ブリガディアジェラード

和名:ブリガディアジェラード

英名:Brigadier Gerard

1968年生

鹿毛

父:クイーンズハザー

母:ラペヴァ

母父:プリンスシュヴァリエ

マイル戦で無敵の強さを誇りながらも10ハロン以上の距離もこなし20世紀における英国調教馬としては最高の評価を得た英国競馬界の英雄

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績18戦17勝2着1回

マイル戦で無敵の強さを誇りながらも、10ハロン~12ハロンの距離をも克服し、20世紀における英国調教馬としては最高の評価を受けている稀代の名馬。現役時代の後半には“The Brigadier(ザ・ブリガディア)”と呼ばれ、英国競馬史上最大の英雄として讃えられた。

誕生からデビュー前まで

英国ニューマーケットのエジャートンスタッドにおいて誕生した。エジャートンスタッドはかつて、サイリーンエアシャーバーラムアバーナントといった種牡馬が繋養されていた英国の名門牧場で、この当時は英国王室の所有だった。

本馬の生産・所有者はジョン・L・ヒスロップ氏という人物だった。1911年に当時英国の領地だったインドのクエッタ(現在はパキスタンの領内)で誕生したヒスロップ氏は、英国で勉学に励み、英国に骨を埋めた生粋の英国人だった。ヒスロップ氏は馬が好きであり、かつてアマチュアの平地騎手として首位騎手を13回も獲得し、当時は季刊誌「ブリティッシュ・レースホース」の編集長をしていた。

ヒスロップ氏は、若い頃にピーター・P・ギルピン調教師の調教助手をしていた事があった。ギルピン師はかつて20世紀英国競馬史上最高の名牝プリティポリーを管理していた人物である。プリティポリーの話を聞いたヒスロップ氏は、いつかその子孫を所有したいと考え、プリティポリーの曾孫にあたるブレイズンモリーという牝馬を500ポンドで購入した。しかし、ブレイズンモリーにプリンスシュヴァリエを交配させて誕生した牝駒ラペヴァは未勝利に終わった。それでもヒスロップ氏はラペヴァをエジャートンスタッドにおいて繁殖入りさせ、エジャートンスタッドの近郊の牧場にいたクイーンズハザーというマイナー種牡馬と交配させた。その結果として誕生したのが本馬である。この辺りの経緯は、後にヒスロップ氏が出版した本馬の伝記「ザ・ブリガディア」において詳細に述べられているらしいが、筆者にはこの本の入手機会が無く、未読である。

本馬の馬名はアーサー・コナン・ドイル卿の小説「勇将ジェラールの冒険」の主人公である准将ジェラール(皇帝ナポレオン1世麾下で活躍し、勇敢で知略にも富むが、自惚れ屋で女性に弱い仏国人)に由来する。准将(英語で“Brigadier”)は軍隊の階級の一つであり、能力があっても財力に乏しい優秀な人材を抜擢するために17世紀仏国において創設された階級で、英国では士官最上級である将官(元帥、大将、中将、少将)の1つ下である佐官(准将、大佐、中佐、少佐)の最上位に位置付けられている。

本馬は成長すると体高16.5ハンドに達した比較的大柄な馬で、さらにバランスが取れた馬体の持ち主であり、しかも気性面においても優れていたと伝えられている。

ヒスロップ氏の妻ジーン夫人の名義で競走馬登録された本馬は、英国ディック・ハーン調教師に預けられた。ハーン師は1921年英国生まれで、本馬を預かった時点で49歳だった。1952年ヘルシンキ五輪の障害飛越団体競技において英国チームが金メダルを獲得したときのサポートメンバーでもあった彼は、1958年に調教師として開業。1962年の英セントレジャーをヘザーセットで、1965年の愛セントレジャーをクレイグハウスで勝利していたが、本馬の管理を開始した時点においては、お世辞にも一流の実績を残していたわけではなかった(本馬以降には数々の歴史的名馬を手掛けることになる)。本馬の主戦はジョー・マーサー騎手で、本馬の全レースに騎乗した。

競走生活(2歳時)

2歳6月にニューベリー競馬場で行われたバークシャーS(T5F)でデビューした。本馬以外の出走馬4頭は、単勝オッズ2倍の1番人気に支持されていたヤングアンドフーリッシュ、6戦4勝の牝馬メイジーズトーツ、ポーターズプレシェントなど、既に勝ち上がっていた馬ばかりであり、初出走の本馬は単勝オッズ15.3倍の4番人気という低評価だった。スタートが切られると、マーサー騎手は速やかに本馬を馬群の後方に位置取らせた。そして残り2ハロン地点で仕掛けると、先頭まで4馬身ほどあった差を瞬く間にひっくり返し、ゴール前では完全に馬なりで走りながらも、最後は2着メイジーズトーツに5馬身差をつけて圧勝した。

次走は初勝利から8日後のソールスベリーシャンペンS(T6F)となった。さすがに今回は単勝オッズ2.625倍の1番人気に支持されると、2着ガストンアゲインに4馬身差で圧勝した。その後は6週間ほどの間隔を空けて、8月にニューベリー競馬場で行われたワシントンシンガーS(T6F)に向かった。ここでは単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持されると、残り1ハロン地点で先頭に立ち、2着コメディスターに2馬身差で快勝した。

