウェアH・ハーフォードHの勝ち馬。サーバートンやエクスターミネーターに黒星を付けた事もある)、フラッシュS・サラトガスペシャルS3着馬キングスラッシュ、ブリーダーズフューチュリティS2着馬で後のブルーグラスSの勝ち馬ピースペナントなど8頭だった。130ポンドの本馬が単勝オッズ1.55倍の1番人気、125ポンドのアップセットが単勝オッズ8倍の2番人気、122ポンドのブレイゼズと115ポンドのキングスラッシュが並んで単勝オッズ9倍の3番人気だった。スタートが切られるとアップセットが真っ先に飛び出していったが、今回は普通にスタートした本馬がそれをかわして先頭を奪い、エヴァーゲイと一緒に先頭を引っ張った。前2頭から少し離れた3番手集団をアップセット、ブレイゼズ、キングスラッシュの3頭が形成した。三角までは本馬に食らい付いていたエヴァーゲイだったが、ここから失速していき、代わりに3番手集団が上がってきた。その中で一番脚色が良かったのはアップセットであり、直線入り口では3馬身ほどあった本馬との差を徐々に縮めてきた。しかし前走で演じた番狂わせの再現は成らず、本馬が2着アップセットに1馬身差をつけて逃げ切った。
それからさらに7日後にはホープフルS(D6F)に出走した。対戦相手は4戦連続の顔合わせとなるアップセットを筆頭に、スピナウェイS・イースタンショアSの勝ち馬でこの年の米最優秀2歳牝馬に選ばれるコンスタンシー、シャンペンSの勝ち馬クレオパトラ(翌年にCCAオークス・ピムリコオークス・アラバマS・ラトニアCSに勝って米最優秀3歳牝馬に選出。ボールドルーラーの祖母の父の母でもある)、後のアラバマS2着馬エセルグレイなど7頭だった。130ポンドの本馬が単勝オッズ1.45倍の1番人気、125ポンドのアップセットと112ポンドのクレオパトラが並んで単勝オッズ9倍の2番人気、124ポンドのコンスタンシーが単勝オッズ11倍の4番人気だった。本馬はレース前に焦れ込む仕草を見せ、それが原因で発走が12分も遅延してしまった。スタートが切られるとコンスタンシーが先頭に立ち、本馬が2番手、アップセットとカップリングされていた同馬主のドクタークラーク(ナーサリーH・インディペンデンスH・レインボーH・グランドプライズキューバH2回・マウントヴァーノンH・ハノーヴァーH・ノーフォーククレーミングHに勝つなど最終成績265戦44勝。米国顕彰馬オールドローズバドに黒星を付けた事もある)が3番手につけ、スタートが今ひとつだったアップセットは後方3番手につけた。向こう正面まではそのままの態勢でレースが進行したが、三角で本馬が仕掛けて一気に先頭に踊り出ると、そのまま後続を引き離していった。後方から本馬を追いかけてきたのはアップセットではなく、同じくスタートで後手を踏んで5番手からレースを進めていたクレオパトラだった。クレオパトラも3番手のコンスタンシーを4馬身引き離して本馬を追ってきたが、本馬との差は殆ど縮まらなかった。悠々と直線を走り抜けた本馬が2着クレオパトラに4馬身差をつけて完勝。アップセットは本馬から11馬身差の6着に敗れた。
2歳最後のレースは9月13日のベルモントフューチュリティS(D6F)となった。さすがに米国2歳戦における最大級の競走(優勝賞金2万6650ドルは、本馬が出走した全21戦の中で2番目の高額だった。ちなみに1位は現役最後のレースとなったケニルワースパーク金杯の7万5千ドル、3位がホープフルSの2万4600ドル、4位がプリークネスSの2万3千ドル、5位がローレンスリアライゼーションSの1万5040ドル)だけあって同世代の有力馬の大半が顔を連ねており、アップセット、クレオパトラ、オンウォッチ、ドクタークラークといった既対戦組に加えて、ウォルデンSの勝ち馬ドミニク(後にフリートウイングH・レインボーH・アルヴァーンHに勝利)、アップセットと並ぶ本馬の好敵手となるジョンピーグリア、アバーディーンS・ブーケセーリングSの勝ち馬ポールジョーンズ(後にケンタッキーダービーやサバーバンHに勝利)、イーストビューS・フラッシュS・クリップセッタS・スプリングトライアルSの勝ち馬で、コンスタンシーと並んでこの年の米最優秀2歳牝馬に選ばれるミスジェマイマといった馬達の姿もあった。本馬の斤量は127ポンドで、6戦続いていた130ポンドからは解放されたが、それでもトップハンデである事には変わりが無かった。それでも本馬が単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持された。122ポンドのドミニクが単勝オッズ5倍の2番人気、120ポンドのアップセット、117ポンドのジョンピーグリア、122ポンドのドクタークラークの3頭カップリングが単勝オッズ7倍の3番人気と続いた。
スタートが切られると対抗馬のドミニクが即座に先頭に立ち、それに次ぐ好スタートだった本馬が2番手につけた。さらにスタートで出遅れたジョンピーグリアも上がってきて、この3頭で先頭集団を形成した。三角に入る辺りでドミニクが遅れ初めて本馬が先頭に立ち、それをジョンピーグリアが追いかけた。しかし直線入り口で2馬身ほどあった本馬とジョンピーグリアの差は縮まらず、ゴール前では馬なりのまま走った本馬が2着ジョンピーグリアに2馬身半差をつけて快勝した。
2歳時の成績は10戦9勝で、後年になってこの年の米最優秀2歳牡馬に選出された。しかし米年度代表馬の座は、ケンタッキーダービー・プリークネスS・ウィザーズS・ベルモントSに勝つなど13戦8勝の成績を残した1歳年上の「初代米国三冠馬」サーバートンに譲ることになった(サーバートンやギャラントフォックスの項に書いたとおり、この当時はケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントSの3競走を総称して米国三冠競走と呼ぶ事は無かった)。
なお、本馬が2歳戦で猛威を振るっている頃、英国でも1頭の2歳馬が猛威を振るっていた。その馬の名はテトラテーマ。本馬とテトラテーマはどちらが強いのかという議論が米国や英国内で盛んにかわされ、2頭のマッチレースを行うべきだという意見も噴出した。もしこの2頭が対戦していたらと考えると筆者的にはわくわくするのだが、やはり実現はしなかった。米国最強馬と英国最強馬の直接対決が実現するのは、この4年後の1923年に実施されたケンタッキーダービー・ベルモントSの勝ち馬ゼヴと英ダービー馬パパイラスのマッチレースまで待たねばならなかった。
さて、2歳時の本馬には一貫してロフタス騎手が騎乗したのだが、前述のとおり彼はこの年のシーズン終了後に、米国ジョッキークラブから騎手免許の更新を拒否されたため、騎手としての資格を失ってしまい、調教師に転身した。米国ジョッキークラブがロフタス騎手の免許更新を拒否した理由は公式に明らかにされておらず様々な憶測が流れたが、アップセットの主戦だったナップ騎手も免許更新を拒否されている事からして、その理由がサンフォードSの敗戦にある事はほぼ間違いないだろう。ロフタス騎手やナップ騎手が八百長をしたという決定的な証拠は当時から無かったのだが、当時のニューヨーク競馬は賭博禁止法の廃止に伴い復活してから日が浅かったため、こうしたスキャンダルには非常に敏感であり、「疑わしきは罰する」という方針だったようである。なお、ジョッキークラブ側から責め立てられたロフタス騎手が激怒して、ジョッキークラブの会員達の目の前で自ら騎手免許を引き千切って去っていったという噂もある。ロフタス騎手に代わって本馬の主戦となったのは、クラレンス・クマー騎手だった。
ケンタッキーダービーには出走せず
リドル氏の地元ペンシルヴァニア州グレンリドルファームで冬場を過ごした本馬は、3歳になってさらに体格が大きくなり、体高16.5ハンド(約168cm)、体重1125~1150ポンド(約511~522kg)、胴回り72インチ(約183cm)という大型馬となった。
