ファリス

和名:ファリス

英名:Pharis

1936年生

青毛

父:ファロス

母:カリシマ

母父:クラリッシマス

わずか3戦のキャリアながら今なお欧州最強クラスの名馬と言われ種牡馬としても良績を残した第二次世界大戦前夜の仏国の英雄

競走成績:3歳時に仏で走り通算成績3戦3勝

第二次世界大戦の影響で僅か3戦のキャリアだったが、仏国史上最強クラスの名馬として現在でも高く評価されている1頭。

誕生からデビュー前まで

仏国の名馬産家マルセル・ブサック氏により、仏国フレネー・ル・ビュファール牧場において生産・所有された。成長すると体高16.2ハンドに達した当時としては大柄な馬で、バランスが取れた肩の傾斜や強靭な下半身を有していた。ただし少し膝が曲がっているのが唯一の欠点だったという。また、「まるでカラスのように黒い」と評された漆黒の黒鹿毛馬(青毛とする意見もある)だった。ブサック氏の牧場マネージャーによると、性格は極めて物静かだったが、少々悪戯好きな面もあり、水の入った桶を噛み壊そうとしたために、慌てて桶を遠ざけた事もあったという。管理調教師は、本馬の1歳年下であるジェベルなども手掛けることになる英国出身のアルバート・スワン師で、3戦全てで英国出身のチャーリー・エリオット騎手が手綱を取った。その体格の大きさから仕上がりが遅く、2歳時には1度も走らなかった。

競走生活

3歳5月のノアイユ賞(T2400m)でようやくデビューを迎えた。スタートに失敗して後方からのレースとなったが、最後は強烈な末脚を繰り出して、1番人気に支持されていたフォックスハウンド以下をごぼう抜きにして、2着ガレリアに2馬身半差で勝利した。

翌6月に出走した仏ダービー(T2400m)では1番人気となった。雨が降りしきる重馬場でレースは行われた。まずは本馬のペースメーカー役だったホラティウスが先頭に立ったのだが、肝心の本馬はまたもスタートで出遅れて最後方からのレースとなってしまっていた。そのままの態勢で直線に入ってくると、ようやく追い上げてきたが、ここで他馬に進路を塞がれる不利があった。しかし本馬は驚くべき機敏さで進路を切り替えると、馬群の中をするすると上がり、最後は2着ガレリアに2馬身半差をつけて勝利した。

それから2週間後には、当時欧州最大級のレースだったパリ大賞(T3000m)に出走した。今回も雨のために重馬場でレースが行われていた。まずはホラティウスが先頭を引っ張り、本馬は例によって最後方を追走した。しかしスタートから400mほど走ったところで、本馬と一緒に馬群の中を走っていた他馬が本馬の膝に接触した。本馬はバランスを崩し、エリオット騎手は落馬寸前という状態となった。それでもなんとか体勢を立て直して、そのままレースを続行した。そして直線に入ってきたが、残り400m地点でも、先頭を走るクリテリウムドサンクルーの勝ち馬トリカメロンとの差は10馬身もあった。ところがここでロンシャン競馬場の直線に雷が走った。いや、本当に雷が鳴ったのではなく、本馬が繰り出した豪脚に対する比喩である。「まるで羽が生えたかのように」加速した本馬は、瞬く間に先頭まで突き抜けると、そのまま2着トリカメロンに2馬身半差をつけて勝利した。この衝撃的なレースにより、本馬は19世紀仏国最強馬グラディアトゥールの再来であると讃えられた。また、ブサック氏にとっては念願のパリ大賞初勝利となった。

本馬のあまりの強さに、同年の英2000ギニー・英ダービーの勝ち馬ブルーピーターとの、英セントレジャーにおける対戦が熱望された。そして本馬は実際に渡英したのだが、その直後の9月1日になってナチスドイツ軍がポーランドに侵攻。9月3日にポーランドの同盟国であった英国と仏国が独国に宣戦布告して第二次世界大戦が勃発した。その影響で英国競馬や仏国競馬は大きく縮小され、英セントレジャーや凱旋門賞は中止。結局ブルーピーター共々2度とレースに出ることなく、そのまま引退を余儀なくされた。

競走馬としての評価

本馬が走った3戦は全て不利があり、会心のレースと言えるものは無かった。それでも最後には必ず完勝を収める姿が、当時の戦争前夜という雰囲気が暗い影を落としていた仏国の国民に希望を与え、国民的英雄として讃えられた。英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏とジョン・ランドール氏が1999年に出した“A Century of Champions”の平地競走馬部門において本馬には141ポンドのレーティングが与えられており、これは仏国調教馬ではシーバードに次ぐ2位、20世紀世界各国の競走馬全体でも第8位という高評価である。