次走はデューハーストSと並ぶ英国2歳戦の双璧であるミドルパークS(T6F)となった。ゼトランドS・ウッドコートS・ロベールパパン賞・モルニ賞・ボワ賞・サラマンドル賞を勝っていたマイスワロー、ソールズベリーS・コヴェントリーS・ジムクラックS・インペリアルSを勝ちロベールパパン賞で2着していたミルリーフという、同世代トップクラスの2歳馬2頭は不在だったが、ハイペリオンS・ノーフォークSなど3戦無敗のマミーズペット、ニューS・リッチモンドS・ジュライSの勝ち馬で唯一の敗戦はマイスワローが勝ったサラマンドル賞のみという4戦3勝馬スウィングイージーといった有力馬が出走してきた。マミーズペットが単勝オッズ2.2倍の1番人気、スウィングイージーが単勝オッズ3.25倍の2番人気で、本馬は単勝オッズ6.5倍(5.5倍とする資料もある)の3番人気に留まった。レース序盤のペースが遅いのを感じ取ったマーサー騎手は、本馬を早めに先頭に立たせた。そして後は馬なりで先頭を走り続け、2着マミーズペットに3馬身差、3着スウィングイージーにはさらに1馬身半差をつけて完勝した。マミーズペットとスウィングイージーはいずれも3歳以降には短距離路線に進み、マミーズペットはテンプルSに勝ち、スウィングイージーはキングズスタンドS・ナンソープSを勝つ活躍を見せる事になる。

本馬はその後のデューハーストSには参戦せず、2歳時は4戦全勝の成績で終えた。英タイムフォーム社の2歳馬レーティングにおいては、仏グランクリテリウムも勝利して1945年のニルガル以来25年ぶり史上4頭目の仏国2歳三冠馬となった7戦無敗のマイスワローが134ポンドでトップ、デューハーストSを勝利した6戦5勝のミルリーフと、仏グランクリテリウム2着馬ボナミが並んで133ポンドで2位、本馬は132ポンドで単独4位だった。マミーズペットが122ポンドで16位タイ、スウィングイージーが120ポンドで22位タイだったところを見ると、本馬が勝ったミドルパークSはレベルが低かったと判断されてしまったようである。もっとも、本馬自身の評価が不当に低かったわけではない。その証拠に、この年の英国三冠馬に輝いたニジンスキーの前年2歳時における評価131ポンドよりは高かった。なお、2歳馬フリーハンデにおいては、マイスワローが133ポンド、ミルリーフが132ポンド、本馬は131ポンドで3位の評価だった。

英2000ギニー

半年以上の休養を経た本馬は、3歳初戦を英2000ギニー(GⅠ・T8F)で迎えた。出走馬は本馬を含めて僅か6頭だったが、前述のマイスワローとミルリーフも対戦相手の中に含まれており、2歳トップクラスの活躍馬が揃って出走してきた英2000ギニー(こうした事例は過去に意外と少なかった)として、戦前から大きな注目を集めていた。マイスワローはアッシャーSを、ミルリーフはグリーナムSを叩いて楽勝してからこのレースに臨んできていた。そのため前評判ではマイスワローとミルリーフの一騎打ちと言われていた。ミルリーフが単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持され、マイスワローが単勝オッズ3倍の2番人気、本馬は単勝オッズ6.5倍の3番人気で、レイルウェイS・ベレスフォードS・グラッドネスSを勝って臨んできたミンスキー(ニジンスキーの1歳下の全弟)が単勝オッズ8.5倍の4番人気、ホーリスヒルSの勝ち馬グッドボンドが単勝オッズ17倍の5番人気、特に実績が無いインディアンルーラーが単勝オッズ101倍の最低人気だった。

スタートが切られると、大外6番枠発走のマイスワローが先手を取り、最内枠発走のミルリーフがそれを追って先行。4番枠発走の本馬はミルリーフのすぐ後方につけた。枠順の関係で最初はマイスワローとミルリーフの馬体はかなり離れていたのだが、2頭が徐々にお互いのほうに寄っていって、2頭の馬体はかなり接近した。ミルリーフの後方を走っていた本馬もミルリーフと一緒にマイスワロー側に寄っていった。残り3ハロン地点の辺りでミルリーフが加速して外側のマイスワローに並びかけ、2頭の叩き合いが始まった。これでミルリーフとマイスワローの一騎打ちになると思われた次の瞬間、ミルリーフから2馬身ほど後方を走っていた本馬にマーサー騎手が右鞭で合図を送ると、本馬は一気に加速。叩き合うマイスワローとミルリーフの2頭に残り2ハロン地点で内側から並びかけた。3頭の叩き合いとなったのはほんの一瞬であり、ミルリーフから離れて内埒沿いに寄っていきながら本馬が一気に他2頭を引き離して抜け出した。そして最後は2着ミルリーフに3馬身差、3着マイスワローにはさらに3/4馬身差、4着ミンスキーにはさらに5馬身差をつけて完勝を収めた。

ミルリーフ鞍上のジェフ・ルイス騎手は「ジョー(マーサー騎手)が視界に入った瞬間に全ては終わっていました。ジョーの馬はあまりにも速く、あまりにも良かったです」と、マイスワロー鞍上のフランキー・デュール騎手は「私達(マイスワローとミルリーフ)は共倒れになったわけではありません。勝った馬が私達の馬より強かっただけです」と、ミンスキー鞍上のレスター・ピゴット騎手は「ブリガディアジェラードは残り2ハロン地点で一瞬にして先頭に立ったので、私は何もする事が出来ませんでした」と、本馬から20馬身以上後方の最下位でゴールインしたグッドボンド鞍上のジミー・リンドリー騎手は「過去50年間で最高の2000ギニーだったのではないでしょうか」と、各々の敗戦の弁を述べた。マーサー騎手は「一瞬たりとも問題は生じませんでした。スタートして5ハロンほど走ったところで私は勝ちを確信しました」と語っている。

