ジムクラック

和名:ジムクラック

英名:Gimcrack

1760年生

芦毛

父:クリップル

母:ミスエリオット

母父:グリーズウッズパートナー

小柄な芦毛の馬体で次々と強豪馬を打ち負かした事で人気を博した18世紀における元祖芦毛のアイドルホース

競走成績:4~11歳時に英仏で走り通算成績36戦27勝2着7回3着1回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

英国でギデオン・エリオット氏により生産された。両親から受け継いだ芦毛の馬体を有していた。また、非常に小柄な馬で、成長しても体高は14ハンドから14.16ハンド程度だったという。グリーン氏という人物の所有馬となり、4歳時にエプソム競馬場でデビューした。

競走生活(4・5歳時)

デビュー戦の50ポンドプレートではアンテロープという馬を破って勝利した。その後は主に2マイルか4マイルのヒート競走を走り、ギルフォード、ウィンチェスター、ベッドフォード、バーネット、リーディング、バーフォードといった馬達を負かし続けた。また、当時のトップホースだったハザード、ラスオブザミル、レディサイといった馬達も撃破し、4歳時は7戦全勝の成績を誇った。4歳の暮れに、エクリプスの最初の所有者としても知られるウィリアム・ウィルドマン氏に購入された。

5歳時はひたすら4マイル以上のレースを走り続ける。春にニューマーケット競馬場で行われたレースで、プロフェット、トレジャーといった相手を破って勝利した。その後すぐに英国ジョッキークラブ事務長だった第2代ボーリングブローク卿フレデリック・セント・ジョン氏により購入され、セリムとの500ギニーマッチレースに出て勝利した。その後もニューマーケット競馬場で走り、2度行われた1000ギニーのマッチレースで、ロケット、アスカムという馬をそれぞれ破って勝利した。10月にはドローンとの500ギニーマッチレースに勝利したが、2日後に出走したベイメルトンとの500ギニーマッチレースで敗れてしまい、生涯初の黒星を喫した。このレースの後、本馬はローラック公爵ルイ・レオン・フェリシテ・デ・ブラン卿により購入されて仏国に移動した。5歳時の成績は6戦5勝だった。

競走生活(6~8歳時)

仏国では22マイル半(≒36.2キロメートル)を走るタイムトライアルレースに出て1時間を切るタイムで走り抜け、勝利馬として認められた。しかしこの行為が英国のマスコミにより大きく非難されたため、6歳時はこの1戦のみで英国に戻ってきた。

7歳時は5歳時以前の無敵の快進撃という訳にはいかず、7戦して4勝の成績だった。それでもセリムとの再戦で勝利するなど、その実力はまだ確かなものだった。

8歳時にはエプソム競馬場とアスコット競馬場で1勝ずつを挙げ、ソールズベリー競馬場に移動して、シティアリバーボウル(又はシティフリープレート)という、後にエクリプスも勝利するレースに勝利した。この後に本馬は第6代准男爵トマス・チャールズ・バンベリー卿(後にエプソム競馬場における新設競走の名称を決める際に、第12代ダービー伯爵エドワード・スミス・スタンリー卿とコイントスをした人物。この結果次第では各国で行われているダービーと言う名称のレースは全てバンベリーという名称になっていたはずである)に購入された。バンベリー卿の所有馬となって最初に出走したレースではピルグリムの2着に敗れたが、ヨーク競馬場に移動して出走したグレートサブスクリプションパースは勝利し、8歳時の成績は5戦4勝となった。

競走生活(9~11歳時)

9歳時には本馬の芦毛の馬体は既に真っ白に近くなっていたが、それでも現役を続行。ニューマーケット競馬場で行われた50ポンドパースでカーディナルパフやベイメルトンを破って勝利した。その後300ギニーのマッチレースに2回出走し、ベイバーとのレースには勝利したが、5歳馬コスモスとのレースには敗れた。この敗戦時にバンベリー卿が多額の掛け金を失ったため、本馬は初代グローヴナー伯爵リチャード・グローヴナー卿に売却された。その後出走したジャッコとの300ギニーのマッチレースでは勝利した。その後は前年に続いてグレートサブスクリプションパースに出走したが、チャッツワースとトータスという2頭の馬に敗れた。9歳時の成績は5戦3勝。

