サルダナパル

和名:サルダナパル

英名:Sardanapale

1911年生

鹿毛

父:プレステージ

母:ジェンマ

母父:フロリゼル

主に牝駒を通じて後世に大きな影響力を残す第一次世界大戦前夜における仏国競馬の最強馬

競走成績:2・3歳時に仏で走り通算成績16戦11勝2着3回3着1回

誕生からデビュー前まで

有名なロスチャイルド一族の一員(ロスチャイルドの独語読みがロートシルト)である仏国の銀行家モーリス・ド・ロートシルト男爵により、仏国シャンパーニュ牧場において生産・所有された仏国産馬である。背は高くて首と胴は長く、非常に筋肉質の馬体の持ち主だった。また、四肢がいずれも真っ直ぐに伸びており、特に前脚は立っている際には地面とほとんど垂直になっていた。そのためか脚は頑丈であり、脚部不安とは無縁だったという。ただし、あまりにも脚がぴんとなっていたため、(走っているときを除けば)見る者に優美さという印象を殆ど与えなかったという。

競走生活

モーリス・ド・ロートシルト男爵の専属調教師ジェームズ・ド・オクユイセン師の管理馬として、2歳時にドーヴィル競馬場で行われたヤコウレフ賞(T1000m)でデビューすると、2着モンゴジャールに3馬身差で快勝。次走のモルニ賞(T1200m)では、モーリス・ド・ロートシルト男爵の従兄弟エドワール・アルフォンス・ド・ロートシルト男爵の所有馬で後に好敵手となるラファリナ、後に仏2000ギニー・クリテリウムドメゾンラフィットを勝つリストマンといった実力馬達との対戦となったが、本馬が2着フォースクエシに3馬身差で完勝した。次走のセーネワーズ賞(T1400m)も、2着グエルオワイヤント以下に勝利した。しかし仏グランクリテリウム(T1600m)では、後の仏オークス馬アレルトに辛うじて先着するのが精一杯で、ルグランプレシニー、フィルロークスに後れを取って、ルグランプレシニーの3着に敗れた。次走のフォレ賞(T1600m)でもルグランプレシニーの2着に敗れ、2歳時の成績は5戦3勝となった。

3歳時は3月にメゾンラフィット競馬場で行われたラグランジュ賞(T2000m)から始動して、ルグランプレシニーや後の英ダービー馬ダーバーなどを蹴散らして勝利した。次走は古馬相手のボラー賞となり、後にカドラン賞を勝つニンバス、ドーヴィル大賞勝ち馬アイサード、フィデリオといった4歳馬勢に屈して4着に敗れた。しかし次走のオカール賞(T2400m)では2着ヒッコリーに2馬身差で勝ち、ミスグラディエイター賞(T2200m)も勝利した。ダリュー賞(T2100m)ではラファリナと2度目の対戦となったが、今回はラファリナが勝ち本馬は2着に敗れた。次走のリュパン賞(T2100m)でもラファリナとの対戦となったが、今回もラファリナが本馬を2着に破って勝利した。

その後、ラファリナ不在のエドヴィル賞(T2000m)を3馬身差で勝ち、仏ダービー(T2400m)に駒を進めた。ラファリナは不参戦だったが、代わりに英ダービーを勝ってきたダーバー、グレフュール賞を勝ってきたディドロが相手となった。しかし結果は本馬が2着ディドロに2馬身差、4着ダーバーにさらに2馬身半差をつけて優勝した。

次走のパリ大賞(T3000m)ではラファリナ、ダーバーとの対戦となった。レースは本馬とラファリナが猛烈なペースで先頭争いを演じ、そのままゴールまで一騎打ちを続けた。最後は3分11秒1という全仏レコードを樹立した本馬が、ラファリナを首差の2着に、ダーバーを3着に退けて優勝した。ただし、このレースにおける斤量は本馬の方がラファリナよりも軽く、本馬が同世代の最強馬として万人に認められたわけではなかったが、2頭の直接対決はこれが最後となったため、2頭の完全決着を見る事は出来なかった。

