和名:エンペラーオブノーフォーク |
英名:Emperor of Norfolk |
1885年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ノーフォーク |
母:マリアン |
母父:マルコム |
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「カリフォルニアの驚異」と呼ばれ70年近くもカリフォルニア州産の最高の競走馬と言われ続けた19世紀カリフォルニア州産馬における最強馬 |
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競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績29戦21勝2着2回3着4回 |
誕生からデビュー前まで
米国カリフォルニア州において、セオドア・ウインターズ・マルガレッタ氏により生産された。本馬が誕生したランチョデルリオ牧場は父ノーフォークが晩年を過ごした牧場だった。1歳時にエリアス・ジャクソン・ボールドウィン氏により、2525ドル又は2550ドルの金額で購入された。この金額が高いか安いかは筆者にはよく分からないが、父ノーフォークがデビュー直後に1万5千1ドルで取引されている事を考慮すると、それほど高い金額ではなさそうである。
OK牧場の決闘で知られるワイアット・アープ保安官の親友でもあったボールドウィン氏は、不動産業から投資事業まで幅広く手掛け、19世紀のカリフォルニア州において最大級の成功を収めた事業家であり、そのあまりの幸運ぶりから、“Lucky Baldwin(ラッキー・ボールドウィン)”の異名で呼ばれた人物である。彼の生涯を語るだけで一冊の本が出来るくらいなので、ここでその幸運ぶりを語る事はしない。カジノ事業にも進出していた彼は競馬好きでもあり、その所有する膨大な土地を活用して馬主業にも勤しんでいた。また、サンタアニタパーク競馬場を買収して整備を行い、カリフォルニア州競馬のレベル向上を図った功績も見逃せない。
競走生活(2歳時)
本馬は、ボールドウィン氏が所有する南カリフォルニアの牧場で訓練され、2歳時から米国内を渡り歩いて競走生活を送った。まずは7月にイリノイ州シカゴに赴くと、デビュー戦のケンウッドS(D5F)を皮切りに、ハイドパークS(D6F)・レイクビューH(D6F)の3競走を8日間で勝利した。ハイドパークSでは、後のガゼルHの勝ち馬ウィノナを2着に破っている。クイックステップS(D4F)では3着に敗れた。その後は8月にニューヨーク州サラトガ競馬場で2週間の間にサラトガS(D5F)・ヴァージニアS・ケンタッキーS(D6F)・テネシーS(D6F)と4戦して全て勝利した。しかしニュージャージー州モンマスパーク競馬場で出走したセレクトS(D6F)では8着に敗れた。
その後はニューヨーク州ジェロームパーク競馬場に向かい、4日間でコニーアイランドオータムSなど2つの競走に勝利した。さらにニューヨーク州グレーヴセンド競馬場に赴き、アルジェリアS(D6F)に出走。このレースでは最終的に130戦70勝を挙げる当時の強豪馬レースランドとの対戦となったが、本馬がレースランドを2着に破って勝利を収めた。同じくグレーヴセンド競馬場で出走したプロスペクトH(D6F)では、最終的に184戦68勝を挙げる牝馬ジェラルディーンの2着だった。他にはシチズンズSを勝利している。結局2歳時は18戦12勝2着1回3着3回の成績を残し、セントルイスフューチィリティS・アーリントンホテルS・キャピタルSを勝ったレースランドと並んで後年にこの年の米最優秀2歳牡馬に選ばれている。
競走生活(3歳時)
3歳時は、テネシー州ナッシュビル競馬場でトルバドールS・ロウヤーズSに勝利。グレーヴセンド競馬場で出走したブルックリンダービー(D10F:現ドワイヤーS)では、この年のウィザーズS・ベルモントS・トラヴァーズSを勝つサーディクソンと対戦した。このレースで本馬に騎乗したのはアイザック・バーンズ・マーフィー騎手だった。アフリカ系アメリカ人だったマーフィー騎手は、ケンタッキーダービーで3勝を挙げるなど米国各地の大競走を勝ちまくり、現在でも米国競馬史上最も優秀な騎手と言われているほどの人物で、英国のフレッド・アーチャー騎手と対比して“Colored Archer(アーチャー騎手の黒人版)”と呼ばれた。早世しているところもアーチャー騎手と同じ(ただし自殺したアーチャー騎手と異なり彼の死因は肺炎だった)である。その驚異的なまでの勝率(記録が不明確なので複数の数値があるが、34%とも44%とも言われる)のため、現在米国に存在するアイザック・マーフィー賞は、最高勝率騎手(最低500戦以上)に与えられる賞である。話が逸れたが、この名手マーフィー騎手の手綱さばきで、本馬はサーディクソンを3着に破って勝利した。
ジェロームパーク競馬場で出走したブロンクスS(D9F)も勝利。スピュイテンデュイビルSも勝ち、コニーアイランドスウィフトS(D7F)も勝利してニューヨーク州を後にした。そして再びシカゴに向かい、アメリカンダービー(D12F)に参戦。前年のタイロS・スピナウェイSとこの年のケナーS・ラトニアダービー・ミラーS・モンマスオークス・フォックスホールSを勝ちトラヴァーズS・アラバマSで2着する牝馬ロサンゼルス(最終成績110戦48勝)との対戦となったが、本馬がロサンゼルスを3着に破って勝利した。さらにドレクセルS(D8F)・シェリダンS(D10F)にも勝利した。
その後、ワシントンパーク競馬場で行われた距離1マイルの訓練用競走において、レコードタイムを2秒も更新する1分38秒0というタイムを計時したが、この訓練用競走中に屈腱炎を発症したために競走馬を引退した。この辺りの経緯に関しては資料によって相違があり、現役最終戦となったシェリダンSのレース中に既に脚を痛めていたとするものもあり、判然としない。いずれにしても公式戦としてはシェリダンSが最後だったようである。3歳時の成績は11戦9勝2着1回3着1回で、後年にこの年の米年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選ばれている(最優秀3歳牡馬にはサーディクソンも選ばれているが年度代表馬は本馬のみ)。
