アメリカンファラオ

和名:アメリカンファラオ

英名:American Pharoah

2012年生

鹿毛

父:パイオニアオブザナイル

母:リトルプリンセスエマ

母父:ヤンキージェントルマン

37年ぶりに出現した史上12頭目の米国三冠馬にして、BCクラシックも勝利した史上初の「アメリカン・グランド・スラム」達成馬

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績11戦9勝2着1回

1978年のアファームド以来37年ぶりに出現した史上12頭目の米国三冠馬にして、米国三冠競走とBCクラシックを全て制する“American Grand Slam(アメリカン・グランド・スラム)”を史上初めて達成した歴史的名馬。

誕生からデビュー前まで+馬名に関して

2012年2月2日、トム・ヴァンメーター氏が所有する米国ケンタッキー州レキシントンのストックプレースファームにおいて、アハメド・ザヤット氏により生産・所有された。エジプトの首都カイロ出身のザヤット氏は、18歳時に米国に移住してボストン大学で学び、卒業後にしばらくニューヨーク州で事業を行った後、母国エジプトに戻った。そしてアルアハラム社という飲料水会社を経営した。アルアハラム社が2002年にオランダの醸造会社ハイネケン社により買収されると、彼は米国に戻った。そして2005年にザヤット・ステーブルスを立ち上げて、競走馬の生産と馬主活動を開始した。

本馬は幼少期から大人しくて従順な気性の持ち主で、手がかからない馬だったという。1歳8月にファシグ・ティプトン社が実施したサラトガセールに出品された。しかしセリの数週間前に脚を何かにぶつけていた本馬は、このセリにおいてあまり歩様が良くなかった。そのためにザヤット氏が希望していた最低落札価格の100万ドルに遠く及ばない金額しかつかず、30万ドルで主取りとなった。そのために結局本馬はザヤット氏の所有馬として走ることになった。ちなみに本馬の父パイオニアオブザナイルも1歳時のセリにおいて、ザヤット氏が希望していた最低落札価格に届かなかったためにザヤット氏により29万ドルで買い戻されたという経緯があり、親子2代の主取りとなった。ただし、29万ドルにしろ30万ドルにしろ、特に高くは無いが非常に低いという金額でもなく、この2頭の評価が不当に低かったわけではない。この事態を招いたのは、自分が期待する馬は100万ドル以上でないと売らないというザヤット氏の主義だった。

ザヤット氏はエジプト出身だったために、所有馬にエジプトゆかりの名前を付けることが多かった。本馬の父パイオニアオブザナイルも、「ナイル川の開拓者」という意味である。本馬の場合は、母父ヤンキージェントルマンが「アメリカ人の紳士」という意味の名前だったこともあり、古代エジプトの君主の称号ファラオを連想して、「アメリカンファラオ」と命名した。ところが、ファラオの綴りは“Pharaoh”であるのに、本馬の馬名は“Pharoah”で登録されてしまった。

これが人為的ミスなのは間違いないのだが、誰がどこで間違えたのかは、当初各人の主張が食い違っており定かではなかった。ザヤット氏は「私は“Pharaoh”で申請したのに、米国ジョッキークラブが誤って登録したのです」と主張した。それに対して米国ジョッキークラブ側は「2014年1月25日に、ジョッキークラブの相互交流サイトを経由して、電子的に申請された名前であり、最初から“Pharoah”となっていました。馬名審査の基準をクリアする名前だったので、そのまま登録したのです」と反論した。後にザヤット氏は米国ジョッキークラブの主張を認め、自分の主張を撤回した。

ザヤット氏の妻ジョアン夫人によると、彼等の息子ジャスティン氏が、インターネット上で実施された馬に名づけるとしたら格好いい言葉のコンテストにおいて、既に綴りが間違っていた“Pharoah”を見つけ、それをそのままパソコン上でコピーをして本馬の名前に貼り付け、そして米国ジョッキークラブのサイトに送信したのだという。最終的にジャスティン氏はこの綴り誤りは自分の責任であると認め、「送信時にはまさかこんな事になるとは思ってもいなかったのですが・・・。世界中の英語教師から怒られそうですが、私はこの“Pharoah”という言葉と一緒に生きていきますよ」と語った。

もっとも、ジャスティン氏を擁護すると、“Pharaoh”は“Pharoah”と書き間違えやすいらしく、本馬がベルモントSを勝った際に授与された米国三冠達成記念のブランケットには“12th Triple Crown Winner American Pharaoh”と「誤った」馬名表記が載っていた(もっとも、これは後述するように米国ジョッキークラブが“American Pharoah”だけでなく“American Pharaoh”を別馬に名づける事も禁止しており、“American Pharaoh”という名前の馬が今後絶対に登場しない事が分かっていたため、意図的にそうしたのではという意見も有力である)。いずれにしてもこれは結果的に、米国競馬史上最大の綴り誤りとなったのだった。

こういった経緯を知らなければ“Pharoah”をファラオと読むことは出来ないため、本馬が米国三冠を達成した報を伝えた日本のマスコミは本馬の馬名表記を「アメリカンフェイロー」としたところが多かった(ただし筆者の家が取っている一般紙では「アメリカンファラオ」となっていた)し、本馬が有名になって上記の経緯が知れ渡る前に出走した2歳戦の実況担当者は揃って「アメリカンフェイロー」と発音している。しかし本馬の関係者、3歳初戦のレベルS以降のレース実況担当者などは揃って本馬の名前を「アメリカンファラオ」と発音している。また、米国三冠競走を勝った馬と同じ名前を別の馬に付けることは出来ない規則が米国にはあり、当然“American Pharoah”も別の馬に名づける事は二度と出来なくなっているのだが、米国ジョッキークラブは“American Pharaoh”という名前も今後使用禁止にした。

海外馬名の日本表記にそれほど拘りが無い筆者だが、本馬に関しては上記の経緯などから「アメリカンファラオ」と表記するべきだろうと思うので、この名馬列伝集でも一貫して同表記を使用している。もっとも、素直に読めば「アメリカンフェイロー」であることは事実なので、別にそれが間違いだと思ってはいない。