本馬の次走は仏共和国大統領賞(T2500m・現サンクルー大賞)となった。かつてボラー賞で屈したカドラン賞の勝ち馬ニンバスといった強力古馬勢が再び対戦相手となったが、今度は本馬がニンバスを着外に破って勝利を収め、ボラー賞の借りを返した。続くユジェーヌアダム賞(T2000m)では、コンデ賞・フォンテーヌブロー賞の勝ち馬オレステなどの他馬勢に6.5kgのハンデを与えながらも、2着オレステに5馬身差で圧勝した。

しかし時を同じくして第一次世界大戦が勃発。その影響で仏国競馬が中止されてしまったために、底を見せないまま3歳時11戦8勝の成績で競走馬引退となってしまった。

血統

Prestige Le Pompon Fripon Consul Monarque
Lady Lift
Folle Avoine Favonius
Albani
La Foudre Scottish Chief Lord of the Isles
Miss Ann
La Noue Le Petit Caporal
Gertrude
Orgueilleuse Reverend Energy Sterling
Cherry Duchess
Reveuse Perplexe
Reverie
Oroya Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Freia Hermit
Thorsday
Gemma Florizel St. Simon Galopin Vedette
Flying Duchess
St. Angela King Tom
Adeline
Perdita Hampton Lord Clifden
Lady Langden
Hermione Young Melbourne
La Belle Helene
Agnostic Rosicrucian Beadsman Weatherbit
Mendicant
Madame Eglentine Cowl
Diversion
Bonnie Agnes  Blair Athol Stockwell
Blink Bonny
Little Agnes The Cure
Miss Agnes

父プレステージは幼少期にオーナーブリーダーのJ・ラヴォー氏が死去したために米国のウィリアム・キッサム・ヴァンダービルトⅡ世氏に購入され、仏国ウィリアム・デューク調教師の元で走った。2歳時はクリテリウムドメゾンラフィット・仏グランクリテリウム・フォレ賞・ドゥザン賞(現モルニ賞)・オムニウムドゥドゥザン(現ロベールパパン賞)など7戦全勝。3歳時は(おそらく生産者の死により登録が無効となったために)仏国クラシック競走には不参戦だったが、ラグランジュ賞・ユジェーヌアダム賞・エドヴィル賞など9戦全勝(うち単走2回)の成績を残して引退した。通算成績16戦全勝は、仏国競馬における最多無敗記録として現在も残っているようである。

プレステージは抜群のスピードでスタートからゴールまで先頭で走り抜けるのが常套戦法で、仮にスタートで先手を取れなかった場合でも、ゴールでは必ず前の馬を差し切ってみせた。英国三冠馬グラディアトゥール以来仏国競馬に出現した最良の馬と評されたほどの名馬である。息子である本馬と同様に筋肉質で大柄な馬体の持ち主だったが、本馬と異なり脚はあまり丈夫ではなかったという。競走馬引退後は仏国ケスネー牧場で種牡馬入りした。種牡馬としては当初の成績が今ひとつだったためにヴァンダービルトⅡ世氏はプレステージを手放してしまったが、その翌1914年に本馬の活躍により仏首位種牡馬に輝いた。もっとも、その後の種牡馬成績は今ひとつであり、結局本馬を出した以外にはこれといった活躍を示せないまま、1924年に腸破裂で他界している。

プレステージの父ルポンポンはラグランジュ賞・コンデ賞・フォンテーヌブロー賞の勝ち馬。遡ると、ロンシャン賞の勝ち馬フリポン、仏2000ギニー・仏ダービー馬コンスルを経て、英国三冠馬グラディアトゥールの父モナルクに行きつく。

母ジェンマは英2000ギニー馬ヴェーダスの全妹に当たる。第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿とジョージ・ラムトン調教師のコンビ下で走り、2歳時に6戦2勝2着3回の成績を残したが、気性面に問題があり3歳時は9戦未勝利で引退した。引退後はモーリス・ド・ロートシルト男爵に購入されて仏国で繁殖入りしていた。

ジェンマの兄にはヴェーダスの他に、サセックスSの勝ち馬アルデシール(父エアシャー)がいる。

ジェンマの母アグノスティックの半姉ボニージーン【英オークス】の牝系子孫からは、エルバジェ【仏ダービー・サンクルー大賞】、デトロワ【凱旋門賞(仏GⅠ)】、カーネギー【凱旋門賞(仏GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)】、ザビール【オーストラリアンギニー(豪GⅠ)】、ダホス【BCマイル(米GⅠ)2回】、日本で走ったテツノカチドキ【東京大賞典2回・帝王賞】などが出ている。