血統

Pharos Phalaris Polymelus Cyllene Bona Vista
Arcadia
Maid Marian Hampton
Quiver
Bromus Sainfoin Springfield
Sanda
Cheery St. Simon
Sunrise
Scapa Flow Chaucer St. Simon Galopin
St. Angela
Canterbury Pilgrim Tristan
Pilgrimage
Anchora Love Wisely Wisdom
Lovelorn
Eryholme Hazlehatch
Ayrsmoss
Carissima Clarissimus Radium Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Taia Donovan
Eira
Quintessence St. Frusquin St. Simon
Isabel
Margarine Petrarch
Margarita
Casquetts  Captivation Cyllene Bona Vista
Arcadia
Charm St. Simon
Tact
Cassis  Morion Barcaldine
Chaplet
Domiduca Isonomy
Jenny Spinner

ファロスは当馬の項を参照。

母カリシマもブサック氏の所有馬で、マルレ賞・ミネルヴ賞・サブロンヴィル賞に勝ち、仏オークスで2着している。繁殖牝馬としては本馬を含めて12頭の子を産み、そのうち8頭が勝ち上がっている。本馬以外に特筆できる活躍を見せた子はいないのだが、晩年は第二次世界大戦の影響により英国で繁殖生活を送っており、戦争の影響さえなければ、カリシマの子はもっと活躍できた可能性はある。本馬の半姉カプリフォーリア(父アステリュー)の牝系子孫には日本で走ったチアズアトム【フェブラリーS(GⅡ)】、ゼンノパルテノン【東京スプリント(GⅢ)】、アドマイヤキッス【ローズS(GⅡ)・チューリップ賞(GⅢ)・愛知杯(GⅢ)・京都牝馬S(GⅢ)】、パッションダンス【新潟大賞典(GⅢ)・新潟記念(GⅢ)】などが、本馬の半妹トリシマ(父トウルビヨン)の孫にはオールデンタイムズ【サンパスカルH2回・メトロポリタンH・マリブS・サンアントニオH・サンフアンカピストラーノ招待H】が、本馬の半妹リベラシオン(父バーラム)の子にはエンペラー【ロベールパパン賞・デューハーストS】、エルペナー【アスコット金杯・カドラン賞・リューテス賞】がいる。カリシマの半妹カスタネット(父サルダナパル)の子にはセシアス【モルニ賞】、孫にはニルガル【ロベールパパン賞・モルニ賞・仏グランクリテリウム・ハードウィックS・プリンセスオブウェールズS・ガネー賞】がいる。→牝系:F20号族①

母父クラリッシマスは現役成績6戦3勝。英2000ギニー・英チャンピオンS・クリアウェルSの勝ち馬。現役引退後は英国で種牡馬入りしていたが、供用僅か3年で仏国に転売された。種牡馬としては大きく成功したわけではないが、母父としては本馬の他にドナテロやブラントームを出して後世に大きな影響を与えた。クラリッシマスの父ラディウムはベンドア直子で現役成績24戦10勝。ドンカスターC・グッドウッドC・ジョッキークラブC2回を勝った長距離馬だった。種牡馬としてはクラリッシマス以外に特筆できる産駒はいないが、豪州の歴史的名馬ファーラップの父ナイトレイドの父である。また、米国三冠馬ギャラントフォックスの祖母の父でもある。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、翌1940年から生まれ故郷のフレネー・ル・ビュファール牧場で種牡馬生活を開始した。ところが初年度の繁殖シーズン終了直後の6月、ベネルクス三国を突破して仏国に電撃侵攻してきたナチスドイツ軍により接収された本馬は、そのまま独国へ連れ去られてしまった。そして1945年までドイツ陸軍が所有する国立牧場で繋養された。

本馬が独国にいる間に、本馬が仏国に残してきた初年度産駒が大活躍。1943年にはアルダンやプリアムの活躍で仏2歳首位種牡馬に、アルダンが仏ダービーや凱旋門賞などを制した翌1944年には1世代の産駒だけで仏首位種牡馬を獲得した。一方、独国でも独ダービー・独オークスを制したアステルブリューテを出したが、競走馬ではなく軍馬として使役されたり、戦火に巻き込まれて非業の死を遂げたりした産駒も多かったようで、他に目立った活躍馬は出せなかった。また、本馬の所有者ブサック氏は、独国に対する報復措置として、独国供用時代の本馬の産駒に関する出生証明書に署名する事を拒否し、この結果独国で誕生した本馬の産駒は血統登録されない事になってしまい、本馬の血が後世に伝わる障害となってしまった。

