スターリング

和名:スターリング

英名:Sterling

1868年生

鹿毛

父:オックスフォード

母:ウィスパー

母父:フラットキャッチャー

大競走制覇には縁が無かったが爆発的な速度と不適の距離でも好走する闘争心を併せ持つ英国競馬史上有数の名馬と評され、種牡馬としても大きな成功を収める

競走成績:3~5歳時に英で走り通算成績10戦5勝2着3回3着2回(確認できた範囲のみ)

誕生からデビュー前まで

英国ウエストミッドランド州にある英国屈指の大都市バーミンガムの近郊にあったヤードリースタッドにおいて、父オックスフォードの所有者だったグラハム兄弟により生産された。名義上の馬主はブライドン氏(Mr Blaydon)となっていたが、このブライドン氏というのは偽名で、本名はグラハム女史(グラハム兄弟のいずれかの娘らしい)であり、性別は女性である。管理調教師に関する記録が見当たらない事から、グラハム一家が生産から所有、調教までを全てこなしていたと思われる。

競走生活(3歳時)

本馬は結果的に大競走を勝つことが無かった影響もあるのか、その競走成績など詳細に関しては不明瞭な部分が多い。まず、2歳時にレースを走ったかどうかは定かではない。記録に残る限りで本馬の名前が最初に出てくるレースは、3歳春の英2000ギニー(T8F17Y)である。このレースには、2歳時にクイーンズスタンドプレート・シートンデラヴァルS・英シャンペンSを制したキングオブザフォレストという強敵が出走していた。しかし勝ったのは本馬でもキングオブザフォレストでもなく、喘鳴症のためにこの後は大成せずに終わったボスウェルだった。本馬は2着で、キングオブザフォレストは3着だった。

次に本馬の名前が出てくるレースは、3歳夏のプリンセスオブウェールズS(T12F)である。ここでは、英2000ギニー3着後に出走した英ダービーではファヴォニウスの2着同着だったが、直前のプリンスオブウェールズSを勝ってきたキングオブザフォレストに加えて、英1000ギニー・英オークスを勝ってきた後の英国牝馬三冠馬ハンナも出走してきた。ここではキングオブザフォレストが勝利を収め、ハンナが2着、本馬は3着だった。

次に本馬の名前が出てくるレースは、3歳秋のケンブリッジシャーH(T9F)である。このレースには、本馬と同世代の英ダービー馬ファヴォニウスも出走してきた。英2000ギニー2着馬である本馬と、英ダービー馬ファヴォニウスとを比べると、実績的にはファヴォニウスのほうが上に見えるが、斤量は2頭とも同じ123ポンドに設定された。本馬を含めて37頭もの馬が出走したこのレースは、前年のアスコット金杯とこの年のシティ&サバーバンHを勝っていた斤量119ポンドの4歳牡馬サビヌスが勝利を収め、本馬と斤量93ポンドの5歳牡馬オールブルックの2頭が短頭差の2着同着、ファヴォニウスは着外だった。

このレース後に、本馬とファヴォニウスのマッチレースが、ニューマーケット競馬場において企画された。しかしちょうどこの頃、ベルモントS・トラヴァーズS・ジェロームHなどを勝っていた米国最強3歳馬ハリーバセットの所有者デビッド・マクダニエル大佐から、グラハム一家に対してマッチレースの申し込みが来ていた。グラハム一家はハリーバセットとのマッチレースを優先したために、ファヴォニウスとのマッチレースは回避となった。しかしマクダニエル大佐が提示した内容は、レースは米国で行い、距離は12ハロンというものだった(資料には明記されていないが当時の米国の事であるから、芝ではなくダート競走だったはずである)。施行場所も馬場も距離も本馬にとってあからさまに不利だったため、グラハム一家はマクダニエル大佐が提示した賞金1万2千ポンドを8千ポンドに減額する事と引き換えに、英国でレースを行う事を要望した。結局両者は条件面の折り合いが付かなかったようで、本馬とハリーバセットのマッチレースは実現しなかった。しかしマクダニエル大佐が大西洋を越えてマッチレースを申し込んだ相手がファヴォニウスではなく本馬であったということは、本馬の名声はファヴォニウス以上に国外にも轟いていた事を証明している。ケンブリッジシャーHで本馬とファヴォニウスが同斤量を課された事も、本馬の評価がファヴォニウスと同等以上のものだった事を指し示している。マッチレースに出走しなかった本馬だが、この時期にニューマーケットフリーH(T10F)に出走した記録が残っており、ここでは勝利を収めている。3歳時はニューマーケットフリーH以外にも2勝を挙げているようだが、そのレース名などは不明である。

