サルヴェイター

和名:サルヴェイター

英名:Salvator

1886年生

栗毛

父:プリンスチャーリー

母:サリーナ

母父:レキシントン

強豪馬テニーとの名勝負で知られダート10ハロンと1マイルの全米レコードを樹立した19世紀末における米国最強馬

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績19戦16勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州レキシントンのエルメンドルフファームの牧場主ダニエル・スウィガート氏により生産された。ミルトン・H・サンフォード氏から購入したプリークネススタッドを自分の妻の祖母の名にちなんでエルメンドルフファームと改名し、ヴァージル、グレネルグという2大種牡馬を擁して多くの名馬を送り出したスウィガート氏だったが、本馬が産まれた年にヴァージルが他界した事もあり、勢いに陰りが見え始めていた。そのため、本馬はスウィガート氏が生産した最後の大物競走馬となったが、同時にスウィガート氏が生産した最大の大物競走馬でもあった。

ただし、本馬が誕生したのはエルメンドルフファームではなく、カリフォルニア州ランチョデルパソであるとされている。本馬が産まれたランチョデルパソの牧場を所有していたのはゴールドラッシュで富豪となったジェームズ・ベン・アリ・ハギン氏で、スウィガート氏が生産した名牝フィレンツェを購入するなど既に両者の間には付き合いがあった。後にコン・J・エンライト氏によって購入されたエルメンドルフファームを買い戻したのもハギン氏である。ハギン氏は本馬がまだ母サリーナの胎内にいる頃に4500ドルで購入したとされている。ハギン氏は本馬を、自身の米国東海岸における専属調教師マシュー・バーン師とジョージ・“スナッパー”・ガリソン騎手に委ね、両名は本馬をニューヨーク州に連れて行った。

競走生活(2歳時)

本馬がまだカリフォルニアにいる時期、調教中に脚の脛を負傷したため、本馬がデビューしたのは当時としては少し遅めの2歳8月だった。デビュー戦となったのはジュニアチャンピオンS(D6F)だった。ここでは、後年になってこの年の米最優秀2歳牡馬騸馬に選ばれるプロクターノット、後にこの年のホープフルSを勝つフェイヴァーデール、オータムS・オーガストSの勝ち馬フレズノ達と激突した。プロクターノットは既に6戦を消化しており、経験の差が出たのか、本馬はプロクターノットの着外に敗れた。

3週間後には、新設競走ベルモントフューチュリティS(D6F)に出走した。このレースは1909年までベルモントパーク競馬場ではなくシープスヘッドベイ競馬場で行われていた(ベルモントパーク競馬場の完成自体が後年の1905年だった)から、このレースを本項でベルモントフューチュリティSと表記するのは本当のところ正確ではないのだが、他にも複数存在する「フューチュリティS」と区別するために一般的にこのレースはベルモントフューチュリティSと呼称されているから、この名馬列伝集でもシープスヘッドベイ競馬場施行時代からそのように呼称する事とする。さて、このレースにもプロクターノットが出走しており、今度もプロクターノットが勝ち、本馬は半馬身差の2着に敗れた。しかしベルモントフューチュリティSは新設初年度にして当時米国最高賞金額(総額約4万5千ドル。うち優勝賞金が約4万ドル)の注目レースであり、少ない経歴の未勝利馬の身でありながら2着した本馬にも注目が集まった。

十分な賞金を手に入れたプロクターノットはこの年これが最後のレースとなったが、本馬はその後も走り続けた。フラットブッシュS(D6F)では、後のトボガンHの勝ち馬マッドストーンを2着に、ジュニアチャンピオンSで本馬に先着する3着だったフレズノを3着に破って初勝利を挙げた。その後もメープルS・タッカホーS・タイタンSと3連勝して、6戦4勝の成績で2歳シーズンを終えた。

競走生活(3歳時)

3歳時は6月にシープスヘッドベイ競馬場で行われたタイダルS(D8F)から始動した。このレースには、この年のベルモントSの勝ち馬でウィザーズS2着のエリックも出走していたのだが、本馬がエリックを2着に破って勝利した。その2週間後には新設競走リアライゼーションS(D13F・後のローレンスリアライゼーションS)に出走。このレースで本馬は好敵手となる同世代馬テニーと初めて対戦した。テニーは背中がへこんでいたため“The Swayback(スウェイバックとは「脊柱湾曲症」の意味。テニーが実際に脊柱湾曲症だったのかは定かではない)”と呼ばれ、1歳時に僅か100ドルで取引された安馬だったが、当時を代表する強豪馬までに出世していた。結果は本馬がテニーを2着に下して勝利を収めた。

