プリンスキロ

和名:プリンスキロ

英名:Princequillo

1940年生

鹿毛

父:プリンスローズ

母:コスキラ

母父:パパイラス

戦火を避けて仏国から米国に渡り、父として、そして母父として後世に大きな影響を与えて、戦争の犠牲になった父プリンスローズの血を拡散させる

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績33戦12勝2着5回3着7回

誕生からデビュー前まで

当時米国最大の映画会社だったメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(通称MGM)の仏国パリ支所の役員だったラウディ・L・ローレンス氏の生産馬。ローレンス氏は、MGMの最高責任者ルイス・バート・メイヤー氏のために、ハイペリオン産駒のアリバイ(後に米国で種牡馬として成功)をアガ・カーンⅢ世殿下から購入した人物でもあり、サラブレッドの発展においては決して無視できない功績を残している。

ローレンス氏はベルギー最強馬として名を馳せた種牡馬プリンスローズに興味を抱き、プリンスローズを仏国にリースしてチェフルヴィーユ牧場において繋養していた。そして1939年に、自身が所有していた繁殖牝馬コスキラにプリンスローズを交配させ、コスキラは無事に受胎した。しかし同年9月に独国軍がポーランドに侵攻すると、英国と仏国が独国に宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。仏国が戦場になる事を懸念したローレンス氏は、身重のコスキラを愛国に避難させた。なお、プリンスローズはそのまま仏国に残り、独国軍に接収された後も仏国で種牡馬生活を続けていたが、終戦前年の1944年にノルマンディー上陸作戦による爆撃に巻き込まれ焼死してしまっている。

一方のコスキラは翌1940年に愛国において牡駒を産んだ。この馬が本馬である。しかしこの年に第二次世界大戦が激化して、6月に仏国は独国軍により占領された。仏国を占領した独国軍は、今度は英国も占領するべく、8月から空爆作戦を開始した。愛国政府は第二次世界大戦において一貫して中立を守った(当時の愛国はアイルランド内戦を経て英国から独立を果たして間もなかったため、独国は英国との関係が良かったとは言えない愛国をむしろ味方に引き入れようとしていたらしい)ため、結果的に愛国が戦火に巻き込まれる事は無かったのだが、それは歴史の結果を知っている後世の人間にしか分からないことであり、当時の状況からして愛国がいつ戦場になってもおかしくはなかった。

そこでローレンス氏は、コスキラと生後間もない本馬をさらに米国に送る事を決定した。しかし、大西洋を渡って米国へ向かう旅もまた危険だらけであった。通常の風雨や波だけでなく、当時の大西洋には独国軍のUボートが徘徊していたからである。それでも何とかコスキラと本馬を乗せた船は米国に無事到着した。長い船旅のために幼い本馬はやつれ果てて、同世代のどんな子馬よりも酷い状態だった。そのために本馬を購入しようとする物好きはなかなかおらず、米国で本馬の馬主となったのは、ローレンス氏と売買契約をかわしていた、ニューオーリンズの事業家アンソニー・ペレテリ氏であった。

競走生活(3歳前半まで)

ペレテリ氏の元で本馬は2歳7月に競走馬デビューした。2歳時は最初に4戦して2勝を挙げたが、その4戦目はクレーミング競走だった。そしてこのクレーミング競走において本馬は、ディミトリ・ジョルジャーゼ王子と妻のオードリー・エメリー夫人が所有するブーンホールステーブルにより1500ドルで購入された(1500ドルは最初の馬主ペレテリ氏がローレンス氏から本馬を買った金額であり、クレーミング競走における譲渡価格は2500ドルだったとする資料もある)。ディミトリ・ジョルジャーゼ王子は、黒海の東岸にあったジョージア王国(現在のジョージア共和国。日本において以前はロシア語風にグルジアと呼んでいたが、本項執筆直前の新聞報道によると、ジョージア政府の要請に基づいて日本政府はジョージアと呼ぶ事にしたそうなので、本項でもそれに従う)の王族であり、ジョージア王国が1918年のロシア革命後にロシア帝国からの独立を宣言したにも関わらず、ソビエト赤軍に占領されて支配下に入れられてしまうと、米国に亡命していた。彼はカーレーシングの一流選手として有名だったが、競馬にも興味を抱き、1940年にサウスカロライナ州ブーンホールに牧場を購入して馬主活動を開始したばかりだった。

