バーバロ

和名:バーバロ

英名:Barbaro

2003年生

黒鹿

父:ダイナフォーマー

母:ラヴィルルージュ

母父:カーソンシティ

デビューから無敗でケンタッキーダービーを制覇するもプリークネスSで致命的な故障を起こし8か月に及ぶ闘病生活の末に力尽きる

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績7戦6勝

誕生からデビュー前まで

米国ペンシルヴァニア州在住のM・ロイ・ジャクソン氏と妻のグレッチェン夫人のラエルステーブルにより米国ケンタッキー州において生産・所有された。本馬と同世代のラエルステーブル産馬には、後にカルティエ賞最優秀2歳牡馬・同最優秀3歳牡馬に選ばれるジョージワシントンもいるのだが、ジョージワシントンは愛国産馬なので、米国産馬である本馬と顔を合わせる機会はおそらく無かったと思われる。

ジャクソン夫妻は本馬を米国マイケル・R・マッツ調教師に預けた。マッツ師は元々乗馬跳躍競技の選手であり、1986年の世界選手権では団体で金メダルを獲得するなど長年に渡って活躍して、乗馬跳躍競技の殿堂入りも果たしていたほどの名選手だった。また、1989年にアイオワ州スーゲートウェイ空港で発生したユナイテッド航空232便不時着事故(乗員乗客296人中111人が死亡)の際に婚約者(現夫人)と一緒に同便に乗っており、事故後に4人の子どもを救出(うち生後11か月の女の子を助けるために彼は炎の中に飛び込んでいる)して、英雄として賞賛された人物でもあった。その一方で1998年からメリーランド州を本拠地として調教師の仕事も開始しており、セクレタリアトSやアーリントンミリオンSを勝利したキッケンクリスなどを手掛けて、早くも頭角を現し始めていた。

競走生活(3歳初期まで)

2歳10月にデラウェアパーク競馬場で行われた芝8ハロンの未勝利戦で、ホセ・カラバロ騎手を鞍上にデビューした。ポリスチーフという馬が単勝オッズ2.4倍の1番人気、グレートガストという馬が単勝オッズ4.1倍の2番人気、オビスポストリートという馬が単勝オッズ6倍の3番人気で、本馬は単勝オッズ8.5倍の4番人気だった。スタートから単勝オッズ12.2倍の5番人気馬ハージェスが先頭に立ち、本馬はその直後2番手を追走。四角で先頭に立つと、そのまま直線で後続を引き離し続け、2着に入った単勝オッズ14.1倍の6番人気馬ジェイズリベンジ(後のベンアリS勝ち馬)に8馬身半差をつける圧勝でデビュー戦を飾った。

翌月のローレルフューチュリティ(T8.5F)では、サマーS3着馬ウェディングシンガーが単勝オッズ3.4倍の1番人気、前走に続いてカラバロ騎手が騎乗する本馬が単勝オッズ3.8倍の2番人気、愛メイトロンSの勝ち馬タドウィガの息子である後のサラナクSの勝ち馬ロックロブスターが単勝オッズ4.1倍の3番人気、後にアルフレッドGヴァンダービルトH・メリーランドBCスプリントHを勝ちフランクJドフランシス記念ダッシュS・カーターH・BCターフスプリントで2着するディアボリカルが単勝オッズ6.7倍の4番人気だった。スタートが切られると単勝オッズ50.4倍の10番人気馬カポディカピが先頭に立ち、本馬は前走と同じく2番手につけた。そしてやはり四角で先頭に立つと、やはり直線では後続を引き離し続け、2着ディアボリカルに8馬身差をつけて大楽勝した。

2歳時は2戦のみで終え、3歳時は元日にフロリダ州コールダー競馬場で行われたトロピカルパークダービー(GⅢ・T9F)に出走した。このレースから、本馬の主戦はエドガー・プラード騎手が務める事になった。過去2戦の内容が評価された本馬が単勝オッズ1.4倍という圧倒的な1番人気に支持され、グランドキャニオンSを勝ってきた後のワシントンパークH・パットオブライエンHの勝ち馬ルイスマイケルが単勝オッズ7.7倍の2番人気、ローレルフューチュリティで6着だったウェディングシンガーが単勝オッズ11.9倍の3番人気となった。

スタートが切られると単勝オッズ16.7倍の5番人気馬ミスターシルヴァーが先頭に立ち、本馬は今回も2番手を追走した。そして直線入り口で先頭に立ったところに、単勝オッズ19.6倍の6番人気馬ワイズリヴァー(後にロバートFケアリー記念Hを勝つ)が追い上げてきた。しかし最後まで影を踏ませることはなく、2着ワイズリヴァーに3馬身3/4差をつけて完勝した。

