ファラモンド

和名:ファラモンド

英名:Pharamond

1925年生

黒鹿

父:ファラリス

母:シリーン

母父:チョーサー

現役時代は僅か2勝ながら種牡馬として成功しトムフールとバックパサー親子を直系子孫から輩出した良血馬

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績11戦2勝2着2回3着1回

誕生からデビュー前まで

英国スタンリーハウススタッドにおいて母シリーンの2番子としてこの世に生を受けた。1歳上の全兄はシックルで、後に誕生する半弟ハイペリオンとは5歳の年の差があった。同じスタンリーハウススタッドで誕生した同期生にはフェアウェイがいた。本馬は他の兄弟と同様に母の小柄な体格を受け継いでいたが、兄シックルより少しずんぐりして首は太くて短く、兄より馬体は見劣りしたという。本馬はフェアウェイと一緒に生産者である第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿の所有馬としてジョージ・ラムトン調教師の管理馬となった。

競走生活(2歳時)

2歳5月にヨーク競馬場で行われたゼトランドプレートでデビューしたが、着外に終わった。6月にアスコット競馬場で出走したウィンザーキャッスルS(T5F)でもサニートレースの3着に敗れたが、4着だった実力馬フラミンゴには先着した。しかし7月にサンダウンパーク競馬場で出走したナショナルブリーダーズプロデュースS(T5F)では1番人気に支持されながら、フラミンゴの着外に終わった。リヴァプール競馬場で出走した次走のランカシャーブリーダーズプロデュースSでは未勝利馬ながら他馬に15ポンドのハンデを与え、結果ダークドールの首差2着に敗れた。さらにニューマーケット競馬場で出走したバッキンハムプロデュースSでは3頭立てながらザウィードラーの短頭差2着に敗れ、人気に応えられなかった。

この頃同厩のフェアウェイは既に英シャンペンSなど3勝を挙げており、さらにミドルパークプレートに出走予定だったが、骨膜炎などのため回避が決定。そのため本馬が代役でミドルパークプレート(T6F)に出走する事になった。結果は本馬が2着となった後のシティ&サバーバンHの勝ち馬でエクリプスS3着のパーウィズに頭差で勝利を収め、この大舞台でようやく初勝利を挙げた。本馬は2歳戦をこのレースで終え、この年の成績は6戦1勝となった。2歳馬フリーハンデにおいては110ポンドとなり、126ポンドだったフェアウェイや122ポンドのフラミンゴとはかなりの差があった。

競走生活(3歳時)

本馬が3歳になった時、ラムトン師が調教師を引退してスタンリー卿のレーシングアドバイザーに就任したため、本馬はフェアウェイと共にスタンリー卿の専属調教師を4年契約で受け継いだフランク・バターズ師の管理馬となった。

3歳初戦は4月にエプソム競馬場で行われたノンサッチSとなったが、着外に敗れた。英2000ギニー(T8F)には当初出走予定が無かったが、出走するはずだったフェアウェイがレース前日になって口内炎を発症して回避する事が決まったため、本馬が再度代役として出走する事になった。レースではゴール前で強烈な末脚を見せたものの、フラミンゴ、クレイヴンSを勝ってきた後のエクリプスS・コーク&オラリーSなどの勝ち馬ロイヤルミンストレル、後のリブルスデールSの勝ち馬オークリーの3頭に届かず、勝ったフラミンゴから2馬身差の4着(17頭立て)に敗れた。

英ダービーにはフェアウェイが出走したために本馬は出走せず、その代わりにケンプトンパーク競走場で行われたグレードジュビリーH(T10F)に出走した。本馬の斤量は100ポンドと恵まれていたが、前年の同競走で英2000ギニー馬コロラドを破って勝っていたアボッツスピード(斤量118ポンド)の4着に敗退。セントジェームズパレスS(T8F)では、英2000ギニー2着馬ロイヤルミンストレルの着外に敗れた。しかし1番人気に支持されたエルズミーアS(T13F)では首差で勝利した。もっとも、本馬の斤量は103ポンドで、しかも3頭立てのレースだった。このレースを最後に、3歳時5戦1勝の成績で競走馬を引退。ミドルパークプレート勝利、英2000ギニー4着はあるものの、競走成績は一流とは言い難いものだった。