1947年に8馬身差で圧勝したテューダーミンストレル以来最も華麗な英2000ギニーの勝ち方と評されたこのレースは、現在でも伝説として語り継がれている。しかし伝説化されているレースにありがちな事だが、その内容が誤って伝えられている事が多く、原田俊治氏の「新・世界の名馬」においても「(本馬がミルリーフに並びかける前に)最初にマイスワローが沈み(中略)前半ですでに勝負をあきらめた格好」という誤った記載がされている(実際にはマイスワローはゴールまでミルリーフに食い下がっている)。もっとも、これをもって原田氏を非難するつもりは筆者にはない。実際のレースを見ずに、残されている文章や記録だけでレース内容を正確に記載しようとする作業はかなり困難で、実際のレース内容と乖離してしまいがちになるのは、筆者も身に染みて理解しているつもりだからである。この名馬列伝集にしても、実際のレース内容と筆者の記載内容が食い違っている箇所は少なくないはずである。もっとも、この英2000ギニーに関しては、筆者は何度もレース映像を見て書いているから、事実どおりの記載内容となっているはずである。

競走生活(3歳中期)

さて、前年のニジンスキーに続いて本馬もまた英ダービーに向かうかと思われたが、本馬の事を長距離得意の馬とは思っていなかったヒスロップ氏は、英ダービーには当初から出走させるつもりが無く、登録さえもしていなかった。ハーン師も本馬は“a classic-distance horse”ではなく“a miler”なのだろうと考えており、スタミナ能力には疑問を抱いていた。

そしてそのままマイル路線を進むことになり、次走はセントジェームズパレスS(GⅡ・T8F)となった。対戦相手は、ダイオメドS・サースククラシックトライアルの勝ち馬で愛2000ギニー2着のスパークラー、英2000ギニー最下位のグッドボンドなど3頭だけだった。このレースは英タイムフォーム社の記事において「軟弱地盤中の軟弱地盤」と評されたほどの極悪不良馬場で行われた上に、最終レースだったために前のレースで走った馬達に踏み荒らされて馬場状態は田圃同然だった。単勝オッズ1.36倍という圧倒的1番人気に支持された本馬は、やはり馬群の中団を追走した。そして英2000ギニーと同じように残り2ハロン地点でマーサー騎手が仕掛けた。しかし田圃のような馬場に脚を取られてしまい、5馬身ほど前の先頭をひた走るスパークラーになかなか追いつけなかった。もはや駄目かと思われた残り半ハロン地点で、ようやく本馬の末脚が炸裂し、最後の一完歩でスパークラーを頭差かわして勝利した。なお、スパークラーは後にクイーンアンS・ロッキンジS・ムーランドロンシャン賞などを勝つ名マイラーとなった。

ヒスロップ氏は、本馬の次走をジュライCにする予定だった。本馬を英ダービーに出走させなかったヒスロップ氏であるが、本当に強い馬は強い相手と戦ってこそその真価が証明されるという考え方の持ち主でもあり、ジュライCに出走予定だったマイスワローに本馬を再度ぶつけるつもりだった。しかし結局ジュライCは見送りとなり(その理由は資料に書かれていない)、ジュライC2着を最後に引退したマイスワローと対戦する機会は2度と訪れなかった。

本馬の次走は結局7月末のサセックスS(GⅠ・T8F)となった。このレースで本馬に挑んできた4頭の中で最も強敵と目されたのは、仏国から参戦してきた4歳馬ファラウェイサンだった。ファラウェイサンはクリテリウムドメゾンラフィットの勝ち馬で、ムーランドロンシャン賞2着・仏グランクリテリウム3着の他に、前年の仏2000ギニーで1位入線(進路妨害で3着に降着)という実績があった。ファラウェイサンが降着になった仏2000ギニーで繰り上がり勝利したカロは7月上旬のエクリプスSにおいて、英ダービーを勝ってきたミルリーフの前に完敗していたのだが、ファラウェイサン自身はポルトマイヨ賞で2着マイスワローを6馬身ちぎるなど絶好調であり、本馬に対抗できるとすればこの馬とみなされていた。他にも、この年のロッキンジSでウェルシュページェント(ロッキンジS2回・クイーンアンS・クイーンエリザベスⅡ世Sを勝っていた当時の英国古馬最強マイラー)の2着に入っていたシュマンドフェルデュノール賞の勝ち馬ジョシュア、この年の愛2000ギニーにおいて驚異的なコースレコードを樹立してスパークラー以下に勝利していた愛ナショナルS・コーク&オラリーSの勝ち馬キングスカンパニー、ジャージーSの勝ち馬アシュリーなども出走してきた。レースの数日前からレース1時間前まで大雨が降り続き、またしても不良馬場となっていた。それでも本馬は単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。前走のように脚を取られて加速力を殺がれる懸念があったためか、マーサー騎手はスタートから本馬を先頭に立たせる作戦に出た。そしてそのまま先頭を走り続けると、2着ファラウェイサンに5馬身差、3着ジョシュアにはさらに2馬身半差をつけて圧勝してしまった。ファラウェイサンもこの年のムーランドロンシャン賞やフォレ賞を勝つ名マイラーなのだが、この馬場状態にも関わらずコースレコードから2秒ほど遅いだけというタイムで駆け抜けた本馬には全く歯が立たなかった。この勝ち方は、英ダービーを3馬身差で完勝したミルリーフのそれよりも上であると評された。

競走生活(3歳後期)

次走は8月のグッドウッドマイルS(GⅡ・T8F)となった。対戦相手は、前年のムーランドロンシャン賞・グリーナムS・コートノルマンディ賞の勝ち馬ゴールドロッド、前走で着外だったアシュリーの2頭だけだった。このレースは海外の資料において「殆ど語るべき内容はありません」と書かれてしまうほど、単勝オッズ1.17倍の1番人気に支持された本馬の強さばかりが目立つ内容となった。馬なりのまま先頭を走り続けた本馬が、2着ゴールドロッドに10馬身差、3着アシュリーにはさらに4馬身差をつけて逃げ切り圧勝してしまった。