翌月にはガルフストリームパーク競馬場でホーリーブルS(GⅢ・D9F)に出走した。初のダート競走だった上に、後にスティーヴンフォスターHなどに勝利するレムセンS2着馬フラッシーブル、後にハリウッドターフカップS・ピーターパンS・ボーリンググリーンHに勝ちマンノウォーSで2着・ベルモントSで3着するサンリヴァー、アヴェンチュラSを勝ってきたドクターデカード、アヴェンチュラS2着馬イッツオールバウトザチェイス、アヴェンチュラS3着馬マイゴールデンソング、後のプリークネスS3着馬ヘミングウェイズキーといった実力馬達が参戦してきた。本馬が単勝オッズ2.6倍の1番人気に支持され、フラッシーブルが単勝オッズ5.2倍の2番人気、イッツオールバウトザチェイスが単勝オッズ8.5倍の3番人気、サンリヴァーが単勝オッズ8.8倍の4番人気となった。

レースは泥だらけの不良馬場で施行され、過去に芝の堅良馬場しか走った事がない本馬にとっては少々厳しい状況となった。序盤のレースぶり自体は今までと変わらず、単勝オッズ10.3倍の5番人気馬ドクターデカードを先に行かせて2番手につけた。そして四角で先頭に立って押し切りを図ったが、やはり慣れない馬場状態が影響したのか、過去3戦のような伸び伸びとした走りはなく、最後方からの追い込みに賭けた単勝オッズ26倍の8番人気馬グレートポイントに詰め寄られた。それでも最後はなんとか3/4馬身凌いで勝利した。

次走のフロリダダービー(GⅠ・D9F)では、前走4着のフラッシーブル、同7着のサンリヴァー、スウェイルSを勝ってきたシャープヒューマーなどが主な対戦相手であり、前走と出走馬のレベルは大差なかった。本馬が前走と同じ単勝オッズ2.6倍の1番人気に支持され、フラッシーブルが単勝オッズ5倍の2番人気、サンリヴァーが単勝オッズ5.3倍の3番人気、シャープヒューマーが単勝オッズ7.4倍の4番人気となった。本馬はスタートで少し後手を踏んでしまったが、すぐに立て直して、逃げるシャープヒューマーを2番手で追走した。そして直線でシャープヒューマーに並びかけて叩き合いに持ち込み、半馬身差で勝利を収めた。

ケンタッキーダービー

そして5戦無敗でケンタッキーダービー(GⅠ・D10F)を迎えることになった。米国最大の競走ケンタッキーダービーであるから当たり前だが、対戦相手は質量ともに過去に本馬が出走してきたレースとは比較の対象にならないほど上昇していた。前走イリノイダービーを9馬身1/4差で圧勝してきたスウィートノーザンセイント、ハリウッドフューチュリティ・サンタアニタダービー・ノーフォークS・サンラファエルS・サンタカタリナSのブラザーデレク、サンフェリペS・サンタアニタダービーで連続2着してきたポイントデターマインド、ブルーグラスSを12馬身3/4差で圧勝してきたシニスターミニスター、リズンスターS・レベルS・アーカンソーダービーなど6連勝中のローヤーロン(翌年にホイットニーH・ウッドワードSを制してエクリプス賞最優秀古馬牡馬に選出)、ウッドメモリアルS・シャムSの勝ち馬でハリウッドフューチュリティ3着のボブアンドジョン、サンフェリペSの勝ち馬でノーフォークS2着・サンタアニタダービー3着のエーピーウォリアー、アーカンソーダービー2着のステッペンウルファー、ウッドメモリアルS2着のジャジル(後のベルモントS勝ち馬)、エルカミノリアルダービー・カリフォルニアダービーの勝ち馬でイリノイダービー3着のコーズトゥビリーヴ、レキシントンSを勝ってきたショウイングアップ(後にセクレタリアトS・ハリウッドダービー・ジャマイカBCHを勝利。本馬と生産者・調教師は異なるが馬主は同じラエルステーブルだった)、ハッチソンSの勝ち馬でゴーサムS2着・ウッドメモリアルS3着のキードエントリー、ナシュアS・レムセンSの勝ち馬ブルーグラスキャット(後にハスケル招待Hを勝ちベルモントS・トラヴァーズSで2着している)、ベルモントフューチュリティS・ケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬でアーカンソーダービー3着のプライヴェートヴァウ、ブルーグラスS2着のストームトレジャー、レーンズエンドS2着のシーサイドリトリート、タンパベイダービーの勝ち馬デピュティグリッターズ、フロリダダービーから直行してきたシャープヒューマー、同7着から直行してきたフラッシーブルといった同世代の有力牡馬勢が大挙して出走してきて、ケンタッキーダービーに相応しいメンバー構成となった。