1945年に独国が降伏して欧州における戦争が終結すると、ブサック氏はすぐに本馬を仏国に連れ戻した。そして本馬は再度フレネー・ル・ビュファール牧場で種牡馬生活を再開した。そしてその後も多くの活躍馬を送り出した。公式に仏首位種牡馬になったのは結局1944年の1度だけであり、戦後の仏種牡馬ランキングでは3位が4回、4位が1回であった。しかしそれは本馬の産駒には仏国より高い賞金を求めて英国で活躍した馬も多く、この仏種牡馬ランキングには英国における賞金が含まれていないからである。仏国外における賞金も加算すると、本馬は1950~52年に仏首位種牡馬に輝いている計算になる。産駒には少なくとも37頭のステークスウイナーがいるとされる(資料によっては47頭)。母父首位種牡馬には縁が無かったが、1955・56年の2度、仏国の母父ランキングで2位になっている。本馬は1957年2月に21歳で波乱に満ちた生涯を終えた。本馬は第二次世界大戦さえなければ、さらに偉大な競走馬・種牡馬となれたであろう逸材であった。

後世に与えた影響

本馬の後継種牡馬としては、アルダンとパーダルの2頭が成功した。しかし本馬の直系種牡馬は仏国外においても大人気であり、英国、米国、伊国、南米、豪州、新国、南アフリカ、そして日本にも相次いで輸入された。そのために肝心の仏国で本馬の直系が途絶えてしまうという結果を招いた。パーダルの直系からは英ダービー馬スノーナイトが出たが、その後が続かず直系は断絶。一方、アルダンの直系は、直子ハードソースを経由する血統が後世に続いた。特にこの系統を好んだのは日本であり、ハードソースの直子ハードリドン、ハーディカヌート、ハードツービートと3代連続して日本に種牡馬として輸入された。ハードツービートの直系は途絶えたが、ハードリドンの代表産駒の1頭である東京優駿勝ち馬ロングエースから、世にも稀な白毛馬ハクタイユーが出て、この珍しい毛色を残すためだけに種牡馬入りしており、21世紀になった現代でも本馬の直系を僅かながら繋いでいる。しかし世界的に見て、本馬の直系は殆ど残っていないのが現状である。母の父としては日本の名種牡馬パーソロンを出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1941

Ardan

凱旋門賞・仏ダービー・ロベールパパン賞・リュパン賞・サンクルー大賞・コロネーションC・オカール賞・ギシュ賞・グレフュール賞・ボイアール賞・エドヴィル賞・ケルゴルレイ賞2回

1941

Palencia

仏1000ギニー・ヴァントー賞

1941

Pharelle

フィユドレール賞

1941

Priam

仏グランクリテリウム・ジャックルマロワ賞・イスパーン賞・アルクール賞・ラクープドメゾンラフィット・ハードウィックS

1945

Phydile

ポモーヌ賞・フロール賞

1946

Asterblute

独ダービー・独オークス・独1000ギニー

1947

Blue Kiss

ポモーヌ賞

1947

Corejada

仏1000ギニー・愛オークス・チェヴァリーパークS・ロウザーS

1947

Corseira

ペネロープ賞

1947

Janus

ジャンプラ賞・ロシェット賞

1947

Pardal

プリンセスオブウェールズS・ジョッキークラブS

1947

Scratch

仏ダービー・英セントレジャー・ジャンプラ賞・ギシュ賞・グレフュール賞

1948

Catumbo

サラマンドル賞

1948

Cortil

ジムクラックS

1948

Dynamiter

イスパーン賞・英チャンピオンS2回・ハードウィックS

1948

Monrovia

ロワイヨモン賞・ロワイヤリュー賞

1948

Pharas

リス賞

1948

Pharsale

ロベールパパン賞・フォレ賞・ラクープドメゾンラフィット2回

1948

Stymphale

ロワイヤルオーク賞・エスペランス賞

1948

Talma

英セントレジャー・カンバーランドロッジS

1949

Amphis

ヴィシー大賞

1949

Aram

フォルス賞

1949

Auriban

仏ダービー・ロベールパパン賞・モルニ賞・オカール賞

1949

Pareo

プティクヴェール賞・クロエ賞

1949

Pharad

クリテリウムドメゾンラフィット

1949

Pharaos

フォレ賞

1949

Shaker

ヴィシー大賞

1950

Adarca

ペネロープ賞

1950

Faublas

ノアイユ賞・ダフニ賞

1951

Albanilla

クリテリウムドメゾンラフィット

1952

Fakahina

エクリプス賞

1953

Philius

仏ダービー

1956

Floriana

クリテリウムドメゾンラフィット

1956

Phigalia

フロール賞

1957

Arbela

フィユドレール賞

1957

Atrax

トーマブリョン賞・キングエドワードⅦ世S

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