セントガティエン

和名:セントガティエン

英名:St. Gatien

1881年生

鹿毛

父:ザローヴァー

母:セントエディッタ

母父:キングリーヴェイル

同着勝利した英ダービーやアスコット金杯などデビュー11連勝を果たし、同世代のセントサイモンと競走馬としては優劣つけ難いとの評価を得る

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績18戦15勝3着1回

誕生からデビュー前まで

E・ブレス少佐という人物により生産された英国産馬である。成長するとかなり背が高く大柄な立派な馬体の持ち主になったが、しかし血統があまりにも悪かったためか、幼少期の評価は極めて低かった。ブレス少佐は幾度も本馬を売却しようとしたが、100ポンドという安値でも買い手が付かなかったために遂に断念して、自分の所有馬として走らせることにした。

本馬を預かることになったのはニューマーケットに厩舎を構えていたロバート・シャーウッド調教師だった。当時のシャーウッド師は管理馬が少ない無名調教師であり、普通の調教師であれは毎週50シリングの預託料を30シリングまで下げて管理馬を募っていたという。本馬の主戦はチャールズ・ウッド騎手が務めた。

競走生活(3歳前半まで)

2歳時にケンプトンパーク競馬場で行われたテディントンプレートでデビューして勝利を収めた。続いてマンチェスター競馬場で行われたジョンオゴーントプレートに出走してこれも勝利。ノッティンガム競馬場で行われたリトルジョンプレートも勝利を収めて、2歳時の成績は3戦3勝となった。しかし3競走とも下級競走であり、本馬が2歳時に稼ぎ出した賞金は500ポンドにも満たなかった。

ブレス少佐は本馬がデビューした後になっても相変わらず本馬を売却しようとしていた。そして2歳の暮れになって、ジャック・ハモンド氏という人物に1400ポンドで本馬を売却する事に成功した。後に本馬の大活躍を見てブレス少佐がどのように感じたのかは伝わっていないが、ある程度の想像は許されてよいだろう。

本馬の新たな所有者となったハモンド氏は、元はどこかの厩舎で働いていた厩務員だったが、この当時はプロのギャンブラーに転身しており、賭けで生計を立てていた。

3歳になった本馬の初戦は英ダービー(T12F29Y)となった。しかしそれにしてもあれだけ幼少期の評価が低かった本馬がよく英ダービーに登録されていたものである。3戦全勝とは言っても出走したレースの格が低すぎたために事前の評価は低く、当初は単勝オッズ41倍の評価だった。しかし事前調教で良い動きをしたために少し評価が上がり、最終的には単勝オッズ13.5倍となった。単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持されていたのは、デューハーストプレート・ジュライSの勝ち馬で英1000ギニー2着・ミドルパークプレート3着の牝馬クイーンアデレードだった。

スタートが切られると後のマンチェスターCの勝ち馬ボルネオと、後に米国に移籍してモンマスHを勝ちサバーバンHで2着するリッチモンドの2頭が先頭を引っ張り、ウッド騎手が手綱を取る本馬はそれを見るように先行した。そしてタッテナムコーナーを回りながら外側を通って加速し、先頭で直線に入ってきた。そこへ単勝オッズ15.29倍の英2000ギニー3着馬ハーヴェスターが並びかけてきた。そして直線では本馬とハーヴェスターの叩き合いが延々と展開された。本馬鞍上のウッド騎手も、ハーヴェスター鞍上のサム・ロータス騎手も必死になって自分の馬を追い、壮絶な激闘となった。残り1ハロン地点でいったん本馬が半馬身ほど前に出たのだが、ハーヴェスターがゴール前で差し返し、そして2頭が同時にゴールインした。当時は写真判定が無く、肉眼では2頭のどちらが先着したのか判断不能だったため、間もなく1着同着が宣言された(2頭から2馬身差の3着にはクイーンアデレードが入った)。

この当時の規定として1着同着の場合には、両馬の所有馬が合意したときは2頭を勝利馬として賞金を山分けにするが、合意が得られなかった場合には決勝戦を行うことになっていた。しかし本馬の所有者ハモンド氏は本馬の単勝にしこたま賭けており、本馬が1着なら3万ポンドという、英ダービーの優勝賞金を大きく上回る巨利を手に出来る状況だった。そのために決勝戦の実施を望まなかったハモンド氏は、ハーヴェスター陣営に対して交渉を持ち掛けた(おそらく袖の下を渡したと思われる)。そしてハーヴェスター陣営も決勝戦を実施しない事に同意したため、この年の英ダービーは同競走史上現在でも唯一の例となっている2頭同時優勝となった。