ジョルジャーゼ王子夫妻は本馬をホレイショ・A・ルロ調教師に預けた。ルロ師は後にノーザンダンサーを手掛けることになる人物であり、その経歴紹介についてはノーザンダンサーの項に譲るが、1937年に36歳で調教師となったばかりの人物でありながら、その豊富な人脈を活かして多くの馬を預かるようになっていた。ルロ師は本馬のスタミナ豊富な素質を見抜き、それを活かせるよう長距離戦を主に走らせる予定とした。もっとも、長距離戦に乏しい3歳春まではあまり実績を残せなかった。

2歳時は転厩後に6戦して1勝。2歳時の通算成績は10戦3勝で、ステークス競走の入着は無かった。

3歳時も当初は好成績を残せなかった。5月のピーターパンS(D9F)で、カウディンSの勝ち馬でケンタッキーダービー3着のスライドルール(後にアーリントンS・ジェロームH・ウエストチェスターH・インターボローH・スウィフトSなどを勝っている)、メリーランドフューチュリティの勝ち馬でプリークネスS3着のヴィンセンティヴ、グレートアメリカンS2着馬フェイマスヴィクトリーの3頭に続く4着に入ったのが目立つ程度だった。

競走生活(3歳後半以降)

本馬の素質が開花したのは、3歳の夏頃だった。エンパイアシティH(D9.5F)では、チョップチョップ(後に種牡馬としてノーザンテーストの母父ヴィクトリアパークなどを出した事で有名)の3着となり、初めてステークス競走で入着した。ドワイヤーS(D10F)では、ピーターパンSで2着だったヴィンセンティヴ、同3着だったフェイマスヴィクトリーに続く3着と健闘した。そしてサラトガH(D10F)では、マンハッタンHを3回勝利して当時の米国長距離界のトップホースとして活躍していた6歳馬ボーリングブロークを2着に、前年のケンタッキーダービー・ベルモントS・ブルーグラスS・アーリントンクラシックS・トラヴァーズSを勝っていたシャットアウトを3着に破り、2分01秒8のコースレコードで勝利した。ホイットニーS(D10F)ではボーリングブロークの2着に敗れたが、4着シャットアウトには先着した。

そしてサラトガC(D14F)では前年の勝ち馬でもあったボーリングブロークを頭差の2着に、ギャラントフォックスHを勝ちCCAオークス・レディーズHで2着していたダークディスカヴァリーを3着に破り、37年ぶりのコースレコード更新となる2分56秒6の走破タイムを計時して勝利した。サラトガCの次走は着外に終わったが、続いて出走したジョッキークラブ金杯(D16F)では、この年のベルモントS・トラヴァーズSで2着していたフェアリーマンハーストを2着に、翌年のこの競走を勝つことになるボーリングブロークを3着に破って勝利を飾った。しかしジョッキークラブ金杯のレース中に負傷してしまい、3歳シーズンを15戦7勝の成績で終えた。

この年の本馬の同世代には圧倒的な強さで米国三冠を制したカウントフリートがいたため、米最優秀3歳牡馬にはなれなかったが、サラトガCやジョッキークラブ金杯の勝ち方から、米国競馬史上最高の長距離馬とまで呼ばれるようになったという。この後に本馬を確実に超える存在となった長距離馬はケルソだけだと本馬の資料に書かれている。さすがに持ち上げすぎのような気がするが、優れた長距離馬であると評価された事は間違いないようである。