人気は非常に割れており、イリノイダービーの勝ち方が評価されたスウィートノーザンセイントが単勝オッズ6.5倍の1番人気となり、本馬が単勝オッズ7.1倍の2番人気、4連勝中のブラザーデレクが単勝オッズ8.7倍の3番人気、ポイントデターマインドが単勝オッズ10.4倍の4番人気、シニスターミニスターが単勝オッズ10.7倍の5番人気、ローヤーロンが単勝オッズ11.2倍の6番人気と続いていた。

スタートが切られると単勝オッズ29.8倍の13番人気馬キードエントリーが強引に先頭に立ち、シニスターミニスターがそれを追って先行。本馬はシャープヒューマーやショウイングアップなどと共に3~5番手の好位につけた。最初の2ハロン通過が22秒63、半マイル通過が46秒07というかなりのハイペースとなり、このペースが祟ったのか前の2頭は三角途中で脚色が落ち始めた。代わりに本馬が先頭に立ち、ショウイングアップやブルーグラスキャットなどを徐々に引き離しながら四角を回って直線に入ってきた。そして直線であっという間に後続を引き離し、2着に突っ込んできた単勝オッズ31倍の14番人気馬ブルーグラスキャットに6馬身半差という決定的な差をつけて圧勝。2004年のスマーティジョーンズ以来2年ぶり史上6頭目の無敗でのケンタッキーダービー制覇となった。

なお同日に行われた英2000ギニーでは、本馬と同じラエルステーブル産馬のジョージワシントンが優勝している。ジョージワシントンはクールモアグループに購入されていたために、ラエルステーブル名義ではなかったが、それでもジャクソン夫妻にとっては生産馬が英米のクラシック競走をダブル制覇するという非常に嬉しい日となったはずである。

プリークネスS

次走のプリークネスS(GⅠ・D9.5F)では、ケンタッキーダービー4着のブラザーデレク、同7着のスウィートノーザンセイント、ウィザーズSを快勝してきたバーナーディニ、ゴーサムSの勝ち馬でレキシントンS2着のライクナウ、ローレルフューチュリティ2着後にスペクタキュラービッドSでも2着していたディアボリカル、ホーリーブルS11着に3戦して全て惨敗していたヘミングウェイズキーなど8頭が対戦相手となった。本馬が単勝オッズ1.5倍という断然の1番人気に支持され、ブラザーデレクが単勝オッズ4.2倍の2番人気、スウィートノーザンセイントが単勝オッズ9.4倍の3番人気、バーナーディニが単勝オッズ13.9倍の4番人気と続いた。

1946年のアソールト(ケンタッキーダービーを8馬身差で圧勝して、その後に米国三冠馬になっている)以降の60年間では最大の着差でケンタッキーダービーを制した本馬に対する期待は非常に高まっており、この時点で早くも米国三冠馬誕生を有力視する声も大きく、11万8402人というピムリコ競馬場史上最大となる大観衆が詰め掛けていた。

しかし本馬はスタート前にゲートを壊してフライングスタートを切ってしまった。馬体検査が行われ、異常無しと診断されたために再度ゲート内に収まり、改めて正式なスタートが切られた。スタート直後は馬群の中団好位辺りを普通に走っていたのだが、最初のコーナーに入る前に右後脚に故障を発生。異変を感じたプラード騎手はすぐに競走を中止し、痛がる本馬をコースの外側へと寄せた。そこへマッツ師達関係者が駆け寄ってきた。本馬は右後脚を地面に着ける事が出来ずに、他の三本の脚で立ち尽くしている状態だった。プラード騎手やマッツ師達は馬運車が駆けつけてくるまで、本馬の体を必死に支え続け、本馬も痛みを堪えてじっとしていた。そして本馬が馬運車に乗せられて搬送されていくと、プラード騎手とマッツ師は抱き合って涙を流した。

