ブランドフォード

和名:ブランドフォード

英名:Blandford

1919年生

黒鹿

父:スウィンフォード

母:ブランシュ

母父:ホワイトイーグル

幼少期から続いた不運を英ダービー馬を4頭出すなど種牡馬としての大活躍で払拭した2度の世界大戦間における愛国の誇る大種牡馬

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績4戦3勝2着1回

競走馬としては大成できなかったが種牡馬として大成功を収め、後世に大きな影響力を保ち続けるという点において、後のミスタープロスペクターダンチヒと比較される、2度の世界大戦間における愛国の誇る大種牡馬。

誕生からデビュー前まで

愛国キルデア州にあったタリースタッドにおいて、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐により生産された。第二次世界大戦後に愛ナショナルスタッドとなったタリースタッドの設計に携わったのは、あまり知られていないが日本人建築家の飯田三郎氏と息子の飯田実氏の両名であり、現在でも愛ナショナルスタッドには日本庭園、茶室、滝と小川と橋が残っており、愛国にいながらにして日本文化を味わえる環境となっている。

醸造家の一族に生まれて事業拡大に成功したウォーカー大佐は当時の英国を代表する名馬産家でもあり、本馬の伯母に当たる英1000ギニー・英オークス馬チェリーラスや、英1000ギニー馬ウィッチエルム、英2000ギニー・英ダービー馬ミノル、英セントレジャー・アスコット金杯2回・エクリプスSなどの勝ち馬プリンスパラタイン、英セントレジャー馬ナイトホークなど、数多くの名馬を誕生させていた。しかしウォーカー大佐は生産した馬の誕生日に基づいた占星術でその馬の能力を見定めるという迷信深い一面もあり、その方法は彼にとって完全に失敗でしたと一部では酷評されている。素晴らしい馬体の持ち主だったために手元に置いておくつもりだったプリンスパラタインを間違って売却した理由も、プリンスパラタインの誕生日が占星術的に悪かったため、同日に産まれた馬を一括して売ろうとした際に、プリンスパラタインを除外するように代理人にきちんと指示していなかったためであるらしい。もっとも、ウォーカー大佐は英国王エドワードⅦ世にミノルをリースして、エドワードⅦ世を在位中の英国王として史上唯一の英ダービー馬主にした実績があり、英国王室からは高く評価されていた。後に世界競馬史上に名を残す名馬産家となるアガ・カーンⅢ世殿下を競馬界に引き入れたのも、他ならぬウォーカー大佐であったらしい。

また、第一次世界大戦中に優秀な騎兵隊を編成する必要があると考えたウォーカー大佐は、自身が所有していた優秀な種牡馬や繁殖牝馬(約37万ポンド相当)を英国政府に寄贈した。それに感謝した英国政府は後になって、ウォーカー大佐が所有していたタリースタッドなどの牧場を総額32万5千ポンドで購入したため、タリースタッドは英国立牧場となった。さらに英国王室はウォーカー大佐にウェバートリー卿の位を授けた。本馬を産んだ際に母ブランシュは既に英国政府に寄贈された後だったが、そのままタリースタッドで繁殖生活を送っていた。

本馬の父スウィンフォードは大柄な馬体で知られていたが、本馬は脚が短くて背が低かった。しかも右前脚が曲がっており、両前脚の長さが違うという、競走馬としては致命的とも言える脚部不安を抱えていた。しかも本馬の幼少期は不幸なエピソードばかりであった。まずは産まれて間もなく牧場の木柵によじ登って転落して大怪我を負った。その傷が癒えた頃に今度は肺炎を患って生死の境を彷徨った。さらに1歳時にはどういうわけかタリースタッドに迷い込んできた馬車馬に近づいたところ、全身を噛み付かれて瀕死の重傷を負った。タリースタッドの運営を任されていた英国の政治家ハリー・グリア卿は、悲惨な状態が続く本馬を獣医に贈ろうとしたが、獣医は要らないと断った。そして英国クラシック登録も行われなかった。

1歳時のジュライセールに上場される予定だったが、馬車馬に噛み付かれた怪我が治癒し切らなかったため見送りとなり、12月のディセンバーセールに上場された。このセールで、サミュエル・ドーソン氏と、リチャード・セシル・“ディック”・ドーソン調教師(数年前に20世紀最後の牝馬の英ダービー馬フィフィネラを管理していた)の兄弟により720ギニーで購入された。この720ギニーという価格はディセンバーセールにおける平均取引価格の3倍以上だったが、ディセンバーセールに出品される馬は、ジュライセールで売れなかった安馬が中心であるから、本馬の取引価格が取り立てて高額だったわけではない。しかしドーソン兄弟は、脚部不安を補って余りあるほどの潜在能力を感じて本馬を購入したのだという。