次走は9月のクイーンエリザベスⅡ世S(GⅡ・T8F)となった。対戦相手はここでも僅か2頭だったが、前走のジャックルマロワ賞で2着スパークラーを半馬身差で抑えて勝ってきたロシェット賞・エヴリ賞の勝ち馬ディクタスという実力馬の姿があった。もう1頭は、3戦連続で本馬に挑んできたアシュリーだった。スタートが切られると、アシュリーが一か八かの逃げを打ち、単勝オッズ1.18倍の1番人気に支持されていた本馬が2番手、ディクタスが最後方3番手につけた。しかしレース中盤で本馬が馬なりのまま先頭に立ち、最後は2着ディクタスを8馬身差の2着に、3着アシュリーをさらに10馬身差の3着に葬り去って圧勝した。このレースで実況を担当したピーター・オサリバン氏は「このレースには2着馬も3着馬もいませんでした」と伝えた。

次走は10月の英チャンピオンS(GⅠ・T10F)となった。初の10ハロンという距離に加えて、本馬陣営が直前まで出走取り消しを検討するほどの不良馬場と、不安材料が多かった。しかもこのレースには、英国における現役最強古馬だった前述のウェルシュページェントが満を持して本馬打倒に乗り出してきていた。また、デスモンドS・バリモスSの勝ち馬ラリティー(かつてハーン師が管理した英セントレジャー馬ヘザーセットが7歳で早世するまでに残した数少ない産駒の1頭)も本馬に挑戦してきた。レースでは単勝オッズ1.5倍の1番人気だった本馬が残り2ハロン地点で抜け出して先頭に立ったところに、ラリティーにあわやというところまで追い詰められた。しかしなんとか2着ラリティーに短頭差、3着ウェルシュページェントにさらに2馬身半差をつけて勝利を収め、3歳時を6戦全勝の成績で終えた。

なお、英2000ギニーで本馬に完敗したミルリーフは、その後に英ダービー・エクリプスS・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・凱旋門賞を勝ち、3歳時6戦5勝の成績を残していた。英タイムフォーム社のレーティングと英国フリーハンデの2つの評価機関は共に前年にはミルリーフが本馬より1ポンド上という評価を下していたのだが、この年は両機関の間で評価が大きく分かれた。英国フリーハンデにおいては、ミルリーフが133ポンドで本馬が129ポンドと、ミルリーフが4ポンドも上にランクされた。一方で英タイムフォーム社は、2頭共に141ポンドのレーティングをつけた。英国フリーハンデについては資料不足のため本馬やミルリーフの評価がどれだけのものなのかをここで論評する事が出来ないのだが、英タイムフォーム社のレーティングについては過去の資料が概ね手元にあるので論評可能である。英タイムフォーム社が過去に140ポンド以上の評価を与えた馬は、1947年のテューダーミンストレル(144ポンド)、1950年のアバーナント(142ポンド)、1951年のウインディシティ(142ポンド)、1956年のリボー(142ポンド)、1965年のシーバード(145ポンドで当時史上最高)、1968年のヴェイグリーノーブル(140ポンド)の6頭のみであり、前年の英国三冠馬ニジンスキーですらも138ポンドだった。平均で4年に1頭しか出ない140ポンド台がこの年は2頭も出た事になり、それだけ本馬とミルリーフの強さが傑出していた事を示している。

競走生活(4歳初期)

本馬とミルリーフは揃って4歳時も現役を続行した。本馬はまず5月のロッキンジS(GⅡ・T8F)から始動して、単勝オッズ1.25倍の1番人気に支持された。ここではレース中盤で先頭に立つと、あとは馬なりのまま軽く走って、2着グレイミラージュ(英国有数の名障害競走馬デザートオーキッドの父として知られる)に2馬身半差、3着ゴールドロッドにはさらに8馬身差をつけて勝利した。

それから9日後にはウエストベリーS(GⅢ・T10F)に出走した。136ポンドという過酷な斤量を課せられる事を承知でこのレースに出た目的は、この年最大の目標としていたエクリプスSと同コースで行われるレースだったためであり、いわば下調べであった。この斤量にも関わらず単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された本馬は、早め先頭からそのまま押し切って、14ポンドのハンデを与えた2着バリーホットに半馬身差、10ポンドのハンデを与えた前年の同競走とラビングハウスS(現アールオブセフトンS)の勝ち馬ペンブロークキャッスルにさらに2馬身差をつけて勝利した。なお、このウエストベリーSは翌年にブリガディアジェラードSと改名されている。

次走は6月のプリンスオブウェールズS(GⅡ・T10F)となった。ペンブロークキャッスルに加えて、クリテリウムドメゾンラフィットの勝ち馬で仏グランクリテリウム・オブザーヴァー金杯2着の3歳馬スティールパルス(翌月の愛ダービーを勝っている)が本馬に挑んできた。それでも本馬は当然のように単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。ところがレースの2日前にマーサー騎手が乗っていた小型飛行機が墜落事故を起こすアクシデントが起きていた。マーサー騎手は幸いにも軽症で済んだが、操縦士が死亡、同乗者が重傷を負ってしまい、マーサー騎手は大きな精神的ショックを受けていた。しかしこのレースで本馬は、マーサー騎手が何もしなくてよいほどの快走を見せた。2番手追走からすんなりと抜け出すと、2着スティールパルスに5馬身差をつけて、2分06秒32のコースレコードで完勝した。

競走生活(4歳中期)

