ポテイトウズ

和名:ポテイトウズ

英名:Potoooooooo

1773年生

栗毛

父:エクリプス

母:スポーツミストレス

母父:スポーツマン

父エクリプスの直系を現代競馬の主流血脈たらしめる最大の原動力となった稀代の珍名馬

競走成績:4~10歳まで英で走り43戦30勝2着7回3着3回(異説あり)

生涯無敗を誇り種牡馬としても成功した偉大なるエクリプスが輩出した最高傑作で、エクリプスの直系が近代競馬の主流となった原動力ともなった。父と異なり生涯無敗ではなかったが、それでも18世紀最良の馬だったと主張する競馬研究家もいる。

誕生からデビュー前まで

英国の貴族及び政治家だった第4代アビンドン伯爵ウィロビー・バーティー卿により、英国バークシャー州ウィザム村(1974年の境界変更以降はオックスフォードシャー州の領域に変わっている)にあったアビンドンステーブルにおいて生産・所有された。バーティー卿は英国の支配下にありながらも自由を主張していた北米大陸13植民地(後に独立戦争を経てアメリカ合衆国となる)の肩を持ったり、奴隷貿易の廃止を訴えたりと、当時の英国においてはかなり異端的な思想(現代的な思想に近い)の持ち主だった。また、優秀なフルート奏者としても知られており、さらに競馬好きでもあったため、アビンドンステーブルで競走馬の生産も行っていた。

競走生活(4・5歳時)

本馬の競走馬としてのキャリアは不明瞭な部分が多く、明確ではない。一般的には、4歳から10歳までの7年間に、距離4マイル以上のレースばかりを走ったとされている。

4歳時には、ニューマーケット競馬場で100ギニーのスウィープ競走に2回出走して、1回はイエロージャックという馬の2着(15頭立て)、もう1回はジムクラック産駒グレイロビンの3着(19頭立て)。ノッティンガム競馬場で出た1025ギニーのスウィープステークスでは、スウィンフェン氏という人物が所有していた無名の牡馬の2着。ヨーク競馬場で出たグレートサブスクリプションパースでは、マッチェム産駒カニバルの5着と、勝ち星は伸びなかったが一定の成功を収めた。

5歳時の初戦は、春にニューマーケット競馬場で行われた1200ギニー競走(グレイロビン、タイタンとの3頭立て)であり、ここで勝利を挙げた。このレース直後に本馬は、グレイロビンの所有者で、やはり英国の貴族兼政治家兼馬主だった初代グロヴナー伯爵リチャード・グロヴナー卿によって1500ギニー(現在の貨幣価値で10万ポンド相当らしい。1ポンドを180円に換算すると、1800万円に相当する)で購入された。この売買契約の際には、本馬が後の競走で獲得した賞金の一部をグロヴナー卿からバーティー卿に支払うというオプションが付いていたという。ちなみにバーティー卿は親の借金を相続してしまった上に、自身も競馬に熱中するなど贅沢な生活を送ったために、かなり経済的に困っていたようで、最後は貧困の中で1799年に59歳で死去している。それは本馬が他界する前年の事であった。グロヴナー卿の所有馬となった本馬の5歳時は、ニューマーケット競馬場の140ギニー競走、スワファム競馬場の50ポンド競走、イプスウィッチ競馬場の175ギニー競走(単走)に勝利を収め、ジョッキークラブプレートでマッチェム産駒マゴグの2着、ニューマーケット競馬場の140ギニー競走でディクテイターの2着、オックスフォードCでドリマントの6着最下位という成績だった。

競走生活(6~8歳時)

6歳時に本馬は本格化し、この年以降はニューマーケット競馬場を主戦場として多くのレースに勝利した。50ソヴリンパースではヘロド産駒のカラクタクス以下に勝利。140ギニーサブスクリプションパースもマッチェム産駒のコメット以下に勝利した。さらに150ギニースウィープ競走では4頭の対戦相手を撃破して勝利。10月に出た300ギニースウィープ競走ではヘロド産駒のラバーナムを破って勝利した。さらに同月には140ギニーサブスクリプション競走にも勝利した。また、クレルモンCとニューマーケット金杯の2競走を単走で勝っている。この時期が本馬の全盛期で、本馬に敵う馬は皆無だったという。