さて、ザヤット氏の所有馬として走ることになった本馬はフロリダ州にあるマックカザン兄弟の訓練施設に派遣され、競走馬になるための訓練が積まれた。この訓練施設の運営者の1人であるJ・B・マックカザン氏は本馬を「何をやらせても完璧にこなす」と評価した。本馬の素質を感じ取ったザヤット氏達は、転厩直後の父パイオニアオブザナイルにGⅠ競走をいきなり勝たせた名伯楽ボブ・バファート調教師に委ねることにした。

本馬は独特の大跳びで走る馬だったが、大跳びにも関わらず走り方は極めて軽やかであり、他馬の走り方とは明らかに違っていた。数々の名馬を手掛けてきたバファート師も「こんなに地面を滑るように走れる馬は見たことがありません」と感じたという。

大人しい性格で調教も楽だった本馬だが、その性格が災いしたのか周囲の馬から虐められる事があったようで、2歳から3歳にかけての冬場にフロリダ州で調整されていた際に、他馬に尾を嚙み切られてしまい、それで本馬の尾は短くなってしまったという。本馬の尾を噛み切った容疑者ならぬ容疑馬は、同じ場所で調整されていた別厩舎のミスターズィーという馬だと言われている(ミスターズィーは後に本馬とレースで戦う事になるが、競走馬としては本馬に全く歯が立たなかった)。

それでも本馬の温厚な性格は一貫しており、他馬を怖がる事は無かったし、人間にも常に従順だったという。しかしレースに出る前にはその大人しすぎる性格が逆に災いしたのか、精神的にやや不安定になり、大観衆に怯えて焦れ込む事がしばしばあった。そのためにバファート師は本馬より3歳年上の「スモーキー(Smokey)」という名前のポニーを本馬のコンパニオンアニマルに指名した。本馬とスモーキーはすぐに仲良くなり、スモーキーは本馬が米国三冠競走に出走するに際しても常に同伴して本馬の精神状態の安定に貢献したという。

競走生活(2歳時)

2歳8月にデルマー競馬場で行われたオールウェザー6.5ハロンの未勝利戦で、マーティン・ガルシア騎手を鞍上にデビューした。本馬が単勝オッズ2.4倍で9頭立ての1番人気に支持され、前年のテストSの勝ち馬スイートルルの半弟で既に1戦を消化していたアイアンフィストが単勝オッズ3.9倍の2番人気となった。スタートが切られると単勝オッズ23.4倍の7番人気馬オムが逃げを打ち、本馬はその直後の2番手を追走した。しかしオムの逃げは非常に快調で、本馬は三角から徐々に離されていった。直線入り口では既に5馬身ほどの差をつけられていた上に、ここから後続馬に次々と差され、2着アイアンフィストに7馬身1/4差をつけて逃げ切ったオムから9馬身1/4差をつけられた5着に敗退した。

敗因に関してバファート師は、本馬がレース前から精神的に不安定だった事を挙げた。そしてその理由として、本馬にこのレースで装着させていたメンコとブリンカーが逆に本馬の不安を煽ったのだとした。そのためこの後に本馬がメンコやブリンカーを装着することは無くなった(シャドーロールは装着を続けた)。その代わりに本馬が騒音に脅かされることが無いように、本馬の耳に綿を詰めるようにした。

翌9月には未勝利馬の身で、デルマーフューチュリティ(米GⅠ・AW7F)に出走。鞍上は主戦となるヴィクター・エスピノーザ騎手だった。対戦相手は、前走ベストパルSを勝ってきたバッシュフォードマナーS3着馬スカイウェイ、前走ベストパルSで2着してきたヘンリーズホリデー、本馬と同じく未勝利の身で出走してきた前走2着馬アイアンフィスト、前走サンタアニタジュヴェナイルSで6着に終わっていた2戦1勝馬ホリデーキャンプ、2戦1勝馬レッドボタン、2戦1勝馬インエクセスタイム、2戦未勝利馬カルキュレーター、1戦未勝利馬オーニューマンの計8頭だった。このメンバー構成を見れば一目瞭然だと思うが、GⅠ競走のレベルには程遠かった。実績では最上位だったスカイウェイが122ポンドのトップハンデで単勝オッズ3.3倍の1番人気、116ポンドの本馬が単勝オッズ4.2倍の2番人気、117ポンドのアイアンフィストが単勝オッズ5.2倍の3番人気、118ポンドのホリデーキャンプが単勝オッズ6.9倍の4番人気となった。

スタートが切られると本馬が即座に先頭に立ち、そのまま後続馬に1馬身ほどの差をつけながら逃げ続けた。四角で後続との差を3馬身ほどまで広げて直線に突入。直線でも後続馬に全く影は踏ませず、2着に追い上げてきた単勝オッズ16.1倍の6番人気馬カルキュレーターに4馬身3/4差、3着アイアンフィストにはさらに8馬身1/4差をつけて勝利を収め、初勝利をGⅠ競走で挙げた。

同月末にはサンタアニタパーク競馬場でフロントランナーS(米GⅠ・D8.5F)に出走。このレースは2011年まではノーフォークSという名称だったが、2012年に改称されていた。対戦相手は、カルキュレーター、前走4着のスカイウェイ、1戦1勝馬コンクエストパンセラ、同じく1戦1勝馬ロードネルソン、オークツリージュヴェナイルターフSを勝ってきた2戦1勝馬ダディディーティー、オークツリージュヴェナイルターフSで2着してきた4戦1勝馬スカイプリーチャー、3戦1勝馬テキサスレッドの計7頭であり、これまたGⅠ競走のレベルでは無かった。前走と異なるのは定量戦のため全馬同斤量だった事だった。しかし出走馬の中で実績最上位なのはGⅠ競走の勝ち馬である本馬だったため、それはむしろ本馬にとって歓迎すべきことだった。本馬が単勝オッズ1.5倍の1番人気、コンクエストパンセラが単勝オッズ9.6倍の2番人気、ロードネルソンが単勝オッズ10.8倍の3番人気、ダディディーティーが単勝オッズ11.9倍の4番人気、カルキュレーターが単勝オッズ13.3倍の5番人気であり、完全に本馬の1強独裁ムードだった。