この時期になると、本馬とミルリーフの再戦を望む声が大きくなっていた。英2000ギニーで本馬に敗れた後のミルリーフは英ダービーからこの年のガネー賞・コロネーションCまで6連勝中であり、英国競馬史上に名を残す名馬2頭の対戦をもう1度見たいというのはファンとして当然の願いだった。そして本馬の次走に予定されていたエクリプスS(GⅠ・T10F)には、前年の同レース勝ち馬でもあったミルリーフも参戦を表明していた。英2000ギニー以来の両雄の対決に大きな期待が集まったが、レース直前にミルリーフがコロネーションC時点で既に罹患していたウイルス性感染症をぶり返して回避してしまった。ミルリーフ不在なら本馬が負けるわけが無いと思われ、単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された。しかし生憎と本馬の苦手な重馬場でレースが行われた。馬場状態を懸念したマーサー騎手はスタートして2ハロンほど走ったところで本馬を先頭に立たせた。ゴール前ではマーサー騎手が必死に本馬に檄を与え続け、2着ゴールドロッドに1馬身差、2着となったテトラークSの勝ち馬でセントジェームズパレスS2着のホームガードにさらに2馬身差をつけてなんとか勝利した。思わぬ苦戦となった事に、本馬を早めに先頭に立たせたマーサー騎手を非難する論調が噴出したらしいが、やはり馬場状態が悪かった前年のサセックスSでも逃げて圧勝した経歴があったし、非難するのはお門違いであろう。

次走は15日後のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(GⅠ・T12F)となった。本馬は長距離馬ではないと信じていたヒスロップ氏やハーン師が何故この段階になって本馬をこの距離のレースに出したのか、その正確な理由は海外の資料にも明記されていないが、「新・世界の名馬」を読むと、調教において前年をも上回る充実ぶりを示していたためという理由が示されており、おそらくそれが正解なのであろう。しかし本馬にとっては初の12ハロンであり、スタミナ面が不安視されていたのも事実だった。対戦相手も、愛ダービーを勝ってきたスティールパルス、前年の愛セントレジャーの勝ち馬でクイーンズヴァーズ・ジャンプラ賞も勝っていたパーネル、仏2000ギニー・ジャンプラ賞・イスパーン賞と3連勝してきた3歳馬リヴァーマン、伊グランクリテリウム・伊ダービーを勝ってきた3歳馬ゲイルーザック、オーモンドS・ハードウィックSを勝ってきたセルハーストなど強敵揃いだった。スタートが切られると、スタミナに自身があるパーネルとセルハーストの2頭が先手を取り、スタミナ面の懸念がありながらも単勝オッズ1.62倍の1番人気に支持されていた本馬は中団を追走した。やがて向こう正面でセルハーストが遅れ始めてパーネルが単独で先頭に立った。三角手前で本馬も進出を開始して、直線入り口では、パーネルから2馬身差の2番手まで押し上げてきた。そして直線に入ると前を行くパーネルを差し切り、2着パーネルに1馬身半差、3着リヴァーマンにはさらに5馬身半差、4着スティールパルスにはさらに2馬身差をつけて勝利した。快勝したかのように書いたが、当時のレース映像を見ると、マイル戦において本馬が発揮していた圧倒的な切れ味は無く、残り1ハロン地点ではスタミナが切れたのか右側によれてパーネルにぶつかりそうになり、マーサー騎手が咄嗟に右鞭を入れて衝突を回避する場面もあった。しかもパーネルを抜いた直後に内埒沿いまでよれてパーネルの進路を塞ぐような形になり、パーネルが外側に持ち出す必要が生じたため、この件は13分もの長時間に渡る審議対象になり、斜行は意図的でも決定的でも無かったためにお咎めなしという結論が出るまで本馬のファンは非常に大きな不安を抱く羽目になった。よって、会心の勝利とは言い難い内容だったが、それでもこの距離で勝った事で、本馬の名声はますます高まった。

ベンソン&ヘッジズ金杯

次走は8月のベンソン&ヘッジズ金杯(GⅠ・T10F110Y)となった。現在は英国際Sとして施行されているこのレースは、当時英国王室御用達のたばこブランドであるベンソン&ヘッジズ社をスポンサーとしてこの年に創設されたばかりの新設競走だった。ここで今度こそ本馬とミルリーフの対戦が期待されたのだが、ミルリーフは凱旋門賞2連覇に向けた調整を優先したため回避してしまい、対戦相手は、この年の英ダービーと前年の愛ナショナルS・アングルシーSの勝ち馬で英2000ギニー2着のロベルト、英ダービーでロベルトの2着に敗れた後にサンクルー大賞を勝ってきたダンテSの勝ち馬でデューハーストS2着のラインゴールド、ゴールドロッドなどとなった。しかし本馬に何度も屈してきたゴールドロッドは勿論、前走の愛ダービーで12着に沈んでいたロベルトや、英ダービーでロベルトに敗れたラインゴールドでは本馬に敵う由もないと思われており、本馬が単勝オッズ1.33倍という圧倒的な1番人気に支持された。

しかし他馬陣営も手をこまねいていたわけではなかった。特にロベルトの馬主である米国の不動産業者兼大リーグ球団ピッツバーグ・パイレーツのオーナーのジョン・ウィルマー・ガルブレイス氏は、ロベルトの豊富なスタミナを活かすために、それまで後方待機策が主だったロベルトを逃げさせるという奇襲戦法を考えていた。そのためにガルブレイス氏は、わざわざ米国から名手ブラウリオ・バエザ騎手を呼び寄せていた(米国は平坦小回りの競馬場が多いため逃げ馬が有利であり、多くの騎手は逃げ戦法に慣れていた)。

