和名:シャム |
英名:Sham |
1970年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:プリテンス |
母:セコイア |
母父:プリンスキロ |
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同世代のセクレタリアトの陰に隠れてしまったが、幻の米国三冠馬であると主張する人もいる、米国競馬史上有数の「偉大なるナンバー2」 |
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競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績13戦5勝2着5回 |
とても優秀な競走能力を有しながらも、あまりにも傑出した馬が同時代に存在したために、割を食ってしまった「産まれるべき年を間違えた馬」というのは古今東西存在する。米国競馬界においては1978年の米国三冠競走で全てアファームドの2着に敗れ去ったアリダーが代表例であるが、アリダーと並んで“Great Was Second Best(偉大なるナンバー2)”の双璧とされる馬がその5年前にも存在した。本項の主人公であるその馬シャムは、英語版ウィキペディアにおいて「20世紀における最も速い馬の1頭」として紹介されており、その卓越した競走能力は誰もが認めるものだった。しかしながら同世代にセクレタリアトという非常識極まりない怪物がいたために、その能力に見合うだけの競走成績を残すことは出来なかった。
誕生からデビュー前まで
米国ケンタッキー州クレイボーンファームにおいて、同牧場の所有者アーサー・ブル・ハンコック・ジュニア氏により生産・所有された。成長すると体高16.2ハンドに達した大柄な馬(体高だけならばセクレタリアトと全く同じ数値である)で、全身が筋肉に覆われた逞しい馬だった。ハンコック・ジュニア氏は、ナスルーラや、本馬の母父でもあるプリンスキロといった大種牡馬を成功させ、米国競馬界に大きな足跡を残した人物である。そんな彼は本馬を「私にとって最も偉大な馬になるかもしれない」と非常に高く評価していた。しかしウッディ・スティーヴンズ調教師に預けられた本馬がデビューする直前になって、スコットランドで趣味の狩猟をしていたハンコック・ジュニア氏は突然倒れて病院に担ぎ込まれた。診断の結果は末期の膵臓癌だった。
競走生活(2歳時)
本馬はハンコック・ジュニア氏が余命宣告を受けた直後の2歳8月にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦でデビューした。しかしスティーヴンズ師が後に「シャムは3歳になってからの馬でした」と語っているところからして、どうやらハンコック・ジュニア氏の生命があるうちにという急仕上げのデビューだったようで、勝ち馬アングルライト(セクレタリアトの同厩馬)から7馬身3/4差をつけられた3着に終わった。それから16日後には同じベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンの未勝利戦に出走したが、2着に敗れてしまった。この翌日9月14日にハンコック・ジュニア氏は62年間の生涯に幕を下ろした。彼の死からさらに9日後にはベルモントパーク競馬場で行われたダート8ハロンの未勝利戦に出走。亡きハンコック・ジュニア氏に捧げる勝利を挙げたいところだったが、後のエヴァーグレイズS3着馬ディックスブーツの頭差2着と惜敗してしまった。
それからしばらく経った11月に、ハンコック・ジュニア氏のワデル未亡人は、クレイボーンファームで繋養されていた種牡馬や繁殖牝馬の維持と、相続税支払いを両立させるために、現役競走馬の全てを売却に出した。そして本馬はニューヨークの建築業で大成功を収めていた不動産業者シグムンド・ソマー氏により20万ドルで購入され、ソマー氏の専属調教師だったキューバ生まれのフランク・“パンチョ”・マーティン厩舎に転厩した。
マーティン師の元で改めて調整された本馬は、12月にアケダクト競馬場で行われたダート8ハロンの未勝利戦で復帰。泥だらけの不良馬場で行われたこのレースを6馬身差で圧勝して未勝利を脱出し、2歳時を終えた。