さて、今日の米国競馬の常識からすれば、3歳時の最大目標はケンタッキーダービーになるはずなのだが、本馬は5月8日に施行されたケンタッキーダービーには出走せず、5月18日のプリークネスS(D9F)から3歳戦をスタートさせた。リドル氏はその理由に関して、3歳春時点で骨が固まりきっていない馬をケンタッキーダービーの距離10ハロンで走らせるのは酷だと思ったためとしているが、ケンタッキーダービーから僅か1か月後に行われた距離11ハロンのベルモントSには出走する事になるわけだから、リドル氏の言葉をそのまま受け入れるのは無理がある。
本馬がケンタッキーダービーに出なかった本当の理由は、リドル氏がケンタッキーダービーを重要視していなかったためだと一般的に言われている。当時のケンタッキーダービーは確かに米国3歳路線における重要な競走の1つであったが、今日のような米国最大の競走という地位はまだ手に入れていなかった。米国三冠競走というシリーズも、前述したとおりこの時点では存在していなかった。リドル氏はどうもケンタッキー州を田舎であるとして見下していたらしく、本馬はケンタッキー州産馬でありがらも生涯ケンタッキー州の競走に出る事は無かった。もっとも、本馬の本拠地であるニューヨーク州とケンタッキー州は結構距離があり(直線距離で約1000km。東京から北海道や九州へ行くくらいの距離である)、輸送手段が今ほど発達していない当時としては、リドル氏が本馬をはるばるケンタッキー州まで向かわせる意味を見出せなかったのも無理もないかもしれない。
ただ、ケンタッキーダービーが既に大競走であった事は確実であり、本馬が出走しないと聞いた米国の競馬ファン達は大きく失望したし、リドル氏の考えを測りかねて、“Riddle’s riddle decision(リドル氏の謎の決定)”という、リドル氏の名前と“riddle(謎)”を掛けた言葉も登場した。なお、本馬不在のケンタッキーダービーには、アップセット、オンウォッチ、ブレイゼズ、クレオパトラ、ピースペナントといった本馬と2歳戦で戦った有力馬の多くが参戦しており、ベルモントフューチュリティSで本馬から8馬身1/4差の6着だったポールジョーンズがアップセットを頭差の2着に、オンウォッチをさらに4馬身差の3着に下して制している。
3歳最初の4戦:プリークネスSやベルモントSなど
それはさておき、ケンタッキーダービーと異なりプリークネスSの価値はリドル氏も認めていた(本馬が調教を受けていたメリーランド州で行われる競走でもあった)ようで、3歳初戦はこのレースとなった。対戦相手は、アップセット、キングスラッシュ、ブレイゼズ、オンウォッチ、フラッシュSとサラトガスペシャルSで2着のワイルドエア(名馬コリンの甥に当たる)、ウォルデンS・ブルーグラスS2着馬ドナコナ、フェアウェイ、セントアランの8頭だった。ケンタッキーダービーもそうだが、この時期のプリークネスSも現在のような定量戦ではなく、別定重量戦だった。本馬、ブレイゼズ、オンウォッチの3頭が126ポンド、アップセットが122ポンド、他5頭は全て114ポンドの斤量だった。本馬が単勝オッズ1.8倍の1番人気、アップセットとワイルドエアのカップリングが単勝オッズ3.85倍の2番人気、キングスラッシュが単勝オッズ9.5倍の3番人気となった。スタートが切られるとアップセットが真っ先に飛び出していったが、少し出負けした本馬がすぐに加速して先頭を奪取。2馬身ほど離れた2番手にキングスラッシュ、さらに1馬身ほど離れた3番手にアップセットがつけた。しかし本馬のペースに付いていけなくなったキングスラッシュは徐々に後退し、代わりにアップセットが四角で2番手に上がった。そしてアップセットが2馬身ほど前方を走る本馬を追撃したのだが、本馬を捕まえる前に自分のスタミナが切れて、よれてしまった。結局スタート直後の加速だけ真面目に走った本馬が、2着アップセットに1馬身半差をつけて勝利した。直線入り口まではコースレコードを更新するペースで走っていた本馬だが、直線でクマー騎手が手綱を抑えたために、レコード更新までは至らなかった(それでも勝ちタイム1分51秒6は、距離9ハロンで14回実施されたプリークネスSの中では1910年の勝ち馬ウォーターヴェイルの1分51秒0に次ぐ2番目の好タイムである)。本馬が出走したレースで5頭以上の出走頭数となったのはこのプリークネスSが最後で、残りのレースは全て4頭立て以下となる。
プリークネスSの11日後にはウィザーズS(D8F)に出走した。今日ではGⅠ競走ですらもないウィザーズSだが、この当時は米国3歳路線における主要競走の1つだった。しかしこの年の参戦馬は、本馬、デヴィッドハルム、ワイルドエアの3頭だけだった。126ポンドの本馬が単勝オッズ1.14倍の1番人気に支持され、114ポンドのワイルドエアが単勝オッズ7倍の2番人気、122ポンドのデヴィッドハルムが単勝オッズ31倍の最低人気だった。スタートが切られると、本馬が抑えきれない勢いで先頭に立ち、2馬身ほど離れた2番手をワイルドエアが追ってきた。ワイルドエアも最後方のデヴィッドハルムをどんどん引き離して本馬を追いかけたのだが、本馬との差は最後まで縮まることが無かった。本馬が2着ワイルドエアに2馬身差をつけて、1分35秒8のコースレコード(全米レコードとする海外の資料もあるが、1918年にローマーがタイムトライアルレースにおいて1分34秒8を計時しているし、1890年にサルヴェイターが1分35秒25を計時しているから、全米レコードではない)を計時して勝利した。
次走はベルモントS(D11F)となった。ベルモントSは米国3歳路線における最高峰競走の1つとしての地位を確立していたが、優勝賞金だけ見ると7700ドル止まりだった。2着賞金は1500ドルしか無かった上に、定量戦だったこのレースで本馬と戦おうという物好きな馬は少なく、ケンタッキーダービー5着馬ドナコナの1頭のみが対戦相手となった。ドナコナは本馬が痛恨の敗戦を喫したサンフォードSと、プリークネスSの2競走で本馬と既に顔を合わせていたが、前者は勝ったアップセットから12馬身差の6着、後者は勝った本馬から15馬身半差の5着に敗れ去っており、本馬唯一の対戦相手としては役者不足だった。定量戦であるために斤量も互角であり、本馬が単勝オッズ1.04倍(単勝オッズ1.05倍を切るオッズはニューヨーク州の法律で後に禁止されたが、この当時はそうではなかった)の1番人気で、ドナコナが単勝オッズ21倍の最低人気だった。このベルモントSは部分的にレース映像が残っており、筆者はそれを拝見させてもらったのだが、これは競走と呼べる類のものではなく、スタートから先頭に立った本馬のワンマンショーだった。三角手前までは本馬とドナコナの差は2馬身程度だったが、ここからどんどん差が開いていき、最後はドナコナに20馬身差をつけた本馬が2分14秒2の全米レコード(それまでのレコードは前年の同競走でサーバートンが計時した2分17秒4で、本馬のほうが3秒以上速い)を計時して勝利した。本馬鞍上のクマー騎手は直線でひたすら手綱を抑えていたが、ドナコナ鞍上のN・バレット騎手も直線では勝負を諦めてドナコナを追うのを止めてしまっており(他に出走馬が1頭でもいれば違ったのだろうが)、それがこの大差に繋がったようである。
ベルモントSから10日後の6月22日には、ジャマイカ競馬場でスタイヴァサントH(D8F)に出走した。このレースにおける対戦相手はまたも1頭だけであり、本馬とは初顔合わせとなるイエローハンドがその馬だった。イエローハンドは後にエンパイアシティH・マンハッタンH・モリサニアH・ヴィクトリーH・サラトガH・ブルックデールH・スカースデールH・ペルハムベイH・ヨークタウンH・ハノーヴァーH・ハイドパークHなどを勝つ上級馬なのだが、この時点では無名に近かった。少しでも2頭の実力差を縮めるために、本馬の斤量は135ポンド、イエローハンドは103ポンドに設定された。それでも本馬が単勝オッズ1.01倍という究極の1番人気に支持され、イエローハンドは単勝オッズ61倍だった。シカゴ・オブライエン氏という人物は本馬の勝利に10万ドルを賭け、それを目の当たりにしたトム・ショー氏という人物(彼は1000ドルを賭けていた)から「落馬する事もあるのだから、それは狂気の沙汰だ」と呆れられたという。しかし32ポンドという斤量差でも本馬とイエローハンドの実力差を埋めることは出来なかったようで、スタートからゴールまで馬なりのまま先頭を走り続けた本馬が、イエローハンドに8馬身差をつけて勝利を収め、オブライエン氏に1000ドルの利益をもたらした。