すぐに病院に搬送された本馬の診断結果は、右後脚の球節上部の砲骨顆部と球節下部の第一趾骨の粉砕骨折で、その骨折箇所は大別して3箇所、細かく数えると実に20箇所以上に及んでいた。競走生活続行どころか、生命に関わる重度の故障であり、プリークネスSが現役最後のレースとなり、3歳時5戦4勝の成績で競走馬引退となった。

なお、観衆の異様なざわめきと悲痛な実況の中で続行されたプリークネスSは、バーナーディニがスウィートノーザンセイント以下に勝利を収め、そのまま同世代のトップホースへと上り詰めていった。

本馬の骨折の原因については定かではない。少なくとも使い詰めによるものではないと思われる。何故なら本馬のケンタッキーダービーは前走フロリダダービーから5週間後のものであり、これは1956年のニードルズと並んで過去50年間のケンタッキーダービー馬としては最長の間隔であったからである。本馬を管理するマッツ師は、本馬の消耗を最小限に抑えるスケジュールを慎重に計画していたとレース直後に報道されている。スタート前のフライングでゲートを破壊した事が影響しているかもしれないが、これまた憶測の域を出ない。

闘病生活と死

通常であれば予後不良と診断され直ちに安楽死措置が執られる致命的な故障であったが、過去の1971年に同程度の故障を負ったホイストザフラッグ(凱旋門賞を2連覇したアレッジドの父)が先進的な治療を受けて一命を取り留めたという事例があったため、馬主ジャクソン夫妻の意向により生存へ向けた努力が試みられた。

まず本馬は故障したその日の晩にペンシルヴァニア大学のニューボルトンセンターに搬送された。ニューボルトンセンターは動物の複雑骨折を専門的に扱う機関として有名であり、関係者はその高い技術に賭けたのだった。そして故障の翌日5月21日には、ニューボルトンセンターの外科部長ディーン・W・リチャードソン博士の執刀により、5時間に及ぶ手術が行われた。

リチャードソン博士は、人間の骨折治療に使用されるロッキングコンプレッションプレート(LCP)を競走馬の治療に応用開始した人物の1人である。LCPは従来のボルトやプレートと比べると構造や力学的原理が異なっており、通常より部品の費用がかかるという欠点こそあったが、プレートと骨の摩擦による影響が小さくて安定性が高く、骨への負担も小さいという強みがあった(日本ウマ科学会のウェブサイトに博士が2010年に日本で行った講演の抄録が載っているので興味があれば一読してみると良いだろう)。リチャードソン博士は今回の手術にLCPを使用した。右後脚の患部に27本ものボルトを埋め込む手術は困難を極めたものの、なんとか成功。本馬の右後脚はグラスファイバー製のギプスで固められ、1時間ほど本馬はプールに浮かんで過ごした。やがて麻酔が切れたが、本馬はそれほど苦痛や不快感を訴えることは無く、故障した右後脚に体重をかけて立つ事が出来たし、普通に食事を採る事も出来た。しかしそれでも予断を許さない状態が続いている事には変わりが無く、リチャードソン博士は助かる可能性は五分五分であると関係者に告げた。

競馬にある程度詳しい人なら知っていると思われるが、こうした状況下にある馬にとって一番怖いのが蹄葉炎であり、本馬が治癒するかどうかも蹄葉炎の状況次第であった。蹄葉炎を予防するために、5月27日に左後脚には特製の蹄鉄が装着された。それからしばらくは順調だった。本馬は活発な動きを見せ、同じ施設にいた牝馬に興味を示すなどお茶目な一面も披露した。6月13日にいったん全身麻酔をかけられた上で、右後脚のギプスが交換された。この際に患部の状態を見たリチャードソン博士は、骨折箇所はかなり良くなっていると語った。7月3日にも改めて右後脚のギプスが交換された。しかし7月8日に骨折箇所に合併症を発症したために、2度目の手術が行われ、ボルトやプレートの多くが交換された。リチャードソン博士は、見通しは厳しいと語った。やがて左後脚に蹄葉炎を発症していることが判明したため、7月13日には左後脚蹄壁の80%を切除する治療が施された上で、患部には薄くなった蹄を補助するために特製蹄鉄が改めて装着され、さらにギプスが装着された。リチャードソン博士は、生存可能性はかなり小さくなったと述べた。