競走生活(3歳初期)
3歳時は今まで主戦場としていた米国東海岸から西海岸に拠点を移し、元日にサンタアニタパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走から始動した。そしてこのレースから主戦となったラフィット・ピンカイ・ジュニア騎手を鞍上に、2着馬に15馬身差をつけるという衝撃的な勝ち方を披露し、一躍脚光を浴びた。2月初めに出走した同コースの一般競走も6馬身差で圧勝。それから10日後に出走したサンタカタリナS(GⅡ・D8.5F)では2着アウトオブザイースト(後のサンタアニタH2着馬)に2馬身半差で快勝した。翌3月にはサンフェリペS(GⅡ・D8.5F)に出走。しかしここでは何故か凡走し、トレモントS・サンミゲルS・サンハシントSの勝ち馬リンダズチーフ(前年のサンフォードSでセクレタリアトを生涯唯一の2番人気に落とした事で知られる)の7馬身3/4差4着に敗退。後に米国西海岸の強豪として米国顕彰馬にも選ばれるエインシャントタイトル(2着)や、前走で一蹴したアウトオブザイースト(3着)にも先着されてしまった。
次走のサンタアニタダービー(GⅠ・D9F)では、前走で本馬に先着した3頭が揃って出走してきて、リンダズチーフが単勝オッズ1.5倍という圧倒的な1番人気に支持されていた。ところがスタート直後にリンダズチーフはナイトリードーンという馬に進路を妨害されて数馬身ものロスを蒙った。その隙に先行した本馬が、リンダズチーフを2馬身半差の2着に、アウトオブザイーストを3着に、エインシャントタイトルを4着に破って勝利を収めた。前走の借りを返した形にはなったが、リンダズチーフの進路を塞いだナイトリードーンは本馬の同厩馬だったため、あまり後味が良い勝利とは言えなかった。それでも本馬の勝ちタイム1分47秒0は1965年にラッキーデボネアが計時したレースレコードと同タイムであり、ラッキーデボネアがその後にケンタッキーダービー馬となった事から、本馬もまたケンタッキーダービーの有力馬として評価されることになった。
そして本馬はケンタッキーダービーを目指して東上し、まずは前哨戦のウッドメモリアルS(GⅠ・D9F)に出走した。このレースがセクレタリアトと本馬の初顔合わせとなった。亡きハンコック・ジュニア氏が膵臓癌発覚前にその走りを見て大いに熱狂したセクレタリアトは、前年にサンフォードS・ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・ローレルフューチュリティ・ガーデンステートS勝ちなど9戦7勝の成績を残し、2歳にしてエクリプス賞年度代表馬に選ばれた逸材だった。そして3歳になってもベイショアS・ゴーサムSと連勝してケンタッキーダービーの大本命となっていた。
スタートが切られると、本馬が3着に敗れたデビュー戦の勝ち馬であるセクレタリアトの同厩馬アングルライトが先頭に立ち、本馬はそれから1~2馬身ほど後方の好位につけ、セクレタリアトは後方からレースを進めた。しかし最初の2ハロンを24秒6、半マイルを48秒2というスローペースに持ち込んだアングルライトの逃げ脚はなかなか衰えず、逆にセクレタリアトの反応は悪かった。前方のアングルライトよりも後方のセクレタリアトに注意を向けていたピンカイ・ジュニア騎手は仕掛けが一瞬遅れてしまい、ゴール前でアングルライトに肉薄するも頭差届かず2着に敗退。
それでも3着セクレタリアトには4馬身差をつけていた上に、アングルライトの勝利はフロック視された事から、ケンタッキーダービーの本命馬はセクレタリアトではなく本馬であるとする専門家達も現れた。事実、ウッドメモリアルSの翌日に発表されたルイビル・クーリエ・ジャーナル&タイムズ社によるケンタッキーダービー出走予定馬のレーティング一覧においては、本馬がトップでセクレタリアトは2位だった。セクレタリアトの評価が下がったのは、その父親ボールドルーラーが米国競馬史上五本の指に入る大種牡馬でありながら、過去に米国三冠競走勝ち馬を1頭も出していなかった事も影響していた。