次走のロリラードS(D12F)では、この年のジェロームHを勝つロングストリートを2着に、前年のジュニアチャンピオンSで本馬に先着する2着だったフェイヴァーデールを3着に破って勝利した。オムニバスS(D12F)では、ケンタッキーダービーで2着していたプロクターノットとの再戦となった。ところが今回はロリラードSで2着だったロングストリートが勝利を収め、プロクターノットは2着、本馬は3着に敗れた。ロングストリートは、本馬が競走馬を引退した翌1891年に米年度代表馬になり、2年連続で米最優秀ハンデ牡馬にも選ばれるほどの実力馬だったのである。しかしこの4日後に本馬はジャージーHを勝利。さらにセプテンバーS(D14F)では、ラリタンSの勝ち馬ジェイエービーを2着に、ジュライS・フリーH・パシフィックダービーの勝ち馬ソレントを3着に破って勝利した。さらに一般競走・ジェロームパークオーバーナイトパースを連勝して、8戦7勝の成績で3歳シーズンを終えた。

この年の本馬は後年になって米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬に選出され、本馬不在のケンタッキーダービーで史上最少着差の敗戦を喫する(当時は写真判定が無く、この採決は当時から疑問の声がある)など運に見放されたように9戦2勝の成績に終わったプロクターノットと対照的な結果になった。

競走生活(4歳時)

4歳時は6月のサバーバンH(D10F)から始動し、このレースでテニーと再度顔を合わせた。テニーはこの年4戦無敗と好調で、斤量は本馬が127ポンド、テニーが126ポンドとほぼ互角だった。結果は本馬が2着カシウス(斤量は107ポンド)に首差をつけて勝利し、テニーは3着だった。

この結果を見たテニー陣営はハギン氏に対してマッチレースの申し込みを行い、サバーバンHの8日後である6月25日、同じベルモントパーク競馬場ダート10ハロンにおいて2頭のマッチレースが行われる事になった。レース前から競馬界は大きな盛り上がりを見せ、当日のベルモントパーク競馬場には当時史上最多の観衆が詰め掛けた。本馬の主戦だったガリソン騎手は何故かテニーに騎乗し、本馬にはアイザック・マーフィー騎手が騎乗した。レースではスタート後3ハロンは2頭が併走し、その後本馬が2馬身ほどリードしたが、ゴール前でテニーが猛然と追い上げてきて、2頭並んでゴールインした。両騎手とも自分の馬が勝ったと主張したほどの接戦だったが、本馬が短頭差で勝利していた。勝ちタイム2分05秒0は当時の全米レコードだった。このレースは“The Great Race”と言われ、名勝負として語り継がれた。

その後、本馬は新設されたモンマスパーク競馬場に向かい、モンマスC(D14F)に出走した。しかし本馬に挑もうという馬が現れず、単走で勝利した。続く米チャンピオンS(D12F)では唯一の対戦相手となったテニーと4度目の顔合わせとなったが、本馬が4馬身差で完勝した。

もはや本馬に挑もうとする馬が出現しなくなったため、本馬の次走はダート1マイルの当時の全米レコード1分39秒25を更新できるかに挑戦するタイムトライアルレースとなった。最初のレースでは1分40秒75のタイムに終わり、挑戦は失敗に終わったが、その3日後にモンマスパーク競馬場で行われた再度のタイムトライアルレースでは1分35秒5(資料によって1分35秒25だったり1分35秒4だったりして一定していないが、1分35秒5とするものが比較的多い)で走破して見事に記録を更新した。本馬が樹立したこの全米レコードは、28年後の1918年にに名馬ローマーがペースメーカーを使ったタイムトライアルレースで1分34秒8を記録してようやく更新されたという規格外のものだった。このローマーの全米レコードもかなり長期間更新されなかった(更新したのは50年後の1968年のドクターファーガーであるとする資料を頻繁に見かけるが、実際には1932年にエクワポイズが1分34秒4を計時しており、この段階では既に更新されている)事を考えると、単走でこのタイムを叩き出した本馬の能力は時代を超越したものだったと言える。そして本馬にとってこれが現役最後のレースとなった。4歳時の成績は5戦全勝で、後年になって2年連続の米年度代表馬と米最優秀ハンデ牡馬に選ばれている。

数々の実績に彩られた本馬の名前は、19世紀末における米国競馬関係の文献において最も頻繁に引用されたとされており、当時の米国競馬界において最も有名な馬だった。20世紀におけるデイリーレーシングフォーム社の名物競馬作家として知られたジョン・ハーヴェイ氏が、自身の筆名を「サルヴェイター」としていたのは有名な話である。

血統

Prince Charlie Blair Athol Stockwell The Baron Birdcatcher
Echidna
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Blink Bonny Melbourne Humphrey Clinker
Cervantes Mare
Queen Mary Gladiator
Plenipotentiary Mare 
Eastern Princess Surplice Touchstone Camel
Banter
Crucifix Priam
Octaviana
Tomyris Sesostris Slane
Palmyra
Glaucus Mare Glaucus
Io
Salina Lexington Boston Timoleon Sir Archy
Saltram Mare
Sister to Tuckahoe Ball's Florizel
Alderman Mare
Alice Carneal Sarpedon Emilius
Icaria
Rowena Sumpter
Lady Grey
Lightsome Glencoe Sultan Selim
Bacchante
Trampoline Tramp
Web
Levity Trustee Catton
Emma
Tranby Mare Tranby
Lucilla