ドワイヤーS:生涯唯一の全力疾走
次走は18日後のドワイヤーS(D9F)となった。このレースも2頭立てであり、対戦相手はベルモントフューチュリティSで本馬の2馬身半差2着だったジョンピーグリアのみだった。アップセットと同じくホイットニー氏の所有馬だったジョンピーグリアを管理していたのは、やはりロウ師だった。ロウ師の中では自分が手掛けたコリンこそが真に打破不可能な唯一の馬であり、アップセットに負けた本馬の事を打破不可能であると考えることを頑なに拒否していた。そして再び本馬に黒星を付けるべく、全身全霊を込めてジョンピーグリアを仕上げてここに臨んできていた。さらにベルモントフューチュリティSで2頭の斤量差は10ポンドだったが、今回は18ポンド差あった。126ポンドの本馬が単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持されたが、108ポンドのジョンピーグリアも、ベルモントフューチュリティSの着差と2頭の斤量差、そしてロウ師の本気度合いからすると勝機ありと判断されたようで、単勝オッズ4.6倍となった。
スタートが切られると本馬が先頭に立ったが、ジョンピーグリアもすぐさま競りかけてきて、同じ2頭立てだった過去2戦と異なり完全なマッチレースになった。本馬とジョンピーグリアの競り合いは直線半ばまで続き、そして残り1ハロン地点でいったん前に出たのはジョンピーグリアのほうだった。あわやと思われたが、ここからクマー騎手の鞭に応えた本馬が生涯最後となる全力疾走を見せ、ジョンピーグリアを差し返して1馬身半差で勝利した。勝ちタイム1分49秒2は全米レコードだった。
本馬がジョンピーグリアを差し返した地点にあったアケダクト競馬場の残り1ハロン地点を示すポールは“Man o' War Pole(マンノウォー・ポール)”と呼ばれるようになった。ロウ師の執念は実らなかったが、本馬を本気にさせた唯一の馬という評価を得たジョンピーグリアは、その後のアケダクトHで16ポンドのハンデを与えたクレオパトラを一蹴するなど、本馬を除けば同世代最強の実力馬である事を示した。そして17戦10勝の成績を残して種牡馬入りしたジョンピーグリアは、本馬ほどではないにしても多くの活躍馬を出して成功しただけでなく、牝駒ミヤコがネイティヴダンサーの祖母となった事により、後世に大きな影響を与えた(本馬の血を引かない馬よりもジョンピーグリアの血を引かない馬のほうが珍しいかもしれない)。
ジョンピーグリアのその後に関して触れたので、ついでにアップセットのその後についても触れておく。本馬を破ったサンフォードSの他にラトニアダービーに勝つなど17戦5勝の成績を残したアップセットはやはり種牡馬入りした。その種牡馬成績はジョンピーグリアより1枚落ちであるが、それでも何頭かの活躍馬を出しており、一定の成功を収めている。アップセットの後世に与えた影響としては、まず牝駒ルードアウェイクニングがラフンタンブル(ドクターファーガーの父)の祖母となった事が挙げられる。また、ルードアウェイクニングの息子でラフンタンブルの伯父に当たるグレーロードは日本に種牡馬として輸入された。活躍は出来なかったが、グレーロードの血を引く繁殖牝馬は日本国内に現在も少なからずいる。
前年に敗北を喫したサラトガ競馬場における2戦
話を元に戻して、本馬の次走は4週間後のミラーS(D9.5F)となった。ここでは主戦のクマー騎手が負傷で騎乗できなかったため、アール・サンド騎手とコンビを組んだ。対戦相手は、ドナコナ、キングアルバートの2頭だけだった。ベルモントSでは本馬に20馬身差をつけられたドナコナだが、その時は定量戦だった上に2頭立てのため最後は勝負を諦めていた。しかし今回は131ポンドの本馬に対してドナコナは119ポンドであり、ベルモントSよりは好勝負が期待できそうだった。しかし本馬が単勝オッズ1.03倍の1番人気で、ドナコナが単勝オッズ7倍の2番人気だったから、もしかしたらと思った人はやはり少数派だったようである。そしてレースもベルモントSと大きく変わらない展開となり、スタートからゴールまで先頭を走り続けた本馬が圧勝。三角までは本馬に食らい付いていたドナコナは、キングアルバートに抜かれて3着に落ちないように今回は最後まで追ったために20馬身もの差は付かなかったが、6馬身差をつけられていた。
それから2週間後にはトラヴァーズS(D10F)に出走した。対戦相手は僅か2頭だったが、その相手はロウ師が送り込んできたアップセットとジョンピーグリアだった。サンド騎手騎乗の本馬が129ポンドの斤量ながら単勝オッズ1.22倍の1番人気に支持され、123ポンドのアップセットと115ポンドのジョンピーグリアがカップリングされて単勝オッズ4.6倍の2番人気となった。スタートが切られると本馬が即座に先頭に立ち、ジョンピーグリアが1馬身ほど後方の2番手、さらに6馬身ほど離れた最後方にアップセットがつけた。ドワイヤーSの再現を狙ったジョンピーグリアだったが、今回は本馬を脅かす事は出来ずに三角から四角にかけて大きく失速。代わりにアップセットが2番手に上がってきた。しかし直線入り口で4馬身ほどあった差を若干縮めるのが精一杯だった。本馬が2着アップセットに2馬身半差をつけて、2分01秒8のコースレコードを計時して勝利した。このコースレコードは1962年の同競走でジャイプールが2分01秒6を計時するまで42年間も保持された。
なお、この時にリドル夫人が本馬にトロフィーを贈呈した事がきっかけで、以後トラヴァーズSの勝ち馬には“Man o’ War Cup(マンノウォーカップ)”というティファニー製の黄金トロフィーが贈呈される事になった。
ローレンスリアライゼーションS:伝説の100馬身差圧勝
それから2週間後には、ローレンスリアライゼーションS(D13F)に出走した。1889年創設のローレンスリアライゼーションSは、1970年代からどんどん地位が低下し、2005年を最後に遂に廃止されてしまったが、創設当初は米国3歳競走の中でも最も賞金総額が高い競走だった。その後はプリークネスSに賞金額で抜かれてしまったが、この時点においてもベルモントSより賞金額が多く、米国3歳路線においては指折りの大競走だった事に変わりは無かった。それなのにこの年の出走馬は、本馬とフッドウインクの2頭だけだった。フッドウインクはキーン記念Sで1度だけ本馬と対戦していたが、その時は本馬から15馬身3/4差の6着最下位に沈んでいた。フッドウインクの最終成績は11戦1勝であり、誰がどう見ても本馬とまともに戦えるような馬ではなかった。
実のところ、このレースで本馬に所有馬をぶつけようという馬主は1人もいなかったのである。レース数週間前のニューヨーク・タイムズ紙には「ローレンスリアライゼーションSに出走する馬を求めています。対象となるのは優秀な3歳の牡馬と牝馬です。出来れば10~12頭ほど出てほしいのですが、無理なら5~6頭でも構いません。伝統あるこのレースの価値を守ってください」という広告が載ったほどだった。この惨めな広告に触発されたのか、2歳時にティモレオンHというステークス競走を勝っていたシーミントという馬が1頭だけ名乗りを挙げたのだが、結局シーミントもレース直前に回避してしまった。それで伝統あるローレンスリアライゼーションSは本馬の単走になってしまう寸前となったのだが、リドル氏の従姉妹ジェフォーズ夫人がリドル氏と話し合い、その結果としてジェフォーズ夫人の娘であるサラ・ジェフォーズ女史の所有馬だったフッドウインクを参戦させたのだった。