ケンタッキーダービー
そして迎えたケンタッキーダービー(GⅠ・D10F)では、セクレタリアトとアングルライトに加えて、ブルーグラスSを勝ってきたマイギャラント、フラミンゴS・ホーソーンジュヴェナイルSの勝ち馬でブルーグラスS2着のアワーネイティヴ、フロリダダービー勝ち馬ロイヤルアンドリーガル、同2着馬で後に米国競馬史上有数の名馬となるフォアゴー、エヴァーグレイズS勝ち馬でフロリダダービー3着のレストレスジェット、アーリントンワシントンフューチュリティ・ハッチソンS・ファウンテンオブユースSの勝ち馬シェッキーグリーン、ファウンテンオブユースS2着馬トゥワイスアプリンスなどが対戦相手となった。セクレタリアトとアングルライトのカップリングが単勝オッズ2.5倍の1番人気となり、本馬は単勝オッズ3.5倍の2番人気だった。
スタートが切られると、この年のエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれるシェッキーグリーンが快速を活かして先頭に立ち、セクレタリアトは最後方からレースを進めた。一方の本馬は先行していたが、スターティングゲートに顔をぶつけて歯を2本折ってしまっており、口内から血を流しながら走っていた。直線に入ると先頭に立った本馬が必死に粘ったが、直線入り口では既に本馬のすぐ後方まで迫ってきていたセクレタリアトにかわされて、2馬身半差の2着に敗れた。
しかし本馬もアクシデントがありながらも3着アワーネイティヴに8馬身差をつける走りを見せており、しかも本馬の走破タイム1分59秒8は、セクレタリアトの走破タイム1分59秒4と共に、ケンタッキーダービー史上初めて2分を切る好タイム(それまでのレースレコードは1964年にノーザンダンサーが計時した2分フラット)だった。これ以降にケンタッキーダービーで2分を切るタイムで走った馬は、2001年の優勝馬モナーコス(1分59秒97)のみであるから、本馬の走破タイムは現在でもケンタッキーダービー史上第2位となっている。
ただし、本馬の走破タイムはセクレタリアトのそれと異なり非公式のものであり、実際の走破タイムは2分00秒2だったという説もあるくらいである。したがって上記の「ケンタッキーダービー史上第2位の走破タイム」というのも公式なものではないのだが、仮に2分00秒2が正しかったとしても、これより速いタイムでケンタッキーダービーを勝った馬はセクレタリアト、モナーコス、ノーザンダンサーの3頭しかいないわけであるから、タイムが全てではないにしても本馬の競走能力が普通の年であれば当然にケンタッキーダービー馬になれていたものであった事に疑いの余地は無い。
また、厩舎に戻った本馬の口内の出血を止める治療のために45分間もの時間を要している。そんな負傷が走りに悪影響を及ぼさなかったはずはなく、それさえ無ければもしかしたら違う結果になっていたかも知れない。しかしレース後にコメントを求められたピンカイ・ジュニア騎手は「スタート時のアクシデントは痛かったですが、それが無くてもシャムが1分59秒8よりも速いタイムで走破するのは難しかったでしょう」と、全力を出し切っての負けである事を潔く認めた。ちなみに本馬のラスト2ハロンの走破タイムは23秒6であり、これはラスト2ハロンを23秒フラットで走ったセクレタリアトと共に、1941年の勝ち馬ワーラウェイ(ラスト2ハロンの走破タイムは本馬と同じ23秒6)以来32年ぶりとなるケンタッキーダービーのラスト2ハロン24秒未満だった。
プリークネスS
次走のプリークネスS(GⅠ・D9.5F)では、セクレタリアト、本馬、アワーネイティヴの上位3頭を除くケンタッキーダービー出走馬は全て不在となり、完全にセクレタリアトと本馬の一騎打ちムードだった。スタートが切られると、トーションという馬が先頭に立ち、本馬は先行した。セクレタリアトは最初こそ最後方からレースを進めていたが、向こう正面に入る前から早くも進出すると、向こう正面入り口でトーションや本馬をかわして先頭に立った。そのままセクレタリアトが先頭を維持し、本馬がそれを追いかけるという体勢で三角と四角を回り、直線へと入ってきた。しかし本馬は最後までセクレタリアトに追いつけず、2馬身半差をつけられて2着に敗退。それでも3着アワーネイティヴには今回も8馬身差をつけていたから、セクレタリアト以外の同世代馬と本馬の実力差は非常に大きいものがあった。
