コリン

和名:コリン

英名:Colin

1905年生

黒鹿

父:コマンド

母:パストレラ

母父:スプリングフィールド

15戦全勝という米国競馬チャンピオンクラスにおける最多無敗記録を保持するヒムヤー直系を代表する米国の歴史的名馬

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績15戦15勝

米国競馬のチャンピオンクラスにおける最多無敗記録保持馬であり、生誕から100年以上を経過した今日においても米国競馬史上最も偉大な馬の1頭として讃えられている。

誕生からデビュー前まで

本馬の祖父ドミノや父コマンド(本馬が誕生した年の3月に破傷風で他界)も所有した20世紀米国初頭の名馬産家で、“ウォール街の銀狐”の異名で呼ばれた投資家ジェームズ・R・キーン氏により、彼が所有するケンタッキー州キャッスルトンファームにおいて生産・所有された。

本馬は大柄で筋肉質な馬体を有していたが、ドミノ同様に飛節軟腫による膝の肥大が見られた。元々キーン氏は飛節軟腫を患っていたドミノのこともあまり評価しておらず、息子フォックスホール・P・キーン氏の薦めにより渋々購入したほどであり、本馬に対する評価も当初は低いものだった。

しかし本馬を預かることになったのが、サー・ジェームズ・G・ロウ調教師だったのが本馬及びキーン氏にとっては幸いだった。キーン氏の専属調教師だったロウ師は、本馬の父コマンドなど数々の名馬を手掛けた、19世紀末から20世紀初頭における米国屈指の名伯楽であり、本馬の素質も早い段階で見抜いていた。ロウ師は脚元の不安を抱える本馬を育成するために、輸送中は常に列車に同乗して看護を行い、膝にマッサージを施したり、本馬の脚を水風呂に漬けて冷やしたりして、膝を故障しないように気を配った。そしてロウ師の努力が実を結び、本馬は競馬ファンと競馬関係者双方から米国競馬史上最良の馬の1頭と呼ばれるまでに成長することとなった。

競走生活(2歳時)

2歳5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦で、主戦となるウォルター・ミラー騎手を鞍上にデビューした。単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持された本馬は、他の出走馬22頭を蹴散らして、2着バーノンに2馬身差で快勝した。それから3日後に出走したナショナルスタリオンS(D5F)では、58秒0のコースレコードを樹立して、2着バーノンに3馬身差で勝利。さらに4日後に出走したエクリプスS(D5.5F)では、初の重馬場と125ポンドの斤量に苦労したのか、牝馬ボクゥと激戦を演じた末に、何とか頭差で勝利した。

その後は骨膜炎を発症したために3週間強の間隔を空けて、グレートトライアルS(D6F)に出走した。エクリプスSで苦労させられた重馬場と、エクリプスSを上回る129ポンドの斤量という悪条件が重なっていたが、全力で走る必要もなく、2着ミーリック(グレートイースタンHの勝ち馬で、3歳時にロサンゼルスダービー・カリフォルニアダービー・クレセントシティダービーに勝利している)に2馬身差で勝利した。1か月後のブライトンジュニアS(D6F)では、ネプチューンS・スプリングSの勝ち馬チャプルテペックを1馬身半差の2着に抑えて勝利した。

この頃には既に、米国競馬史上最良の2歳馬ではないかという声が出始めていた。この時期には本馬の膝はかなり良くなっていたが、代わりに咳が出始めたという。次走のサラトガスペシャルS(D6F)の頃もまだ咳は収まっておらず体調はあまり良くなかったが、唯一の対戦相手だった当時無敗のアンクル(後に名馬オールドローズバドの父となる)を1馬身差の2着に退けて勝利した。なお、本馬が勝ったレースにおいて2着馬につけた差はそれほど大きくないことが多かったが、その理由についてミラー騎手は「彼はのらりくらりと走っていても、その気になりさえすれば私がかつて見た馬の中で最も素早く全力疾走に移行することが出来ました。しかし私は彼が不必要に全力疾走することを望みませんでした」と、いつも余裕残しの走りであった事を示唆している。

さて、サラトガスペシャルSの4日後に出走したグランドユニオンホテルS(D6F)のときには咳は収まっており、後にホープフルSを勝つジムギャフニーを馬なりのまま2馬身差の2着に破って勝利した。サラブレッド・レコード誌は「コリンは既に大衆のアイドルとなっており、彼が敗北したらそれは大衆にとっての大災難になるはずでした」と書いている。

そして2歳戦最大級のレースであるベルモントフューチュリティS(D6F)に向かうと、シープスヘッドベイ競馬場に詰め掛けた5万人の大観衆の前で絶対的な大本命としての期待に応えて、1分11秒2のレースレコードで駆け抜けて、2着バーノンに1馬身半差で優勝した。このレースには後に本馬の好敵手となるフェアプレイも出走していたが4着に終わっている。