しかしその後は驚異的な回復力を見せた。8月8日に左後脚のギプスを交換した際に、リチャードソン博士は、蹄葉炎は改善傾向にあると述べた。そして8月15日には、病院の庭に出る事が許可され、15~20分ほど芝生の上を歩いて、久々の太陽の光と新鮮な空気を満喫した。8月17日には、本馬の体重を支えるために使われていた添え木の使用が終了し、翌18日のレントゲン検査では、右後脚の骨折箇所がほぼ完全に繋がっている事が判明した。9月26日、リチャードソン博士は、切除した左後脚の蹄が18mmほど伸びているが、少なくともさらにその3倍は伸びる必要があり、それにはあと6か月はかかるだろうという見通しを述べた。10月10日、左後脚のギプスと特製蹄鉄が交換され、蹄鉄はバンテージに変更された。11月6日、右後脚のギプスもバンテージに変更された。12月12日、右後脚のバンテージも外され、翌13日にはリチャードソン博士が、そう遠くない日に退院できるでしょうと見通しを述べた。

翌年1月2日にもリチャードソン博士は、本馬の右後脚はかなり良くなっており、本馬は最終的に回復するでしょうと述べた。1月9日になって、本馬が左後脚の不快感を訴えたために、左後脚に装着されていたギプスが外された。1月24日、左後脚に改めてギプスが装着され、右後脚にもプラスチック製の添え木が装着された。この時期になっても、リチャードソン博士は状況がそれほど悪くない旨を公には語っていたが、実際には左後脚だけでなく、骨折した右後脚、そして両後脚を庇ったために両前脚までも蹄葉炎を発症してしまっていた。1月26日に所有者のジャクソン氏は、状況はかなり悪いがまだ諦めていない旨を明らかにした。そして翌27日に、右後脚の負担を軽減するために鋼鉄製のボルトを入れる手術が行われた。しかし術後にリチャードソン博士は首を横に振った。そして再び苦痛を訴えるようになった本馬をみかねたジャクソン夫妻の決定により、1月29日午前10時半に安楽死の措置が執られ、本馬は8か月と10日間の闘病生活に終止符を打った。まだ4歳になったばかりという若さであった。

前年暮れには、米国の競馬界に貢献した人や馬に贈られるビッグ・スポーツ・オブ・ターフダム賞をリチャードソン博士が受賞したが、彼がそれを嬉しく思ったかどうかは定かではない。

本馬が世を去った2か月後には、前年限りで競走馬を引退して種牡馬入りしていた同じラエルステーブル産馬のジョージワシントンが受精率の低さから種牡馬失格の烙印を押されて現役復帰させられた。そして同年10月27日にジョージワシントンはモンマスパーク競馬場で行われたBCクラシックのレース中に右前脚を骨折してその場で予後不良と診断されて安楽死の措置が執られてしまい、ジャクソン夫妻にとっては重ね重ねの凶事となった。

本馬の遺体はすぐに火葬された。その遺灰がチャーチルダウンズ競馬場の入場門前に埋葬されることが死後1年経った2008年1月29日になって発表され、チャーチルダウンズ競馬場に来場する人は全て本馬の墓碑を見ることになった。2009年には彫刻家のアレクサ・キング女史によって本馬の彫像が作成され、チャーチルダウンズ競馬場の本馬の墓地に置かれることになり、この年のケンタッキーダービー前週である4月26日に公開された。

2007年にはピムリコ競馬場が、プリークネスSと同日直前に行われるサーバートンSをバーバロSと改名している。同年には本馬のデビューの地であるデラウェアパーク競馬場も、GⅢ競走レオナルドリチャーズSをバーバロSと改名している。

本馬に関する書籍も多く出版されており、中には主戦のプラード騎手が書いたものもある。なお、本馬の映画が作成されるという話も2007年に出ていたが、今のところ棚上げになっている。

後世に与えた影響

本馬に関しては、圧勝したケンタッキーダービーよりも、プリークネスSのレース中に負った致命的な故障との闘病生活がクローズアップされる傾向が強い。本馬が闘病生活を送っていたニューボルトンセンターにはファンから山のような花束や手紙、さらにはお守りや聖水などの贈り物が届いたし、本馬の病状はAP通信などによって逐一報告された。1頭の競走馬の故障と死がこれほど注目されたのは、おそらく米国ではラフィアン以来の事である。

ラフィアンの場合は全米中で行われていたマッチレースが消滅したという影響があったが、本馬の場合も別の意味でかなりの影響を米国競馬界に及ぼしている。ニューボルトンセンターに殺到した総額120万ドルもの寄付金を元に、本馬の名を冠したバーバロ基金が創設され、馬に限らず大型動物の治療支援に活用されるようになった。全米サラブレッド競馬協会も、本馬の名を冠したバーバロ記念基金を創設し、本馬の死因となった蹄葉炎の治療法研究のために活用することになった。ガルフストリームパーク競馬場は、フロリダ大学で獣医学を学ぶ学生のために奨学金制度を設立した。