そしてバエザ騎手鞍上のロベルトはスタートから「まるで地獄から来た蝙蝠のように悪魔的な」と評されたほどのハイペースで逃げを打った。本馬は下手に深追いする事も出来ず、ロベルトから近すぎず遠すぎずの位置取りで自分のペースでレースを進めた。そして直線に入ると、逃げるロベルトに外側から並びかけようとした。残り3ハロン地点ではすぐにもロベルトをかわすかと思われたのだが、しかしここからロベルトが二の脚を使って本馬を引き離しにかかった。マーサー騎手は全身を使って本馬を死に物狂いで追ったが、ロベルトとの差は縮まらなかった。ゴール前で勝負あったと判断したマーサー騎手は本馬を追うのを止め、ロベルトとの差は逆に広がった。そして遂に本馬の無敗記録に終止符が打たれる瞬間がやって来てしまった。2分07秒1という当時の世界レコードで勝利したロベルトから3馬身差の2着に敗れた本馬のデビューからの連勝は15で止まり、リボーが記録したデビュー16連勝に並ぶ事は出来なかった。

ロベルトが先頭でゴールした直後における、実況の気が抜けたような声と、観客席のなんとも表現のしようがない呆然とした雰囲気が印象的だった。マーサー騎手はレース後に「私が彼に跨るまで気付きませんでしたが、(本馬は)体調が悪かったようです。厩舎に戻った後には頭を下げて辛そうにしていましたし、鼻水をたらしていました」と語り、「英ダービー馬に12ポンドのハンデを与えていた(筆者注:古馬牡馬の斤量は133ポンド、3歳牡馬の斤量は122ポンドでその差は11ポンドだが、マーサー騎手は12ポンドと言っている)のに2着でしたから、良く頑張ったと思います」と愛馬をかばった。マーサー騎手が言うように、この敗因は本馬の体調不良に求める意見が英国においては圧倒的なのだが、しかし本馬も3着ゴールドロッドには10馬身差、4着となった翌年の凱旋門賞馬ラインゴールドにはさらに2馬身差をつけていた事実を考慮すると、本馬が凡走したのではなく、このレースにおけるロベルトが強すぎたと考えるのが妥当なように筆者には思える。いずれにしてもこのレースは、英国競馬史上のみならず、英国スポーツ史上においても最大級の番狂わせの一つとされている。

英国競馬ファンは本馬の敗戦に多いに落胆したが、この2週間後にミルリーフ故障引退の報が入り、さらなる落胆を強いられる事になった。結局、20世紀英国を代表する同世代の名馬2頭の対戦は英2000ギニーの1度きりになってしまった。残念な事ではあるが、下手に再戦して2頭の優劣がはっきりしてしまうよりは、当時のファンには申し訳ないが、この方が良かったのかもしれない。

競走生活(4歳後期)

思わぬ敗戦を喫してしまい、好敵手もいなくなった本馬だが、その後は何事も無かったかのように現役を続行。まずはクイーンエリザベスⅡ世S(GⅡ・T8F)に出走した。ここでは、前年のセントジェームズパレスSで本馬を苦しめた後にクインシー賞2回・パース賞・クイーンアンSを勝ちジャックルマロワ賞で2着していたスパークラーが対戦相手となった。このレースは4頭立てだったのだが、序盤からかなりのハイペースで進行した。本馬から7ポンドのハンデを貰ったスパークラーは2番手で、単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持されていた本馬は3番手を追走した。直線に入ってすぐにスパークラーが先頭に立ち、残り1ハロン半地点で本馬が外側から並びかけてきた。しかし2頭の競り合いはほんの1秒で終わり、本馬が一気に突き抜けると、スパークラーを6馬身差の2着に切り捨てて、コースレコードを1秒以上も更新する1分39秒9の好タイム(2着ディクタスに8馬身差で圧勝した前年の勝ちタイム1分41秒39より1秒49も速い)で2連覇を達成した。

次走の英チャンピオンS(GⅠ・T10F)が、本馬の現役最後のレースとなる旨が事前に発表されていた。ここでは、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSで本馬から6馬身半差の3着に終わっていたリヴァーマンが本馬に再戦を挑んできたが、当然のように本馬が単勝オッズ1.33倍の1番人気に支持された。本馬が出走したレースの中では比較的多い9頭立て(1番多かったのは2歳時のソールスベリーシャンペンSと3歳時の英チャンピオンSの10頭立て。3番目がキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSとこのレース)だったためか、マーサー騎手は無難に2番手を先行する作戦を採った。そして残り3ハロン地点で仕掛けて先頭に立った。本馬と一緒に馬群から飛び出してきたのはリヴァーマンだった。一瞬だけ内外離れた2頭の並走になったが、やがて本馬がリヴァーマンを着実に引き離していき、最後は1馬身半差をつけて勝利。本馬の最後の勇姿を見るためにニューマーケット競馬場に詰め掛けていた大観衆から途方も無い拍手を送られながら競馬場を後にした。