なお、このレースにおけるセクレタリアトの公式な勝ちタイムは当初1分54秒4だったが、後の2012年になって1分53秒0に訂正された(その経緯はセクレタリアトの項を参照)。それに従って本馬の走破タイムは非公式ながらも1分53秒4と認定されたが、これはセクレタリアトを除く全てのプリークネスS優勝馬の勝ちタイムよりも速いもの(セクレタリアトに次ぐ史上2位の勝ちタイムは1996年の勝ち馬ルイカトルズの1分53秒43)となり、ケンタッキーダービーに続いてプリークネスSでも史上2位の走破タイムを本馬が保持することになった。
ベルモントS
次走のベルモントS(GⅠ・D12F)は僅か5頭立てとなり、セクレタリアトが単勝オッズ1.1倍という圧倒的な1番人気で、本馬は単勝オッズ6.1倍の2番人気だった。スタートが切られると本馬が先頭を伺ったが、今回はセクレタリアトがスタート直後から本馬に並びかけてきて、この2頭が先頭を走る展開となった。本馬はセクレタリアトに後れを取るまいと猛然と飛ばしたため、レースは猛烈なハイペースで推移した。本馬にとってもセクレタリアトにとっても距離12ハロンというのは初経験であり、この段階において本馬とセクレタリアトのいずれがスタミナ面において上位なのかは確定されていなかった。そのために本馬陣営は、セクレタリアトより本馬のほうがスタミナ面で勝っているかも知れないという可能性に賭けて、ピンカイ・ジュニア騎手に対してセクレタリアトより前で競馬をするように指示を出していたそうである。しかし陣営が抱いていた僅かな可能性は、向こう正面で本馬のほうが先にスタミナが切れて失速した時点で消滅した。一方のセクレタリアトはスタミナ切れなどまるで感じさせずにその後も先頭を爆走し続け、2着トゥワイスアプリンスに31馬身差をつけて、1948年のサイテーション以来25年ぶり史上9頭目の米国三冠馬となった。そして完全にスタミナが切れた状態で走り続けた本馬は、トゥワイスアプリンスから14馬身後方(セクレタリアトからは45馬身差)の5着最下位でゴールインした。もっとも、この日の本馬はレース前から焦れ込んで大量に発汗しており、この結果だけで本馬はスタミナ能力に欠けていたと断定する事は出来ない。
故障のため3歳半ばで競走馬を引退
この後は8月のホイットニーHを目標として調整されていた本馬だったが、7月の調教中に脚の管骨を骨折してしまった。患部に3本のボルトを埋め込む手術が成功したために一命は取り留めたが、現役を続けられる状況ではなく、3歳時9戦4勝の成績で競走馬を引退した。本馬が出走しなかったホイットニーHにはセクレタリアトが出走したが、オニオンという伏兵に足元を掬われて2着に敗れている。
なお、セクレタリアトは集中力に欠ける面がありブリンカーを装着している事が多かったが、それは本馬も同様であり、多くのレースでブリンカーを装着していた。馬名は「偽物・詐欺師」といった意味で、父プリテンスの馬名が「見せかけ」を意味する事からの連想であると思われる。
ところで日本の某動画サイトで本馬を「世界史上最不幸馬」「駄馬のように切って捨てられる馬」と呼称しているのを見かけた。筆者はこうしたインターネット上の掲示板に書き込む人々と自分は別種の人間であると思っており、彼等の事を肯定も否定もするつもりはなく、こうした記載内容に関しても基本的に意見を述べる意思は無いのだが、今回は上記呼称に関してあえて意見を述べさせてもらう。まず「世界史上最不幸馬」についてだが、さすがに本馬が幸運な馬だったとまで主張するつもりは無いけれども、競走馬や種牡馬として一定の脚光を浴びた本馬より不幸なサラブレッドなど星の数ほどいる(アリダーの項の末尾に書いたとおりである)わけだから、この呼称は的外れの極致である。次に「駄馬のように切って捨てられる馬」についてだが、少なくとも筆者が確認した範囲において本馬を「駄馬」として扱っている海外の資料は無い。それどころか2007年に本馬を主人公とした書籍“Sham,in the shadow of a superhorse”が米国で出版されており、本馬が「駄馬のように切って捨てられる馬」として扱われてなどいない事を証明している。したがって、上記動画サイトをよく利用する人の中に心ある人がいるのなら、速やかに上記呼称は削除するか修正してもらいたいものである(筆者はこの動画サイトに登録していないし、そもそも関わりたくない)。
