ペブルス

和名:ペブルス

英名:Pebbles

1981年生

栗毛

父:シャーペンアップ

母:ラドルチェ

母父:コンノート

破壊力満点の豪脚により、エクリプスS・英チャンピオンS・BCターフなどを次々と制し、第二次世界大戦後英国最高の牝馬という評価を得る

競走成績:2~4歳時に英米で走り通算成績15戦8勝2着4回

日本では無名に近い第二次世界大戦後英国最高の牝馬

3歳時にも英1000ギニーを勝つなど活躍したが、4歳になって本格化して、後の凱旋門賞馬レインボークエスト、英ダービーを7馬身差で圧勝したスリップアンカー、英セントレジャー馬コマンチラン、豪州の歴史的名馬ストロベリーロード、後のBCターフ勝ち馬シアトリカルといった歴史に名を残す有力牡馬勢を蹴散らしながら、英米の大競走を次々と制覇した。勝負どころにおける加速力は破壊力満点であり、多くの国内外の競走を映像又はリアルタイムで見てきた筆者にとっても、これほど迫力ある加速力を発揮した牝馬は滅多に見た事が無い。地元英国における評価も非常に高く、20世紀における英国調教牝馬の中でも五本の指に入る馬、第二次世界大戦後における英国最高の牝馬として讃えられている(後に紹介するが数値で実証されている)、名牝中の名牝である。

しかし繁殖入り後に日本に輸入されたにも関わらず、日本におけるその知名度は不当なまでに低く、紹介されているのを見たことは殆ど無い(週刊ギャロップに連載されていた“A Century of Champions”のコーナーで紹介されていたのが、筆者が見た唯一の例)。繁殖としては殆ど成功できなかったとは言え、繁殖牝馬として過去に日本に輸入された星の数ほどの牝馬の中では、間違いなく現役時代に最高の成績を収めた馬であるにも関わらず、である。というわけで、本馬を今まで知らなかった人はここで是非とも覚えてほしい。

誕生からデビュー前まで

海運業で成功したギリシア出身の実業家マルコス・レモス氏(本馬以前の主な所有馬は、1967年の英最優秀2歳牡馬で、種牡馬としても名馬トロイなどを出して英愛首位種牡馬に輝いたペティンゴである)により生産・所有された英国産馬で、英国ニューマーケットに厩舎を構えていたクライヴ・ブリテン調教師に預けられた。

1934年産まれのブリテン師は、15歳で見習い調教師となり、1970年代の初め頃に開業していた。後にジャパンCの勝ち馬ジュピターアイランド、英1000ギニー馬サイエダティ、カルティエ賞年度代表馬ユーザーフレンドリーなども手掛けるブリテン師だが、本馬を預かった時点においては、1978年の英セントレジャーをジュリオマリナーで勝利したのが目立つ程度という並の調教師だった。ブリテン師は産まれて数時間後の本馬を見ており、何か特別な馬であると感じましたと、本馬の死後にレーシングポスト紙のインタビューに答えている。

競走生活(2歳時)

2歳5月にサンダウンパーク競馬場で行われた芝5ハロンの未勝利ステークスで、主戦となるフィリップ・ロビンソン騎手を鞍上にデビューした。しかしここではスペリンミストの14着と大敗してしまった。それから10日後にニューベリー競馬場で行われたキングズクレアS(T6F)では、2着レフィルに4馬身差をつけて勝ち上がった。

さらに16日後にはニューマーケット競馬場で行われたチャイルドウィックスタッドS(T6F)に出走して、2着サジェダに3馬身差で勝利した。ブリテン師は牝馬の育成に長けていたようで、彼が手掛けた活躍馬には牝馬が目立っているのだが、そんな彼はこのチャイルドウィックスタッドSの直後に、本馬を自身が今まで手掛けた最高の牝馬と評している。

その後は一間隔を空けて、次走は8月にヨーク競馬場で行われたロウザーS(英GⅡ・T6F)となった。しかしここでは同じシャーペンアップ牝駒であるプリックル、後に本馬の好敵手の1頭となるプリンセスマーガレットSの勝ち馬ディザイアブル(英1000ギニー馬シャダイードや京王杯スプリングCの勝ち馬ドゥマーニの母)、チェリーヒントンSの勝ち馬チャペルコテージの3頭に屈して、勝ったプリックルから4馬身差の4着に敗れた。