スタートが切られるとやはり本馬は即座に先頭に立った。スカイウェイが競りかけてきたが、それほど速い流れになる事も無く、本馬は自分のペースで先頭を維持していた。そのままの態勢で直線に入ると、失速するスカイウェイを尻目に本馬は先頭をひた走った。そして4番手追走から2着に入ったカルキュレーターに3馬身1/4差、3着テキサスレッドにはさらに1馬身半差をつけて勝利した。

その後は11月初めに地元サンタアニタパーク競馬場で行われるBCジュヴェナイルを目標として調整されていた。しかし本番5日前の調教中に左前脚を負傷してしまったために回避となった。この負傷の原因は後突だった。これは大跳びで走る馬に多く見受けられ、下半身の力が強く、かつ前脚を掻きこむようにして走るタイプの競走能力が高い馬が起こしやすいとされるもので、海外ではザテトラークカウントフリートラウンドテーブルムーチョマッチョマンなどが、日本ではシンザンやタケシバオーが悩まされていた事で知られるものである。

本馬を担当していた蹄鉄工のウェス・シャンペン氏は、通常の蹄鉄の上にアルミニウム合金を薄くコーティングして、さらに本馬の脚のサイズに合うように微調整を施して対応した。この後も調教やレースの度ごとに馬場状態等に応じて微調整を行い、脚と脚がぶつかってもダメージを抑えられるように工夫した。

2歳時は結局フロントランナーSが最後のレースで、この年の成績は3戦2勝だった。エクリプス賞最優秀2歳牡馬のタイトル争いは、本馬不在のBCジュヴェナイルを勝ったテキサスレッドとの間で票が割れたが、フロントランナーSで本馬がテキサスレッドを一蹴していた事が影響したようで、126票対111票の僅差で本馬がタイトルを受賞した。

競走生活(3歳初期)

3歳になった本馬は、3月にアーカンソー州オークローンパーク競馬場で行われたレベルS(米GⅡ・D8.5F)から始動した。対戦相手は、未勝利戦と一般競走を連勝してきたメイドフロムラッキー、前走サウスウエストSで2着してきたシャンペンS3着馬ザトゥルースオアエルス、イロコイS2着・ブリーダーズフューチュリティ3着のボールドコンクエストなど6頭だった。119ポンドの本馬が単勝オッズ1.4倍の1番人気、115ポンドのメイドフロムラッキーが単勝オッズ6倍の2番人気、117ポンドのザトゥルースオアエルスが単勝オッズ6.3倍の3番人気、115ポンドのボールドコンクエストが単勝オッズ9.3倍の4番人気となった。

雨天のために泥だらけの不良馬場の中でスタートが切られると、やはり本馬はすぐに先頭に立った。特に競りかけてくる馬はおらず、後続に1~2馬身ほどの差をつけながら自分のペースで逃げを打つことが出来た。そしてその差を維持しながら直線に入り、直線で後続との差を広げるという内容で、2着メイドフロムラッキーに6馬身1/4差をつけて圧勝した。勝ち戻ってきた本馬の蹄鉄は、脚同士をぶつけたためか歪んでおり、それが本馬の走りを阻害したのは確実だったが、それにも関わらず圧勝した事で本馬の評価はさらに上昇した。シャンペン氏が工夫した蹄鉄だったために脚にダメージは無かったが、シャンペン氏はさらに苦心して本馬の脚を守るための頑丈かつ柔らかい蹄鉄を作り上げた(頑丈で柔らかいというのは矛盾しているのに近いから、彼の苦労は相当なものだっただろう)。

その後は1か月後のアーカンソーダービー(米GⅠ・D9F)に向かった。対戦相手は、メイドフロムラッキー、前走3着のボールドコンクエスト、同4着のザトゥルースオアエルス、スマーティジョーンズS・サウスウエストSを連勝してきたファーライト、ブリーダーズフューチュリティ・サラトガスペシャルS・サンフォードS・デルタダウンズジャックポットS2着・ロスアラミトスフューチュリティ(旧称キャッシュコールフューチュリティ)・サウスウエストS3着のミスターズィー(本馬の尾を噛み切った容疑馬)、プライヴェートタームズSを勝ってきたブリジッツビッグラヴリーなど7頭だった。本馬が単勝オッズ1.1倍の1番人気、ファーライトが単勝オッズ8.2倍の2番人気、メイドフロムラッキーが単勝オッズ17.1倍の3番人気、ミスターズィーが単勝オッズ21.1倍の4番人気となった。

スタートが切られると単勝オッズ39.2倍の最低人気馬ブリジッツビッグラヴリーが強引に先頭を奪い、後続を引き離した。好スタートを切った本馬はあえてブリジッツビッグラヴリーに競りかけず、2~3馬身ほど離れた2番手を追走した。そして三角手前でブリジッツビッグラヴリーが失速すると同時に加速して三角で先頭に立ち、四角で後続を引き離した。直線入り口では既に4馬身ほどの差がついており、その後も差は徐々に広がっていった。最後は、最後方からの追い込みに賭けて2着に入ったファーライトに8馬身差をつけて圧勝した。ファーライトも会心のレースをしたらしく、ファーライトを管理していたロン・モケット調教師は「アメリカンファラオはまさしくスーパーホースです」と脱帽した。

ケンタッキーダービー

そして迎えたケンタッキーダービー(米GⅠ・D10F)では、ロスアラミトスフューチュリティ・サンタアニタダービー・サンフェリペS・ロバートBルイスSなど6戦全勝のドルトムント、ブリーダーズフューチュリティ・ブルーグラスS・タンパベイダービーの勝ち馬でBCジュヴェナイル2着の5戦4勝馬カーペディエム、前走サンランドダービーを14馬身1/4差で圧勝してきたロスアラミトスフューチュリティ・ロバートBルイスS2着馬ファイアリングライン、前走ウッドメモリアルSを勝ってきたレムセンS・ホーリーブルS2着馬フロステッド、フロリダダービーなど3戦無敗のマテリアリティ、UAEダービーの勝ち馬でUAE2000ギニー2着のムブタヒージ、ホーリーブルSの勝ち馬でシャンペンS・フロリダダービー・ファウンテンオブユースS2着・BCジュヴェナイル3着のアップスタート、ブルーグラスSで2着してきたダンチヒムーン、デルタダウンズジャックポットSの勝ち馬でブルーグラスS3着のオチョオチョオチョ、ファウンテンオブユースSの勝ち馬イッツアノックアウト、サンタアニタダービー・サンフェリペS3着のボロ、レムセンS・ホーリーブルS・リズンスターS3着のキーンアイス、リズンスターS・ルコントS2着・ルイジアナダービー3着のウォーストーリー、ウッドメモリアルSで2着してきたテンセンダー、ファウンテンオブユースS3着馬フラメント、ファーライト、前走3着のミスターズィーの計17頭が対戦相手となった。