競走生活(3歳後半)

英ダービーを勝った本馬はアスコット競馬場に向かい、ゴールドヴァーズ(T16F44Y)に出走した。このレースは古馬混合戦であり、強力な古馬勢が対戦相手となった。その中でも最も手強いと思われたのは、アスコット金杯・ゴールドヴァーズ・ハードウィックS2回・ジュライC・ドーヴィル大賞2回・英チャンピオンS2回を勝っていた6歳馬トリスタンだった。他にも、ジョッキークラブC・シザレウィッチH・チェスターフィールドC・エボアHなどを勝っていた6歳牝馬コリーロイも出走してきた。レースは1番人気に支持されていたコリーロイが先頭を引っ張り、そのまま直線へと入ってきた。しかしすぐに本馬がコリーロイに並びかけると一気に突き放した。最後はコリーロイを4馬身差の2着に、トリスタンを3着に破って完勝した。負けたトリスタンは次走のハードウィックSで、ハーヴェスターを3着に破って勝利した。また、コリーロイも直後のクイーンアレクサンドラプレートを勝っており、本馬の評価は英ダービーからさらに上昇する事になった。

本馬は英セントレジャーには登録が無かったために出走できず、代わりにシザレウィッチH(T18F)に出走した。英ダービー馬である本馬には当然厳しい斤量が課せられた。本馬の斤量は122ポンドで、出走馬22頭中これより重いのは、一昨年の同競走の勝ち馬たるコリーロイ、この年のバーデン大賞・マンチェスターCを勝っていた4歳牝馬フローレンスの2頭だけだった。過去にシザレウィッチHを3歳馬が勝った例は多数あったが、その中で最も重い斤量だったのは、1880年に勝った歴史的名馬ロバートザデヴィルの118ポンドだった。そのために本馬は単勝オッズ10倍の評価だった。スタートが切られると、ウッド騎手は本馬を馬群の後方につけさせ、脚を溜める作戦に出た。そして残り2ハロン地点まで我慢すると、ここで本馬の脚を解き放った。すると本馬はほんの数完歩で外側から一気に他馬勢を抜き去り、残り1ハロン地点で先頭に立つと、37ポンドのハンデを与えた4歳牡馬ポレミックを4馬身差の2着に、5ポンドのハンデを与えた仏2000ギニー・グランプールドプロデュイ(後のリュパン賞)・ロワイヤルオーク賞・ダリュー賞勝ちの3歳牡馬アークデュクにはさらに首差をつけて優勝。英国競馬史上最も素晴らしい勝利の1つと評されたこのレースにより、本馬の名声は不動のものとなった。ハモンド氏は例によって本馬の単勝にしこたま賭けており、これで4万ポンドもの利益を得たという。

その後はケンブリッジシャーHに出走予定だったが、139ポンドが課せられることが判明したために、さすがに回避となった。本馬不在のケンブリッジシャーHは、シザレウィッチHで着外だったフローレンスがなんと137ポンドの斤量を克服して、23ポンドのハンデを与えた前年のケンブリッジシャーH勝利馬ベンディゴを頭差の2着に抑えて勝利している。

一方の本馬は、3歳馬限定競走ニューマーケットフリーH(T10F)に出走した。本馬の斤量は124ポンドだったが、ケンブリッジシャーHよりははるかに穏当だった。そして単勝オッズ2倍の1番人気に応えて、3ポンドのハンデを与えたリッチモンドSの勝ち馬デュークオブリッチモンドを3/4馬身差の2着に抑えて勝利した。引き続きジョッキークラブC(T18F)に出走。本馬が出てくると聞いた他馬陣営の回避が相次ぎ、対戦相手はアークデュクのみだった。5ポンドの斤量差があったシザレウィッチHではこの2頭の着差は4馬身1/4差だったが、斤量差が無いこのレースではさらに着差が広がり、本馬が10馬身差で圧勝した。3歳時の成績は5戦全勝だった。