また競走馬の健康を守るという名目で、競走馬に対する薬物規制にあまり積極的ではなかった州でも薬物規制の動きが活発化している(ただし本馬の骨折は薬物が原因とみなされているわけではないし、この動きには2008年のケンタッキーダービー2着直後に両前脚骨折のため他界した牝馬エイトベルズの存在も影響している)。

血統

Dynaformer Roberto Hail to Reason Turn-to Royal Charger
Source Sucree
Nothirdchance Blue Swords
Galla Colors
Bramalea Nashua Nasrullah
Segula
Rarelea Bull Lea
Bleebok
Andover Way His Majesty Ribot Tenerani
Romanella
Flower Bowl Alibhai
Flower Bed
On the Trail Olympia Heliopolis
Miss Dolphin
Golden Trail Hasty Road
Sunny Vale
La Ville Rouge Carson City Mr. Prospector Raise a Native Native Dancer
Raise You
Gold Digger Nashua
Sequence
Blushing Promise Blushing Groom Red God
Runaway Bride
Summertime Promise Nijinsky
Prides Promise
La Reine Rouge King's Bishop Round Table Princequillo
Knight's Daughter
Spearfish Fleet Nasrullah
Alabama Gal
Silver Betsy Nearctic Nearco
Lady Angela
Silver Abbey Djeddah
Goldarette

父ダイナフォーマーは、名種牡馬ロベルトと、トップフライトHを勝ったアンドーヴァーウェイの間に産まれた良血馬で、近親にはブライアンズタイムサンシャインフォーエヴァー、エアシャカール、エアメサイアなど多くの活躍馬の名も見られる名牝系の出身。現役時代は2~4歳時に米で走り30戦7勝。3歳時にジャージーダービー(米GⅡ)・ディスカヴァリーH(米GⅡ)を勝った他、4歳時にはキーンランド競馬場で行われた芝12ハロンの一般競走で2分32秒06のコースレコードで勝利している。引退後は米国ケンタッキー州スリーチムニーズファームで種牡馬入りし、本馬やBCグランドナショナル5連覇のマックダイナモを筆頭に129頭ものステークスウイナーを出した。産駒はダートよりも芝を得意とし、また牝馬の活躍馬が多かった。この点では、本馬は父の産駒としては特異な存在であったと言える。距離適性は万能で、短距離から長距離、果ては障害競走までどんな距離でもこなした。2012年4月に心疾患のため種牡馬を引退し、その僅か13日後に27歳で他界した。前述のとおり牝馬の活躍馬が多く、牡馬の代表産駒である本馬が夭折したため、有力な後継種牡馬はいない状態である。

母ラヴィルルージュはフロリダ州産馬で、ラエルステーブルにより購入された馬だった。競走馬としては2~4歳時に米で走り25戦6勝。ステークス競走勝ちは無いが、テンプテッドS(米GⅢ)とノーブルダムセルH(米GⅢ)で2着、シープスヘッドベイH(米GⅡ)とロングアイランドH(米GⅡ)で3着している。ラヴィルルージュの半兄にはグリーンアリゲーター(父ゲートダンサー)【カリフォルニアダービー(米GⅢ)】が、ラヴィルルージュの半姉センチメンタルサーガ(父アクレイリ)の孫にはエマズアンコール【プライオレスS(米GⅠ)】が、ラヴィルルージュの半姉エルソマ(父トライジェット)の子にはアニーケーキ【ソロリティS(米GⅢ)】がいる。ラヴィルルージュの母ラレーヌルージュの半姉マーロッジの孫にはデュリング【スワップスS(米GⅡ)・ジェロームH(米GⅡ)・サンフェルナンドS(米GⅡ)】が、ラレーヌルージュの全妹ラレーヌエレイン【ギャロレットH(米GⅢ)】の曾孫にはスターシップトラフルズ【プリンセスルーニーH(米GⅠ)】がいる。母系を延々と遡ると、生涯無敗の英国三冠馬オーモンドの母リリーアグネスに行きつく事ができる。→牝系:F16号族②

母父カーソンシティはミスタープロスペクター直子で、現役時代はサプリングS(米GⅡ)・フォールハイウェイトH(米GⅡ)・ブージュムH(米GⅢ)勝ちなど15戦6勝。出走したレースは全て7ハロン以下の短距離戦であり、種牡馬としても短距離色が強かった。

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