7歳時は、春先にニューマーケット競馬場で出走した1400ギニーハンデ競走で、ヘロド産駒のウッドペッカー(現在残っているヘロドの直系子孫は全てこの馬を経由している)と対戦したが、ウッドペッカーの3着に敗れた。ニューマーケット競馬場で出走した140ギニーサブスクリプション競走には、ドリマントに加えて、本馬と同じエクリプス産駒であるキングファーガスも出走してきた。本馬とキングファーガス、後にエクリプスの血を後世に伝える2大原動力となる2頭の対決は本馬が勝利を収めた。さらにジョッキークラブプレートでは後に種牡馬として活躍するタンデムを2着に破って勝利。10月の500ギニースウィープ競走ではラバーナム以下を破って勝利した。さらに150ギニー競走ではウッドペッカーを破って勝利。さらに前年に続いてクレルモンCとニューマーケット金杯を単走で勝ち、140ギニー競走も単走で勝利した。

8歳時はニューマーケット競馬場で行われた200ギニースウィープハンデ競走で、ウッドペッカーやヘロド産駒のギルフォードなど合計4頭と戦い、勝利を収めた。しかし同じくニューマーケット競馬場で行われた140ギニー競走ではウッドペッカーの2着に敗れた。400ギニースウィープ競走では、ヘロド産駒のバッカニアを破って勝利。ジョッキークラブプレートは単走で勝利した。10月にはニューマーケット競馬場で140ギニーサブスクリプション競走に出て、マッチェム産駒の牝馬オランデーズ(この3年前の1778年に第3回の英セントレジャーを勝っていた)やヘロド産駒の牝馬ブリジット(この2年前の1779年に記念すべき第1回の英オークスを勝っていた)など合計5頭と対戦する予定だったが、グロヴナー卿は85ギニーの罰金を支払って、本馬を回避させてしまった。

競走生活(9・10歳時)

9歳時はクレイヴンSに出走。このレースには前年に対戦しなかったオランデーズや、エクリプス産駒のマーキュリーなど13頭の他馬が出走していたが、本馬が2着オランデーズ以下に勝利を収めた。さらにニューマーケット競馬場で行われた50ポンド競走も2頭の対戦相手を蹴散らして勝利。前年は単走で勝ったジョッキークラブプレートでは、今回はバッカニアとマーキュリーが出走してきたが、本馬がバッカニアを2着に、マーキュリーを3着に破って勝利した。50ソヴリンパースでは、再びオランデーズを撃破して勝利。クレルモンC・200ギニー競走では単走で勝ち、200ギニー競走の翌日に出た140ギニーサブスクリプションパースでも単走で勝利した。しかし10月に出走した140ギニーサブスクリプションパースでは、マッチェム産駒のパズルには先着したが、クロップという馬の2着に敗れた。この9歳時にはもう1戦しているが着外に終わっている。

10歳時にはニューマーケット競馬場で200ギニー競走と、ザホイップというレースに出ていずれも勝利。しかし前年の英ダービー馬アサシンと対戦した300ギニーマッチレースでは、さすがに6歳の年齢差が響いたのか敗北。また、300ギニースウィープ競走で、いずれもヘロド産駒であるアンヴィルとボクサーの2頭に敗れて3着最下位に終わっている。この10歳時を最後に競走馬を引退。

本項に記載した本馬の出走レースは(8歳時に回避した140ギニーサブスクリプション競走を除くと)43戦であり、勝ち星は30勝(うち単走が10回)となっている。資料によって出走数と勝利数にはばらつきがあり、46戦したという説もある(少なくとも40戦以上したのは確からしい)し、勝利数は28勝だったり34勝だったりする。いずれにしても当時としてはトップクラスの競走馬だった事だけは間違いない。

馬名に関して

一風変わった本馬の馬名“Potoooooooo”は「じゃがいも」という意味である。「じゃがいも」は通常英語のスペルでは“Potatoes(複数形)”なのだが、なぜこのような名前になったのかについては以下のような話が伝わっている(資料によって細かい部分は異なるが話の要点は変わらない)。

本馬は幼少期にアビンドンステーブルにいる頃、栗毛の馬体だったことから、牧夫に「じゃがいも」の愛称で呼ばれていたという。この際、牧夫は本馬の飼い葉桶に“Potoooooooo”と綴っていたという(じゃがいもの英語の発音はポテトよりもポテイトウに近く、“Pot”に、8つの“o”、すなわち“eight-o”と繋げて「ポテイトウズ」になる)。これは、当時の英国では識字率が低く牧夫がスペルを知らなかったとも、単にユーモアで書いていたとも言われている。この表記を見たバーティー卿は、それを面白がってそのまま馬名にしたという。