さらにフラットブッシュS(D7F)では、同父馬ケルトを3馬身差の2着に下して、1分24秒8のコースレコードタイで勝ち、ケルト(ブルックリンH勝ちなど通算成績4戦3勝)に生涯唯一の黒星をつけた。さらにブライトンプロデュースS(D6F)では、2着フェアプレイに5馬身差をつけて圧勝を収め、後にプリークネスSを勝つロイヤルツーリストも3着に沈めた。メイトロンS(D6F)では129ポンドを背負って出走したが、馬なりのまま走り、7ポンドのハンデを与えたフェアプレイを3馬身差の2着に、ロイヤルツーリストを3着に破って楽勝した。ブライトンプロデュースSとメイトロンSの勝ち方を受けて、サラブレッド・レコード誌は「この馬こそが、かつて米国で誕生した馬や米国で走った馬の中でも、最高の馬に違いありませんでした」と書いた。

2歳時最後のレースとなったシャンペンS(D7F)では、本馬に挑んできたのはメイトロンSを勝っていたスタミナという牝馬1頭のみであり、牡牝のメイトロンSの勝ち馬同士の対決となった(この頃のメイトロンSは牡馬限定戦と牝馬限定戦に分かれて施行されていた)。レース前にパドックで興奮したファンに取り囲まれる場面があったというが、結果はダート7ハロンの全米レコード1分23秒0を樹立した本馬が6馬身差の圧勝。スタミナはこの年の米最優秀2歳牝馬に選ばれ、翌年もレディーズS・カゼルHなどを勝って米最優秀3歳牝馬に選ばれるほどの馬だったが、本馬にはまるで歯が立たなかった。2歳時は12戦全勝の成績で、後年の話ではあるが、米最優秀2歳牡馬は勿論のこと、米年度代表馬にも選ばれた。

競走生活(3歳時)

3歳時は、主戦を務めたミラー騎手が減量に苦しんだため、代わりにジョー・ノッター騎手を新しい主戦に迎えた。ケンタッキーダービーとプリークネスSには出走せずに、まずはウィザーズS(D8F)に出走。フェアプレイを2馬身差の2着に、翌年にメトロポリタンHやブルックリンHを勝って米最優秀ハンデ牡馬に選ばれるキングジェイムスを3着に破って勝利した。

次走はベルモントS(D11F)の予定だったが、レース3日前の調教後に両前脚を負傷してしまった。怪我の具合は芳しくなく、ロウ師は本馬の出走に懸念を示し、マスコミも本馬は出走を回避してそのまま引退するだろうと書きたてた。しかしドミノやコマンドだけでなく名馬サイソンビーをも既に失っていたキーン氏は、本馬にかける期待が殊のほか大きく、彼の悩んだ末の判断により出走に踏み切った。

当日は豪雨のために超不良馬場となり、しかも競馬場は濃霧に覆われていた。あまりの豪雨と深い霧のために、このレースのタイムは計測されなかったほどだった。本馬に対する不安は脚の怪我や不良馬場以外にもあった。それは本馬の過去13戦は全て距離1マイル以下の短距離戦であり、距離11ハロンのベルモントSではスタミナが保たないのではないかというものだった。もっとも、脚を怪我する前に行われた10ハロンを走る本番さながらの調教において、本馬は2分05秒4で走破しており(同距離であるケンタッキーダービーのこの時点におけるレースレコード2分06秒25より速い)、陣営はスタミナ面における不安はそれほどしていなかったようである。

レースではスタートから敢然と先頭に立ち、向こう正面では後続を3~4馬身ほど引き離して逃げ続けた。直線に入ると後方からフェアプレイが追撃してきたが、ノッター騎手が本馬に合図を送ると鋭く反応して二の脚を使って引き離し、6馬身ほどリードを奪った。ところが濃霧の影響なのか、ノッター騎手がゴール板を誤認してしまい、まだゴールする前から本馬を減速させてしまった。そこへ勝機が見えたフェアプレイが再度猛然と差を縮めてきたが、幸いにも本馬が頭差ほど先にゴールラインを通過して優勝した(3着馬キングジェイムスはさらに15馬身後方だった)。

濃霧のため観客席からは状況がよく見えず、本馬が勝ったのか負けたのか即断できなかった観衆は大騒ぎだったが、やがて本馬の勝利が伝えられると、さらなる大騒ぎとなった。ゴールの瞬間、本馬が負けたと思ったキーン氏は持っていた傘を投げ捨てて嘆いたが、愛馬の勝利を確認すると落ち着きを取り戻して周囲の人々に挨拶を始めた。また、ロウ師は勝ち戻ってきた本馬を呆然としながら見つめていた。