競走生活(4・5歳時)

4歳になった本馬は、フレデリック・グレトン氏という人物にリースされて、この後は競走馬引退まで彼の名義として走った。しかし4歳時に本馬が出走した記録が残るレースは2戦のみである。その1つはニューマーケット競馬場で出走したクレイヴンS(T8F)で、これは勝利を収めている。もう1戦はアスコットゴールドヴァーズ(T16F)で、ミドルパークプレートの勝ち馬で英ダービー・英セントレジャー共に2着だった同世代馬アルバートヴィクターと戦い、半馬身差の2着に敗れた。

5歳時も、本馬が出走した記録が残るレースは2戦しかない。その1つはケンブリッジシャーH(T9F)で、ここでは133ポンドを課せられ、斤量111ポンドのミドルパークプレート3着馬モンタルジ、斤量88ポンドのウォルナットの2頭の3歳牡馬との大接戦の末に、勝ったモンタルジから短頭差+短頭差の3着に敗れている。もう1戦は11月に出走したリヴァプールオータムC(T12F)で、ここでは130ポンドを課せられ、エボアHを勝ってきた前年の英オークス2着馬ルイーズヴィクトリア(翌年のリヴァプールオータムCを勝っている)、シザレウィッチHを勝ってきた4歳牡馬キングラッドとの大接戦の末に、今度は2着ルイーズヴィクトリアに短頭差、3着キングラッドにもさらに短頭差で勝利を収めている。これが現役最後のレースだったようである。

競走馬としての評価

本馬は基本的にマイラーだったらしく、マイル前後の距離では「爆発的なスピード」で他馬を寄せ付けなかったと言われる。しかし如何せん本馬の現役当時はマイルの大競走が少なく、マイラーが活躍する舞台は限定的だった。牡馬のマイラーにとっての最大競走である英2000ギニーを落としてしまった時点で、本馬が大競走を勝つ機会はほぼ無くなってしまったのである。しかし本馬が見せた圧倒的な速度と、明らかに不適な距離でも健闘する闘争心は、当時の英国競馬関係者から高く評価されていた。本馬の主戦を務めたハリー・カスタンス騎手は過去に、本馬の父オックスフォードを負かしたこともある歴史的名馬トーマンバイや英国三冠馬ロードリオンで英ダービーを勝利するなど、多くの有力馬に騎乗した経験がある名手だったが、彼は本馬を「私の過去20年の騎手生活において、スターリングに匹敵する馬はトーマンバイのみでした。これほど勇敢な馬は滅多にいないでしょう」と、ロードリオンを上回る評価を与えている。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第34位にランクインしている。これといった大競走を勝っていない本馬だが、その実力は英国競馬史上有数と評価されていたのである。

血統

Oxford Birdcatcher Sir Hercules Whalebone Waxy
Penelope
Peri Wanderer
Thalestris
Guiccioli Bob Booty Chantcleer
Ierne
Flight Escape
Young Heroine
Honey Dear Plenipotentiary Emilius Orville
Emily
Harriet Pericles
Selim Mare
My Dear Bay Middleton Sultan
Cobweb
Miss Letty Priam
Orville Mare
Whisper Flatcatcher Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Decoy Filho da Puta Haphazard
Mrs.Barnet
Finesse Peruvian
Violante
Silence Melbourne Humphrey Clinker Comus
Clinkerina
Cervantes Mare Cervantes
Golumpus Mare
Secret Hornsea Velocipede
Cerberus Mare
Solace Longwaist
Dulcamara

父オックスフォードはバードキャッチャー産駒で、主に愛国で種牡馬生活を送った父が、名伯楽ジョン・スコット調教師が所有するカウストンスタッドにおいて繋養されていた時期に出した英国産馬である。1歳時に本馬の生産者グラハム兄弟に購入されて競走生活を送った。しかし競走馬として特に優秀な成績を挙げた馬ではなく、2歳時に出走したモスティンSで単勝オッズ4倍の1番人気に支持され、本馬に匹敵するとカスタンス騎手が評価した前述のトーマンバイの首差2着に入ったのが最も誇れる実績とされている。3歳時は未勝利に終わったが、4歳時にいくつかの無名競走を勝ち、リヴァプールスプリングCで2着している。競走成績は振るわなかったが、バードキャッチャー産駒の中では最も優れた骨格と気性の持ち主であると評価したグラハム兄弟の判断により種牡馬入りしていた。種牡馬としては英種牡馬ランキングで7位に入った事が1度あるようだが、競走馬時代を大きく上回る成功を収めたとも言い難い。