このレースは定量戦だった事もあり、アクシデントでもない限りは本馬が負けるはずは無く、2度目の単勝オッズ1.01倍となった(フッドウインクは単勝オッズ81倍、又は101倍だった)。ニューヨーク・タイムズ紙の記事によると、本馬に賭けた人は儲けようとしたのではなく、単に記念として馬券を買ったのだという。予想家達は「マンノウォーがレース中に柵を蹴破るか柵を飛び越えるかして場外に逃げ出さない限り、フッドウインクに勝ち目は無いでしょう」と予想していた。リドル氏はレース後に「私達はあまり大きな差を付けて勝つような事を指示した覚えはありません」と語ったが、このレースから本馬の鞍上に復帰したクマー騎手は、対戦相手が弱すぎた事もあり、試みに本馬を始めから全力疾走させてみる事にしたようである。スタートが切られると先に飛び出したのはフッドウインクだったのだが、1ハロン通過時点で本馬がかわして先頭に立ち、そのままどんどんフッドウインクを引き離していった。3ハロン通過時点で既に20馬身差、残り3ハロン地点では30馬身差、直線入り口では50馬身差、そして直線では馬なりで走ったにも関わらずゴールでは100馬身差をつけて、それまでの記録を6秒以上も更新する2分40秒8の全米レコード(現在も破られていない。同距離のダート競走が殆ど無い現状では破られることは無いだろう)を計時して勝利した。
この100馬身差という数字はデイリーレーシングフォーム紙の公式記録集に載っている公式なものであるが、実際のところはあまりにも大差がついたために正確な着差の測定は不可能であり、何人かの記者が独自に測定した結果として、100馬身という数字に落ち着いたようである。本当は1マイル差が付いていたのだが、さすがにそれは大き過ぎるという事で100馬身という数字にまとめられたという説まであるように、実際には100馬身以上離れていたという噂も根強いようである。
なお、この100馬身という数字が途方も無いものであるために、本当は誇張されているのだろうと考える日本人は少なくないようだが、もともと本馬の単走になるはずだったレースに明らかに格下のフッドウインクという馬が急遽参戦した事、スタミナ能力の有無によって大差がつきやすい長距離戦である事、2頭立てだからフッドウインク陣営にしてみれば歩いてゴールしても2着賞金は貰える事、2頭の所有者は親戚同士であり最初から出来レース的な意味合いが強かった事などを考慮すると、100馬身ちょうどかどうかは怪しいにしても、そのくらいの差がついても何ら不自然ではないというのが筆者の考えである(この100馬身差について疑問を呈する米国の資料を筆者は見た事が無く、必ず100馬身又は100馬身以上と記されている)。写真か映像でも残っていれば検証可能かもしれないのだが、映像については本項の最初で述べたとおり残っていないし、2頭の差が分かるような連続写真も見つけられなかったから検証は出来なかった。
ポトマックH:本馬のベストレース
それから7日後にはジョッキークラブS(D12F)に出走した。対戦相手は、本馬と初顔合わせとなるケンタッキーダービー4着のルイジアナダービー馬ダマスクの1頭のみだった。このレースもまた定量戦だったため、アクシデントでもない限りは本馬が負けるはずは無く、3度目の単勝オッズ1.01倍となった(ダマスクは単勝オッズ81倍だった)。今回の本馬は前走ほど飛ばしまくる事は無かったが、着実にダマスクとの差を広げていった。向こう正面で4~5馬身、三角では8馬身、四角では12馬身、そしてゴールしたときには18馬身の差をつけて、2分28秒8のコースレコードを計時して勝利した。
それから7日後にはハヴァードグレイス競馬場でポトマックH(D8.5F)に出走した。名前のとおりにハンデ競走であり、本馬と他馬勢の間には圧倒的な斤量差が設けられる事が予想されていた。その斤量差を利用して本馬に一泡吹かせてやろうと、ポールジョーンズ、ブレイゼズ、ウィザーズSの後にメトロポリタンH・マラソンS・エンパイアシティダービー・テンブロックH・チェサピークHなどを勝っていたワイルドエアの3頭が出走してきて、本馬が出たレースではウィザーズS以降最多となる4頭立てとなった。斤量は本馬が138ポンド、ポールジョーンズが114ポンド、ワイルドエアが108ポンド、ブレイゼズが104.5ポンドだった。さすがにこの斤量差では本馬の勝率は過去2戦より下がると判断され、単勝オッズ1.15倍の1番人気となった。ポールジョーンズとブレイゼズのカップリングが単勝オッズ10.55倍の2番人気で、ワイルドエアが単勝オッズ11.1倍の最低人気となった。
スタート前に少し焦れ込む仕草を見せていた本馬だが、好スタートを切って即座に先頭に立った。そして1~2馬身ほど離れた2番手がブレイゼズ、さらに1~2馬身ほど離れた3番手がワイルドエア、さらに2~3馬身ほど離れた最後尾がポールジョーンズだった。三角に入る頃にブレイゼズは失速して後退し、ポールジョーンズも上がってくる気配が無く、勝負は本馬とワイルドエアの2頭に絞られた。しかし直線に入っても本馬とワイルドエアの差は縮まりそうで縮まらず、結局ゴール前は馬なりで走った本馬が2着ワイルドエアに1馬身半差で勝利した。勝ちタイム1分44秒8はコースレコードで、3着ブレイゼズはワイルドエアから15馬身後方だったため、ワイルドエアは素晴らしいレースをしたと賞賛された。また、多くの人はこのレースこそが本馬のベストレースだと考えているという。
1歳年上のサーバートンを一蹴して競馬場を後にする
同世代で本馬に敵う馬は全く存在しなくなったとなれば、当然ファンやマスコミが期待するのは他世代の実力馬との対戦である。この当時の米国競馬においては、本馬より1歳年上の「初代米国三冠馬」サーバートンと、本馬より2歳年上のケンタッキーダービー馬エクスターミネーターの2頭が古馬の両巨頭だった。そして本馬とこの2頭の対戦を熱望する声が高まった。最初は乗り気でなかったリドル氏も遂に世論に抵抗しきれなくなり、この3頭を招待する高額賞金競走ケニルワースパーク金杯(優勝賞金は7万5千ドル、2着賞金は5千ドル)が、ポトマックHから24日後の10月12日に、レース招致合戦に勝利した加国オンタリオ州ケニルワースパーク競馬場のダート10ハロンで実施されることになった。
このレースは“Race of the Century(世紀の競走)”として大きく喧伝されたが、現実はなかなか厳しかった。まず、本馬は脚の腱を痛めているという噂が立った(単なる噂ではなく事実だったらしい。前走ポトマックHで酷量を背負ったのが影響したようである)。サーバートンも脚を痛めていたらしく直前調教では良い走りを見せられなかった。そして挙句の果てには、当初は参戦予定だったエクスターミネーターが回避してしまったのである。ケニルワースパーク競馬場は2頭立てのマッチレースを原則禁止していたのだが、エクスターミネーターの回避が直前だったために、今更中止も他馬の補充も出来ず、結局レースは本馬とサーバートンの2頭立てで実施されることになった。
なお、このエクスターミネーターの回避に関して筆者から注釈を入れておく。本馬を主役とする資料には、エクスターミネーターがレース直前に回避したのだと書かれている。ところがエクスターミネーターを主役とする資料には、そもそもエクスターミネーターがこのケニルワースパーク金杯に招待されたという話自体が全く載っていない。その代わりに書かれているのは、エクスターミネーター陣営からのマッチレースの申し込みをリドル氏が最後まで拒否したという内容である。資料同士で矛盾があるため、本馬がエクスターミネーターから逃げたのか、エクスターミネーターが本馬から逃げたのかは結局不明である。以上で筆者注釈は終わりで、本文に戻る。