ドーソン師が厩舎を構えていた英国バークシャー州ワットコムに移動した本馬は、ワットコムの近郊にあった古い市場町であるブランドフォード・フォーラム村と、両親の馬名からの連想によってブランドフォードと命名された。そして所有者のドーソン師自身による調教が施された。ドーソン師は試しにマルヴァという同世代の牝馬と本馬を一緒に試走させてみた。本馬にはマルヴァより23ポンド重い斤量が課せられていたのだが、既にレースで勝ち星を挙げていたマルヴァと互角の走りを見せた。ちなみにマルヴァは後に本馬との間に英ダービー馬ブレニムやコロネーションC勝ち馬ヒズグレイスを産み、本馬の血が後世に広まるのにも大きく貢献することになる。

競走生活

本馬の公式戦デビューは、2歳6月にニューベリー競馬場で行われたケンネットプレート(T5F)だった。レースでは先行して残り2ハロン地点で先頭に立ち、2着スキャンプに3/4馬身差で勝利した。スキャンプはこの年のニューSやジムクラックSを勝つ同世代トップクラスの2歳馬だった。アスコット競馬場に移動して出走した1週間後のウィンザーキャッスルS(T5F)では、スタートから先頭を走り続けてそのまま逃げ切ろうとした寸前で膝に痛みが走り、バランスを崩した隙を突かれてアラリックに差されて首差2着に敗れた。その後ドーソン師は本馬を治療に専念させる事にしたため、2歳時は2戦1勝の成績に終わった。それでも2歳馬フリーハンデでは、121ポンドの評価が与えられた。これは、英シャンペンS・ミドルパークSを制した牝馬ゴールデンコーンの126ポンドからは5ポンド低かったが、スキャンプ、コンドーヴァー、ポリヒストールといった同世代の有力牡馬勢と並ぶ評価だった。

英国クラシック登録は無かったために、復帰を急ぐ必要は無く、公式戦に戻ってきたのはウィンザーキャッスルSから10か月以上も経った3歳4月の事であった。復帰初戦はハーストパーク競馬場で行われたパラダイスS(T10F)だった。ここでは後に愛2000ギニー・愛ダービーを勝つ事になるジュライS2着馬スパイクアイランドという実力馬が対戦相手となったが、本馬が2着キャプテンフラカスに首差で勝利を収めた(スパイクアイランドが2着だったとする資料が多いが、実際にはスパイクアイランドは3着だった)。

その後も脚部の様子を伺いながらレース出走の機会を待っていた本馬を、ドーソン師は試しに同厩の4歳馬フランクリンと試走させてみた。前年のハードウィックSを勝っていたフランクリンは、次走のコロネーションCや秋の英チャンピオンSを勝つ馬であり、紛れも無く当時英国トップクラスの古馬だったが、本馬はフランクリンと互角の走りを見せた。

本馬の公式戦4戦目は、7月のプリンセスオブウェールズS(T12F)となった。古馬相手のレースだったが、フランクリンと互角に戦っていた本馬の敵になるような有力馬はおらず、2着となったこの年のクレートジュビリーHの勝ち馬シルヴァーイメージに2馬身差をつけて完勝した。しかしこの直後に両前脚に屈腱炎を発症。ドーソン師がいつかは本馬で撃破してやろうと考えていた同世代の英ダービー馬キャプテンカトルとは会わず終いとなった。ドーソン師は諦めずに翌年まで本馬の治療を試みたが、結局復帰は断念され4歳時に競走馬引退となった。

血統

Swynford John o'Gaunt Isinglass Isonomy Sterling
Isola Bella
Dead Lock Wenlock
Malpractice
La Fleche St. Simon Galopin
St. Angela
Quiver Toxophilite
Young Melbourne Mare
Canterbury Pilgrim Tristan Hermit Newminster
Seclusion
Thrift Stockwell
Braxey
Pilgrimage The Palmer Beadsman
Madame Eglentine
Lady Audley Macaroni
Secret
Blanche White Eagle Gallinule Isonomy Sterling
Isola Bella
Moorhen Hermit
Skirmisher Mare
Merry Gal Galopin Vedette
Flying Duchess
Mary Seaton Isonomy
Marie Stuart
Black Cherry Bendigo Ben Battle Rataplan
Young Alice
Hasty Girl Lord Gough
Irritation
Black Duchess Galliard Galopin
Mavis
Black Corrie Sterling
Wild Dayrell Mare