母ウィスパーの競走馬としての経歴は良く分からない。本馬の全弟にプレイフェア【ケンブリッジシャーH】、本馬の半妹グラニット(父ザデューク)の孫に、メルトニアン【シャンペンS】、日本で種牡馬入りして帝室御賞典の勝ち馬を2頭出したラシカッター、牝系子孫にゲイレヴェルリー【アンダーウッドS・カンタラS】、エンパイア【エルエンサーヨ賞・タンテオデポトリジョス賞・智セントレジャー・エルダービー】がいるが、近親には活躍馬が殆どおらず、牝系も発展していない。→牝系:F12号族①

母父フラットキャッチャーはタッチストン産駒で、英2000ギニー・ウッドコートS・トライアルS(現クイーンアンS)を勝ち、ロシア皇帝プレート(現アスコット金杯)で2着、英セントレジャーで同父の名馬サープライスの3着している。種牡馬としては殆ど成功しなかったが、繁殖牝馬の父としては実績を挙げている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、グラハム一家所有のもと、ヤードリースタッドで種牡馬入りした。競走馬としてはその能力に見合うだけの大競走制覇には縁が無かった本馬だが、種牡馬としては数々の大競走の勝ち馬を送り出して大成功した。ハーミットガロピンといった歴史的大種牡馬に邪魔をされたとは言え、英首位種牡馬を獲得することが無かったのが不思議なくらいである。

産駒は自身と同様にマイル前後の距離を得意とする馬が多かった。しかし、マイルの英2000ギニーと距離3000mのパリ大賞を両方勝ったパラドックスのように、マイルから距離が伸びても活躍する産駒もいた。間違いなく本馬の代表産駒筆頭格であるアイソノミーは、字面上の競走成績からすると完全な長距離馬だが、実際には2歳戦から優れた素質を見せており、おそらくマイル戦でも好勝負になったと思われる。あと、本馬の産駒には障害競走で活躍する馬もいた。この距離万能ぶりは、自身が見せた不適の距離もこなす闘争心を産駒に伝えたからなのか、自身の速度を殺すことなく相手方の持久力も引き出す能力を有していたのか、それとも本馬自身に長距離をこなす持久力が潜在的にあったためなのか、その理由は定かではない。種牡馬としての本馬のもう1つの特徴は、活躍馬が牡馬に偏っており、牝馬の活躍馬が少ないことである。しかし繁殖牝馬の父としては割と優れた成績を収めている。

本馬の種牡馬としての活躍ぶりは英国内外に轟き渡り、グラハム一家のところには最高1万ポンドで本馬を売ってほしいという申し出が相次いだ。中には豪州からの申し込みもあったという。しかしグラハム一家は「オーストラリアに存在する全ての黄金を積まれても、スターリングは売りません」としてそれを拒否。本馬は最期までグラハム一家の元で暮らし、1891年3月に23歳で他界した。後継種牡馬としてはアイソノミーが成功し、アイシングラスやガリニュールを経由して本馬の血を後世に伝えた。また、息子のエンスージアストは日本の根幹繁殖牝馬ビューチフルドリーマーの父となっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1875

Isonomy

アスコット金杯2回・グッドウッドC・ドンカスターC・ゴールドヴァーズ・ケンブリッジシャーH

1876

Sheridan

コンデ賞

1877

Beaudesert

ミドルパークS

1877

Fernandez

クレイヴンS

1880

Energy

ジュライC・オールエイジドS・グレートチャレンジS2回

1880

The Golden Farmer

ジムクラックS

1881

Harvester

英ダービー

1881

Superba

英シャンペンS

1882

Esterling

クレイヴンS

1882

Paradox

英2000ギニー・パリ大賞・デューハーストS・サセックスS・英チャンピオンS

1884

Enterprise

英2000ギニー・ニューS・ジュライS

1885

Zanzibar

サセックスS・ナッソーS

1886

Enthusiast

英2000ギニー・サセックスS

1886

Gold

アスコット金杯・英チャンピオンS

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