ベルモントSから2週間後の6月13日、ニューヨーク州において賭博禁止法が成立し、競馬において賭けを行う事が出来なくなってしまった。キーン氏は本馬を6月20日のタイダルS(D10F)に出走させ、集まった観客達に対して、自身は賭博禁止法に反対する立場であることを表明することにした。シープスヘッドベイ競馬場は満員にこそならなかったが、それでも本馬の走りを見るためだけに、賭けとは関係なく多くの観衆が集まった。結果は2分04秒0のコースレコードを樹立した本馬が、後のトラヴァーズS勝ち馬ドランテを2馬身差の2着に、スタミナを3着に破って勝利した。

生涯無敗のまま競走馬を引退

その後キーン氏はニューヨーク州において本馬を競走させることを諦め、自身の母国である英国に本馬を遠征させることにした。3歳時は僅か3戦のみの出走であったが、後年になってこの年の米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬に選ばれている。

英国に到着してサム・ダーリン調教師に委ねられた本馬は、4歳時に非公式のトライアル競走に出走して勝利したが、それから間もなくして脚の状態が悪化し、公式戦には出走できずにそのまま引退を余儀なくされた。

デビューから15戦して全勝、他馬に遅れを取ることは遂に無かった。米国競馬のチャンピオンクラスにおける次の無敗馬誕生は、1988年にパーソナルエンスンがBCディスタフを勝って13戦無敗で引退するまで実に80年間を待たなければならなかった。米国競馬においては、2008年にペッパーズプライドが19戦無敗、2012年にラピッドリダックスが22戦無敗を記録しているが、両馬共に下級戦の出走ばかりで大競走勝ちは無く、チャンピオンクラスとは言えない(日本ではペッパーズプライドやラピッドリダックスを本馬やパーソナルエンスン、それに後述のゼニヤッタと併記する場合があるが、米国においてはチャンピオンクラスの馬とそうでない馬とに明確に分けられており、余程ペッパーズプライドやラピッドリダックス贔屓の資料でもない限りは本馬やパーソナルエンスン、ゼニヤッタと併記されることは無い)。また、2010年にはゼニヤッタがBCクラシック等を含むデビュー19連勝を記録したが、現役最後の20戦目で2着に敗れて無敗馬ではなくなっている。本馬の15戦全勝は米国競馬のチャンピオンクラスにおける最多無敗記録として現在も残っているのである。

馬名は、18世紀初頭英国の桂冠詩人(王家等によって公式に任命された詩人。古代ギリシア・ローマ時代に、詩人たちが詩作の競技を行い、勝者が月桂冠を頭に乗せたという故事に基づく)ニコラス・ロウの作品“Poor Colin(貧しいコリン)”に由来するものであり、キーン氏の友人デコーシー・フォーブス氏(キャッスルトンファーム産馬の名前はいつも彼がつけていたらしい)が、本馬の母パストレラ(Pastorella)の馬名が「牧歌・田園詩」といった意味合いであることから、本馬の管理調教師ロウ師と同じ名を持つ詩人の作品を馬名に採用したものである。

血統

Commando Domino Himyar Alarm Eclipse
Maud
Hira Lexington
Hegira
Mannie Gray Enquirer Leamington
Lida
Lizzie G War Dance
Lecomte Mare 
Emma C. Darebin The Peer Melbourne
Cinizelli
Lurline Traducer
Mermaid
Guenn Flood Norfolk
Hennie Farrow
Glendew Glengarry
Glenrose
Pastorella Springfield St. Albans Stockwell The Baron
Pocahontas
Bribery The Libel
Splitvote
Viridis Marsyas Orlando
Malibran
Maid of Palmyra Pyrrhus the First
Palmyra
Griselda Strathconan Newminster Touchstone
Beeswing
Souvenir Chanticleer
Birthday
Perserverence Voltigeur Voltaire
Martha Lynn
Spinster Flatcatcher
Nan Darrell

コマンドは当馬の項を参照。

母パストレラは英国で走り、ゼトランドS・アスコットバイエニアルSに勝っている。1899年に繁殖牝馬としてビタールートスタッドに購入されて米国に移動し、1901年にビタールートスタッドが解散した際のセリにおいて、キーン氏により当該セリで売られた牝馬の中では最高値となる1万ドルで購入されていた。母系の活躍馬としては、本馬の半姉パッサン(父ハンブルグ)の子にパッシングシャワー【スピナウェイS】、ローラノ【メトロポリタンH】、曾孫にドクターフリーランド【プリークネスS】が、本馬の半妹ヴェルデュール(父ピーターパン)の子にワイルドエア【メトロポリタンH】、玄孫にファシネーター【ケンタッキーオークス】がいる。パッサンの牝系子孫は21世紀現在も残っており、ヒズブーツ【米グランドナショナル2回】、リスニング【ハリウッドオークス(米GⅠ)・ミレイディH(米GⅠ)】、ライラニ【愛オークス(愛GⅠ)・ナッソーS(英GⅠ)・フラワーボウル招待S(米GⅠ)】、ロストインザフォグ【キングズビショップS(米GⅠ)】などが出ている。