血統
Pretense | Endeavour | British Empire | Colombo | Manna |
Lady Nairne | ||||
Rose of England | Teddy | |||
Perce-Neige | ||||
Himalaya | Hunter's Moon | Hurry On | ||
Selene | ||||
Partenope | Perrier | |||
Mystify | ||||
Imitation | Hyperion | Gainsborough | Bayardo | |
Rosedrop | ||||
Selene | Chaucer | |||
Serenissima | ||||
Flattery | Winalot | Son-in-Law | ||
Gallenza | ||||
Fickle | Solario | |||
Fifinella | ||||
Sequoia | Princequillo | Prince Rose | Rose Prince | Prince Palatine |
Eglantine | ||||
Indolence | Gay Crusader | |||
Barrier | ||||
Cosquilla | Papyrus | Tracery | ||
Miss Matty | ||||
Quick Thought | White Eagle | |||
Mindful | ||||
The Squaw | Sickle | Phalaris | Polymelus | |
Bromus | ||||
Selene | Chaucer | |||
Serenissima | ||||
Minnewaska | Blandford | Swynford | ||
Blanche | ||||
Nipisiquit | Buchan | |||
Herself |
父プリテンスは現役成績31戦13勝、サンタアニタH・サンアントニオH・ガルフストリームパークH・サンパスカルH・パロスヴェルデスH・イングルウッドH・シェリダンH・ビングクロスビーSなどを勝っている。種牡馬としてもまずまずの成功を収めたが、最大の功績は大繁殖牝馬フォールアスペン(ティンバーカントリーの母。ドバイミレニアムの祖母)を出した事だろう。プリテンスの父エンデヴァーは現役成績24戦12勝。亜国産馬だったが、米国へ輸入されて種牡馬として成功した。その父ブリティッシュエンパイヤーは英国産馬で、父が名馬コロンボ、母が英オークス馬ローズオブイングランド、半兄が英セントレジャー勝ち馬チュルムリーという良血馬だったが、競走馬としてはジュライSなど4勝を挙げた程度に留まった。種牡馬としては輸出先の亜国で大成功し、2度の亜首位種牡馬を含めて14年連続で亜国種牡馬ランキングの10位以内を確保した。
母セコイアは現役成績22戦4勝、スピナウェイSに勝っている。母としては本馬の半兄デンドロン(父タタン)【サンバーナーディノH】を産んでいる。また、本馬の半姉リトルセコイア(父ダブルジェイ)の子にはプリンセスダブルデイ【アスタリタS】がいる他、リトルセコイアの玄孫にはデザートウォー【AJCエプソムH(豪GⅠ)2回・AJCクイーンエリザベスS(豪GⅠ)】とレーザーホーク【ローズヒルギニー(豪GⅠ)】の兄弟がいる。セコイアの全姉ハウはケンタッキーオークス・CCAオークス・レディーズHを勝った名牝で、ハウの娘ポカホンタスもスカイラヴィルSを勝った活躍馬。ポカホンタスの牝系子孫にはその息子である名種牡馬トムロルフ【プリークネスS・カウディンS・アーリントンクラシックS・アメリカンダービー】を始めとする多くの活躍馬がいる。セコイアの全姉でハウの全妹に当たるチェロキーローズは姉と同じくCCAオークスを勝った名牝。チェロキーローズの牝系子孫にはその孫である米国顕彰馬アクアクを筆頭に、BCスプリント勝ち馬スクワートルスクワートや日本のダート王ゴールドアリュールなど多くの活躍馬がいる。→牝系:F9号族①