4歳時も現役を続行した。マーチャンツ&シチズンズH(D9.5F)では、ヴォスバーグH・カーターHを勝っていた快速馬ウェイトアビット(カーターHでは世にも珍しい3頭同着で勝った事で知られる。シアトルスルーの父ボールドリーズニングの祖母の父でもある)を3着に破って勝利した。クエッショネアH(D13F)では、2分43秒0のコースレコードタイで勝利を収めた。ホイットニーS(D10F)では、ホープフルS・ブリーダーズフューチュリティ・フェニックスH・トボガンH2回・メトロポリタンH2回・カーターH・ブルックリンH・ポーモノクH・アメリカンレギオンHを勝っていたこの年の米最優秀ハンデ牡馬デヴィルダイヴァーの半馬身差2着に入り、3着ボーリングブロークに先着した。4歳時の成績は8戦2勝で、この年を最後に競走馬を引退した。

血統

Prince Rose Rose Prince Prince Palatine Persimmon St. Simon
Perdita
Lady Lightfoot Isinglass
Glare
Eglantine Perth War Dance
Primrose Dame
Rose de Mai Callistrate
May Pole
Indolence Gay Crusader Bayardo Bay Ronald
Galicia
Gay Laura Beppo
Galeottia
Barrier Grey Leg Pepper and Salt
Quetta
Bar the Way Right-Away
Barrisdale
Cosquilla Papyrus Tracery Rock Sand Sainfoin
Roquebrune
Topiary Orme
Plaisanterie
Miss Matty Marcovil Marco
Lady Villikins
Simonath St. Simon
Philomath
Quick Thought White Eagle Gallinule Isonomy
Moorhen
Merry Gal Galopin
Mary Seaton
Mindful Minoru Cyllene
Mother Siegel
Noble Martha Noble Chieftain
Lady Martha

プリンスローズは当馬の項を参照。

母コスキラは現役時代に28戦してフィユドレール賞・シャンティ大賞など7勝を挙げているから、競走馬としてはなかなか優秀だったようだが、繁殖牝馬としては第二次世界大戦の影響もあったのか、本馬以外にこれといった産駒を出すことは出来なかった。コスキラの牝系子孫は現在残っていないようだが、コスキラの半妹スパイウェイズ(父ラムセスザセカンド)の牝系子孫は現在も独国や日本で細々と生き残っている。日本では、1976年の毎日杯を勝ったエリモファーザー、2004年の京都ジャンプS(JGⅢ)を勝利したクールジョイが代表馬である。独国も日本も第二次世界大戦における仏国の敵国であるというのは、歴史の皮肉と言うべきだろうか。本馬やコスキラの近親には全くといってよいほど活躍馬がおらず、牝系としてはかなり貧相である。コスキラの7代母ミスアームストロングは1863年のヨークシャーオークスの勝ち馬だが、ここまで遡ってもこのくらいしか出てこない。→牝系:F1号族⑦

母父パパイラスは現役成績18戦9勝。1923年の英ダービー馬で、他にもクリテリオンS・チェスターヴァーズ・デュークオブヨークSを勝ち、英セントレジャー・エクリプスSで2着している。しかしパパイラスと言えば、同世代のケンタッキーダービー・ベルモントSの勝ち馬ゼヴとのマッチレースで完敗したことばかりが取り沙汰され、決して評価が高い英ダービー馬とは言えない。種牡馬としても不成功だったが、しかし母父として本馬、祖母の父としてリボーを輩出したことにより血統史にその名を刻むことには成功した。パパイラスの父トラセリーは英国三冠馬ロックサンド産駒で、現役成績9戦6勝。5馬身差で圧勝した英セントレジャーを筆頭に、セントジェームズパレスS・サセックスS・エクリプスS・英チャンピオンSを制した一流競走馬。なお、本馬の曽祖父プリンスパラタインとアスコット金杯でも対戦しているが、とある事件に巻き込まれて敗れた(その顛末はプリンスパラタインの項を参照)。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は5歳時の1945年からヴァージニア州エラズリーファームで種牡馬生活を開始した。本馬の現役時代の走りを見たアーサー・“ブル”・ハンコック・ジュニア氏が本馬を見初めて購入し、彼の父親アーサー・ハンコック氏が所有していたエラズリーファームで種牡馬入りさせたのだという。初年度の種付け料は250ドルと安値だったが、本馬のスタミナ色の強さは米国の馬産家から敬遠され、種牡馬としては不人気だった。ヴァージニア州における種牡馬生活は僅か2年で終わり、1946年にはハンコック・ジュニア氏が経営していたケンタッキー州クレイボーンファームに移動したが、この時点で種牡馬として大きな期待を寄せられていたわけではない。