競走馬としての評価

4歳時は8戦7勝の成績で、1968年に創設された英国の競馬文化促進を目的とするレースゴアーズクラブが実施した英年度代表馬の選考においては40票を獲得して、初めて満票で英年度代表馬に選ばれた。英タイムフォーム社のレーティングにおいては、ミルリーフには前年と同じ141ポンドが与えられたが、本馬には前年を上回る144ポンドが与えられた。これはシーバードに次ぐ数値で、テューダーミンストレルと並ぶ当時史上2位タイであるが、シーバードやテューダーミンストレルの評価はいずれも3歳時であるから、古馬としての評価では本馬が当時史上最高値である。3歳馬と古馬の斤量差を考慮すると、3歳時に145ポンドの評価を得たシーバードよりも4歳時に144ポンドの評価を得た本馬のほうが、同斤量であれば実力上位と判断されたとも言える(レースによって異なるが、欧州の大競走において古馬は3歳馬よりも5ポンド程度以上は重い斤量を課せられる。かつて米国に存在した最優秀ハンデ馬の判定と異なり、こうしたレーティングの類には馬齢による斤量差が実際には反映されていないため、3歳馬と古馬が同じレースに出て共に能力を出し切って同着となった場合には2頭のレーティングは同値となる。この場合、実力上位なのは当然斤量が重い古馬のほうである)。なお、英タイムフォーム社のレーティングにおいて2年連続で140ポンド以上を獲得したのは、本馬とミルリーフの2頭以外には、3歳時に143ポンド、4歳時に史上最高の147ポンドを獲得した21世紀最強馬フランケルのみであり、リボーですらも2年連続は達成していない(リボーは4歳時に142ポンドだが、3歳時は133ポンドに過ぎなかった)。

いずれにしてもシーバードは仏国調教馬であって英国調教馬ではないので、英国調教馬としては本馬が20世紀最高の名馬ということになる。本馬とフランケルの比較は、フランケルが本馬やシーバードを上回る史上最高の評価を得た後になって盛んに実施された。本馬贔屓の資料ではフランケルと本馬が戦えば本馬が勝ったと書いてあるし、別の資料ではフランケルに敵う馬は過去に1頭たりとも存在しないと書いている。この2頭は距離適性も似通っているし、いずれが強かったのかを色々想像してみると確かに楽しいが、その結論が永久に出る事が無いのは言うまでもない。

競走馬としての特徴

本馬の脚質については、日本では追い込み馬という評価が定着しているが、馬群の後方からレースを進めて他馬を一気に抜き去ったレースというのは存外少なく、逃げたり先行したりして勝つ事のほうがむしろ多かった。それは、本馬が出走するレースは少頭数になりがちだった事とも無縁ではないだろうが、本馬の圧倒的なスピードをもってすれば、馬なりのまま走っても馬群の前のほうに行ってしまう事が多かったためでもあるだろう。したがって、本馬がゴール前の強烈な末脚で勝負するタイプの馬であるのは事実だが、追い込み馬というものを馬群の後方からレースを進める馬として分類した場合、本馬は追い込み馬ではない。本馬は脚質などというもので括れる類の馬ではなく、あえて本馬の戦法を総括するなら、逃げでも先行でも差しでも追い込みでもなく「馬なり」であろう。

大柄な馬体に相応しく大きなストライドで走る馬だったが、大跳びの馬にありがちな重馬場苦手な馬であり、馬場状態が悪いと苦戦を強いられることが多かった。もっとも、それが原因で負けた事は1度も無いから、馬場が悪化しそうになるとレース直前で回避して逃げ出すような近年の欧州競馬によく見られる自称一流馬達(馬が悪いのではなく人間の問題だが)とは別次元の存在だった。

血統

Queen's Hussar March Past Petition Fair Trial Fairway
Lady Juror
Art Paper Artist's Proof
Quire
Marcelette William of Valence Vatout
Queen Iseult
Permavon Stratford
Curl Paper
Jojo Vilmorin Gold Bridge Golden Boss
Flying Diadem
Queen of the Meadows Fairway
Queen of the Blues
Fairy Jane Fair Trial Fairway
Lady Juror
Light Tackle Salmon-Trout
True Joy
La Paiva Prince Chevalier Prince Rose Rose Prince Prince Palatine
Eglantine
Indolence Gay Crusader
Barrier
Chevalerie Abbot's Speed Abbots Trace
Mary Gaunt
Kassala Cylgad
Farizade
Brazen Molly Horus Papyrus Tracery
Miss Matty
Lady Peregrine White Eagle
Lisma
Molly Adare Phalaris Polymelus
Bromus
Molly Desmond Desmond
Pretty Polly

父クイーンズハザーは現役成績21戦7勝。サセックスS・ロッキンジS・ロウス記念S・ワシントンシンガーS・キャベンディッシュSなどを勝ったマイラーだった。均整が取れた馬体の持ち主であったと伝えられているが、しかし血統的な魅力に乏しかったこともあって種牡馬としての知名度は低く、本馬が誕生する前年における種付け料は200ギニーという安値だった。1972年には本馬の活躍により英愛首位種牡馬に輝いているが、1981年に他界するまでの21年の生涯で輩出したステークスウイナーは14頭に過ぎず、種牡馬として成功したとは言い難い。しかし本馬以外にも、ナシュワンやディープインパクトの牝系先祖に当たる英1000ギニー・仏オークスの勝ち馬ハイクレアという大物を送り出しており、後世のサラブレッド血統界に与えた影響は決して小さくはない。

クイーンズハザーの父マーチパストは、ソラリオS・グリーナムS・スカーボローS・ウォーキンガムH勝ちなど22戦10勝の成績を挙げた中級馬だった。マーチパストの父ペティションはプティトエトワールの項を参照。