獲得賞金総額7万9290ドルは当時の全米記録だった。大柄な馬体だった本馬は距離5ハロンから12ハロンまで幅広く勝ち星を挙げ、そのスピード能力と距離を問わない万能性、重い斤量に耐えるパワーと精神力から、“California Wonder(カリフォルニアの驚異)”の異名で呼ばれた。後にスワップスが登場するまで、70年近くに渡り本馬は「カリフォルニア州で産まれた最高の競走馬」と言われ続けた。
血統
Norfolk | Lexington | Boston | Timoleon | Sir Archy |
Saltram Mare | ||||
Sister to Tuckahoe | Ball's Florizel | |||
Alderman Mare | ||||
Alice Carneal | Sarpedon | Emilius | ||
Icaria | ||||
Rowena | Sumpter | |||
Lady Grey | ||||
Novice | Glencoe | Sultan | Selim | |
Bacchante | ||||
Trampoline | Tramp | |||
Web | ||||
Chloe Anderson | Rodolph | Sir Archy Montorio | ||
Haxall's Moses Mare | ||||
Belle Anderson | Sir William of Transport | |||
Butterfly | ||||
Marian | Malcolm | Bonnie Scotland | Iago | Don John |
Scandal | ||||
Queen Mary | Gladiator | |||
Plenipotentiary Mare | ||||
Lady Lancaster | Monarch | Priam | ||
Delphine | ||||
Lady Canton | Tranby | |||
Mary Randolph | ||||
Maggie Mitchell | Yorkshire | St. Nicholas | Emilius | |
Sea Mew | ||||
Miss Rose | Tramp | |||
Sancho Mare | ||||
Charmer | Glencoe | Sultan | ||
Trampoline | ||||
Betsey Malone | Stockholder | |||
Potomac Mare |
父ノーフォークは当馬の項を参照。
母マリアンは米国の新聞記者だったジョセフ・ケアンズ・シンプソン氏(カリフォルニア州最初のスポーツ新聞「ブリーダー&スポーツマン」の創設者)の所有馬で、米国西海岸に移住してきたシンプソン氏が新聞社を創設した際に、融資代わりにマルガレッタ氏により購入された。その後はランチョデルリオ牧場で繋養され、ノーフォークとの間にデュークオブノーフォーク【ウインターズS・オールエイジスウィープS】、ダッチェスオブノーフォーク【コナーズS・レディーズS・フィネガンS・ウインターズS・パシフィックC・スプリントオブザタイムS】、キングオブノーフォーク【ケンウッドS】、7戦無敗のエルリオレイ【エクリプスS・ハイドパークS・ケンウッドS・ホワイトプレインズC・ダンモウS】、本馬などを、さらにジョーフッカーとの間には1890年代米国におけるターフの女王と呼ばれた73戦44勝のヨタンビエン【グレートウェスタンC・シンシナティホテルS】など多くの勝ち上がり馬を産んだ。マリアンの1歳年下の全妹ロクサラインの子には加国最大の競走クイーンズプレートを勝ったウィリーダブルがいる。→牝系:A17号族
母父マルコムはセワニーSの勝ち馬。マルコムの父ボニースコットランドは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、ボールドウィン氏が所有するサンタアニタ牧場で種牡馬入りした。本馬は種牡馬としても優れた成績を残し、19世紀後半には急速に衰退しつつあったレキシントン系の中軸として活躍した。1907年12月15日に22歳で他界したが、この日は奇しくもサンタアニタパーク競馬場がリニューアルオープンした日の翌日だった。当時のサンフランシスコ・コール紙は「アメリカンダービーの勝者にして米国競馬史上最大の競走馬かつ種牡馬の1頭であるエンペラーオブノーフォークが今朝、ラッキー・ボールドウィンの所有するサンタアニタ牧場で老衰のため他界しました。この著名な馬が生涯を終えた際には次のような光景が見られました。彼が死んだ事が告げられると、サンタアニタパーク競馬場で働いていた競馬関係者が一斉にボールドウィンステーブルに集まり、それはまるで一国の王が家臣に囲まれながら息を引き取ったかのようでした」と伝えたという。遺体はボールドウィン氏所有の牧場に埋葬されたが、後にサンタアニタパーク競馬場に改葬された。1988年に米国競馬の殿堂入りを果たした。
本馬の直系子孫は20世紀末頃まで辛うじて生き残っていたが、21世紀になった現在では完全に滅亡しているようである。しかし本馬の牡駒アメリカスを経由して本馬の血は後世に大きな影響力を残している。アメリカスは現役時代にレイデルカレラ(又はレイデルカレダス)という名前で米国で走り、135ポンドを背負いながら距離6ハロンのカルバーHを勝った快速馬だった。後にボールドウィン氏からリチャード・クロッカー氏に4万ドルで売られて英国に移動し、アメリカスと改名されて複数のステークス競走に勝利した。英国で種牡馬となったアメリカスは牝駒アメリカスガールを出し、アメリカスガールの娘レディジョセフィンからはムムタズマハルが出て、本馬の血は世界中に広がる事となった。