10歳時も走り、春にニューマーケット競馬場で行われた200ギニーのレースでホイップを破って勝利した。7月に出走した50ポンドパースにおいてもピルグリムを破って勝利した。しかしジョッキークラブプレートではバンベリー卿の所有馬だったベラリオの5着に敗れ、生涯最初で最後の着外に終わった。10月に出走したレースでもベラリオの2着に敗れた。

11歳時も走り、春にニューマーケット競馬場で行われた50ポンドパースに出走して、ベラリオを破って勝利し雪辱を果たした。これが現役最後のレースとなった。

なお、本馬の競走成績については諸説あり、40戦30勝などの説もある。いずれにしても当時においてはかなりの実力馬だったようである。また、小柄な本馬が次々と当時の強豪馬を打ち負かす姿は、当時の競馬ファンの間でも評判になっており、1770年にヨークで設立された競馬クラブには本馬の名が冠された。本馬を一時期所有していたバンベリー卿のサラ夫人(後にバンベリー卿と英国史上に残る離婚騒動を起こす事になる)は、友人に送った手紙の中で「ニューマーケットで小さな可愛らしい馬が走る姿を見てきました。彼の名はジムクラックです。彼はとても魅力的です。」と書いている。また、本馬の馬名は現在ヨーク競馬場で行われている2歳戦ジムクラックSとして残されている。馬名は英語で「見掛け倒し」という意味である。

血統

Cripple Godolphin Arabian ? ? ?
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Godolphin Blossom Crab Alcock Arabian  ?
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Sister to Soreheels Basto
Sister One to Mixbury
Sister Three to Steady Flying Childers Darley Arabian 
Betty Leedes
Miss Belvoir Grey Grantham 
Paget Turk Mare
Miss Elliott Grisewoods Partner  Croft's Partner Jigg Byerley Turk
Spanker Mare
Sister One to Mixbury Curwen Bay Barb 
Curwen Spot Mare
Hutton's Grey Barb Mare  Hutton's Grey Barb  ?
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Whynot Mare  Whynot 
Wilkinson Turk Mare 
Caelia Croft's Partner Jigg Byerley Turk
Spanker Mare
Sister One to Mixbury Curwen Bay Barb 
Curwen Spot Mare
Grey Brocklesby  Bloody Buttocks  ?
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Brocklesby  Greyhound
Brocklesby Betty 

父クリップルはゴドルフィンアラビアン産駒。父としてよりも母父として優秀だったようである。

母ミスエリオットは本馬の生産者エリオット氏の所有馬だった。本馬の半姉マッチェムメア(父マッチェム)の牝系子孫からは、生涯無敗の名馬バーカルディン、米国顕彰馬にも選ばれている名障害競走馬フェアマウント、ケンタッキーダービー馬ポンダー、名長距離馬アルドロス、凱旋門賞とジャパンCで2着したヴェルメイユ賞の勝ち馬マジックナイト、BCディスタフの勝ち馬ジュエルプリンセス、ドバイワールドCの勝ち馬エレクトロキューショニストなどが出ている。当初は愛国の活躍馬が多く出ていたが、後に世界中に広がり、今世紀も続いている。→牝系:F23号族①

母父グリーズウッズパートナーは、遡ると(クロフツ)パートナー、ジグを経てバイアリータークに行きつく血統。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、グローヴナースタッドで種牡馬入りした。種牡馬としてはこれといった成績を残す事は出来ず、直系も伸びてはいないが、メドレーという牡駒と、ジムクラックスメア(「ジムクラックの娘」という意味の無名馬)という牝駒を出した事で後世に影響を残した。父に似て芦毛の小柄な馬体だったメドレーは、現役時代は英国で走りマッチレース2回を含む11勝を挙げている。後に米国で種牡馬入りし、米国における基礎繁殖牝馬を3頭出しており、この牝系からはスペンドスリフトスワップス、アイアンリージなどが出ている。ジムクラックスメアの牝系子孫からは曾孫にアメリカンエクリプスが出ている。本馬の産駒における活躍馬には、他に5500ギニーのレースを勝利したグレイロビンがいる。本馬の没年は不明だが、英国シュロップシャー州シフナルにあるホートンホールには本馬の墓が残っている。

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