本馬が単勝オッズ3.9倍の1番人気、ドルトムントが単勝オッズ5.3倍の2番人気、カーペディエムが単勝オッズ8.7倍の3番人気、ファイアリングラインが単勝オッズ10.5倍の4番人気、ロステッドが単勝オッズ11.3倍の5番人気となった。

チャーチルダウンズ競馬場には同競馬場史上最多となる17万513人もの大観衆が詰めかけていた。しかし本馬は初めて見る大観衆に怯えて、焦れ込む仕草が見られた。そのために複数の厩務員が本馬を宥めて落ち着かせる必要があった。それでも本馬はスタートまで結局完全に冷静になる事は無く、肝心のレース前に少し消耗してしまった。

そんな中でスタートが切られると、ドルトムントが先頭に立ち、ファイアリングラインが直後の2番手につけた。一方の本馬はかなり外側の15番枠発走だったこともあり、無理に先頭に拘らずに前2頭をマークする形で1~2馬身ほど離れた3番手を進んだ。前3頭が有力馬だったためにペースが速くなるかと思われたが、最初の2ハロン通過は23秒24、半マイル通過は47秒34であり、ケンタッキーダービーとしては緩い流れとなった。そのために外側を回らされた本馬を含む前3頭には余力があった。四角で本馬が仕掛けて前2頭に外側から並びかけ、この3頭がほぼ横並びとなった状態で直線に入ってきた。最内のドルトムントは内埒沿いに直線に入ってきたが、本馬は直線に入る際に大外に膨らみ、ファイアリングラインもやや外側に膨らんだため、直線入り口でこの3頭の馬体は離れていた。しかし本馬とファイアリングラインは徐々に内側に馬体を寄せて、残り1ハロン地点からは3頭の叩き合いとなった。残り半ハロン地点でドルトムントはやや後れを取り、最後は本馬とファイアリングラインの一騎打ちとなった。やがて本馬が徐々に前に出て、2着ファイアリングラインに1馬身差、3着ドルトムントにはさらに2馬身差をつけて優勝した。

鞍上のエスピノーザ騎手にとっては、2002年のウォーエンブレム、前年のカリフォルニアクロームに続く3度目の同競走制覇だったが、前2回よりも今回のほうが彼にとっては厳しいレースだったようである。彼はレース中に本馬に対してかなり鞭を使っており、その回数を数えると32回に達していた。鞭の使用回数に厳しい制限がある英国と異なり米国では特に回数制限は無いのだが、それにしてもこの回数は多すぎるとして、エスピノーザ騎手を非難する論調が出た。バファート師は「エスピノーザ騎手はゼッケンの上から打っており、実際にアメリカンファラオの馬体に鞭を当てた回数はそこまで多くはありません」とした上で、「アメリカンファラオにとっては今までのレースがどれも楽すぎで、本当に手強い相手との戦いになったのはこれが初めてだったから、エスピノーザ騎手はかなりアメリカンファラオに檄を飛ばさなければならなかったのです」と語った。

プリークネスS

2週間後のプリークネスS(米GⅠ・D9.5F)では、例年と同様にケンタッキーダービーで敗れた馬の大半が姿を消し、引き続いて出走してきたのは、本馬、ファイアリングライン、ドルトムント、前走5着のダンチヒムーン、同13着のミスターズィーの5頭のみだった。他の出走馬は、レキシントンSの勝ち馬でサムFデーヴィスS2着・タンパベイダービー3着のダイヴィニングロッド、デビュー6戦目の未勝利戦をようやく2馬身差で勝ち上がってきたばかりのテイルオブヴァーヴ、フェデリコテシオSを勝ってきたボディサットバの3頭で、合計8頭による戦いとなった。

本馬が単勝オッズ1.9倍の1番人気、ファイアリングラインが単勝オッズ4倍の2番人気、ドルトムントが単勝オッズ5.5倍の3番人気、ダイヴィニングロッドが単勝オッズ13.6倍の4番人気、ダンチヒムーンが単勝オッズ14.4倍の5番人気となった。

良馬場で行われたケンタッキーダービーと異なり、このプリークネスSは直前の雷雨のために1983年以来32年ぶりとなる不良馬場となり、あちこちに水溜りが出来ていた。本馬は過去にレベルSで同様の馬場を経験した事があったが、他馬の多くは初体験だったから、その点では本馬に有利となった。しかし本馬は今回、最内の1番枠を引いていた。前走が15番枠だったからそれに比べると余程良かったと思われるかもしれないが、不良馬場では多くの場合内埒沿いが最も馬場状態が悪くなるものであり、良馬場の1番枠なら問題ないが不良馬場の1番枠というのは必ずしも良くなかったのである。それに1番枠からプリークネスSを勝った馬は1994年のタバスコキャットまで遡らないと見つからず、プリークネスSの1番枠は鬼門という嫌なデータもあった。