母父プリンスキロは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は米国ケンタッキー州スペンドスリフトファームで種牡馬入りした。競走馬としては明らかにセクレタリアトに及ばなかった本馬だが、種牡馬としてはそれほど引けを取らない好成績を残した。本馬が出したステークスウイナーは47頭で、これはセクレタリアトの57頭よりは少ないが、交配された繁殖牝馬の質や量を考慮すると、種牡馬としての能力はほぼ互角だったと言えるだろう。しかしセクレタリアトも同様だが、産駒の活躍馬には牝馬が多かったため、2頭揃って後継種牡馬には恵まれず、現在では2頭の直系子孫はほぼ見られなくなっている。
本馬は1992年にケンタッキー州ウォルマック国際ファームに移動。翌1993年4月に心不全のため23歳で他界した。本馬の遺体は検死に回され、この4年前の1989年に他界していたセクレタリアトの検死も担当したケンタッキー大学の解剖学者トマス・スワークチェック博士により心臓の重さが量られた。それにより、本馬の心臓の重さは18ポンドである事が判明した。これは22ポンドと推定されたセクレタリアトのそれよりは軽いが、普通のサラブレッドの平均値9ポンドを大きく上回るものであり、これを根拠として、本馬はセクレタリアトと同じ年にさえ産まれなければ米国三冠馬になっていただろうとする論調も見受けられる。ちなみにスワークチェック博士はセクレタリアトの心臓の重さを実際には量っておらず、上述したセクレタリアトの心臓の重さ22ポンドは、本馬よりセクレタリアトの心臓のほうが4ポンドほど重かったとスワークチェック博士が感じたという根拠に由来するものであるから、ケンタッキーダービーの走破タイムと異なり、心臓の重さに関しては本馬の数値は公式であるのに対してセクレタリアトのそれは非公式である。検死が終わった本馬の遺体はウォルマック国際ファームに埋葬された。母の父としては1996年のスプリンターズSにおいてフラワーパークに1cm差で敗れたエイシンワシントンなどを出している。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1975 |
Jaazeiro |
愛2000ギニー(愛GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・セントジェームズパレスS(英GⅡ)・シェーヌ賞(仏GⅢ) |
1975 |
Sherry Peppers |
スピナウェイS(米GⅠ) |
1977 |
Colonel Moran |
ゴーサムS(米GⅡ)・ウィザーズS(米GⅡ)・ベイショアS(米GⅢ)・サルヴェイターマイルH(米GⅢ) |
1977 |
Lafontaine |
カンバーランドロッジS(英GⅢ) |
1978 |
Safe Play |
ラカナダS(米GⅠ)・フォールズシティH(米GⅢ) |
1979 |
Sham's Princess |
フィユドレール賞(仏GⅢ) |
1980 |
American Stress |
ボワ賞(仏GⅢ) |
1980 |
It's Fine |
ロングルックH(米GⅡ) |
1980 |
Nile Hawk |
コンデ賞(仏GⅢ) |
1980 |
Shamtastic |
プレジデンツCS(米GⅢ) |
1983 |
Arewehavingfunyet |
オークリーフS(米GⅠ)・デルマーデビュータントS(米GⅡ)・ランダルースS(米GⅢ) |
1985 |
French Stress |
パース賞(仏GⅢ)・エドモンブラン賞(仏GⅢ)・シュマンドフェルデュノール賞(仏GⅢ) |
1985 |
Sheesham |
レイルバードS(米GⅢ) |
1987 |
プリンスシン |
京都記念(GⅡ) |