ところで本馬の同世代馬には、今まで本項には名前が出てこなかった1頭の超大物がいた。その馬の名前はセントサイモン。セントサイモンはアスコット金杯でトリスタンを20馬身差の2着に破って勝っただけでなく、グッドウッドCでは、ハーヴェスター、英2000ギニー馬スコットフリー、英セントレジャー馬ザラムキンといった、本馬を除く同世代の英国牡馬クラシック競走の勝ち馬を一網打尽にして、20馬身差で勝利していた。こうなると、本馬とセントサイモンの対戦が熱望されるようになったのは当然の流れだった。実際に翌4歳時に2頭のマッチレース“two Saints”が実施される計画があったのだが、肝心のセントサイモンが故障のため4歳時にはレースに出ることなく競馬場を去ってしまったため、実現はしなかった。一方の本馬は4歳時も現役を続行した。

競走生活(4歳時)

シーズンが始まる前にハモンド氏は、本馬をハンデ競走にはもう出走させない旨を明言した。しかし本馬は肺炎に罹ってしまい、一時は生命の危機に晒された。それでもなんとか回復したため、6月のアスコット金杯(T20F)に出走した。この時点ではセントサイモンの競走馬登録は抹消されていなかったため、本馬とセントサイモンの対戦が見られるかもと期待した人は少なからずいたらしいが、前述のとおりセントサイモンは競馬場に2度と姿を現さなかった。そのために本馬の対戦相手は、同世代の英2000ギニー馬スコットフリーなど、本馬には敵いそうにない馬ばかりとなった。そのために単勝オッズ1.33倍という断然の1番人気に支持された本馬はその期待を裏切らず、全くの馬なりのまま、2着となった米国産馬イオレに3馬身差をつけて勝利した。その翌日にはクイーンアレクサンドラプレート(T24F)に出走。対戦相手は、イオレ、サセックスS・チェスターフィールドCの勝ち馬エルミタージュなどで、これまた本馬に敵いそうな馬はいなかった。レースでは残り2ハロン地点まで最後方をてくてくと走っていたが、ここから瞬時にして全馬を抜き去り、最後は6馬身差で圧勝した。

肺炎という危機こそあれども、ここまで着実に実績を積み重ねてきた本馬だったが、この頃に少し暗雲が垂れ込め始めた。それは本馬自身の問題ではなく、人間側の問題だった。所有者のハモンド氏と管理調教師シャーウッド師の間に諍いが発生。その結果、ハモンド氏は本馬をジェームズ・ウォー厩舎に転厩させてしまったのだった(主戦はウッド騎手のままで変更なし)。それもあって本馬はクイーンアレクサンドラプレートからしばらくレースに出ず、秋シーズンを迎えた。

この頃、本馬より1歳年下の3歳馬世代は、英ダービー・英セントレジャー・ミドルパークプレート・ニューS・クリテリオンSを勝ったメルトンの天下となっていた。メルトンの所有者第20代ヘイスティングス男爵ジョージ・マナーズ・アストリー卿はハモンド氏に対して、1000ポンドを賭けた本馬とメルトンのマッチレースを申し込んできた。しかしその内容は、メルトンより本馬が9ポンド重い斤量を背負うというものだった。それもあってか、ハモンド氏はケンブリッジシャーHへの参戦を優先させるという理由をつけて、アストリー卿の申し出をいったん断った。

本馬の復帰戦は10月にニューマーケット競馬場で行われたハーマジェスティーズプレート(T16F)となった。対戦相手は、この年の英1000ギニーで2着していたジェーンという牝馬のみだった。結果は単勝オッズ1.03倍の1番人気に支持された本馬が、ジェーンに20馬身差をつけて勝利した。その後はケンブリッジシャーH(T9F)に出走した。本馬の斤量は136ポンドで、前年に出走していれば課せられるはずだった139ポンドよりはましだったが、それでもかなり厳しい斤量だった。それでもデビューから11戦無敗の本馬は、前年にフローレンスが137ポンドを克服して勝っていた事も影響したのか、単勝オッズ3倍で27頭立ての1番人気に支持された。しかし結果は前走シザレウィッチHを勝ってきた仏国調教の牝馬プレザントゥリが2馬身差で勝利を収め、一昨年の同競走・ハードウィックS・リンカンシャーHを勝ち前年は2着だったベンディゴ、ロイヤルハントCの勝ち馬イースタンエンペラー、4年前の英1000ギニー・英オークス・ヨークシャーオークス・ナッソーSの勝ち馬で古馬になってもドンカスターC・リヴァプールオータムC・ゴールドヴァーズを勝っていたテバイスとの入着争いにも屈した本馬は5着に敗退。デビューからの無敗記録は遂に途切れてしまった。