エクスターミネーターの回避や、出走する2頭の不調が伝えられていても、この競走が大きな注目を集めていた事実には変わりが無かった。あまりに注目されていたために様々なトラブルが予想されていた。リドル氏は警備員を雇って本馬を24時間体制で警護しており、何者かが本馬に毒物を盛るのを恐れているのだろうと新聞各紙は推測した(もっとも、後述するとおりリドル氏は常に本馬の周囲を警備員で固めており、今回に限った話ではない)。このレースに招待されなかったエクスターミネーターの陣営が激怒しているという噂も流れた(先に注釈で触れたとおり、その辺りの経緯について真相は闇の中である)。レース直前になって本馬に騎乗経験もあったサーバートンの主戦サンド騎手が緊張により胃の不調を訴えて、フランク・キーオー騎手に急遽乗り代わるという事態も発生した。本馬に装着される予定だった鞍のあぶみ革に何者かが刃物で切れ目を入れようとしたという噂も流れた(立証はされていない)。斤量はサーバートンが126ポンド、1歳年下の本馬が120ポンドに設定された。本馬が単勝オッズ1.05倍の1番人気で、サーバートンが単勝オッズ6.55倍の2番人気となった。
スタートが切られると本馬が先手を取り、サーバートンを2馬身ほど引き離して逃げ続けた。三角辺りから本馬とサーバートンの差が徐々に開き始め、直線に入った時点では既に勝負あり。サーバートン鞍上のキーオー騎手が必死で鞭を振るうのとは対照的に、本馬は最後まで馬なりのまま走り抜け、最後は7馬身差をつけて、それまでの記録を6秒4も更新する2分03秒0のコースレコードを計時して完勝した。なお、このレースの模様は映像で撮られているが、前述のとおりこれがスタートからゴールまで漏らさず映像で撮られた世界で初めての事例である。筆者も一応見るには見たが、馬なりのまま直線を駆け抜ける本馬の姿しか印象に残らなかった。
サーバートンを一蹴した本馬に対しては、各方面から招待の申し出が相次いだ。チャーチルダウンズ競馬場の代表者マット・ウィン大佐は、ケニルワースパーク金杯では実現しなかった本馬とエクスターミネーターの対戦機会を作りたいとリドル氏に電報を打ってきた。英国のアスコット競馬場からは、アスコット金杯に出て欲しいとの申し出があった。実際にリドル氏は本馬を4歳時も現役続行させる意思を持っていたらしい。ところがリドル氏が米国ジョッキークラブに対して、本馬が仮にヴォスバーグHに出るとしたら斤量はどのくらいになるか尋ねたところ、その返答は150ポンドというとんでもないものだった。これ以上現役を続けると過酷な斤量が原因で本馬が故障してしまう事を懸念したリドル氏は3歳限りでの引退を決定。3歳時11戦全勝の成績を残して現役を引退した。
獲得賞金総額は24万9465ドルで、米国競馬史上初めての20万ドルホースとなった。この年の米年度代表馬及び米最優秀3歳牡馬のタイトルを獲得した。なお、米最優秀ハンデ牡馬騙馬はエクスターミネーターが単独受賞したため本馬は獲得していない。もっとも、これらのタイトルは非公式なものであり、1936年にデイリーレーシングフォーム紙とターフ&スポーツダイジェストマガジン誌が公式にタイトルを創設した後に、回顧という形で昔の馬に対してタイトルを与えたものである。この際に3歳馬は米最優秀ハンデ牡馬及び牝馬の対象から外されていたらしく、どんなに傑出した競走成績を残した3歳馬でも、1935年以前に米最優秀ハンデ牡馬及び牝馬を受賞した事例は無い。
競走馬としての評価
米国史上最高の名馬と讃えられる本馬であるが、その競走能力に対する評価は人によって差があるようである。1999年に英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏とジョン・ランドール氏が出版した“A Century of Champions”の平地競走馬部門においては139ポンドの評価であり、米国調教馬では第7位タイ(上位は144ポンドのセクレタリアト、142ポンドのサイテーション、141ポンドのシアトルスルーとスペクタキュラービッド、140ポンドのネイティヴダンサーとアファームドの6頭。カウントフリートとアリダーの2頭が本馬と同じ139ポンド)に留まっている。同年に米国のスポーツチャンネルESONが発表した、20世紀米国の偉大なスポーツ選手100選においては競走馬の中では2番目となる第84位にランクインしたが、第35位のセクレタリアトからは大きな差をつけられた。
その反面で、同じ1999年に米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選ではセクレタリアトやサイテーションを抑えて堂々の第1位に選出された。1992年にスポーツ・イラストレイテッド誌が企画した名馬ランキングでも第1位に選出されているし、やはり1999年にAP通信社が実施した全米世論調査においても、本馬が20世紀における最も偉大な馬として選ばれた。
この評価の違いは、おそらく「最強の馬」と「最高の馬」は必ずしもイコールではないからだろう。本馬が戦った同世代馬はレベルがそれほど低いわけでは無かったが、そう高かったとも言えない。ケニルワースパーク金杯では別世代のサーバートン相手に圧勝しているが、サーバートンは騎手の乗り代わりがあった上に、レース中に4つの蹄鉄全てが外れていたから、まともなレースにはなっていなかった。古馬になって走っておらず、他世代の馬とも殆ど戦っていないのも筆者的にはマイナス(そうは言っても、同世代相手では断然重い斤量を背負っていたという点では、セクレタリアトより筆者的なポイントは高い)である。100馬身差で圧勝したローレンスリアライゼーションSも、20馬身差で圧勝したベルモントSも、18馬身差で圧勝したジョッキークラブSも全て2頭立てであり、対戦相手からしてみれば歩いてゴールしても2着賞金を貰える状況だったから、着差を額面どおり受け取る事は出来ない。これらを念頭に置きながら、あくまでも個人的意見として言わせてもらえば、本馬が米国競馬史上最強馬であるとは考え辛い。
しかし米国競馬史上最高の名馬を挙げろと言われた場合、筆者は他のどの馬でもなく迷わず本馬を挙げる。本馬とセクレタリアトの比較については、セクレタリアトの登場から今日まで盛んに行われている。それらを見ると、年配の競馬ファンは本馬が優れていると主張し、若い競馬ファンはセクレタリアトが優れていると主張する傾向があるようである。しかし筆者が一番同感だと思ったのは次の意見である。すなわち「比較すること自体が無意味です。」
西暦2000年に日本中央競馬会が実施した20世紀の名馬大投票においては近年の馬が多く上位に入り、古い馬はあまり票が伸びなかった。筆者は日本競馬史上最高(「最強」ではなくあくまで「最高」)の名馬はシンザンであると思っているのだが、シンザンは第7位だった。しかしこうした投票に参加するのは若い世代の人間が多いのだから当然と言えば当然の結果である。それにも関わらず、1999年にAP通信社が実施した世論調査で本馬が第1位になったというのは非常に凄い事であり、米国民にとって本馬の存在は、我々日本人が想像する以上に大きなものであると思われる。
本馬が競走馬を引退して喪失感に襲われたニューヨークのスポーツファンは、1919年暮れにボストン・レッドソックスからニューヨーク・ヤンキースにトレードされてきた1人の大打者へと注目の対象を移していった。本馬は野球界におけるベーブ・ルースと並ぶ当時の米国スポーツ界のスーパースターだったのである。
本馬に対する当時の米国民達の発言録
当時の米国民達が本馬について述べた発現録のようなものがあったので、以下に一通り掲載しておく。
所有者リドル氏は「100万ドルを手に入れる事が出来る人間は他にもいるでしょうが、マンノウォーを手に入れる事が出来た人間は私1人です。もし、イギリスに行って国王が戴冠する王冠の宝石を手に入れ、さらにフランスに移動してナポレオンの墓を建て、そしてインドに行ってタージ・マハルを買ってきた人がいれば、その人とならマンノウォーの売却交渉をしても良いですよ」と語った。
本馬の管理調教師フェウステル師は「彼はスピード、スタミナ、闘争心、精神力を全て持ち合わせ、当時の記録を次々に更新しました。私は彼のような馬が他にいるなどという事は絶対に無いと断言します。彼は夢の中から出てきた馬のようでした」と語った。
種牡馬入りした後の本馬を担当した厩務員ウィル・ハーバット氏は「私は彼がアップセットに敗れたサンフォードSを見ていません。よって、あの敗戦は作り話です」と語った。