スウィンフォードは当馬の項を参照。スウィンフォードの父ジョンオゴーントも重度の脚部不安を抱えており、本馬の脚部不安は祖父の隔世遺伝だと言われている。

母ブランシュ(馬名は本馬の祖父ジョンオゴーントの馬名の由来となったランカスター伯爵ジョン・オブ・ゴーント卿の第一夫人に由来する)は、チェリーラス(父アイシングラス)【英1000ギニー・英オークス・セントジェームズパレスS・ナッソーS】、ブラックアロー(父コートショーンベルク)【セントジェームズパレスS・コヴェントリーS】の半妹に当たる良血馬だった。そのためにウォーカー大佐の期待は大きく、ブランシュを英オークスやチェヴァリーパークSなどの大競走に出し続けた結果、ブランシュは現役成績10戦着外に終わってしまった。

ブランシュは12頭の子を産み、本馬や本馬の半弟シルヴァーハッサー(父シルヴァーン)【ジョンポーターS】など6頭が勝ち上がっている。また、本馬の半妹ナンズヴェイル(父フライアーマーカス)の孫にはサンチャリオット【英1000ギニー・英オークス・英セントレジャー・ミドルパークS】、曾孫にはカロッツァ【英オークス】、玄孫世代以降には、サンタクロース【英ダービー・愛ダービー・愛2000ギニー】、フィールドダンサー 【イースターH(新GⅠ)・テレビジョンニュージーランドS(新GⅠ)】、ヘレナス【コーフィールドギニー(豪GⅠ)・ヴィクトリアダービー(豪GⅠ)・ローズヒルギニー(豪GⅠ)】、日本で走った独眼竜キョウエイレア、皇帝シンボリルドルフの好敵手ビゼンニシキなどがいる。また、本馬の半妹メイデンズチョイス(父ミスタージンクス)の牝系子孫には、アスカの名前で出走した皐月賞で後の五冠馬シンザンの2着に入ったエイコウザン【川崎記念】がいる。

ブランシュの半姉ジーンズフォリー(父エアシャー)の子にはナイトホーク【英セントレジャー】、牝系子孫には、グレイモナーク【サラトガスペシャルS】、シャーラック【ベルモントS・ブルーグラスS・ローレンスリアライゼーションS】、エルセンタウロ【カルロスペレグリーニ大賞】、ピーシズオブエイト【エクリプスS・英チャンピオンS】、ピンクピジョン【アメリカンH・サンタバーバラH・アーリントンメイトロンH】、カロ【仏2000ギニー・イスパーン賞・ガネー賞(仏GⅠ)】、グレイヴラインズ【ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】、ティラー【サンアントニオH(米GⅠ)・サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)】、シャーラスタニ【英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)】、ゴールデンフェザント【ジャパンC(日GⅠ)・アーリントンミリオンS(米GⅠ)】、ルアー【BCマイル(米GⅠ)2回・シーザーズ国際H(米GⅠ)】、ゴールドエース【ライトニングS(豪GⅠ)・ザギャラクシー(豪GⅠ)・サリンジャーS(豪GⅠ)】、メディシアン【ロッキンジS(英GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)】、タピッツフライ【ジャストアゲームS(米GⅠ)・ファーストレディS(米GⅠ)】、ボバン【ザスターエプソム(豪GⅠ)・エミレイツS(豪GⅠ)・チッピングノートンS(豪GⅠ)・ドゥーンベン10000(豪GⅠ)・メムジーS(豪GⅠ)】、日本で走ったコンサートボーイ【帝王賞(GⅠ)】などがいる。ブランシュの全姉マウンテンイーグルの子にはマウントロイヤル【グッドウッドC】がいる。

ブランシュの母ブラックチェリーの半弟には名種牡馬ベイロナルドが、ブラックチェリーの半妹ブラックベルベットの玄孫には米国の歴史的名馬アームド【ピムリコスペシャル・ワイドナーH2回・ディキシーH・サバーバンH・ワシントンパークH2回・ガルフストリームパークH・スターズ&ストライプスH・アーリントンH】、牝系子孫には名種牡馬リローンチタピット【ウッドメモリアルS(米GⅠ)】がいる。→牝系:F3号族②