それから僅か9日後にはグッドウッド競馬場で、ウォーターフォードカンデラブラS(英GⅢ・T7F)に出走。1戦叩いた効果が期待されて1番人気に支持されたのだが、レース前から大量の汗をかいていた本馬はレースでもゴール前で伸びを欠き、シュートクリアーの5馬身3/4差5着に敗れてしまった。

そのために次走のチェヴァリーパークS(英GⅠ・T6F)では、単勝オッズ34倍の人気薄となってしまった。しかしここでは2歳シーズンにおける最高の走りを見せ、ゴール前で鋭く追い込んできた。しかし勝ったディザイアブルに頭差及ばずに2着に惜敗した(プリックルが本馬から短頭差の3着だった)。

2歳時の成績は6戦2勝で、2歳馬フリーハンデにおいては牝馬トップのマルセルブサック賞の勝ち馬アルメイラから6ポンド低い119ポンドの評価に留まった(全体のトップは133ポンドのエルグランセニョール)。

競走生活(3歳時)

3歳時は英1000ギニーを目標として、本番2週間前のネルグウィンS(英GⅢ・T7F)から始動した。ここではチェヴァリーパークSよりも早めに仕掛けて残り2ハロン地点で先頭に立ち、2着ライプツィヒに1馬身半差をつけて勝利した。

本番の英1000ギニー(英GⅠ・T8F)では、ディザイアブル、シュートクリアーといった既対戦組に加えて、フレッドダーリンSでシュートクリアー以下を一蹴してきたマホガニー、1000ギニートライアルの勝ち馬メイスエルレームが出走してきた。マホガニーが単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持されており、本馬はディザイアブルと並んで単勝オッズ9倍の2番人気だった。どうも気性面に難があったらしい本馬は、ここでもレース前に焦れ込んで大量の発汗が見られた。しかもスタート前に暴れて、ゲートにしこたま身体をぶつけてしまった。普通ならこんな状態で勝ち負けになるわけはなく、鞍上のロビンソン騎手は不安な気持ちを抱きながら本馬を馬群の中団につけた。しかし残り3ハロン地点からスパートを開始すると、逃げるメイスエルレームを残り2ハロン地点でかわして一気に先頭に踊り出た。後方から追ってくる馬はおらず、2着に粘ったメイスエルレームに3馬身差、3着ディザイアブルにはさらに首差をつけて完勝した(マホガニーは6着だった)。3馬身差は公式な着差であり、このレースを映像で見た筆者の目には4~5馬身差はついていたように見えた。ロビンソン騎手は「スタートのときはどうなる事かと思いましたが、レース中には何の問題も起こりませんでした」とレース後に語った。

次走は英オークスの予定であり、前売りオッズで単勝9倍の1番人気に推されていたのだが、結局出走しなかった。その理由は、英1000ギニーの直後に本馬がドバイのシェイク・モハメド殿下に購入されたためである。モハメド殿下が所有していた馬の何頭かは既に英オークスを目標として調整されていたので、モハメド殿下は所有馬の使い分けのために本馬を英オークスではなくコロネーションSに向かわせたのだった。ブリテン師は実は内心残念に思ったと、本馬の死後にレーシングポスト紙のインタビューに応じて述懐している。

このコロネーションS(英GⅡ・T8F)では、英1000ギニーで3着だったディザイアブルに加えて、愛1000ギニーを勝ってきたケイティーズとの対戦となった。ケイティーズの主戦もロビンソン騎手であり、本馬陣営の急な方針転換によって彼は頭を悩ませる羽目になったが、最終的にケイティーズを選択した。そのために本馬にはレスター・ピゴット騎手が騎乗した。レースは本馬が2番手を先行して、その少し後方をケイティーズが追撃してくる展開となった。そのまま直線に入ると残り2ハロン地点で本馬が先頭に立ったが、そこへ外側からケイティーズが襲い掛かってきた。残り1ハロン地点でもまだ本馬が前だったが、後にヒシアマゾンの母となるケイティーズがここから娘を髣髴とさせる豪脚を繰り出し、瞬く間に本馬を差し切って勝利。本馬は3着ソーファインに5馬身差をつけたものの、1馬身半差の2着に敗れた。ブリテン師は、本馬に英オークスの距離向けの調教を施していたために、急なマイル戦への出走に対応できなかったのだと敗因を説明した。