本馬が勝ったトラヴァーズSなどでスターターを務めたロイ・ディッカーソン氏は「彼より美しくて強い馬は他にいませんでした。彼を負かすことが出来る馬がいるなどあり得ません」と語った。
本馬に2回騎乗経験がある殿堂入り騎手アール・サンド騎手(サーバートンの主戦でもあった)は騎乗したミラーSの後で「彼は他馬が走るよりも速く歩けました。まるで暴走する機関車に乗っているようでした。私がそれまでに騎乗した馬の中で彼は間違いなく最高の馬です」と語った。
サーバートンの所有者ジョン・ケネス・レヴィソン・ロス氏は愛馬が敗れたケニルワースパーク金杯の後で「なんと驚いた!」と叫んだ。
本馬が敗れたサンフォードSでアップセットに乗っていたウィリー・ナップ騎手は「ロフタス騎手が内側を突こうとした際に私はスペースを空けませんでした。彼は無敗のまま引退するべき馬だったかもしれません。私は時々それを申し訳なく思います」と語った。
アップセットやジョンピーグリアで打倒本馬の執念を燃やしたサー・ジェームズ・G・ロウ調教師は「私は47年間も競馬を見てきましたが、その中で特に優れていると思った馬は年代順に、サイソンビー、コリン、マンノウォーの3頭でした」と語った。
ブラッドホース誌の編集長ジョー・パーマー氏はブラッドホース誌の記事の中で「馬というよりも、生命を持った炎のような存在でした。馬屋の中で耳をそばだてながら地平線を見つめる彼の瞳からは途方も無い活力が感じられました。平素は物静かな馬でしたが、いったんその気になると、身を隠していた虎がばねのような勢いで獲物に襲い掛かる迫力を見せました。ほぼ全ての米国競馬関係者は、彼こそが米国競馬史上最高の競走馬であると考えています。彼は対戦相手を時には100馬身もの差をつけて粉々に破壊しただけでなく、驚異的な世界記録も連発しました」と語った。
筆名である「サルヴェイター」の下に決まって「マンノウォー」と書き添えていた伝説的競馬記者ジョン・ハーヴェイ氏は「彼は人間達の想像力を刺激しました。彼の姿を見た人は馬ではない何か別のものを見ました。しかしながら彼の姿を見終わった人が覚えているのは、不思議な高揚感だけでした」と書いた。
筆者の個人的感想などよりも、これらの人々の感想のほうが余程的確だろう。というわけで、筆者がこれ以上本馬を批評するのは止めておく事にする。
血統
Fair Play | Hastings | Spendthrift | Australian | West Australian |
Emilia | ||||
Aerolite | Lexington | |||
Florine | ||||
Cinderella | Tomahawk | King Tom | ||
Mincemeat | ||||
Manna | Brown Bread | |||
Tartlet | ||||
Fairy Gold | Bend Or | Doncaster | Stockwell | |
Marigold | ||||
Rouge Rose | Thormanby | |||
Ellen Horne | ||||
Dame Masham | Galliard | Galopin | ||
Mavis | ||||
Pauline | Hermit | |||
Lady Masham | ||||
Mahubah | Rock Sand | Sainfoin | Springfield | St. Albans |
Viridis | ||||
Sanda | Wenlock | |||
Sandal | ||||
Roquebrune | St. Simon | Galopin | ||
St. Angela | ||||
St. Marguerite | Hermit | |||
Devotion | ||||
Merry Token | Merry Hampton | Hampton | Lord Clifden | |
Lady Langden | ||||
Doll Tearsheet | Broomielaw | |||
Mrs. Quickly | ||||
Mizpah | Macgregor | Macaroni | ||
Necklace | ||||
Underhand Mare | Underhand | |||
The Slayer's Daughter |
父フェアプレイは当馬の項を参照。
母マフバーは本馬と同じくベルモント・ジュニア氏の生産・所有馬で、管理調教師はフェアプレイを管理したジョイナー師と、サム・ヒルドレス調教師の両名だった。ヒルドレス師によるとマフバーは優秀なスピードを有していた馬だったらしいが、非常に神経質な性格だったらしく、初勝利を挙げてすぐに引退したという。ところがマフバーの気性に関しては、正反対の話も伝わっている。マフバーは非常に穏やかな性格で知られており、フェアプレイの激しい気性を中和するのに適していると判断されて初勝利後間もなく引退したのだという。本馬や本馬の子孫達が激しい気性を有しながらも、フェアプレイやヘイスティングスと異なり制御可能な程度に収まったのは、マフバーの穏やかな気性も受け継いだからだと説明されている。いずれが正しいのかは不明だが、とにかく5戦1勝の成績で引退したマフバーは、ナーサリースタッドで繁殖入りした。
繁殖牝馬としては受胎率が悪く、1931年に21歳で他界するまで僅か5頭の産駒しか残せなかった。その5頭は全てフェアプレイとの間に産んだ子であり、他の種牡馬との間には子が出来なかった事から、“Mahubah is Fair Play's wife(マフバーはフェアプレイの妻だ)”としばしば言われた。その5頭の内訳は、1915年産の牝駒マスダ、1917年産の本馬、1918年産の牡駒プレイフェロー、1919年産の牡駒マイプレイ、1920年産の牝駒ミラベルである。
マスダは現役成績23戦6勝、ホワイトプレインズHというステークス競走に勝利した。プレイフェローは現役成績8戦2勝、ステークス競走勝ちは無いが、カールトンSで2着している。マイプレイはジョッキークラブ金杯・アケダクトHに勝つなど3勝を挙げ、ベイビューH・ラトニアCH・サラトガC・マーチャンツ&シチズンズHで各2着している。ミラベルは2戦未勝利だった。
本馬の全姉弟4頭はいずれも種牡馬又は繁殖牝馬となっている。マイプレイは兄には遠く及ばぬまでもまずまずの種牡馬成績を残し、プリークネスSの勝ち馬ヘッドプレイなどを出した。プレイフェローは種牡馬として失敗に終わった。マスダは直子の活躍馬こそ出せなかったが、牝系子孫を発展させた。マスダの孫にはハイグリー【メイトロンS】、ヴァルカンズフォージ【シャンペンS・ウィザーズS・サンタアニタH・サバーバンH】、曾孫には米国三冠馬アソールト【ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントS・ウッドメモリアルS・ドワイヤーS・ピムリコスペシャルH・ウエストチェスターH・ディキシーH・グレイラグH・ブルックリンH2回・サバーバンH】、玄孫世代以降には、マジックフォレスト【ガーデニアS】、ワンダ【マザーグースS】、ウッドワードSでセクレタリアトに黒星を付けたプルーヴアウト【ウッドワードS(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)】、ソルフォード【エクリプスS(英GⅠ)】、アカデミーアワード【マンハッタンH(米GⅠ)】、ウェルチョーズン【アッシュランドS(米GⅠ)】、ホワイホワイホワイ【ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)】、パンクティリアス【ヨークシャーオークス(英GⅠ)】、クリスプ【サンタアニタオークス(米GⅠ)】、テリング【ソードダンサー招待S(米GⅠ)2回】、ステイサースティ【トラヴァーズS(米GⅠ)・シガーマイルH(米GⅠ)】、ゴールデンチケット【トラヴァーズS(米GⅠ)】といった活躍馬が出ている。日本の公営競馬で活躍したサクラハイスピード【川崎記念・関東盃・東京盃2回・グランドチャンピオン2000・埼玉新聞杯】もマスダの牝系子孫出身馬である。ミラベルは直子の活躍馬も出せず、牝系子孫もそれほど発展させられなかったが、牝系子孫自体は現存しており、インフィジャー【仏2000ギニー(仏GⅠ)】、デラウェアタウンシップ【フォアゴーH(米GⅠ)・フランクJドフランシス記念ダッシュS(米GⅠ)】などが出ている。