父プリンスチャーリーはブレアアソール産駒で、現役時代は喉鳴りを抱えながら英国で走り英2000ギニー・ミドルパークプレート・クリテリオンS・オールエイジドS(現コーク&オラリーS)3回・クイーンズスタンドプレートに勝つなど29戦25勝の成績を残した名馬。種牡馬としては当初英国で供用されたが成功しなかったため米国に輸出されていた。

母サリーナはコンティネンタルホテルS・モンマスオークスの勝ち馬。本馬の半妹サラ(父トレモント)の孫にオリーブウッド【スピナウェイS】、玄孫世代以降にアリスモナ【ケンタッキーオークス】、ラコレドラ【モンマスオークス】、レジャーロード【ヴァニティH】、アイリッシュソネット【ソロリティS(米GⅠ)】、イディオットプルーフ【エインシェントタイトルS(米GⅠ)】などがいる。

サリーナの全姉スプライトリーの曾孫にフォックスフォード【ベルモントS】、牝系子孫に、ピュイッサンシェフ【凱旋門賞・ロワイヤルオーク賞・カドラン賞・ジャンプラ賞】、ザフェロー【チェルトナム金杯(英GⅠ)・キングジョージⅥ世チェイス(英GⅠ)2回・パリ大障害・ラエジュスラン賞】、アルカポネ【パリ大障害・モーリスジロワ賞・ラエジュスラン賞6回・ラエジュスラン賞(仏GⅠ)】などが、サリーナの全姉クルシフィックスの孫にリオネイタス【ケンタッキーダービー】、曾孫にザミニットマン【メイトロンS】、オーナメント【ブルックリンH・クラークH】などが、サリーナの全妹ネヴァダの子には米国顕彰馬ルークブラックバーンがいる。

サリーナの母ライトサムの全妹ミルドレッドの子にはスルタナ【トラヴァーズS】、牝系子孫には、スフレ【ケンタッキーオークス・ジェロームH】、ノーマン【英2000ギニー】、カリタン【プリークネスS】などが、ライトサムの半妹ブレンナの孫にはザバード【プリークネスS・ブルックリンH・ジェロームH】、牝系子孫には、スウォーンズサン【アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・クラークH】などがいる。ライトサムの半妹ソヴリンメアの曾孫にはイルドリム【ベルモントS】、アーセナル【メトロポリタンH】、牝系子孫には、ダムロッシュ【プリークネスS】、プリンスダンタン【サンタアニタH(米GⅠ)・サンアントニオH(米GⅠ)】、キングストンタウン【コックスプレート(豪GⅠ)3回・スプリングチャンピオンS(豪GⅠ)・ローズヒルギニー(豪GⅠ)・タンクレッドS(豪GⅠ)・シドニーC(豪GⅠ)・AJCダービー(豪GⅠ)・クイーンズランドダービー(豪GⅠ)・ジョージメインS(豪GⅠ)2回・コーフィールドS(豪GⅠ)2回・ウエスタンメイルクラシック(豪GⅠ)】、アーギュメント【ワシントンDC国際S(米GⅠ)・ガネー賞(仏GⅠ)】、イーロ【BCスプリント(米GⅠ)】、イブンベイ【イタリア大賞(伊GⅠ)・オイロパ賞(独GⅠ)・ベルリン銀行大賞(独GⅠ)・愛セントレジャー(愛GⅠ)】、アンブライドルドエレイン【BCディスタフ(米GⅠ)】、コートスター【キングジョージⅥ世チェイス(英GⅠ)5回・チェルトナム金杯(英GⅠ)2回・ティングルクリークチェイス(英GⅠ)2回・ベットフェアチェイス(英GⅠ)4回・アスコットチェイス(英GⅠ)・JNワインチャンピオンチェイス(愛GⅠ)2回】、ウィジャボード【英オークス(英GⅠ)・愛オークス(愛GⅠ)・BCフィリー&メアターフ(米GⅠ)2回・香港ヴァーズ(香GⅠ)・プリンスオブウェールズS(英GⅠ)・ナッソーS(英GⅠ)】、オーストラリア【英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・英国際S(英GⅠ)】などがいる。→牝系:F12号族①

母父レキシントンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は種牡馬入りした。当時の米国における有力繁殖牝馬の所有者の大半は本馬と自身の牝馬との交配を希望したほど、種牡馬としての期待を集めた本馬だったが、本馬の種牡馬成績は期待を大きく下回るものに終わった。セイヴァブル【フューチュリティS】、サルヴェーション【米シャンペンS】の他に、名牝ミスウッドフォードとの間の子であるジョージケスラー【グレートアメリカンS・デイジーS・ハドソンS】を出した程度である。なお、本馬より2年長く現役を続けてブルックリンHなどを勝ったテニーも種牡馬としては成功できなかった(プロクターノットは騸馬なので種牡馬になっていない)。本馬は1909年に当時既にハギン氏の所有となっていたエルメンドルフファームにおいて他界した。1948年、本馬がマイルの全米レコードを樹立したモンマスパーク競馬場において、本馬の名を冠したサルヴェイターマイルSが創設された。1955年、米国競馬の名誉の殿堂が創設された際に、本馬は初年度にして殿堂入りを果たした。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1900

Savable

ベルモントフューチュリティS

TOP