ネイティヴダンサー

和名:ネイティヴダンサー

英名:Native Dancer

1950年生

芦毛

父:ポリネシアン

母:ゲイシャ

母父:ディスカヴァリー

米国テレビ時代の到来と同時に大活躍して通算22戦21勝2着1回の成績を残し、後世にも絶大な影響力を有している「灰色の幽霊」

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績22戦21勝2着1回

1950年代の米国でテレビ時代が幕を開けたのと同時に活躍した馬で、当時の白黒テレビでも判別しやすい灰色の馬体と、道中は馬群の中団を進み、いつのまにか先頭に立っているというレースぶりから、“Gray Ghost(灰色の幽霊)”の異名で親しまれた米国競馬史上有数の名馬。

誕生からデビュー前まで

本馬の生産者兼所有者のアルフレッド・グウィン・ヴァンダービルトⅡ世氏は、当時の米国競馬界における重鎮中の重鎮だった。ヴァンダービルトⅡ世氏は若年の頃から競馬に興味を持ち、メリーランド州に所有していたサガモアファームで競走馬の生産と所有を開始した。また、ピムリコ競馬場やベルモントパーク競馬場の場長も務め、1938年にはシービスケットウォーアドミラルの世紀のマッチレースの企画に成功していた。第二次世界大戦中は従軍し、戦後に競馬界に復帰。彼は名馬ディスカヴァリーを現役中に購入した人物でもあり、「ディスカヴァリーの牝駒であれば、どんな種牡馬を付けても間違いは無い」と、繁殖牝馬の父としてのディスカヴァリーの能力を非常に高く評価していた。

彼は自身が所有していたディスカヴァリー牝駒のゲイシャに、試みにプリークネスSの勝ち馬ポリネシアンを交配させたところ、通常より1か月も長い12か月間という妊娠期間を経て本馬が誕生した。本馬が産まれたのはサガモアファームではなく、ヴァンダービルトⅡ世氏が繁殖牝馬を預託していた、ダン・W・スコット氏所有のケンタッキー州スコットファームであり、生誕後にサガモアファームに移されて育成された。

ウィリアム・C・ウィンフリー調教師に預けられた本馬は、1歳から2歳にかけての冬場にカリフォルニア州において調教が施された。ウィンフリー師は3歳時に実父を亡くし、5歳時に母の再婚相手であるG・キャリー・ウィンフリー調教師(1957年の米年度代表馬デディケイトなどを手掛けている)の姓を名乗った。義父の影響を受けて競馬に興味を抱き、最初は騎手を志したが体重が増加したため断念。その後は調教師を目指し、1932年に16歳という若さ(当時米国競馬史上最年少)で調教師免許を取得した。第二次世界大戦からの復員後にようやく本格的な調教師活動を開始して、名牝ベッドオローゼズを手掛けるなど頭角を現し始めていた(後の1971年に米国競馬の殿堂入り。義父のキャリー・ウィンフリー師も1975年に殿堂入りしている)。

そんなウィンフリー師は本馬の調教光景を見て、記者団に「この灰色の馬は私が今まで手掛けてきた中で最も速い馬です。調教で優れたタイムを出してはいますが、それほど強い印象は受けません。しかしそれは、彼がまるで全力を出していないからです。彼が全速力で走ればそれは凄い事になるでしょう」と語った。母親の胎内に長期間いたためか、産まれた頃から大きかった本馬は、その後もめきめきと成長して非常に大柄な馬となった。そして、その筋骨隆々の馬体を揺らしながら、とても大跳びで走る馬だった。そのストライドは28フィート(約8.5m)に達したと言われており、後のセクレタリアトほどではないが、マンノウォーには匹敵しただろうと評されている。

競走生活(2歳時)

2歳4月にジャマイカ競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走で、主戦となるエリック・ゲリン騎手を鞍上にデビュー。1番人気に支持されてはいたが、単勝オッズは2.4倍で、ファンも本馬の真の能力をまだ理解し切れていなかったようである。それは鞍上のゲリン騎手も同様で、このレースでは本馬に鞭を使用している。結果は2着となった後のレムセンH2着馬パットニーに4馬身半差をつける完勝だった。これ以降、本馬は全レースで単勝オッズ2倍を切る圧倒的1番人気に支持されることになる。また、鞍上が鞭を使う機会も二度と訪れなかったが、その理由は使う必要が無かったからではなく、本馬が“temperamental horse(神経質で怒りっぽい馬)”だったので、陣営から鞭の使用を禁じられたためだったらしい。そのために本馬に乗る騎手は、道中は馬の走る気に任せて、仕掛けるときに本馬の首を押して合図を送るだけとなった。