マフバーの母メリートークンは英国産馬であり、競走馬としても英国で走った。詳細な競走成績は不明だが、ステークス競走の勝ち鞍はあったらしい。競走馬引退後に、名馬ベンブラッシュの実質的な生産者である馬産家兼調教師のH・ユージーン・リー氏によって米国に輸入されていた。そして11歳時の1902年にベルモント・ジュニア氏に購入されてナーサリースタッドで繁殖生活を続けた。しかし近親にはこれといって目立つ活躍馬がおらず、優秀な牝系であるとは言い難い。→牝系:F4号族①
母父ロックサンドは当馬の項を参照。
競走馬引退後:種牡馬として大成功を収める
競走馬を引退した本馬は、リドル氏の知人エリザベス・デインジャーフィールド女史がケンタッキー州に所有していたヘイランズスタッドで種牡馬入りした。それはこの時点でリドル氏がケンタッキー州に牧場を所有していなかったためだと思われ、種牡馬入り2年目にはリドル氏がケンタッキー州に入手したファラウェイファームに移り住んでいる。本馬の種牡馬入り1年目には、テキサス州の石油業者ウィリアム・ワゴナー氏から50万ドルで本馬を売って欲しいという申し出があったらしいが、リドル氏はそれを拒否した。拒否されたワゴナー氏は、今度は100万ドルを提示したそうだが、リドル氏は「この馬は売り物ではありません」と言って再び拒否し、結局本馬はリドル氏の元を離れることは無かった。
リドル氏は何故か本馬の種付け数を制限したため、産駒数は少なかった。リドル氏が種付け数を制限した正確な理由は不明だが、リドル氏は自分が所有する繁殖牝馬を優先的に本馬に交配させ、外部からの種付け申し込みは自分と親しい人間のものしか受け付けなかった(自分の従姉妹ジェフォーズ夫人が所有していたゴールデンブルームはやはりファラウェイファームで種牡馬入りしていたが、ゴールデンブルーム牝駒はしばしば本馬と交配されていた。しかしゴールデンブルーム牝駒との間に本馬が活躍馬を出すことは無かった)から、本馬を自身の専用種牡馬にしようとしたリドル氏の独占欲の強さが理由であろう。
ただ、こうしたやり方が災いして種牡馬として不成功に終わった馬は、後のブリガディアジェラードなど幾つかの例を挙げる事が出来るから、リドル氏のやり方は本馬の種牡馬成績に大きな悪影響を与えたはずである。海外の資料でも、これはリドル氏の不手際であると厳しい評価が下されている事が多い。唯一“Thoroughbred Heritage”には、こうしたリドル氏に対する批判は、イソップ童話に出てくる届かない所にある葡萄を狐が酸っぱいと評した寓話と同じで、他者からのやっかみが含まれているのではと記載されている。しかし質的にはともかく、量的には本馬が繁殖牝馬に恵まれたとは言い難いのは確実である。
それにも関わらず本馬は種牡馬として早い段階から結果を出した。いきなり初年度産駒が大爆発し、アメリカンフラッグがベルモントS・ウィザーズS・ドワイヤーSを、フローレンスナイチンゲールがCCAオークスを、メイドアットアームズがピムリコオークスやアラバマSを勝利した。そのために、これらの馬達が活躍した翌1926年からは種付けの申し込みが殺到。さすがのリドル氏も5年間続けた種付け数の極端な制限を緩和したが、それでも年間交配数は25頭が上限と定められた(毎年50~70頭の申し込みがあったという)。この1926年には、ベルモントS・ドワイヤーS・サバーバンH・ジョッキークラブ金杯を勝ったクルセイダー、トラヴァーズSを勝ったマーズ、ベルモントフューチュリティSを勝ったスカパフロー、CCAオークスを勝ったエディスキャヴェル、ガゼルHを勝ったコルベットなどの活躍により、北米首位種牡馬を獲得した(これらの馬のうち、マーズやスカパフローはリドル氏の従姉妹ジェフォーズ夫人の所有馬だった)。この年に本馬産駒が稼いだ賞金総額は40万8137ドルであり、19世紀米国の大種牡馬レキシントンが長年に渡り保持していた産駒の年間獲得賞金額最多記録を実に60年ぶりに更新した。
その後は父親であるフェアプレイや、新しく米国に来たサーギャラハッドなどに邪魔されて北米首位種牡馬を獲得することは出来なかった(息子のウォーアドミラルが米国三冠馬になった1937年は、サンタアニタHでシービスケットを破ったローズモントなど多くのステークスウイナーを出したザポーターに阻止されている)が、北米種牡馬ランキング10位以内に10回ランクインするなど、ランキング上位の常連として活躍を続けた。また、産駒は障害競走でも活躍し、米国顕彰馬バトルシップなど多くの子孫達が障害競走で活躍した。かつてフェウステル師をして「優れた狩猟用馬になる」と予想させた本馬の闘争心は、子孫達にも伝わり、障害を恐れない勇敢な馬を多く登場させた。そのため、王立カナダ騎馬警察隊は、自分達が騎乗する馬には決まって本馬の血を引く馬を選んだ。
ところで、本馬を紹介する日本の資料では、本馬の種牡馬成績について辛口である事が多い。「ダービースタリオン・公式ガイドブック」の根幹種牡馬&名馬解説に書かれていた「種牡馬としては、大成功とまでは行かなかった」などはまだ可愛いほうで、筆者が見た中で一番酷いと感じたのは、某ウェブサイトに載っていた「ウォーアドミラル以外は大物は見られず、高い人気の割に実績は残せなかった。」の一文である(同じウェブサイトには「リーディングサイヤーには1926年の一度しか輝かずに、ベスト10にも入らない年が続いた」という出鱈目までも書かれている)。しかしながらこうした見解は完全に間違っていると断言してしまってよいだろう。22年間の種牡馬生活で送り出した産駒379頭(386頭とする資料もある)のうち、ステークスウイナーは64頭、ステークスウイナー率は16.9%(当時の米国繋養種牡馬の平均値は約3%だったらしい)、米年度代表馬などのタイトルを獲得した産駒(米国ではチャンピオンホースと表現する)は合計8頭、米国競馬の殿堂入りを果たした産駒は合計3頭、産駒の勝ち星は合計1286勝であるから、本馬の種牡馬能力は超一流だったと評価するしかない(本馬の死の時点において本馬より多くのステークスウイナーを出した米国の種牡馬は、66頭を送り出したブルームスティックのみである)。海外の資料でも、「彼の種牡馬成績は驚異的でした」「“たった”64頭のステークスウイナーしか出していないと主張する人間は愚か者です」など、口を極めて本馬の種牡馬成績は賞賛されている。
繁殖牝馬の父としても128頭(164頭とする資料もある)のステークスウイナーを出したが、同時期にサーギャラハッドという繁殖牝馬の父として怪物じみた活躍を見せた種牡馬がいたため、北米母父首位種牡馬になる事は無かった。それでも北米母父種牡馬ランキングで10位以内に入ること実に22回(9年連続2位という珍記録も持っている)であり、牝駒数が少なかった事を考慮すると、繁殖牝馬の父としても超一流だったのは疑う余地が無い。
30歳の高齢で大往生する
本馬は種牡馬入りした後も、米国民から広く愛されて過ごした。本馬が繋養されているファラウェイファームには、多い日には数千人ものファンが詰め掛けて、本馬の担当厩務員ウィル・ハーバット氏が語る本馬に纏わる話に聞き入っていた。牧場で過ごす本馬を訪問した通算の人数は、“The Thoroughbred Record”の記事によると150万人以上、“American Race Horses”によると300万人以上に上ったという。そのため、ファラウェイファームは当時ケンタッキー州屈指の観光スポットとなった。本馬が過ごした馬屋の近くには米国陸軍第一騎兵師団の基地があったが、第一騎兵師団は本馬に対して名誉大佐の称号を贈った。燃えるような栗毛の巨体を誇った本馬は、米国民から尊敬と親しみをこめて“Big Red”の愛称で呼ばれた。もっとも当初は単に“Red(赤毛)”と呼ばれていたらしく、3歳になって本馬の馬体が一層大きくなってから“Big Red”に変更されたらしい。しかし全ての米国民が善良な人間というような事はなく、本馬の鬣や尾の毛を抜いて記念に持ち帰ろうとする輩も少なからずいたらしい。そのため競走馬時代からリドル氏は本馬の周囲を警察官や私的警備員で固めており、善良なファンであっても本馬の周囲にはなかなか近づけなかったらしい。