アグノスティックの祖母リトルアグネスの全妹ポリーアグネスは、無敗の英国三冠馬オーモンドの母であるリリーアグネスの母であり、この牝系からは数々の活躍馬が登場しているが、その詳細はリリーアグネスの項を参照してほしい。→牝系:F16号族①

母父フロリゼルはセントサイモン直子で、グッドウッドC・セントジェームズパレスS・ゴールドヴァーズ・英ジョッキークラブCなどの勝ち馬。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はモーリス・ド・ロートシルト男爵の所有のもと、仏国で種牡馬入りした。当初は生まれ故郷のシャンパーニュ牧場で種牡馬生活を送っていたが、1926年にモーリス・ド・ロートシルト男爵が新しく所有したラフォンテーヌ牧場に移動した。本馬は種牡馬としても成功し、1922・27年の仏首位種牡馬に輝き、それを含めて仏種牡馬ランキング10位以内に7回入った。また、仏母父首位種牡馬には1回(獲得年は不明)、仏障害競走首位種牡馬にも1926年の1回輝いている。1934年11月に23歳で他界した。

本馬が種牡馬入りした当初は第一次世界大戦の最中であり、モーリス・ド・ロートシルト男爵は本馬産駒を所有して走らせるよりも、ドーヴィルのセリで売却する方に重点を置いた。そのため、本馬産駒の所有者の多くは米国の人であり、結果として本馬の血を引く馬は仏国だけでなく他国で繁殖入りする事も多かった。その中には本馬の娘であるザリバ(凱旋門賞を2連覇した名牝コリーダの母)、セケーメット(米国の歴史的名馬ナシュアの祖母)、フォーテレッセ(英ダービー馬にして名種牡馬ロベルトの4代母)、亜国の根幹繁殖牝馬となったバランディラとアレトゥーザの2頭、南アフリカの根幹繁殖牝馬となったカスタネットや、本馬の娘の娘であるアストロノミー(カドラン賞4連覇のマーシャス、8戦無敗の凱旋門賞馬カラカラ、アスコット金杯勝ち馬アルバールなどの母)、ブラックマリア(ネイティヴダンサーの父ポリネシアンの曾祖母)、本馬の息子ディスドンク(米国顕彰馬トップフライトの父)、本馬の息子アペレの娘であるトファネラ(凱旋門賞2連覇など16戦無敗のリボーの父テネラニの母)などがいるのである。本馬の直系は伸びなかったが、上記に挙げた馬達を経由してその血は欧州のみならず米国・亜国・南アフリカなどに広がり、現在も影響力を保ち続けている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1916

Assyrienne

モートリー賞

1918

Doniazade

仏オークス

1919

Bahadur

仏共和国大統領賞・エドモンブラン賞・ドーヴィル大賞・ラクープドメゾンラフィット

1919

Gaurisankar

フォンテーヌブロー賞・ユジェーヌアダム賞

1919

Zariba

ジャックルマロワ賞・フォレ賞・ダリュー賞・ペネロープ賞・プラージュフルーリ賞・モーリスドギース賞・エドモンブラン賞・エドヴィル賞

1920

Solange

フィユドレール賞

1922

Cotlogomor

ニューオーリンズH

1922

Eleusis

サンロマン賞

1923

Apelle

コロネーションC・クリテリウムドメゾンラフィット・伊ダービー・ミラノ大賞・ラクープドメゾンラフィット

1923

Briseis

フィユドレール賞

1924

Bellecour

マルレ賞・ミネルヴ賞・ポモーヌ賞

1924

Fiterari

仏2000ギニー・パリ大賞・ロワイヤルオーク賞

1925

Balmoral

コンセイユミュニシパル賞

1925

Likka

ロワイヨモン賞

1926

Charlemagne

ドーヴィル大賞

1929

Bievres

ゴントービロン賞

1930

Le Grand Cyrus

オカール賞

1930

Magnus

リス賞・ラクープドメゾンラフィット

1932

Kant

仏2000ギニー

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