初勝利から4日後に出走したユースフルS(D5F)では、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持され、2着となった後のファウンテンオブユースSの勝ち馬トライブに6馬身差をつけて圧勝。しかしその後、左前脚を負傷(管骨の骨膜炎、関節炎又は骨瘤だとされる。屈腱炎とする意見もあるが、この後の本馬の出走日程からすると、その説には賛同しかねる)を発症し、3か月間の休養を余儀なくされた。

復帰戦は8月初めにサラトガ競馬場で行われたフラッシュS(D5.5F)となり、2着タイガースキンに2馬身差で快勝。12日後に出走したサラトガスペシャルS(D6F)では泥だらけの不良馬場となったが、本馬には関係が無かったようで、2着ドックウォーカーに3馬身半差をつけて楽勝した。さらに1週間後に出走したグランドユニオンホテルS(D6F)では、タイロS・サプリングSの勝ち馬で後にシャンペンS・ガーデンステートS・ゴーサムS・インターボローHなども勝つラファンゴを3馬身半差の2着に、ナショナルスタリオンS・ユナイテッドステーツホテルSを勝っていた同父馬タヒチアンキングを3着に破って勝利した。さらに1週間後に出走したホープフルS(D6.5F)も、2着タイガースキンに2馬身差で快勝した。

その後は少し間隔を空け、9月下旬にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンのスペシャルウェイト競走アンティシペイションパースに出走。ここでは2着タヒチアンキングに1馬身1/4差をつけて勝利した。それから5日後にはベルモントフューチュリティS(D6.5F)に出走した。レース序盤で不利を受けて後方からレースを進める事になったが、直線に入るといつの間にかタヒチアンキングをかわして先頭に立っており、そのまま2着タヒチアンキングに2馬身半差、3着となったハイアリアジュヴェナイルSの勝ち馬ダークスターにはさらに3馬身3/4差をつけて完勝した。勝ちタイム1分14秒4は世界レコードタイだった。2歳最後のレースとなったイーストビューS(D8.5F)では、2着ラファンゴに1馬身半差で快勝。

2歳時は9戦全勝の成績で、米最優秀2歳牡馬は勿論、ベルモントS・トラヴァーズS・ジョッキークラブ金杯に勝利した3歳馬ワンカウントと並んで米年度代表馬にも選ばれた(正確には、ターフ&スポーツダイジェストマガジン社と全米サラブレッド競馬協会が本馬を、デイリーレーシングフォーム社がワンカウントを選出している)。2歳馬が米年度代表馬に選ばれたのは、1893年のドミノ、1900年のコマンド、1907年のコリンに次いで45年ぶり史上4頭目のことだった。また、2歳時の獲得賞金総額は23万495ドルで、2歳馬の収得賞金記録を更新した。2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)においては130ポンドの評価を受け、これはちょうど10年前にカウントフリートが現在でも史上最高である132ポンドの評価を与えられて以来の130ポンド台となった。

また、1941年3月に開始された米国のテレビ放送は、この時期には全米中に普及しており、競馬中継はその中においても重要な位置を占めていた(本馬が出走した主要なステークス競走はどれもCBSネットワークにより全米に中継されている)。この頃のテレビ放送は言うまでも無く白黒テレビだったわけだが、鹿毛や栗毛の馬では区別がつきにくかった白黒テレビでも本馬の芦毛の馬体はよく映えており、「白と黒だけのテレビでは、どの馬も全て同じに見えた。唯一頭、ネイティヴダンサーを除いては」と言われた。しかもその目立つ灰色の馬体が確実に先頭でゴールするので、既に“Gray Ghost”と呼ばれて国民的な人気を博していた。当時の米国テレビ放送における最大のスターは、見逃すと日常の会話に支障をきたすと言われたCBSネットワークの看板バラエティ番組「エド・サリヴァン・ショー」の司会を務めたエド・サリヴァンだったのだが、本馬はそれに次ぐテレビ界の大スターとして認知されていた。

競走生活(3歳初期):ケンタッキーダービーの衝撃の敗戦

2歳から3歳にかけての冬場を前年と同じくカリフォルニア州で過ごした本馬は、1月にサンタアニタパーク競馬場で距離6ハロンを走る公開調教を行ったが、調教にも関わらず4万7500人もの観衆が詰め掛けた。元々大きかった本馬の馬体はこの時期にさらに大きくなり、体高16.2ハンド、推定馬体重1200ポンドという非常に大柄な馬に成長していた(競走馬全盛時代のセクレタリアトと体高、体重ともにほぼ同じ)。