血統

Phalaris Polymelus Cyllene Bona Vista Bend Or
Vista
Arcadia Isonomy
Distant Shore
Maid Marian Hampton Lord Clifden
Lady Langden
Quiver Toxophilite
Young Melbourne Mare
Bromus Sainfoin Springfield St. Albans
Viridis
Sanda Wenlock
Sandal
Cheery St. Simon Galopin
St. Angela
Sunrise Springfield
Sunray
Selene Chaucer St. Simon Galopin Vedette
Flying Duchess
St. Angela King Tom
Adeline
Canterbury Pilgrim Tristan Hermit
Thrift
Pilgrimage The Palmer
Lady Audley
Serenissima Minoru Cyllene Bona Vista
Arcadia
Mother Siegel Friar's Balsam
Galopin Mare
Gondolette Loved One See Saw
Pilgrimage
Dongola Doncaster
Douranee

ファラリスは当馬の項を参照。

シリーンは当馬の項を参照。→牝系:F6号族②

母父チョーサーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、スタンリー卿により種牡馬として1万ポンド(約5万ドル)で売りに出された。同父のファロス、フェアウェイ兄弟や兄のシックルが活躍していた事がセールスポイントに挙げられたという。その後、本馬を購入するために米国ケンタッキー州レキシントンから馬産家ハル・プライス・ヘッドリー氏がはるばるやって来た。ヘッドリー氏は本馬の血統背景に大変興味を抱いていたが、本馬に対する興味を売り手側に悟られたくなかったようで、暗い馬屋の中にいる黒鹿毛の本馬の様子が殆ど識別できなかったにも関わらず、馬屋の外に出して欲しいと頼まなかったという。結局それも功を奏したのか売却価格より安い4千ポンドで取引が成立し、本馬は米国に渡った。ヘッドリー氏は何人かに呼び掛けて小規模なシンジケートを組み、本馬は4歳時からヘッドリー氏がレキシントンに所有していたボーモントファームで種牡馬生活を開始した。この翌年には本馬の全兄シックルも英国から米国に輸入されている。米国では本馬と同名の馬が既にいた(この馬は本馬より2歳年下だが、本馬が米国に輸入されるより先に名前がつけられていた)ため、本馬の名前には「Ⅱ」が付せられて「Pharamond Ⅱ」となった。

初年度産駒の出来が悪かったために本馬のシンジケートは僅か3年で解散され、ヘッドリー氏は7500ドルで本馬を購入し、自身の単独所有馬として種牡馬生活を継続させた。しかし2年目産駒からは2歳戦における活躍馬を多く出して成功した。ステークスウイナーは35頭で、1938年には北米種牡馬ランキングで2位(1位は兄シックル)に入り、他にも3回北米種牡馬ランキングトップ5入りを果たしている。本馬の産駒は仕上がり早い短距離馬が多かったが、優秀な産駒は中距離も克服した。本馬は1952年にボーモントファームにおいて27歳で他界した。遺体はボーモントファームに埋葬されたが、墓石には何も刻まれなかったという。後にボーモントファームは都市開発のために売却され、現在は住宅地や商業地になっている。そのため本馬の墓地の場所は忘れ去られてしまった。しかし本馬の血は直子メノウから出たトムフールバックパサーの親子により世界的な影響力を有するようになった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1931

High Glee

メイトロンS

1932

Whopper

サンフアンカピストラーノ招待H・ジャマイカH

1934

Apogee

アーリントンラッシーS

1934

Clodion

ジャマイカH

1935

Creole Maid

CCAオークス・スカイラヴィルS

1935

Menow

ベルモントフューチュリティS・ウィザーズS・マサチューセッツH

1936

Easy Mon

ジェロームH

1938

King Cole

カウディンS・ウィザーズS

1940

Royal Nap

ワシントンパークH

1941

By Jimminy

トラヴァーズS・ドワイヤーS・アメリカンダービー・ローレンスリアライゼーションS

1943

Athenia

レディーズH

1944

Cosmic Bomb

カウディンS・ローレンスリアライゼーションS・ディスカヴァリーH・トレントンH・ローマーH

1946

Lithe

デモワゼルS・アーリントンメイトロンH2回

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