真相は不明だが、いずれにしても“Potatoes”のスペルを何らかの理由で“Potoooooooo”と記載したのが由来であることは間違いないようである。なお、“Potoooooooo”では“o”が多すぎるので、競走馬時代の後半には省略して“Pot-8-o's”と記載されるようにもなっており、今日でも“Potoooooooo”と同程度の頻度で使用されている。本馬はその競走馬及び種牡馬としての功績と相まって、サラブレッド史上最も高名な珍名馬として今でも親しまれている。なお、本馬の産駒には野菜、特にナス科の名前をつけられた馬が多い。代表産駒の一頭ナイトシェイドはナス科のイヌホオズキの意味である。

血統

Eclipse Marske Squirt Bartlet's Childers Darley Arabian 
Betty Leedes
Snake Mare Snake 
Grey Wilkes
Hutton's Blacklegs Mare Hutton's Blacklegs Hutton's Bay Turk 
Coneyskins Mare 
Bay Bolton Mare  Bay Bolton
Fox Cub Mare 
Spilletta Regulus Godolphin Arabian ?
?
Grey Robinson Bald Galloway
Snake Mare
Mother Western Easby Snake  Snake 
Sister to Chaunter 
Old Montagu Mare Lor. d'Arcy's Old Montagu 
Hautboy Mare 
Sportsmistress Sportsman Cade Godolphin Arabian ?
?
Roxana Bald Galloway
Sister to Chaunter 
Silvertail Heneages Whitenose  Hall's Arabian 
Jigg Mare 
Rattle Mare  Rattle 
Darley Arabian Mare 
Golden Locks Oroonoko Crab Alcock Arabian 
Sister to Soreheels
Miss Slamerkin Young True Blue
Dun Arabian Mare
Crab Mare Crab Alcock Arabian 
Sister to Soreheels
Partner Mare Croft's Partner
Thwaite's Dam Mare

エクリプスは当馬の項を参照。

母スポーツミストレスの競走馬としての経歴は不明。本馬はスポーツミストレスが8歳時に産んだ初子であるから、繁殖入りする前には競走馬や何か他の用途(馬車馬など)で使役されていたと思われる。本馬の半弟には第9代目の英ダービー馬サートーマス(父ポンタック)がいるが、牝系は全く発展しておらず、19世紀初頭には滅亡してしまったようである。→牝系:F38号族

母父スポーツマンは、ゴドルフィンアラビアン産駒のケードの直子。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、グロヴナー卿が英国ケンブリッジシャー州バルシャム村の近郊に所有していたオックスクロフトスタッドで種牡馬入りした。種付け料は最初5ギニーだったが、最終的には21ギニーまで上昇した。産駒の勝ち馬数は172頭(162頭とする説もある)に達した。1796年にニューマーケット近郊のアッパーヘイルパークスタッドに移動し、その4年後の1800年11月に27歳で他界した。

本馬の直系を後世に伝えたのは、12戦11勝の成績を挙げたワクシー(詳細は当馬の項を参照)である。ワクシーは種牡馬として、ホエールボーンウィスカー、ポープ、ブラッチャーと史上最多タイの4頭の英ダービー馬を出し、1810年の英首位種牡馬になった。ワクシーの英首位種牡馬獲得に貢献したのが、この年の英ダービー優勝馬ホエールボーン(詳細は当馬の項を参照)である。さらにホエールボーンは種牡馬として、サーヘラクレス、キャメル、ウェイバリーなどの活躍馬を出した。サーヘラクレスはバードキャッチャーの父となり、キャメルはタッチストンの父となった。また、ウェイバリーの直系子孫からはベンブラッシュが出ている。現在残るエクリプスの直系のうち、キングファーガスからセントサイモンへと繋がった系統以外の全ては、こうして本馬→ワクシー→ホエールボーンと経由した血統から派生している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1785

Nightshade

英オークス

1790

Waxy

英ダービー

1797

Champion

英ダービー・英セントレジャー

1799

Tyrant

英ダービー・クレイヴンS

1800

Parasol

ジョッキークラブプレート

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