その後は東海岸に戻り、4月にジャマイカ競馬場で行われた新設競走ゴーサムS(D6.5F)に出走。このレースは出走登録馬が多かったために分割競走となり、ラファンゴ、カウディンSの勝ち馬で後にピーターパンS・ブルックリンHを勝利するインビゴレーターといった本馬以外の有力馬は、本馬とは別競走に割り当てられた。本馬と別になっておそらく喜んだと思われるラファンゴ陣営の期待に応えて、ラファンゴはインビゴレーターを2着に破って勝利。一方の本馬も2着マジックランプに2馬身差をつけて楽勝した。それから1週間後に出走したウッドメモリアルS(D9F)では、タヒチアンキングを4馬身半差の2着に、インビゴレーターを3着に破って楽勝した。

そしてウッドメモリアルSから1週間後のケンタッキーダービー(D10F)に参戦した。対戦相手は、ブルーグラスSの勝ち馬でサンタアニタダービー3着だった後のハリウッド金杯の勝ち馬コレスポンデント、チェサピークS・エヴァーグレイズSの勝ち馬でフラミンゴS2着・ファウンテンオブユースS3着のロイヤルベイジェム、ブリーダーズフューチュリティS・ケンタッキージョッキークラブS・フラミンゴSの勝ち馬でブルーグラスS2着のストレートフェイス、ダービートライアルSを勝ってきたベルモントフューチュリティS3着馬ダークスター、インビゴレーター、フロリダダービーの勝ち馬でルイジアナダービー・ダービートライアルS2着・ブルーグラスS3着のマネーブローカー、レムセンHを勝っていた同厩馬ソーシャルアウトキャスト、ファウンテンオブユースSの勝ち馬ラムオウォー、バッシュフォードマナーS・プレイリーステートSの勝ち馬でラファイエットS・バハマズS2着のエースデストロイヤー、アーカンソーダービーの勝ち馬カラーキングの計9頭だった。本馬とソーシャルアウトキャストのカップリングが単勝オッズ1.7倍(資料によっては1.6倍)という、1943年のカウントフリート以来となる同競走史上最高クラスの圧倒的1番人気に支持された。

スタートが切られると単勝オッズ25.9倍の5番人気馬ダークスターが先頭に立ち、本馬はいつものとおり馬群の中団後方につけた。ところが最初のコーナーに入るところで外側に膨らみ、マネーブローカーと激しく接触してしまった。それでも体勢を立て直すと、道中は先頭のダークスターから6馬身ほど離された8~9番手を追走。そして向こう正面で内を突いて上がっていこうとしたが、馬群に包まれて容易に抜け出せなかった。それでも三角から四角にかけて内側を通ってようやく位置取りを上げると、4番手で直線に入ってきた。そして簡単に2番手には上がったのだが、スローペースで逃げていたダークスターの脚色は衰えず、ゴール前で猛然と差を詰めるも、頭差捕らえきれずに2着に敗れてしまった。

このケンタッキーダービーは、マンノウォーがアップセットに敗れた1919年のサンフォードSと並ぶ米国競馬史上における歴史的敗戦とされているが、マンノウォーがアップセットに敗れた瞬間を目撃したのは、当日サラトガ競馬場に集まった観衆と関係者だけだったのに対し、本馬の敗戦はテレビ中継を通じて全米中の人が目撃者となってしまった。そのために、その衝撃度はサンフォードSの比ではなく、本馬が敗北した瞬間に全米中の人々は皆悲しみにくれ、一部は涙を流してテレビ画面から目を背けたとまで言われている。ゲリン騎手は世間から轟々たる非難を受け、外側に膨らんだり内側を突いたり馬群に包まれたりした騎乗内容を皮肉って「エリックは女性用化粧室を除く競馬場のあらゆる場所にネイティヴダンサーを連れて行こうとした」などと散々にこき下ろされた。

競走生活(3歳中期と後期)

それでもヴァンダービルトⅡ世氏はその後も本馬の鞍上にゲリン騎手を起用し続けた。まずは衝撃の敗戦から2週間後のウィザーズS(D8F)に出走し、ケンタッキーダービーで本馬から5馬身差の3着だったインビゴレーターを4馬身差の2着に切り捨てて楽勝した。

そしてさらに1週間後のプリークネスS(D9.5F)に出走した。対戦相手は、プリークネスプレップSで2着してきたダークスター、ケンタッキーダービー4着のロイヤルベイジェム、同5着のコレスポンデント、同9着のラムオウォー、ウッドメモリアルS2着後にケンタッキーダービーを回避してプリークネスSに照準を絞ってきたタヒチアンキング、フロリダダービー3着馬ジェイミーケイの計6頭だった。ケンタッキーダービーの敗戦にも関わらず、本馬はケンタッキーダービーよりさらに低い単勝オッズ1.2倍という圧倒的な1番人気に支持された。ここでもダークスターが逃げを打ち、本馬は馬群のちょうど中間を追走。そして四角で位置取りを上ると、直線入り口でダークスターに並びかけて先頭に立った。レース中に脚の腱を負傷していたダークスターはここで脱落したが、外側から上がってきたジェイミーケイが猛然と本馬に食らい付いてきて、またしても苦戦を強いられる事になった。なんとか最後は首差凌いで勝利したが、ゴール板がもう少し先にあったら負けていたのではと思われるような辛勝だった。