それでも前走のような外枠では無かったため、スタートが切られると本馬は前走と異なり先頭を狙って加速。それに競りかけようとしたミスターズィーが1~2馬身ほど離れた2番手で、3~4番手のドルトムントとダイヴィニングロッド以下はミスターズィーから3~4馬身離されていた。なお、対抗馬とみなされていたファイアリングラインはスタート時に脚を滑らせて出遅れてしまい、その時点で既に勝ち負けの範疇から消えていた。本馬が刻んだペースは最初の2ハロンが22秒9、半マイル通過が46秒49だった。ケンタッキーダービーよりプリークネスSのほうが若干距離は短いのだから、ケンタッキーダービーよりラップが速くなる事自体は当然と言えば当然だったが、馬場状態の違いを考慮に入れると、ケンタッキーダービーよりかなり厳しい流れとなった。道中は3~4番手を走っていたドルトムントとダイヴィニングロッドの2頭が向こう正面で上がってくると、ミスターズィーも加速して本馬の直後まで来て、三角手前では4頭が一団となった。しかし本馬は楽な手応えで先頭を維持していた。三角に入るとミスターズィーが徐々に後退していき、ドルトムントも四角で外側を走らされた分だけ前との差を詰めきれず、本馬が先頭、2馬身ほど後方の2番手がダイヴィニングロッドという態勢で直線に入ってきた。そして直線では、のびのびと走る本馬と、少しふらつきながら走るダイヴィニングロッドの差が着実に開いていった。ゴール前では最後方からの追い込みに賭けた単勝オッズ29.5倍の7番人気馬テイルオブヴァーヴがダイヴィニングロッドを1馬身かわして2着に上がってきたが、その時点では既に7馬身も前で本馬がゴールインしていた。

ベルモントS

プリークネスSを完勝して米国三冠馬への挑戦権を獲得した本馬は、当然のようにベルモントS(米GⅠ・D12F)に向かった。

1978年にアファームドが米国三冠馬に輝いた翌年の1979年からこの前年の2014年までの36年間で、ケンタッキーダービー・プリークネスSを勝ってベルモントSに出走した馬は、スペクタキュラービッドプレザントコロニーアリシーバサンデーサイレンスシルバーチャームリアルクワイエットカリズマティック、ウォーエンブレム、ファニーサイドスマーティジョーンズビッグブラウン、カリフォルニアクロームの合計12頭いたが、スペクタキュラービッドやスマーティジョーンズなど三冠を確実視されていた馬も含めてその全てが敗れていた。

そのために米国の競馬ファン達は37年間に渡って米国三冠馬誕生の瞬間を見ることが出来ず、飢餓状態に置かれていた。そのためにベルモントパーク競馬場に観衆が殺到する事が予想されたため、入場制限が掛けられ、入場券が無ければ当日のベルモントパーク競馬場に入ることは出来なかった。この入場券は9万枚用意されたのだが、前日までに完売した。

また、上記12頭のうち、シルバーチャーム、リアルクワイエット、ウォーエンブレムの3頭はバファート師の管理馬であり、彼は米国三冠馬なるものにトラウマを感じるようにもなっていたそうである。そのためかどうかは分からないが、バファート師は本馬をベルモントSに向かわせるに際して、一般的なものとは異なる調整方法を採用した。まずはいったん本馬をケンタッキーダービーが行われたチャーチルダウンズ競馬場に戻すと、そこにあった自身の調教場で調教を施した。そして事前調教を完全に完了させてから、本馬をベルモントパーク競馬場があるニューヨーク州に飛行機(この飛行機は米国大統領が搭乗する際の米国空軍機にちなんで「エアフォースワン」と呼ばれた)で移送したのである。そのために本馬はニューヨーク州では1度も調教を受けないまま本番を迎えることになった。

バファート師は、かつて自分が管理したポイントギヴンがプリークネスSからベルモントSへと向かう際にも同じ方法を採っていた。バファート師は「アメリカンファラオにとって重要なのは、楽な気分で本番に臨ませる事であり、そのためには慣れない地で調教を受けさせるよりも、(ケンタッキーダービーに出る前に何度も調教を走っていた)チャーチルダウンズ競馬場で調教したほうが望ましいと思ったからです」と説明した。しかしバファート師の判断はおかしいと指摘した調教師(その中にはダレル・ウェイン・ルーカス師やキアラン・マクローリン師といった米国を代表する調教師もいた)も多く、レース前から論争が行われたほどだった。

さて、アファームド以来37年ぶりの米国三冠馬が懸かったこのベルモントSでは、テイルオブヴァーヴ、ケンタッキーダービー4着から直行してきたフロステッド、同6着から直行してきたマテリアリティ、同7着から直行してきたキーンアイス、同8着から直行してきたムブタヒージ、同11着から直行してきたフラメント、アーカンソーダービーで4着に敗れた後にピーターパンSを勝ってきたメイドフロムラッキーの計7頭が本馬の三冠を阻むべく参戦してきた。

本馬が単勝オッズ1.75倍の1番人気、前残りの展開となったケンタッキーダービーで後方待機策から4着まで追い上げてきた事が評価されたフロステッドが単勝オッズ5.1倍の2番人気、マテリアリティが単勝オッズ6.4倍の3番人気、ムブタヒージが単勝オッズ15.1倍の4番人気、メイドフロムラッキーが単勝オッズ15.6倍の5番人気となった。今回本馬が引いたのは5番枠で、これは1977年のシアトルスルーを始めとして多くの馬がベルモントSを勝った縁起が良い枠順だと指摘する意見が多く出た(筆者はあまり関係ないと思うのだが)。

ベルモントパーク競馬場に詰めかけた9万人の大観衆と、全米2200万人のテレビ視聴者が固唾を飲んで見つめる中でスタートが切られると、本馬はやや出負けしたが、それでもすぐに加速して先頭に立った。他馬勢も本馬を単騎で行かすまいと追いかけてきた。マテリアリティが1~2馬身ほど後方の2番手集団の先頭で、対抗馬のフロステッドもこの集団の中にいた。向こう正面で本馬にマテリアリティが並びかけようとしたが、本馬も加速したために差は縮まらなかった。そのままの態勢で三角に入ると、マテリアリティが徐々に後退を始め、代わりにフロステッドを先頭とする後続馬勢が加速を開始した。しかし本馬も負けずにさらに加速して、後続との差を確実に維持しながら四角を回り、直線に先頭で入ってきた。直線入り口では先頭の本馬と2番手のフロステッドの差は2馬身ほどだったが、その差が徐々に開き始めた。3番手以降の馬にもそれほど伸びは無かったために、ベルモントパーク競馬場に詰めかけた観衆の歓声は次第に大きくなっていった。そして遂に米国の競馬ファン達が首を長くして待っていたその瞬間がやってきた。2着フロステッドに5馬身半差、3着キーンアイスにはさらに2馬身差をつけた本馬が優勝し、ここに1978年のアファームド以来37年ぶり12頭目、21世紀に入ってからでは初の米国三冠馬が誕生した。