母父ホワイトイーグルもウォーカー大佐の生産馬で、現役成績27戦12勝。サセックスS・ナショナルブリーダーズプロデュースS・ウッドコートS・シティ&サバーバンH・デュークオブヨークS・アトランティックSなどを勝ち、英セントレジャーとコロネーションCで2着、英2000ギニーで3着など堅実な走りを見せた。ブランシュと同じく、ウォーカー大佐から英国政府に寄贈されていたが、タリースタッドでそのまま種牡馬生活を送っていた。種牡馬としても活躍したが、むしろ繁殖牝馬の父としての評判のほうが高く、英2000ギニー馬フラミンゴなども出している。ホワイトイーグルの父ガリニュールはプリティポリーの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、1924年から愛国ダブリン郊外にあるクローランスタッドで種牡馬生活を開始した。このクローランスタッドは本馬の所有者ドーソン兄弟が所有する牧場だった。初年度の種付け料は148ギニーに設定されたが、本馬が重度の脚部不安を患っていた事を知る馬産家からの評価は低く、不人気種牡馬だった。しかも交尾意欲が低く、受精率も良くなかったため、普通であればこのまま歴史の中に埋もれていくはずだったのだが、1929年に初年度産駒のアスフォードがドンカスターCを、2年目産駒のトリーゴーが英ダービーや英セントレジャーを勝利。そして3年目産駒のブレニムが1930年の英ダービーを制して2年連続の英ダービー種牡馬となると評価が一変して人気種牡馬となった。最終的な種付け料は400ギニーとなった。

さて、今まで本項ではアイルランドの事を愛国と表記してきたが、本馬が誕生する直前のアイルランドは正式な独立国家ではなく英国の植民地であった。1916年に勃発した愛国の独立運動イースター蜂起は英国軍により鎮圧され首謀者の大半は処刑されたが、本馬が誕生した年である1919年にアイルランド独立戦争が発生し、1922年に北アイルランドを除く部分がアイルランド自由国として独立した。その後もしばらくは英国の支配下にあったが、1931年になってようやく英国と対等である完全な独立国家となった。翌1932年に、イースター蜂起を生き延びてアイルランド独立運動を指揮してきたエイモン・デ・ヴァレラ氏が愛国の政権を握ると、愛国と英国間で取引される物品に重い関税が賦課されるようになった。それは、愛国と英国の間を行き来する繁殖牝馬や競走馬も例外ではなく、これによって英国の優秀な繁殖牝馬が愛国にいた本馬の元に集まらなくなる事を懸念したドーソン兄弟は、1933年に本馬をクローランスタッドから、かつてドーソン師が本馬を調教した英国ワットコムステーブルに移動させた。

1934年には3頭目の英ダービー馬ウインザーラッドや愛ダービー馬プリメロなどの活躍で最初の英愛首位種牡馬を獲得した。しかし翌1935年4月に本馬は重度の肺炎を患ってしまった。かつて幼少期に同じ肺炎を含む数々の苦難を乗り越えてきた本馬だったが、今度の肺炎は殊のほか重度であり、発病から僅か2日後の4月24日に16歳で他界し、ワットコムステーブルに埋葬された。この1935年には4頭目の英ダービー馬である英国三冠馬バーラムなどの活躍により2度目の英愛首位種牡馬を獲得しただけでなく、仏国の歴史的名馬ブラントーム、ブラントームに次ぐ史上2頭目の仏国2歳三冠馬ミストレスフォードなどの活躍により仏首位種牡馬をも獲得しており、種牡馬として脂が乗り切った時期の急逝だった。死後3年目の1938年には英2000ギニーやエクリプスSを制したパスクなどの活躍により3度目の英愛首位種牡馬を獲得した。産駒の英ダービー勝利数4勝は、サーピーターティーズルサイリーンモンジューと並んで史上最多記録タイである。

本馬の産駒は2歳戦から活躍できる仕上がり早いスピードと、長距離戦でも活躍できる重厚なスタミナ能力を併せ持ち、英愛仏3か国のクラシック競走で大活躍した。本馬の所有者だったドーソン師は、アガ・カーンⅢ世殿下の専属調教師などを務めながらも本馬の種付け料から毎年2万ポンドの収益を得ていたため、「百万長者の調教師」と呼ばれていたが、本馬の死と前後して調教師としての成績が降下していった。本馬が他界した時点で既に彼も70歳の高齢だったのが本当の理由なのだろうが、因縁めいている。