次走のベルモントS(D12F)では、単勝オッズ1.45倍の1番人気となった。レースでは直線入り口から本馬とジェイミーケイの一騎打ちとなったが、なんとか首差で勝利した。辛勝ではあったが、勝ちタイム2分28秒6は、ベルモントSが距離12ハロンになって以降では史上3番目の好タイム(カウントフリートとサイテーションが計時した2分28秒2が当時最速)だった。本馬がプリークネスSやベルモントSで苦戦を強いられた理由は、ケンタッキーダービーの敗戦以上にはっきりとしていない。筆者は、ケンタッキーダービーの敗戦で散々に酷評されたゲリン騎手が神経質になっていたからかなと思っているのだが、推測の域を出ない。

米国三冠競走ではどれも今ひとつ実力を発揮しきれなかった本馬だが、その後は再び圧倒的な強さが戻ってきた。まずはベルモントSから3週間後のドワイヤーS(D10F)に出走して、12ポンドのハンデを与えた2着となった後のハイアリアターフカップHの勝ち馬ガーディアンに2馬身差で快勝。それから2週間後に出走したアーリントンクラシックS(D8F)では重馬場の中を馬なりで走り、後にスターズ&ストライプスHを勝つサーマンゴを9馬身差の2着にちぎり捨てた。

次走はトラヴァーズS(D10F)となったが、レース前に一騒動が起こった。本馬の熱狂的なファン達(ただしこんな連中をファンと呼ぶのは憚られる)が制止を押し切って本馬の周囲に殺到し、鬣や尾を抜いていったのである。ただでさえ神経質な本馬だけに、その影響が非常に懸念されたのだが、蓋を開けてみれば、馬群の中団追走から直線入り口で先頭に立つと、そのまま後続馬をちぎり捨て、2着ディクターと3着ガーディアンに8馬身差をつけて圧勝してしまった。

それから1週間後に出走したアメリカンダービー(D9F)では、ゲリン騎手が騎乗停止処分を受けていたため、代わりの騎手を探す必要が生じた。ヴァンダービルトⅡ世氏は、この1戦のみの代打としてエディ・アーキャロ騎手を任用した。かつてサイテーションの主戦騎手だったアーキャロ騎手は、プリークネスS・ベルモントSにおいてジェイミーケイに騎乗して本馬と戦っていた。ところが「ネイティヴダンサーはサイテーションほど偉大な馬ではない」と発言したために、本馬を応援する全米中のファンから抗議の手紙を送られた上に、彼がレースに出る際には競馬場に詰め掛けた観衆から大ブーイングを送られるようになっていたのだった。そんなアーキャロ騎手が本馬に騎乗する事を耳にした本馬のファン達は激怒したようで、「ネイティヴダンサーの強さを信用しないあんな奴よりも他の騎手を乗せるべきだ」という内容の手紙がヴァンダービルトⅡ世氏のところに山ほど送られてきたという。アーキャロ騎手はレース前日に「もしこれで負けてしまったら、私は騎手を廃業して浮浪者になる事だろう」と語っている。しかしアーキャロ騎手も鞭の使用を禁じられたために、レース序盤は本馬の行く気に任せるしかなかった。そして本馬が先頭から6馬身ほど離された馬群の中団をてくてくと走った上に、向こう正面で仕掛けても反応しなかったことから、レース中にアーキャロ騎手は真っ青になったという。しかし直線に入ると瞬く間に他馬を抜き去って、2着となったサプリングSの勝ち馬ランドロックドに2馬身差をつけて完勝した。アーキャロ騎手はレース後に「彼のファン達が主張していたとおりでした。まったくもって圧倒的なパワーと言うしかありません」と語った。