ゴールラインを通過した後に、エスピノーザ騎手は右手を大きく掲げてガッツポーズをして、総出で万歳をする満場の観衆から送られる大声援に応えた。レース翌日にバファート師は「彼がどれだけ優しい馬なのかを人々にも知ってもらいたい」という理由で、マスコミ関係者を本馬の厩舎に招待し、本馬との触れ合いを許可した。本馬は約30人の人間に囲まれて繰り返し頬ずりをされ、その場面は米国各地で放映された。その後も米国各地でアメリカンファラオフィーバーが起こったが、多すぎるので本項では省略する。

競走生活(3歳中期)

さて、米国三冠馬になった本馬だが、既にプリークネスSの4日後に愛国の馬産団体クールモアグループ傘下のアッシュフォードファームにより種牡馬としての権利が推定2000万ドル以上の額で購入されており、3歳限りで競走馬を引退して種牡馬入りする事が確実視されていた。

それでも所有者のザヤット氏は「彼が健康である限り、3歳中は走らせます。レーススケジュールに関してはバファート師に一任します」と明言した。そして本馬はベルモントSが終わってすぐにチャーチルダウンズ競馬場に戻り、レース数日後には次走に向けた調教が開始された。ベルモントSからちょうど1週間後にチャーチルダウンズ競馬場ではGⅠ競走スティーヴンフォスターHが実施されたが、その際に同競走に出走予定が無かった本馬が姿を現し、観衆の前でパレードを行った。

米国三冠馬となった本馬を誘致するために、米国各地の競馬場が地元の大競走の賞金を増額して本馬の参戦を促した。その結果、本馬の次走は、ベルモントSから約2か月後の8月初めに行われたハスケル招待S(米GⅠ・D9F)となった。対戦相手は、ケンタッキーダービー18着最下位から直行してきたアップスタート、ホープフルS・パットデイマイルS(旧称ダービートライアルS)の勝ち馬だが米国三冠競走には不参戦だったコンペティティヴエッジ、ベルモントS3着から直行してきたキーンアイス、前走ペガサスHを勝ってきた6戦4勝2着2回のミスタージョーダン、未勝利戦と一般競走を連勝してきたトップクリアランス、ランプライターSで2着してきたドントベットウィズブルーノの計6頭だった。他の出走全馬より4ポンド重い122ポンドの本馬が単勝オッズ1.1倍の1番人気、アップスタートが単勝オッズ7.8倍の2番人気、コンペティティヴエッジが単勝オッズ10.5倍の3番人気、キーンアイスが単勝オッズ19.3倍の4番人気となった。

スタートが切られるとコンペティティヴエッジが先頭を奪い、好スタートを切った本馬が1馬身ほど後方の2番手につけた。本馬は基本的に逃げ馬ではあったが、別に2番手で折り合いを欠くような性格ではなく、淡々と2番手を追走していた。そして三角に入ったところで一気に加速して、コンペティティヴエッジをかわして先頭を奪取。そして2番手のコンペティティヴエッジに4馬身ほどの差をつけて直線に入ってきた。後方からは4番手で直線に入ってきたキーンアイスが猛然と追ってきたが、本馬鞍上のエスピノーザ騎手は直線に入った直後から彫像のように固まったままで、まるで本馬を追っていなかった。そのためにゴール前では差が縮まったが、それでも2着キーンアイスに2馬身1/4差、3着アップスタートにはさらに3馬身差をつけて勝利した。直線では文字どおりの馬なりで走り続けており、他馬との絶対的な実力差を見せつける内容だった。

ハスケル招待Sは1968年創設(当時はハンデ競走)で、それ以降にセクレタリアト、シアトルスルー、アファームドの3頭が米国三冠馬になっていたのだが、この3頭はいずれも同競走に出走しておらず、本馬はハスケル招待Sを勝った史上初の米国三冠馬となった。

その後はいったん本拠地のカリフォルニア州に戻ったが、しばらくして東海岸にとんぼ返りして、8月末のトラヴァーズS(米GⅠ・D10F)に出走した。対戦相手は、キーンアイス、アップスタート、3歳初戦のサンヴィセントSで2着に敗れた後に長期休養入りして米国三冠競走を棒に振るもドワイヤーS2着・ジムダンディS勝利と復活してきたテキサスレッド、ベルモントS2着後に出走したジムダンディSで2着だったフロステッド、ベルモントS5着後に出走したジムダンディSで4着だったフラメント、ベルモントS7着後に出走したウエストヴァージニアダービーでも6着と大敗していたテイルオブヴァーヴ、カーリンSを勝ってきたスマートトランジションなど9頭だった。本馬が単勝オッズ1.35倍の1番人気、本馬とはフロントランナーS以来2度目の対戦となるテキサスレッドが単勝オッズ6.8倍の2番人気、フロステッドが単勝オッズ8.6倍の3番人気、アップスタートが単勝オッズ16.6倍の4番人気、キーンアイスが単勝オッズ17倍の5番人気となった。

レース当日は特に暑い日では無かったが、本馬には何故か発汗が見られ、それに気づいたエスピノーザ騎手は不安を感じたという。スタートが切られると本馬が即座に先頭に立ったが、最初のコーナーを回り終えた頃からフロステッドが競りかけてきて、2頭が先頭を引っ張る形となった。ペース自体はたいして速くなかったのだが、フロステッドが本馬に執拗に圧力をかけてきたために、本馬にとっては2番手に控えた方がむしろ気分良く走れたような格好となっていた。そのままの態勢で直線に入ると、フロステッドを少しずつ引き離していった本馬だったが、そこへ外側から1頭の馬が追い上げてきた。道中は馬群の中団を進み、直線入り口で3番手まで押し上げていたキーンアイスだった。前走では馬なりのまま走ってもキーンアイスを寄せ付けなかった本馬だったが、今回はエスピノーザ騎手が必死に檄を飛ばしても、キーンアイスとの差はどんどん縮まってきた。そしてゴール前で並ぶ間もなくかわされた本馬は、3/4馬身差の2着に敗れてしまった。