それにしてもシーズン当初にハンデ競走にはもう出さない旨を明言していたのに、ハモンド氏は何故ケンブリッジシャーHに本馬を出したのだろうか。原田俊治氏は著書「新・世界の名馬」の中で、グラディアトゥールがケンブリッジシャーHに出走して大敗した件について「どうしてこんなレースに出走させたのか当時首をかしげる向きが多く、今でも真相はよくわからないといわれている」と書いているが、筆者の中では、本馬がこの年のケンブリッジシャーHに出走した真相のほうが分からない。ただ、本馬が先着した馬の中には数々の有力馬がいた(その内訳はプレザントゥリの項を参照)こともあり、この敗戦で本馬の評価が下がったようなことは無いようである。むしろ勝ったプレザントゥリの評価が急上昇し、仏国調教馬でありながら、当時の英国の競馬関係者から英国競馬史上有数の名牝として評価されたのは、プレザントゥリの項に記載したとおりである。

初黒星を喫した本馬だが、その後は何事もなかったかのようにジョッキークラブC(T18F)に出走。単勝オッズ1.125倍という断然の1番人気に応えて、直前のグラディアトゥール賞を勝って仏国から遠征してきたラヴァレを馬なりのまま15馬身差の2着に破って圧勝を収め、1873年に創設された同競走史上初の2連覇を達成した。4歳時の成績は5戦4勝だった。

競走生活(5歳時)

5歳時も現役を続行したが、公式戦に出走する前に、前年からの宿題となっていたメルトンとのマッチレースに出走したようである。斤量を同一に設定し、賭け金も1000ポンドから5千~2万ポンドまで増額して実施されたこのマッチレースはメルトンが勝利を収めたらしい。「らしい」というのは、このマッチレースが非公式なものであり、その詳細が明らかになっていないからである。そのためにこのマッチレースは本馬の通算成績にはカウントしていない。

5歳時は長距離戦ではなく10ハロン路線を目標とする事が、あらかじめハモンド氏から発表されていた。その理由は、この年にサンダウンパーク競馬場でエクリプスSが創設されたからに他ならない。この第1回エクリプスSは、当時英国で行われていたあらゆる競走を上回る1万ポンドという高額賞金が設定されており、ハモンド氏にとってはアスコット金杯などより遥かに魅力的な目標だったのである。

まずは前哨戦として、アスコット競馬場でロウス記念S(T8F)に出走した。本馬には131ポンドという厳しい斤量が課せられ、そのためか単勝オッズは3.75倍止まりだった。結果は2着セントミカエルに首差の辛勝だったが、セントミカエルの斤量は107ポンドしか無かったし、既に無敗記録が途絶えている本馬にとっては勝ち負けよりも本番前に1回叩くことのほうが重要だったから、まずは順調な滑り出しとなった。

そして迎えた第1回エクリプスS(T10F)。このレースは戦前から、本馬、前年のケンブリッジシャーHで134ポンドを背負いながらも本馬に先着する2着だったベンディゴ、パリ大賞・ミドルパークプレート・英シャンペンSを勝っていた3歳代表のミンティングの3頭の争いになると目されていた(メルトンやこの年の英国三冠馬となるオーモンドは不参戦を表明していた)。しかしミンティングが故障のため回避し、本馬とベンディゴの2強ムードとなった。133ポンドのベンディゴが単勝オッズ2.5倍の1番人気、136ポンドの本馬が単勝オッズ3.25倍の2番人気となった。レースではベンディゴが掛かり気味に逃げを打ち、好スタートを切った本馬はそのままベンディゴを見るように先行した。そして直線に入ってきたが、今ひとつ伸びを欠き、ベンディゴを捕らえられなかった上に、エプソム金杯を勝ってきた斤量119ポンドの3歳牝馬キャンドルマスにも後れを取ってしまい、勝ったベンディゴから3馬身半差、2着キャンドルマスから半馬身差の3着に敗退した。