パストレラの全姉ヴェルディグリスの牝系子孫は日本で発展しており、名種牡馬の月友、ヒサトモ【東京優駿・帝室御賞典秋】、トウカイローマン【優駿牝馬(GⅠ)】、トウカイテイオー【皐月賞(GⅠ)・東京優駿(GⅠ)・ジャパンC(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)】などが登場している。

パストレラの母グリゼルダの半妹ポープジョーンの牝系子孫は世界的に発展しており、多くの活躍馬が出ているが、その中から1頭だけここに挙げるとすれば、トニービン【凱旋門賞(仏GⅠ)・伊共和国大統領賞(伊GⅠ)2回・ミラノ大賞(伊GⅠ)2回・伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)】だろう。→牝系:F19号族①

母父スプリングフィールドは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は遠征先の英国ニューマーケットにあるヒーススタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は98ギニーに設定された。しかし米国産馬である本馬は英国の馬産家達からの受けが悪かった上に、受精率がかなり悪く、英国では成功する事が出来なかった。1913年にキーン氏が74歳で死去した後に、ジェームズ・コリガン氏とプライス・マッキニー氏により3万ドルで買い戻されて米国に戻り、ケンタッキー州ウィックリフスタッドで種牡馬生活を続けた。しかし本馬の受精率の悪さは既に米国内にも知れ渡っており、優れた繁殖牝馬はあまり集まらなかった。1918年にウィックリフスタッドが解散すると、エドワード・B・マクリーン氏により5100ドルで購入されて、レイモンド・ベルモント氏(オーガスト・ベルモント・ジュニア氏の息子)が所有するヴァージニア州ベルレイファームに移動して種牡馬生活を続行。1932年にベルレイファームにおいて他界した。27年の生涯はサラブレッドとしては決して短い方ではないが、23年間に及ぶ種牡馬生活で残した産駒は僅か81頭(83頭とする資料もある)だった。それでもそのうち14%弱に当たる11頭がステークスウイナーとなっており、産駒の質自体は優れていた。

代表産駒は68戦17勝の成績を挙げたジョック、マンノウォーと同世代という不運に泣いたナショナルS・ピムリコオータムHの勝ち馬オンウォッチ(スタイミーの母父)などである。また、産駒のネディーからはアルサブアクアクといった名馬を通じてサイアーラインが続き、末裔に北米首位種牡馬のブロードブラッシュが出て21世紀に本馬の直系を繋いでいる。本馬の種牡馬成績は同父のピーターパン、ケルト、アルティマスに比べると明らかに見劣りするものではあったが、結局ドミノの直系で今世紀まで残ったのは本馬の血筋のみであった。繁殖牝馬の父としては、ウィザーズS・サンタアニタHの勝ち馬ローズモントや、コールタウンとウィストフル兄妹の母イージーラスなどを出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1924

Jock

クラークH

競走馬としての評価

本馬の現役時代を知る人々は例外なく本馬に畏敬の念を抱いた。「名馬の生産~世界の名生産者とその方式」の著者であるスポーツ記者エイブラム・S・ヒューイット氏は「オリンピックにおける陸上競技選手のような走りは、見る者の血液を沸き立たせ、鼓動を速めるものでした。当時の競馬関係者達は、コリンの事を話題に上らせる際には、まるで別世界の事を語り合うような顔つきでした」と語っている。

競馬作家ケント・ホリングワース氏は著書「ザ・グレート・ワンズ」の中で「偉大な馬と言われる馬は数多いですが、その大半は奇禍、レース運、負傷、下位の馬の激走などによって敗戦の憂き目を見ています。しかしコリンはそれらのいずれにも屈しませんでした。彼はまさしく打破不可能でした」と書いている。

1956年に父コマンド、同父のピーターパンと共に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第15位。

最後になるが、本馬を管理したロウ師は、本馬以外にもルークブラックバーンヒンドゥーミスウッドフォード、コマンド、サイソンビー、ピーターパン、ウィスクブルームリグレットといった、いずれも米国競馬の殿堂入りを果たしている名馬を含む34頭のチャンピオンホース達を手掛け、1955年には初年度で米国競馬の殿堂入りを果たした、米国競馬史上に残る名調教師である。ところが、1929年に72歳で死去した彼の墓碑には、彼本人の希望により、たった3つの単語しか刻まれていない。その3単語とはすなわち、“He trained Colin(彼はコリンを調教しました)” ―。

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