その後はサイソンビーSで当時の米国古馬最強馬トムフールとの対戦が予定されていたが、本馬が左前脚の関節炎を再発させて年内全休となってしまい、両馬の対戦は実現しなかった。この年10戦9勝の成績を残して米最優秀3歳牡馬には選出されたが、米年度代表馬には40年ぶり史上2頭目のニューヨークハンデキャップ三冠馬となった10戦全勝のトムフールが選ばれた。プリークネスS・ベルモントS・トラヴァーズSを全て勝った馬は本馬以外に、1878年のデュークオブマジェンタ、1880年のグレナダ、1920年のマンノウォー、1941年のワーラウェイ、1967年のダマスカス、2001年のポイントギヴンの6頭がいるが、まだ年度代表馬という概念が確立されていなかった時期である19世紀の2頭を除くと、その年の米年度代表馬に選ばれなかったのは本馬のみである。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続け、5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走で復帰して、かつての好敵手(?)ラファンゴを1馬身半差の2着に抑えて勝利した。

それから8日後に出走したメトロポリタンH(D8F)では130ポンドが課せられ、117ポンドのストレートフェイスや110ポンドのジェイミーケイとは非常に大きな斤量差があった。レースでは道中最後方を走っていたが、7馬身差あった先頭のストレートフェイスとの差を直線だけで逆転して首差で勝利した(ジェイミーケイは3着だった)。ここで本馬が背負っていた130ポンドという斤量は、前年の勝ち馬トムフールと全く同じであり、それでいて本馬の勝ちタイム1分35秒2は、前年の勝ちタイム1分35秒8より速かったから、前年の年度代表馬をトムフールに奪われた事を悔しがっていたファンは少しだけ溜飲を下げた。米国の競馬年鑑アメリカン・レーシング・マニュアルの著者の1人である米国の名物競馬作家ジョー・ハーシュ氏は「それは非常に盛り上がりました!彼は他馬の間を飛ぶように駆け抜けました。その素晴らしさ!これこそが競馬です」と述べている。

その後はサバーバンHに出走予定だったが、今度は右前脚に関節炎を発症したために回避した(本馬不在のサバーバンHはストレートフェイスが勝っている)。なお、メトロポリタンHの2週間後に発売された米国の代表的週刊誌タイム誌の5月31日号の表紙は本馬の似顔絵が飾っている。タイム誌の表紙を飾った競走馬としてはセクレタリアトが有名だが、本馬のほうが先である。もっとも、本馬も史上初というわけではない。筆者が確認できた範囲においては、本馬の祖父ディスカヴァリーの好敵手だったカヴァルケイドが1934年8月にタイム誌の表紙を飾ったのが最初である。なお、タイム誌の創刊は1923年であるから、その時点で既に競走馬を引退していたマンノウォーが表紙を飾ったことはない。

3か月間の休養を経た本馬は、サラトガ競馬場でオネオンタH(D7F)に出走した。僅か3頭立てのこのレースで本馬は137ポンドを課せられたが、それでも本馬の人気があまりにも高く、レースは馬券が発売されないエキシビションとなった。これは、ニューヨーク州の法令で単勝の配当は1.05倍以上と決められており、馬券を発行すると主催者側が赤字になることが確実視されたためである。大方の予想どおりレースは本馬の独壇場となり、不良馬場の中を独走し、ポリネシアンH・パロスヴェルデスH・エクセルシオールHなどの勝ち馬ファーストグランスを9馬身差の2着に、ルイジアナダービーの勝ち馬ギガンティックを3着に葬り去って圧勝した。

その後は欧州遠征して凱旋門賞に出走する計画があり、実際にウィンフリー師が仏国を視察に訪れるほどだったが、右前脚に屈腱炎を発症してしまった(2歳時とは異なり、今回は確実に屈腱炎だったようである)ため、結局オネオンタHが現役最後のレースとなった。10月にベルモントパーク競馬場で引退式が行われ、大観衆に見送られながら競馬場を後にした。この年は3戦のみだったが、その内容が評価されて、ベルモントS・ドワイヤーS・ジョッキークラブ金杯などを勝った3歳馬ハイガンを抑えて米年度代表馬・米最優秀ハンデ牡馬に選ばれた。連続選出以外で2度の米年度代表馬に選ばれたのは本馬が史上初である(1981・84年にエクリプス賞年度代表馬に選ばれたジョンヘンリーが2頭目で、他には存在しない)。