最大目標のエクリプスSを落としてしまった本馬は、その後はシザレウィッチH(T18F)に向かった。本馬の斤量は131ポンドで、他の出走馬17頭より少なくとも23ポンド以上重かった。結果はリッチモンドS・ノーザンバーランドプレートの勝ち馬でドンカスターC3着の4歳牝馬ストーンクリンク(斤量105ポンド)が勝利を収め、本馬は着外に終わった。その2日後にはハーマジェスティーズプレート(T16F)に出走。このレースにもストーンクリンクが出走してきたが、このレースは馬齢定量戦のため、前走のような斤量差は無かった。そのために本馬が単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された。そしてあっさりと3馬身差で勝利を収め、前走の敗戦が力負けではない事を証明した。

その後は3連覇を目指してジョッキークラブC(T18F)に出走。このレースにはメルトンも出走してきて、公式戦としては最初で最後の2頭の対決が実現した。斤量は本馬が127ポンド、メルトンが124ポンドであり、ややメルトンが有利だった。しかし単勝オッズ1.73倍の1番人気に支持されたのは本馬のほうだった。そしてレースでは本馬がメルトンを8馬身差の2着に葬り去って圧勝。このレースを最後に5歳時5戦3勝の成績で競走馬を引退した。

この年に無敗の英国三冠馬となったオーモンドとの対戦は実現しなかったが、仮にジョッキークラブCで本馬とオーモンドが戦えば、本馬が勝っただろうと言われた。セントサイモンとの対戦も実現しなかったが、そのセントサイモンやメルトンを始めとする数々の名馬を手掛けたマシュー・ドーソン調教師は2頭の優劣に関して「セントサイモンもセントガティエンもかつて競馬場に現れた最高の競走馬2頭です」と、同等の評価を与えている。

本馬がまだ現役競走馬だった5歳時の1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第7位にランクインした。本馬と同時期に走っていた主な馬の順位は、セントサイモンが第4位、オーモンドが第9位、プレザントゥリが第12位、ベンディゴが第37位、メルトンやトリスタンはランク外だった。これはエクリプスSで負ける前の評価なので、少し時期がずれていれば結果が変わっていたかもしれないが、いずれにしても本馬が当時の英国競馬界における最強馬の有力候補だったのは間違いない。

血統

The Rover Blair Athol Stockwell The Baron Birdcatcher
Echidna
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Blink Bonny Melbourne Humphrey Clinker
Cervantes Mare
Queen Mary Gladiator
Plenipotentiary Mare 
Crinon Newminster Touchstone Camel
Banter
Beeswing Doctor Syntax
Ardrossan Mare
Margery Daw Brocket Melbourne
Miss Slick
Protection Defence
Testatrix
Saint Editha Kingley Vale Nutbourne The Nabob The Nob
Hester
Princess The Merry Monarch
Queen Charlotte
Bannerdale  Newminster Touchstone
Beeswing
Florence Nightingale  Birdcatcher
Yarico 
Lady Alice Chanticleer Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Whim Drone
Kiss
Agnes Clarion  Sultan
Clara 
Annette Priam
Don Juan Mare

父ザローヴァーはブレアアソール産駒だが、競走馬としての経歴は良く分からない。しかし「竹馬のように細い脚だったために故障した」と書かれている資料がある事から察すると、不出走だった可能性が高そうである。本馬以前には全く活躍馬を出していない無名種牡馬だったが、本馬が1884年の英ダービーを勝ったために注目された。そして同年中にダニエル・シャイン氏という人物により5千ポンドで購入されて、愛国ケリー州リストウェルに移動した。しかしザローヴァーは愛国においては1シーズンも種牡馬生活を送ることは出来なかった。同年の11月に喉を搔き切られて殺害されてしまったのである。どうやら、財政難に陥って破産に追い込まれそうになったシャイン氏が、債権者に対する嫌がらせのために、重要な財産の1つであるザローヴァーを差し押さえられる前に抹殺したのが動機らしく、債権者とシャイン氏の間で裁判沙汰になったそうである。結局ザローヴァーは本馬以外に活躍馬を出すことは無かった。