後世に与えた影響

本馬の後継種牡馬としてはブレニムが最も成功を収めて直系を伸ばし、自身の種牡馬成績はそれほどでも無かったバーラムやブラントームも直系を伸ばす事には成功して、ブランドフォード系と呼ぶべき独自の系統を形成するに至った(〇〇系という表現が用いられるのは専ら日本であり、海外ではあまり〇〇系という表現は用いられないのだが、本項ではあえて使用する。この名馬列伝集の他の箇所でも時々使用している)。日本にも直子のアスフォード、プリメロ、ステーツマンが種牡馬として輸入された。小岩井農場が輸入したプリメロはミナミホマレ、トサミドリ、クリノハナ、クモノハナ、トキツカゼなど数多くの名馬の父となった。社台牧場が輸入したステーツマンも、天皇賞春を制したレダを筆頭とする多くの活躍馬を出した。また、日本では二冠馬コダマが本馬の3×4のインブリードという俗に言う「奇跡の血量」を有していた事から、本馬の3×4のインブリードが一時期流行した。しかし日本において、本馬の直系が生き長らえることは無かった。1970年に日本に輸入されたリマンド(ブレニムの直系)が種牡馬として活躍したが、やはりその後は続かず20世紀中にはほぼ消滅した。

もっとも、ブランドフォード系が衰退したのは日本だけではなかった。ブランドフォード系からは世界各国で数々の優駿が出現したにも関わらず、重厚なスタミナ血統が近代のスピード競馬に合わなくなっていったのか、世界的にどんどん衰退していった。ブラントームの直系は20世紀中にほぼ途絶してしまい、ブレニムの直系から登場した英ダービー馬シャーミットが種牡馬として殆ど活躍できないまま2001年に早世したときには、筆者はブランドフォード系の終焉を覚悟した。ところがどっこい、独国で生き残っていたバーラムの直系から独国の誇る世界的名種牡馬モンズーンが出現して、21世紀にブランドフォード系を華麗に復活させてくれた。モンズーンの代表産駒の1頭ノヴェリストは2014年から日本の社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始している。日本において数々の名馬が登場しながら20世紀中にはいったん絶滅したブランドフォード系をノヴェリストが日本に蘇られる事が出来るのか、注目していきたいところである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1925

Athford

ドンカスターC

1926

Trigo

英ダービー・英セントレジャー・愛セントレジャー

1927

Blenheim

英ダービー・ニューS

1927

Blue Skies

サラマンドル賞

1927

Filarete

フォルス賞・マレショー賞

1928

Blenheim

ブルックリンH

1928

Pisa

チャイルドS

1928

Unlikely

クイーンアンS

1929

Bulandshar

チェスターヴァーズ

1929

Udaipur

英オークス・コロネーションS

1930

Armoise

ロワイヤリュー賞

1930

Harinero

愛ダービー・愛セントレジャー・グリーナムS

1930

Madagascar

クイーンアンS

1931

Badruddin

サセックスS

1931

Blazonry

英シャンペンS

1931

Brantome

凱旋門賞・仏2000ギニー・ロベールパパン賞・モルニ賞・仏グランクリテリウム・リュパン賞・ロワイヤルオーク賞・カドラン賞・プランスドランジュ賞

1931

Campanula

英1000ギニー

1931

Dalmary

ヨークシャーオークス

1931

Kyloe

愛1000ギニー・レイルウェイS

1931

Mrs. Rustom

デューハーストS・ジムクラックS

1931

Primero

愛ダービー・愛セントレジャー

1931

Reine Isaure

ヴァントー賞

1931

Umidwar

英チャンピオンS・ジョッキークラブS

1931

Windsor Lad

英ダービー・英セントレジャー・コロネーションC・エクリプスS・チェスターヴァーズ

1931

Zelina

ナッソーS・グリーナムS

1932

Ankaret

コロネーションS

1932

Bahram

英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・ミドルパークS・ジムクラックS・セントジェームズパレスS

1932

Bokbul

ロワイヤルオーク賞・ラクープ・グラディアトゥール賞

1932

Hindoo Holiday

クイーンアンS

1933

Bala Hissar

デューハーストS

1933

His Grace

コロネーションC

1933

Isolater

マンハッタンH・ギャラントフォックスH・ブルックリンH・サラトガC2回

1933

Mistress Ford

ロベールパパン賞・モルニ賞・仏グランクリテリウム・仏オークス・ヴェルメイユ賞・アランベール賞・ロシェット賞

1935

Blandstar

リングフィールドダービートライアルS

1935

Pasch

英2000ギニー・エクリプスS

1935

Pound Foolish

プリンセスオブウェールズS

1935

Valedictory

ゴードンS

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