競走馬としての特徴

本馬は日本的に言えば典型的な差し・追い込み馬であった。原田俊治氏の「新・世界の名馬」には「どのレースの時にもきまって前半は3番手あたりにつけていた」と書かれているから、先行馬だと勘違いしている人もいるようだが、事実とは異なる。例えばトラヴァーズSでは確かに3番手を走っているが、このレースは5頭立てであり、位置取りとしてはやはり中団である。スタート自体はそれほど下手ではなかったようだが、スタート直後の加速力には欠けていたようであり、後方からレースを進める事が多かったのはおそらくそのせいである。あまりにも体格が大きい馬はスタート後の加速力に欠ける事が多い(マンノウォー然り、セクレタリアト然り。他にもアリダーイージーゴアゼニヤッタなど多数の実例を挙げる事ができる)が、本馬もあまり器用な馬ではなかったようで、デイリーレーシングフォーム社の競馬記者チャールズ・ハットン氏は著書アメリカン・レーシング・マニュアルの1954年版において、若い頃の本馬は“gawky(「図体が大きすぎて動きがぎこちない」といった意味)”だったと評している。しかしいったんエンジンがかかると、尋常ならざるスピード能力を発揮した。そのために本馬はサラブレッドではなく、本当はクォーターホース(瞬間最高速度だけならサラブレッドより上である)であり、血統を詐称していたのだとする説まで存在するようである。本馬自身がクォーターホースだったなどという説を信用する事は出来ないが、本馬が種牡馬として多数のクォーターホースを送り出し、今日のクォーターホースの多くに本馬の血が受け継がれているのは紛れも無い事実であり、米国におけるクォーターホースの紹介サイトを覗くと本馬についても詳細に紹介されている(勿論、クォーターホースの発展に大きく寄与したサラブレッド種牡馬として紹介されているのであって、本馬自身がクォーターホースであるとされているわけではない)。

あと、前にも少し触れたが、本馬は気性面でかなり問題がある馬だったという。本馬と関わる仕事をしていた人の多くは「慎重に取り扱わなければ非常に危険な馬だった」と述べている。乗り手に噛み付いて自分の背中から引き摺り落とした事さえもあったという。常時機嫌が悪いわけではなく、気が向いたときには非常に協力的だったというから、要するに気分屋だったようである。サガモアファームの厩務員の一人で本馬の餌やり担当だったジョー・ホール氏によると、気まぐれな本馬は飼料を食べる場所が一定しておらず、馬屋で飼料を準備するとそれを無視して小牧場に歩いていき、かと言って小牧場で飼料を準備すると馬屋で待っていたりしたという。そのためにホール氏は、本馬が餌を食べる可能性がある場所全てに飼料を準備するという行為を毎晩のように繰り返す羽目になったという。このような気まぐれな馬は往々にして競走成績が安定せず、勝ったり負けたりを繰り返すものだが、本馬の場合は当てはまらなかった。こうした性格は後天的なものではなく、生まれつきのものだったようで、幼少期にも同じ牧場にいた同世代馬達のボス的存在であり、時には仲間を苛めて遊んでいたという。

あと、日本国内で紹介されているのを筆者は見た事がない面白い逸話が“Unofficial Thoroughbred Hall of Fame Roster”に載っていたので、ここに引用して紹介しておく。担当厩務員の一人レス・マレー氏によると、本馬は単に“Black Cat(ブラックキャット)”と名付けられていた黒い雌猫をいつも同伴しており、移動する際にも必ず一緒だった。このブラックキャットは、それまで黒い毛色の猫しか産んだ事が無かったのだが、ある日、本馬の馬屋内で出産した猫は灰色だった。そのためにこの子猫の父親は本馬であると噂されたというのである。この話の真偽は不明(少なくとも本馬が父親であるはずはない)だが、本馬がこのブラックキャットを溺愛していたのは事実であり、周囲の人間が本馬の気性を和らげるためにブラックキャットが馬屋内に住むのを容認していたのも事実らしい。

血統

Polynesian Unbreakable Sickle Phalaris Polymelus
Bromus
Selene Chaucer
Serenissima
Blue Glass Prince Palatine Persimmon
Lady Lightfoot
Hour Glass Rock Sand
Hautesse
Black Polly Polymelian Polymelus Cyllene
Maid Marian
Pasquita Sundridge
Pasquil
Black Queen Pompey Sun Briar
Cleopatra
Black Maria Black Toney
Bird Loose
Geisha Discovery Display Fair Play Hastings
Fairy Gold
Cicuta Nassovian
Hemlock
Ariadne Light Brigade Picton
Bridge of Sighs
Adrienne His Majesty I
Adriana
Miyako John P. Grier Whisk Broom Broomstick
Audience
Wonder Disguise
Curiosity
La Chica Sweep Ben Brush
Pink Domino
La Grisette Roi Herode
Miss Fiora

ポリネシアンは当馬の項を参照。

母ゲイシャは本馬と同じくヴァンダービルトⅡ世氏の生産・所有馬で、現役時代は11戦1勝の成績だった。本馬の半姉オリエンテーション(父クエスショネア)の子に、イニシエート【サリナスH】、アンデュレーション【ジャージーベルS】、シチズンシップ【エルクリッジハードルH】、孫にグリーングレード【ダイアナH】がいる。ゲイシャの母ミヤコは、オータムデイズS勝ちなど32戦5勝を挙げた競走馬で、ヴァンダービルトⅡ世氏がA・H・ウォーターマン氏という人物から購入した馬だった。ゲイシャやミヤコの牝系子孫は今世紀も南米などで残っているが、それほど発展はしていない。