母セントエディッタは繁殖入りする前には競走馬ではなく馬車馬だった。本馬を産む前年にロードクリフデン産駒のロザーヒルという種牡馬と交配されたが不受胎だった。そのためにザローヴァーと交配されて本馬を受胎したという。そのために一般的には本馬の父はザローヴァーとされているわけだが、ロザーヒルである可能性も否定はできない。しかし仮に本馬の父がロザーヒルであったとしたら、殺されたザローヴァーの立場が無くなるので、ザローヴァーが本馬の父という事でよい気がする。ロザーヒルは競走馬としてはウッドコートSで3着した記録があるが、種牡馬としては全く活躍馬を出していない。セントエディッタの交配相手は2頭とも全くの無名種牡馬だったわけであり、どちらが父だったとしても鳶が鷹を産んだ事には変わりが無く、本馬の幼少期の異常なまでの低評価はある意味当然だったと言えるかもしれない。

本馬の半姉エミリンマルシア(父クイーンズメッセンジャー)の子にマルキオン【アスコット金杯】がいる。また、本馬の半妹シルヴァベル(父ベンドア)の曾孫にはブルームスティック【トラヴァーズS】、玄孫世代以降にはハーモニカ【CCAオークス・サバーバンH】、ターンバックジアラーム【マザーグースS(米GⅠ)・CCAオークス(米GⅠ)・シュヴィーH(米GⅠ)・ヘンプステッドH(米GⅠ)・ゴーフォーワンドS(米GⅠ)】、ハートレイク【安田記念(日GⅠ)】、日本で走ったダンツシアトル【宝塚記念(GⅠ)】、マイネルレコルト【朝日杯フューチュリティS(GⅠ)】などがいる。

セントエディッタの母レディアリスの半姉ミスアグネスは世界的な一大牝系を形成しているが、その詳細は別ページの牝系図を参照してほしい。→牝系:F16号族③

母父キングリーヴェイルの競走馬としての経歴は不明。キングリーヴェイルの血統を遡ると、ナットボーン、ザナボブ、アスコット金杯2着馬ザノブ、アスコット金杯・クラレットSの勝ち馬グローカス、名種牡馬パルチザンを経てウォルトンへと行きつく。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はニューマーケットのヒーススタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は50ギニーに設定された。本馬とセントサイモンの競走馬としての評価は優劣つけ難かったかも知れないが、種牡馬としてはあまりにも明暗が分かれた。セントサイモンと比べるのは酷としても、それでも本馬の種牡馬成績は振るわなかったと言わざるを得ない。9歳時の繁殖シーズン終了後に、独国政府により1万4千ポンドで購入されて独国に移住した。しかし独国でもそれほどの結果を出せず、しばらくして英国に戻ってきた。そして17歳時に米国の弁護士兼馬産家だったジェームズ・ベン・アリ・ハギン氏に購入されて渡米し、カリフォルニア州ランチョデルパソ牧場で種牡馬生活を続けた。しかし米国でも結果を出すことは出来なかった。24歳時の1905年12月にランチョデルパソ牧場が閉鎖されると、本馬はいったん売りに出された。そしてハギン氏により500ドルで買い戻され、この8年前に彼が購入したケンタッキー州エルメンドルフファームに移動した。しかし翌年1月には早くもジョージ・J・ロング氏という人物に転売され、同じケンタッキー州にあるロング氏所有の牧場に移り住んだ。その後の消息は不明であり、没年は明らかではない。

しかし本馬の血は代表産駒メドラーにより後世に伝えられた。英国で2歳時にデューハーストプレートなど3戦全勝の成績を残したメドラーだったが、所有者の死去により英国クラシック競走登録が全て無効になったために、そのまま競走馬を引退した。そしてすぐに米国に輸入され、1904・06年の北米首位種牡馬に輝いた。後継種牡馬に恵まれなかったために直系は伸びなかったが、牝駒ブランコワールが、エクワポイズシービスケットインテンショナリーモムズコマンドなどを出す優秀な牝系の祖となった。あと、カウントフリートの母父ヘイストの母父もメドラーであり、カウントフリートの血を引くミルリーフミスタープロスペクターにも本馬の血は入っていることになる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1890

Meddler

デューハーストS

1892

Waschfrau

独オークス

1896

Missouri

独2000ギニー

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