実は本馬をトラヴァーズSに出したいと希望したのは、レーススケジュールをバファート師に一任すると言っていたはずのザヤット氏であり、バファート師は本馬をトラヴァーズSには出走させたくなかったらしい。それは、前走から1か月もしないうちにカリフォルニア州からまた北米大陸を横断させる必要があった事だけでなく、トラヴァーズSが施行されるサラトガ競馬場は、かつてマンノウォーがサンフォードSで生涯唯一の敗戦を喫したり、セクレタリアトがホイットニーHで負けたり、ギャラントフォックスとアファームドの2頭の米国三冠馬がトラヴァーズSで負けたりした競馬場であり、「チャンピオンの墓地」の異名を取っていた事もあったようである。

しかし本馬をトラヴァーズSに出走させない科学的な理由を説明できなかったために、バファート師はやむを得ず本馬をトラヴァーズSに送り出したのだった。その結果、本馬はサラトガ競馬場の「チャンピオンの墓地」伝説に一頁を書き加える羽目になってしまったのだった。本馬が敗れた瞬間に実況は「アップセット(番狂わせ)!」と叫んだが、これは96年前の1919年8月にサンフォードSでマンノウォーを破った馬の名前でもあり、この96年間に米国内で何度叫ばれたのか分からない言葉だった。

この敗戦を受けてザヤット氏が思わず本馬を引退させると口走った事もあり、本馬はこのまま競走馬を引退するのではないかという噂が実しやかに囁かれるようになった。しかしバファート師はレース翌日に「今回は実力を出せませんでしたが、彼は健康そのものです。ザヤット氏は少々神経質になりすぎです」として、引退説を否定。気を落ち着かせたザヤット氏もレース5日後に「BCクラシックを目標とします」と明言し、本馬の次走は決定した。

BCクラシック

その後は2か月間レースに出ずに調整が施され、10月末にキーンランド競馬場で行われたBCクラシック(米GⅠ・D10F)に登場した。アファームドの時代にはブリーダーズカップは未創設だったから、米国三冠馬がBCクラシックに出走してきたのは史上初の事だった。対戦相手は、同じくトラヴァーズSから直行してきたキーンアイス、トラヴァーズS3着後にペンシルヴァニアダービーを勝ってきたフロステッド、クールモアグループが懲りもせずに芝路線から参戦させてきた英2000ギニー・愛2000ギニー・セントジェームズパレスS・愛ナショナルS・愛フューチュリティS・タイロSの勝ち馬で前年のカルティエ賞最優秀2歳牡馬グレンイーグルスの3頭の3歳馬と、メトロポリタンH・ホイットニーS・レムセンS・ガルフストリームパークHの勝ち馬でシャンペンS2着のオナーコード、カリフォルニアクロームを破った前年のベルモントSを筆頭にジョッキークラブ金杯2回・ピーターパンS・ウエストチェスターSを勝ちメトロポリタンHで2着・トラヴァーズS・ホイットニーHで3着していたトゥーナリスト、サバーバンH・エクセルシオールSの勝ち馬でジョッキークラブ金杯3着のエフィネクス、サンタアニタ金杯の勝ち馬ハードエーシズの古馬4頭だった。しかし出走してくれば最大の強敵になると言われていた現役米国最強牝馬ビホルダーは直前に体調を崩したために回避してしまい、米国最強牡馬と米国最強牝馬の直接対決を見られなくなったのは残念だった。

ビホルダーの回避によりいよいよ本馬に人気が集中。本馬が単勝オッズ1.7倍の1番人気、オナーコードが単勝オッズ5.7倍の2番人気、トゥーナリストが単勝オッズ7倍の3番人気、キーンアイスが単勝オッズ10.7倍の4番人気、グレンイーグルスが単勝オッズ12.1倍の5番人気となった。

スタートが切られると即座に本馬が先頭に立ち、1~2馬身ほど後方を単勝オッズ34倍の7番人気馬エフィネクスが追いかけてくる展開となった。トゥーナリストが3番手で、前走で本馬に競りかけたフロステッドは4番手を進んだ。エフィネクスは前走のフロステッドほど本馬に競りかけてくるといった雰囲気ではなく、本馬は前走に比べると楽に先頭を走っていた。そして三角から徐々に加速を開始し、後続との差を少しずつ確実に広げていった。直線入り口では2番手のエフィネクスとは既に4~5馬身程度の差が開いていた。前走で本馬を破ったキーンアイスには今回あまり伸びが無く、他の馬達もエフィネクスを捕らえる事すらも出来そうになかった。直線で独り旅を満喫した本馬が、2着エフィネクスに6馬身半差、3着オナーコードにはさらに4馬身半差をつけて、2分00秒07のコースレコードを計時して圧勝し、米国三冠競走全てに加えてBCクラシックも勝った史上初の競走馬となった。

本項の冒頭に書いたように、米国ではこの4競走を全て制覇する事を “American Grand Slam(アメリカン・グランド・スラム)”と呼称するが、これは本馬の登場により新しく作られた用語であるようで、筆者は本馬の登場以前にこんな用語を見たことは一度もない。ブリーダーズカップ創設以降に米国三冠馬自体が1頭も出ていなかったのだから当然と言えば当然である。

このレース後にザヤット氏は本馬の競走馬引退を明言。こうして37年ぶり史上12頭目の米国三冠馬の競走馬経歴は終わりを迎え、今後は種牡馬としての活躍に期待がかかるようになった。

3歳時の成績は8戦7勝で、本項を書いている段階では未発表だが、エクリプス賞年度代表馬及び最優秀3歳牡馬の座は当確と思われる。追記:2016年1月16日に発表されたエクリプス賞の年度表彰において、有効得票数261票全てを獲得して、1981年のジョンヘンリー以来34年ぶり史上2頭目となる満票で年度代表馬に選ばれ、最優秀3歳牡馬も受賞した。

現在は既にケンタッキー州アッシュフォードスタッドに移動しており、2016年からの種牡馬生活の開始に向けた準備が行われている。大人しい本馬が同牧場にいる他馬に虐められるのを避ける目的で、本馬は2015年に種牡馬を引退してアッシュフォードスタッドで余生を送ることになった20歳年上のサンダーガルチと一緒に放牧されるようになった。予定されている種付け料は20万ドルで、これは30万ドルのタピットに次ぐ米国繋養種牡馬第2位の高額となる。