しかしミヤコの母ラチカの牝系子孫は比較的発展しており、特にミヤコの半姉プラネトイドの牝系子孫からは、ミスティモーン【モリーピッチャーH・モンマスオークス・ダイアナH・ギャラントフォックスH】、ボールドラッド【ベルモントフューチュリティS・ホープフルS・シャンペンS・メトロポリタンH】、サクセッサー【シャンペンS】、ワットアプレジャー【ホープフルS】、イントレピッドヒーロー【ハリウッドダービー(米GⅠ)・ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)】、クイックアズライトニング【英1000ギニー(英GⅠ)】、アジュディケーティング【カウディンS(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)】、プリオロ【ジャンプラ賞(仏GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】、ディスピュート【ケンタッキーオークス(米GⅠ)・ガゼルH(米GⅠ)・ベルデイムS(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)】、インサイドインフォメーション【BCディスタフ(米GⅠ)・アッシュランドS(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)・シュヴィーH(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)】、スマッグラー【マザーグースS(米GⅠ)・CCAオークス(米GⅠ)】、エデュケイティドリスク【フリゼットS(米GⅠ)・トップフライトH(米GⅠ)】、コナゴールド【BCスプリント(米GⅠ)・サンカルロスH(米GⅠ)】、コーラーワン【ドバイゴールデンシャヒーン(首GⅠ)】、テセオ【エプソムH(豪GⅠ)・マッキノンS(豪GⅠ)・ランヴェットS(豪GⅠ)2回・ チッピングノートンS(豪GⅠ)】、日本で走ったシンボリインディ【NHKマイルC(GⅠ)】など多くの活躍馬が出ている。また、ミヤコの半妹ラルンバの牝系子孫からは、日本で走ったテイタニヤ【桜花賞・優駿牝馬】などが出ている。ミヤコの半妹チェリタの曾孫にはトラックバロン【ドワイヤーS(米GⅠ)・ヴォスバーグS(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)】がいる。ミヤコの1歳年下の全弟には1938年の米最優秀2歳牡馬エルチコ【サラトガスペシャルS・ホープフルS・カウディンS】がいる。→牝系:F5号族③

母父ディスカヴァリーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、サガモアファームで種牡馬生活を開始した。種付け料は5千ドルという当時としては非常な高額設定だったが、それでも種付け申し込みは殺到した。産駒の活躍に伴って種付け料も上昇し、最終的には2万ドルに達した。本馬は306頭(304頭とする資料もある)の産駒から44頭(43頭とする資料もある)のステークスウイナーを出している。ステークスウイナー率は14%を超えており、種牡馬としてはかなり成功した部類に入る。しかし一度も北米首位種牡馬になれなかった(北米種牡馬ランキングは1966年の2位が最高)ためか、種牡馬として期待外れだったと評する向きもある。ただしそのように主張するのは日本人の一部のみであり、海外の資料において本馬は成功種牡馬としてしか評価されていない事は書き添えておく。ただ、後継種牡馬に恵まれた事に関しては異論は無いだろう。

種牡馬生活を送る本馬を訪ねて、全米中からファンが集まってきた。サガモアファームの入り口には「サガモアファームはネイティヴダンサーの住処です。訪問者は大歓迎。ただし日曜日は休みです。楽しんでいってください」と書かれた看板が掲げられていたという。1967年11月にサガモアファームにおいて本馬は疝痛を発症した。担当厩務員のホール氏が獣医を呼んだところ、小腸の悪性腫瘍の疑いがあると診断された。そのためにペンシルヴァニア大学へ移送されて開腹手術が実施された。手術自体は成功したものの、衰弱が激しく心不全を起こしてしまい、手術から2日後の11月16日午前5時15分に、ホール氏に看取られながら17歳で他界した。遺体はサガモアファームに戻され、祖父ディスカヴァリーの隣に埋葬された。

このサガモアファームのその後に関して簡単に触れておく。サガモアファームからは本馬以降に長らく活躍馬が出ることはなかったが、ヴァンダービルトⅡ世氏の所有のもと、長期間に渡ってメリーランド州の競馬人にとっての聖地として扱われた。しかし1986年にレーガン大統領が打ち出した税制改正(課税ベースの拡大)の煽りを受けて多額の納税を強いられる事になったヴァンダービルトⅡ世氏は、サガモアファームをジェームズ・ワード氏という不動産開発業者に売却する羽目となってしまい、失意のうちに1999年に87歳で死去した。しかしサガモアファーム自体はその後も残り、2007年にはメリーランド州出身の若手事業家ケヴィン・プランク氏(米国のスポーツ用品メーカーであるアンダーアーマー社の創業者)により買い戻された。そして2010年のBCフィリー&メアターフにおいて、サガモアファーム産馬のシェアードアカウントが英国の名牝ミッデイを破って大穴を開け、米国競馬界にサガモアファームの名前を久々に思い起こさせたのだった。このようにサガモアファームの所有権が転々とする間も本馬の墓碑は堅持されており、現在も立派な墓碑を見る事ができる。