母ラペヴァは現役成績7戦未勝利。ラペヴァの半兄ストークス(父ミクセ)は英2000ギニー2着馬。ラペヴァの母ブレイズンモリーは不出走馬だが、ブレイズンモリーの半兄には、フィアレスフォックス【グッドウッドC・ゴールドヴァーズ】、チャレンジ【クレイヴンS・ジョッキークラブS】がいる。ブレイズンモリーの半姉クイーンクリスティーナの子には、オーソドックス【セントジェームズパレスS】、バブーズペット【キングエドワードⅦ世S】、孫にはレディクロス【ヨークシャーオークス】、アトランティーダ【プリティポリーS】、曾孫にはパーダオ【サンフアンカピストラーノH】、パラッチ【ヨークシャーオークス】、玄孫世代以降には、インカーマン【ジョーマクグラス記念S(愛GⅠ)・サンセットH(米GⅠ)】、ヴァルデリカ【伊1000ギニー(伊GⅠ)・伊オークス(伊GⅠ)】、イスカ【ライトニングS(豪GⅠ)・ニューマーケットH(豪GⅠ)】などがいる。ブレイズンモリーの半姉フィールドフェアの牝系子孫には、ヴィンティージクロップ【愛セントレジャー(愛GⅠ)2回・メルボルンC(豪GⅠ)】などが、ブレイズンモリーの半姉ブレイヴエンプレスの子には、イースタンエンペラー【ジョッキークラブC・ヨークシャーC】、エンパイアハニー【ジュライS・チェスターヴァーズ】、曾孫にはスプリングダブル【ピムリコフューチュリティ】、玄孫世代以降にはアーティアス【エクリプスS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)】、バッズワースボーイ【クイーンマザーチャンピオンチェイス3回・カッスルフォードチェイス】などがいる。

こうしてみると結構な数の活躍馬がいるように見えるが、本当に本馬の近親と言える馬はそれほど多くは無い。ブレイズンモリーの祖母モリーデズモンドがチェヴァリーパークSの勝ち馬で、モリーデズモンドの母は20世紀英国最強牝馬プリティポリーであっても、本馬の牝系が文句なしの名門牝系であるとは言い難い。→牝系:F14号族①

母父プリンスシュヴァリエはプリンスローズの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、総額100万ポンド(当時の為替レートで約7億2千万円)のシンジケートが組まれ、生まれ故郷のエジャートンスタッドで種牡馬入りした。後にヒスロップ氏が所有するイーストウッドヘイスタッドに移動している。しかし本馬の種牡馬成績は競走馬成績と比較すると明らかに不振であり、13世代の産駒から登場したステークスウイナーは25頭に留まった。その理由については、所有者であるヒスロップ氏の責任を指摘する意見が大きい。馬産家としては元々素人だったヒスロップ氏は、シンジケート株の譲渡相手を、自分と気が合う人間かどうかで取捨選択して、相手が所有する繁殖牝馬の質を考慮しなかった。しかもヒスロップ氏は本馬の産駒を米国に輸出する事も禁じたため、産駒は欧州でしか活躍の機会を与えられず、結果として米国の環境に向いていたかもしれない産駒が能力を発揮できなかったというのである。繁殖牝馬の父としても、何頭かの活躍馬こそ出しているが、やはりそれほど目立つ成果を挙げることは出来なかった。1985年に受精率低下のため種牡馬を引退し、1989年10月に心臓麻痺のため21歳で他界。遺体はニューマーケットにあるスウィンフォードホテルの庭園内に埋葬された。本馬は結局生涯一度も英国外に出ることはなかった。

後世に与えた影響

前述のとおり本馬の種牡馬成績は失敗と言える結果に終わり、ライバルのミルリーフやロベルトが種牡馬として大きな成功を収めて世界中にその血を広めているのに比べると、一抹の寂しさがあることは否めない。亜国で種牡馬入りした直子ジェネラルから、米国でサンタアニタHなどを勝利した名馬ロードアトウォーが出て、このロードアトウォーが米国で種牡馬として成功したため、本馬の直系は現在でも辛うじて残っている。しかしロードアトウォーが出した活躍馬は牝馬や騙馬が多かったため、現在では風前の灯である。ロードアトウォーの息子であるターフクラシックSの勝ち馬オナーインウォーがおそらく最後の砦だが、オナーインウォーは種牡馬として殆ど実績を挙げていない。他には、本馬の直子カムラッドインアームズが出した仏ダービー馬ケルティックアームズにも期待が掛かっていたが、放牧中の事故により7歳で夭折したケルティックアームズは種牡馬として成功できなかった。本馬がこれほどの名馬なのに日本での知名度が低かったのも後世に血があまり伝わっていないためであろう。もっとも、最近は「新・世界の名馬」など各方面で紹介された事、騎手ゲームにおいてマイル路線における最強の敵として頻繁に登場した事、ロードアトウォー産駒のジョンズコールが2000年のジャパンCに出走した事、良くも悪くも日本で有名な種牡馬となったウォーエンブレムの母父がロードアトウォーだった事などで、本馬の知名度も上昇傾向にあるようである。2015年にはロードアトウォーを母の父に持つ種牡馬パイオニアオブザナイルの息子アメリカンファラオが37年ぶり史上12頭目の米国三冠馬になった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1974

General

トーマブリョン賞(仏GⅢ)

1975

Admirals' Launch

クレイヴンS(英GⅢ)

1975

Leonardo da Vinci

ホワイトローズS(英GⅢ)

1975

Princess Eboli

チェシャーオークス(英GⅢ)・ランカシャーオークス(英GⅢ)

1976

R. B. Chesne

英シャンペンS(英GⅡ)

1977

Light Cavalry

英セントレジャー(英GⅠ)・キングエドワードⅦ世S(英GⅡ)・プリンセスオブウェールズS(英GⅡ)

1978

Six Mile Bottom

オーモンドS(英GⅢ)

1978

Vayrann

英チャンピオンS(英GⅠ)・ジャンドショードネイ賞(仏GⅡ)・プランスドランジュ賞(仏GⅢ)

1979

Paradise

クレオパトル賞(仏GⅢ)

1980

White Spade

フォルス賞(仏GⅢ)

1982

Comrade in Arms

メシドール賞(仏GⅢ)・パレロワイヤル賞(仏GⅢ)

1982

Ever Genial

メイヒルS(英GⅢ)・ハンガーフォードS(英GⅢ)

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