本馬は1943年に老齢のため心臓の機能が衰え、この年に種牡馬生活から引退した。その後もファラウェイファームで余生を送っていたが、1947年の秋頃に状態が悪化した。当時のブラッドホース誌の記事によると「彼は痛みというものが、目に見えている対戦相手であるかのように戦っていました」とある。そして11月1日の正午過ぎ、心臓発作を起こした本馬は30年間の生命に幕を降ろした。長年に渡り担当厩務員を務めたハーバット氏が同じく心臓発作で死去した約1か月後の事だったという。本馬の遺体は防腐処理(競走馬としては史上初の出来事)を施されてファラウェイファーム内に土葬されることになった。軍隊形式で実施された本馬の葬儀には2000~2500人が参列(他に500~2000人の群集が詰め掛けた)した。遺体の防腐処理は2時間を要して丁寧に施された。当時86歳の高齢だったリドル氏(4年後の1951年に89歳で死去)は葬儀に参列できなかったが、白と黄色のカーネーションの花束を贈ってきた。そして眠るように横たわる本馬の遺体は特製の棺に収められ、それを屈強な13人の男性が運んで土に埋められた。そして墓碑の横には等身大の本馬の銅像が建てられた。墓碑には余計な言葉は書かれず、本馬の名前だけが刻まれた。葬儀の様子は全米にラジオ中継され、その模様は数々の記事で写真と共に紹介された。全米全ての競馬場において、本馬の葬儀の時間に黙祷が行われた。本馬に名誉大佐の称号を贈った米国陸軍第一騎兵師団の隊員達は揃って黒い喪章を身につけた。それは当時第二次世界大戦の敗戦国日本に派遣されていた隊員達も同じであり、本馬の死からしばらくは東京でも喪章をつける米国兵の姿を見ることが出来たという。
こうして国葬級の扱いで埋葬された本馬だが、それから30年後の1977年に墓碑の老朽化を理由として、改葬される事になった。遺体は掘り起こされて、銅像と一緒にケンタッキーホースパークに移送され、この地に埋葬された。そしてケンタッキーホースパークを訪れる人々は必ず本馬の銅像による出迎えを受けることになった。
1957年に米国競馬の殿堂入りを果たし、その2年後に本馬の名を冠したマンノウォーHがアケダクト競馬場において創設された(現在はベルモントパーク競馬場においてマンノウォーSの名称でGⅠ競走として施行されている)。
後世に与えた影響
後継種牡馬としては、ウォーアドミラル、ウォーレリックの2頭が成功した。また、日本でも持ち込み馬としてやって来た直子のツキトモ(月友)が父としてオートキツ、ミハルオー、カイソウらを、母父としてスターロッチ、スウヰイスー、クリノハナなどを出して成功している。ウォーアドミラルやツキトモの直系はやがて廃れたが、ウォーレリックからレリックとインテントの2頭を経て伸びた直系が発展した。そのうちレリックの直系は20世紀中にはほぼ姿を消してしまったが、インテントの直子インリアリティが、リローンチとノウンファクトの2頭の名種牡馬を送り出し、本馬が属するゴドルフィンアラビアンの直系が21世紀まで残る原動力となった。現在はリローンチの直系孫であるBCクラシック2連覇のティズナウが中核となっている。
また、直系でなくても本馬の血を受け継ぐ馬の数は年々増加傾向にあり、エクリプス賞の年度表彰受賞馬に絞って調査してみると、本馬の血を引かない受賞馬は1994年の最優秀障害競走馬ウォームスペルが最後(平地競走部門では1992年の最優秀古馬牡馬プレザントタップが最後)であり、それ以降に登場した米国のチャンピオンホースは全て本馬の血を受け継いでいる。スワップスも、ケルソも、バックパサーも、ダマスカスも、ドクターファーガー(本馬を負かしたアップセットの血も入っている)も、フォアゴーも、ミスタープロスペクターも、シアトルスルーも、アファームドも、アリダーも、ジョンヘンリーも、サンデーサイレンスも、イージーゴアも、シガーも、カーリンも、ゼニヤッタも、アメリカンファラオも、本馬の血を受け継いでいるのである(ノーザンダンサーには本馬の父フェアプレイや好敵手ジョンピーグリアの血は入っているが、本馬の血は入っていない。セクレタリアトにはフェアプレイや本馬の母父ロックサンドの血は入っているが、本馬の血は入っていない。スペクタキュラービッドにはフェアプレイや本馬の同世代馬オンウォッチの血は入っているが、本馬の血は入っていない。まあこれは余談である)。本馬は後世に与えた影響力の大きさも絶大なのである。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1922 |
American Flag |
ベルモントS・ウィザーズS・ドワイヤーS |
1922 |
Florence Nightingale |
CCAオークス |
1922 |
Maid At Arms |
ピムリコオークス・アラバマS |
1923 |
Corvette |
ガゼルH |
1923 |
ベルモントS・サバーバンH2回・ドワイヤーS・ジョッキークラブ金杯 |
|
1923 |
Edith Cavell |
CCAオークス |
1923 |
Mars |
カウディンS・トラヴァーズS・ディキシーH |
1923 |
Taps |
スカイラヴィルS・メイトロンS |
1924 |
Scapa Flow |
ベルモントフューチュリティS |
1924 |
War Eagle |
マイアミカップH |
1925 |
Bateau |
セリマS・CCAオークス・ガゼルH・サバーバンH・ホイットニーS |
1925 |
Genie |
ドワイヤーS・ヨークタウンH |
1925 |
Ironsides |
マンハッタンH |
1926 |
Clyde Van Dusen |
ケンタッキーダービー・ケンタッキージョッキークラブS |
1926 |
Dreadnaught |
メイトロンS |
1927 |
英グランドナショナル・米グランドナショナル |
|
1928 |
Ironclad |
ジェロームH |
1929 |
Boatswain |
ウィザーズS |
1929 |
War Hero |
トラヴァーズS・サラトガC |
1930 |
Speed Boat |
テストS |
1930 |
War Glory |
ドワイヤーS・ローレンスリアライゼーションS |
1931 |
Identify |
トボガンH |
1934 |
Matey |
ピムリコフューチュリティ |
1934 |
Regal Lily |
アラバマS・ガゼルH |
1934 |
Wand |
メイトロンS |
1934 |
ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントS・ピムリコスペシャル・ワイドナーH・クイーンズカウンティH・ホイットニーS・ジョッキークラブ金杯・サラトガC |
|
1936 |
Hostility |
エイコーンS |
1936 |
War Regalia |
ダイアナH |
1937 |
Dorimar |
サラトガC |
1937 |
Salaminia |
アラバマS・ギャラントフォックスH・レディーズH |
1937 |
War Beauty |
セリマS |
1938 |
Battle Colors |
ウィルロジャーズS |
1938 |
War Hazard |
アラバマS |
1938 |
マサチューセッツH |
|
1940 |
Fairy Manhurst |
ローレンスリアライゼーションS |
1943 |
War Kilt |
デモワゼルS |