初年度産駒は1948年にデビューしたが、これといった成績は残せなかった。しかし1949年にデビューした2年目産駒が大活躍。ヒルプリンスが1950年の米年度代表馬に輝くと、英国に輸出されたプリンスシモンもニューマーケットSを勝ち、英2000ギニー・英ダービーで共に2着に入ったのである。これで本馬の種牡馬としての評価は一変して人気種牡馬となった。その後も本馬は次々と活躍馬を出し、1957・58・59年と3年連続で北米首位種牡馬に輝いた(計算方法の違いで1959年の北米首位種牡馬はナスルーラとする場合が多い)。1956年時点における本馬の種牡馬広告を見ると、産駒のステークスウイナー率は15%に達していると書かれている。最終的な産駒のステークスウイナーは64頭である。ヒルプリンスの他にも、ラウンドテーブル、デディケイトと計3頭の米年度代表馬を輩出した。1964年の始めに心臓を悪くして種牡馬を引退し、同年に心臓麻痺のため24歳で他界、遺体はクレイボーンファームに埋葬された。

後世に与えた影響

後継種牡馬としてはラウンドテーブル、プリンスジョンが成功したが、それ以上に素晴らしいのが繁殖牝馬の父としての功績である。ミルリーフセクレタリアトサーゲイロードキートゥザミントフォートマーシー、サクセッサー、ボールドラッド(USA)、ハイエシャロン、サンサン、クリスエス、ファーストファミリー、シャムなど数々の名馬・名種牡馬を送り出した。繁殖牝馬の父として送り出したステークスウイナーは168頭であり、娘の子1422頭に占める割合は約11.8%である。北米母父首位種牡馬は1966~70・72・73・76年と8回も獲得した。これはサーギャラハッドの12回、ミスタープロスペクターの9回に次ぐ北米史上3位の多さである。種牡馬として米年度代表馬を3頭出した本馬だが、ケンタッキー州最優秀繁殖牝馬も2頭(セクレタリアト、サーゲイロード、ファーストファミリーの母サムシングロイヤルと、サクセッサー、ボールドラッドの母ミスティモーン)送り出している。1971年にはミルリーフの活躍により英愛母父首位種牡馬も獲得している。これにより、本馬は米国競馬史上最も重要な繁殖牝馬の父とまで言われるようになった。

本馬の血を受け付いた馬はスタミナだけでなく、そのスタミナを活かせるだけのスピード・切れ味も有しており、本馬が一介の長距離馬では無かった事を示している。また、整った馬格でしかも健康な産駒が多いことでも知られており、ラウンドテーブルはその筆頭格だった。本馬はセントサイモンの直系だった事もあり、海外では、英国のセントサイモン、米国の本馬というように比較して語られることも多い。もっとも、本馬の体格は小柄で、気性も穏やかだったとされており、その点ではセントサイモンとは正反対である。