後世に与えた影響

本馬は「競馬場に足を運んだ事がない米国民でも、マンノウォーとネイティヴダンサーの名前だけは誰もが知っている」と言われたほどであり、ケンタッキーダービーにおける歴史的敗戦や、死去のニュースに関しては、米国中の有力メディア全てが大々的に報じたという、スーパーアイドルホースであった。それだけではなく、後世のサラブレッド血統界に与えた影響も計り知れない。直子のレイズアネイティヴミスタープロスペクターとアリダーの両巨頭を輩出し、同じく直子のエタンはシャーペンアップを出して、本馬の直系を後世に大きく広げた。また、それ以外にも本馬の直系からは、20世紀欧州最高の名馬シーバードや、日本競馬史上屈指のスーパーホースであるオグリキャップなどが出ている。また、母の父としてはノーザンダンサーを出しており、本馬の血を引かないサラブレッドは少数派となっている。本馬の死後、本馬の幽霊が(ケンタッキーダービーが行われる)チャーチルダウンズ競馬場を徘徊するという噂が流れたという。もちろんこれは“Gray Ghost”の渾名に掛けた与太話に過ぎないが、本馬の幽霊ではなく本馬の血を引く馬がチャーチルダウンズ競馬場で猛威を振るったのは事実である。本馬の息子カウアイキングがケンタッキーダービーを勝った1966年以降、2015年までの50年間に、本馬の直系子孫はケンタッキーダービーで実に22勝を挙げている。20世紀最後の米国三冠馬アファームドは本馬の直系子孫であるし、そのアファームドから37年後に米国三冠を達成したアメリカンファラオもやはり本馬の直系子孫だった。1963年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第7位。

最後になるが、我々日本人にとって本馬の母の名前ゲイシャや祖母の名前ミヤコは気になるところである。本馬の馬名由来は海外の資料では全く触れられていないのだが、父ポリネシアン(南太平洋のポリネシア諸島に暮らす人々)と母ゲイシャ(芸者)から連想して“Native Dancer(現地民の踊り子)”と命名された可能性が高い。そして母ゲイシャの名前もおそらくはその母ミヤコに由来している。ミヤコという名前は最初の所有者ウォーターマン氏の命名によるものらしく、これまた正確な由来は不明だが、日本人女性の名前か、又は「都(みやこ)」から来ている可能性が高いだろう。ミヤコの娘がゲイシャになり、ゲイシャとポリネシア人の間に生まれた子どもがネイティヴダンサーというわけである。そしてネイティヴダンサーの娘の子どもがノーザンダンサー(北の踊り子)になり、その子ども達が、ニジンスキーヌレイエフリファールサドラーズウェルズといったバレエダンスゆかりの名前をつけられたことを考えると、これら異国の名馬達に対して不思議と親近感が湧いてくるかもしれない。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1957

Taboo

サンタモニカH

1958

Good Move

スピナウェイS・セリマS

1958

Shimmy Dancer

ガゼルH

1959

Rattle Dancer

ハリウッドジュヴェナイルCSS

1959

Secret Step

ジュライC・キングジョージS

1960

Hula Dancer

英1000ギニー・サラマンドル賞・仏グランクリテリウム・ジャックルマロワ賞・英チャンピオンS・ムーランドロンシャン賞

1961

Raise a Native

1961

Takawalk

ロシェット賞・サンジョルジュ賞・モートリー賞2回

1962

Native Charger

フラミンゴS・フロリダダービー

1963

Kauai King

ケンタッキーダービー・プリークネスS・ファウンテンオブユースS

1963

Native Street

ケンタッキーオークス・ソロリティS

1964

Gala Performance

ジムダンディS

1965

Dancer's Image

ウッドメモリアルS

1965

Grey Slacks

ヴェイグランシーH

1965

Jig Time

ランプライターH

1967

Capercaillie

ポストデブS

1967

Exclusive Dancer

プライオレスS

1967

Protanto

レムセンS・ローマーH・ホイットニーH・スタイミーH(米GⅢ)

1967

Street Dancer

ハネムーンH・ミレイディH・ラモナH2回・サンタアナH

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