血統

Pioneerof the Nile エンパイアメーカー Unbridled Fappiano Mr. Prospector
Killaloe
Gana Facil Le Fabuleux
Charedi
Toussaud El Gran Senor Northern Dancer
Sex Appeal
Image of Reality In Reality
Edee's Image
Star of Goshen Lord at War General Brigadier Gerard
Mercuriale
Luna de Miel Con Brio
Good Will
Castle Eight Key to the Kingdom Bold Ruler
Key Bridge
Her Native Kanumera
リットルブレッシング
Littleprincessemma Yankee Gentleman Storm Cat Storm Bird Northern Dancer
South Ocean
Terlingua Secretariat
Crimson Saint
Key Phrase Flying Paster Gummo
Procne
Sown Grenfall
Bad Seed
Exclusive Rosette Ecliptical Exclusive Native Raise a Native
Exclusive
Minnetonka Chieftain
Heliolight
Zetta Jet Tri Jet Jester
Haze
Queen Zetta Crozier
Miami Mood

父パイオニアオブザナイルは日本で種牡馬生活を送っているエンパイアメーカー(ただし2016年に米国に戻る予定らしい)が米国供用時代に出した産駒である。本馬と同じくザヤット氏の生産馬で、セリに出されたが買い手が付かなかったためにザヤット氏に買い戻されたという点でも本馬と同様である。本馬と同じく馬名に逸話がある馬で、本来は“Pioneer of the Nile”だが、文字数制限に引っ掛かる(空白を含めて18文字以内)ため、“Pioneer”と“of”の間の空白を落として“Pioneerof the Nile”になっている。

競走馬としては2歳2戦目で未勝利を脱出。その後はブリーダーズフューチュリティ(米GⅠ)で3着、BCジュヴェナイル(米GⅠ)ではミッドシップマンの5着と一息だった。しかしそのミッドシップマンと同じバファート厩舎に転厩した直後に出走した2歳5戦目のキャッシュコールフューチュリティ(米GⅠ)を勝利した。3歳時はロバートBルイスS(米GⅡ)・サンフェリペS(米GⅡ)・サンタアニタダービー(米GⅠ)と3連勝して、ケンタッキーダービー(米GⅠ)に挑戦。単勝オッズ7.3倍の3番人気に推されたが、単勝オッズ51.6倍の17番人気馬マインザットバードの大駆けに遭って、6馬身3/4差をつけられて2着に敗れた。プリークネスS(米GⅠ)にも出走したが、何の見せ場も無く、牝馬レイチェルアレクサンドラの11着に敗退。それから間もない7月に脚の軟組織損傷のため競走馬を引退した。通算成績は10戦5勝だった。

競走馬引退後はケンタッキー州ヴァイナリースタッドに所有権の75%を購入されて(残りの25%はザヤット氏が保持)、ヴァイナリースタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は1万7500ドルだったが、2年目産駒である本馬の大活躍を受けて急増して2015年には6万ドルとなり、2016年以降は10~15万ドルになると見込まれている。

母リトルプリンセスエマは、ケンタッキー州知事を務めた経験もあるケンタッキー州馬産界の重役ブレレトン・ジョーンズ氏の生産馬。当歳時に13万5千ドルで売却された後、1歳時にさらに転売されて、ザヤット氏により25万ドルで購入された。しかし競走馬としては2歳時のみ走り2戦未勝利で、故障のため早々に引退・繁殖入りした。本馬はリトルプリンセスエマの2番子に当たる。本馬はセリで売れ残ったが、本馬の2歳年下の全妹は210万ドルの値が付いた。本馬の3歳年下の全弟もかなりの高額がつく事が予想されている。

リトルプリンセスエマの半兄にはストームウルフ(父ストーミンフィーヴァー)【ラサロバレラ記念S(米GⅡ)】、半姉にはミスティロセット(父ストーミンフィーヴァー)【オールドハットS(米GⅢ)】がいるが、近親には殆ど活躍馬がおらず、牝系としては極めて貧弱である。本馬に最も近いGⅠ競走の勝ち馬は、リトルプリンセスエマの6代母ミスムードの半姉アピースメントの5代子孫に当たるノーザンエメラルド【フラワーボウル招待H(米GⅠ)】である。同じ牝系出身の著名馬には、エミリウスコロネーションデインドリーム、サクラローレル、タイムパラドックス、キンシャサノキセキなどがいるが、本馬の母系と合流するには19世紀まで遡らなければならない。一昔前には牝系が弱いと種牡馬として成功しないと主張する血統評論家がいた。サンデーサイレンスのように例外が多いために現在ではそんな説を本気で信じている人はいないと思うが、本馬の場合はここまで貧弱だとさすがの筆者も心配になってしまう。→牝系:F14号族②

母父ヤンキージェントルマンはストームキャット産駒で、現役成績は10戦4勝。パイレーツバウンティHというマイナーステークス競走を勝った程度で、4回出走したグレード競走では、BCスプリント(米GⅠ)5着・エインシャントタイトルBCH(米GⅠ)4着・リヴァリッジBCS(米GⅡ)4着・ドワイヤーS(米GⅡ)4着と、入着までには至らなかった。種牡馬になれるような競走成績ではなかったのだが、母キーフレーズがGⅠ競走サンタモニカHの勝ち馬だったという血統が評価されたようで、ケンタッキー州エアドリースタッドで種牡馬入りした。種牡馬としてはGⅠ競走の勝ち馬を含む複数のグレード競走の勝ち馬を出し、競走馬時代よりは好成績を収めた。しかしケンタッキー州に居続けるほどの成績でも無かったようで、2010年以降はルイジアナ州で種牡馬生活を送っている。

本馬の血統表を見ると、セクレタリアトの名前があったり、先代米国三冠馬アファームドの父エクスクルシヴネイティヴの名前もあったりと、概ね北米血統で覆い尽くされているのだが、1部分だけ例外がある。それは父パイオニアオブザナイルの母父である亜国産馬ロードアトウォーであり、その父は仏国産馬ジェネラル、そしてその父はあのブリガディアジェラードである。種牡馬としては失敗に終わった英国競馬最大の英雄ブリガディアジェラードが、米国競馬ファンが待ち望んでいた米国三冠馬の誕生に貢献したというのは、必然かそれとも偶然か。

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