本馬の血統表を見ると、直系は確かにセントサイモンの系統だが、他の3代父は、ゲイクルセイダーハンプトンの直系)、トラセリー(ストックウェルの直系)、ホワイトイーグル(アイソノミーの直系)であり、母系にはサイリーンの血も入っている。このように多様な血統がバランスよく詰め込まれている様は、後の大種牡馬ノーザンダンサーに通じるものがある(そう言えばノーザンダンサーも小柄だった)。このバランスよい血統構成が本馬を大種牡馬ならしめた理由なのだろうか。筆者は血統論者ではないため確証はないのだが、特定の血統に偏っていないのは様々な繁殖牝馬と交配しやすいという利点があるのは事実である。直系種牡馬最後の大物と言えたメドウレイクが2005年に他界した後はこれといった種牡馬が出現しておらず、本馬の直系は世界的に衰退しているが、本馬の血を受け継いだ馬は現在も世界中に数多くいる。第二次世界大戦の戦火を避けて大西洋を渡った子馬は後に世界競馬界に大きな影響を与える偉大な存在となったのである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1947

Hill Prince

プリークネスS・カウディンS・ウッドメモリアルS・ウィザーズS・アメリカンダービー・ジェロームH・ジョッキークラブ金杯・サンセットH・ニューヨークH・サンマルコスH

1948

How

ケンタッキーオークス・CCAオークス・レディーズH

1951

Cherokee Rose

CCAオークス

1951

Riverina

エイコーンS

1952

Colonel Mack

ロサンゼルスH・ビングクロスビーH

1952

Dedicate

ブルックリンH・ホイットニーH・ウッドワードS・ジャージーS・ホーソーン金杯・ジョンBキャンベルH・モンマスH

1952

Happy Princess

ディスタフH2回

1952

Misty Morn

モリーピッチャーH・モンマスオークス・ダイアナH・ギャラントフォックスH

1953

Dotted Line

マンノウォーS・ヴァインランドH

1953

Kingmaker

ホイットニーH・ニューオーリンズH・グレイラグH・エクセルシオールH

1953

Prince John

ガーデンステートS

1953

Third Brother

ローマーH・ロングアイランドH

1954

Round Table

ハリウッド金杯・サンタアニタH・ブリーダーズフューチュリティS・ベイメドウズダービー・ブルーグラスS・ウィルロジャーズS・シネマH・ウェスターナーS・アメリカンダービー・ユナイテッドネーションズH2回・ホーソーン金杯2回・マリブS・サンフェルナンドS・サンタアニタマチュリティS・サンアントニオH・ガルフストリームパークH・アーゴノートH・アーリントンH・サンマルコスH・マンハッタンH・スターズ&ストライプスH・アーリントンH・ワシントンパークH

1955

Sequoia

スピナウェイS

1955

Sisters Prince

ゴールデンゲートH

1955

Whodunit

サンセットH2回・サンマルコスH

1956

Black Hills

ピーターパンS

1956

Perizade

ヴァニティH・サンタモニカH

1956

Quill

メイトロンS・エイコーンS・マザーグースS・デラウェアH

1956

Scotland

デルマーH

1957

Monarchy

アーリントンラッシーS

1957

Prince Blessed

ハリウッド金杯・アメリカンH

1958

Rose Bower

メイトロンS

1959

Bayou Bourg

デルマーダービー

1959

Firm Policy

テストS・モンマスオークス・アラバマS・トップフライトH

1959

Tambourine

愛ダービー

1960

Aquilla

ロンポワン賞

1960

Debbysman

ゴーサムS

1960

Flag

ディキシーH・ニッカボッカーH・サンガブリエルH

1960

Princess Arle

ブラックヘレンH

1960

Royal Ascot

ロイヤルパームH

1961

Brave Lad

ディスプレイH

1961

Crimea

チェヴァリーパークS・モールコームS

1962

Discipline

デモワゼルS・テストS・モリーピッチャーH

1964

Princessnesian

ハリウッド金杯・サンタバーバラH・ミレイディH・サンタマルガリータ招待H

1964

Quillo Queen

CCAオークス・モンマスオークス

1965

Call Me Prince

ウィザーズS

1965

Go Marching

バーナードバルークH・カナディアンターフH・ブランディワインターフH

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