その後は3週間後に英1000ギニーと同コースで行われるチャイルドSに向けて調整されていたが、レース直前の調教中に石を踏んで負傷してしまい回避。本馬が不在のチャイルドSは、メイスエルレームがケイティーズを5馬身差の2着に葬り去って圧勝しており、英1000ギニー、コロネーションSと合わせて3すくみのような結果となった。

本馬の負傷は後のレントゲン検査で剥離骨折である事が判明したため、秋まで休養入りした。復帰戦は10月の英チャンピオンS(英GⅠ・T10F)となった。初の牡馬及び古馬相手のレースである上に、1マイルより長い距離のレースに出るのも初めてであり、故障休養明けの上に気性に問題を抱えていた本馬にはかなり厳しいレースになると予想されていた。しかしレース前の本馬は予想以上に落ち着いていた。主な対戦相手は、サンチャリオットSを6馬身差で圧勝してきたフリーゲスト、前年のアーリントンミリオンSの勝ち馬で英2000ギニー・セントジェームズパレスS・サセックスS・ベンソン&ヘッジズ金杯2着のトロメオ、ダフニ賞の勝ち馬でジャックルマロワ賞2着の仏国調教の3歳馬パレスミュージック、伊国のGⅡ競走テヴェレ賞とヴァルドーS(後のセレクトS)の勝ち馬で伊ダービー2着のボブバック、コートノルマンディ賞の勝ち馬ラフなどだった。スタートが切られると、鞍上のロビンソン騎手は速やかに本馬を馬群の後方に陣取らせた。そして勝負どころで外側に持ち出して猛然と追い込んできた。しかし本馬と同じく後方でレースを進めながら一足先にスパートしたパレスミュージックが2分01秒04のコースレコードで勝利を収め、本馬は首差届かずに2着に惜敗した。

3歳時の成績は4戦2勝で、国際クラシフィケーションの評価は3歳牝馬第6位である122ポンド(1位はノーザントリックの127ポンド。全体のトップは138ポンドのエルグランセニョール)で、124ポンドで3歳牝馬第2位だったケイティーズより低かった。

競走生活(4歳前半)

3歳までの本馬は普通に強い牝馬といった程度のものだったが、4歳になると本馬は牡馬顔負けの強さを発揮し始める。まずは4月にサンダウンパーク競馬場で行われたトラストハウスフォルテマイル(英GⅡ・T8F)に出走。このレースから主戦となったスティーブ・コーゼン騎手を鞍上に、2着ヴァカームに1馬身半差で勝利した。

次走のプリンスオブウェールズS(英GⅡ・T10F)では、前走ブリガディアジェラードSを12馬身差で大圧勝してきた前年の英セントレジャー・ゴードンSの勝ち馬コマンチランとの顔合わせとなった。しかしレースでは本馬とコマンチランが牽制し合っている間に、前年の英チャンピオンSでは着外に終わっていた単勝オッズ34倍の伏兵ボブバック(ただし、前走の伊共和国大統領賞を勝ってGⅠ競走の勝ち馬となっていた)が勝利をさらってしまい、本馬は1馬身半差の2着、コマンチランはさらに短頭差の3着に敗れた。

次走はエクリプスS(英GⅠ・T10F)となった。このエクリプスSは今更言うまでも無いが、英国10ハロン路線における最高峰の競走である。3歳馬と古馬、マイラーから長距離馬まで幅広く有力牡馬が集うこともあってか、1886年の創設から前年まで99年間(戦争による中止などがあったので、過去の施行は87回)、1度も牝馬が勝った事はなかった。1893年にはラフレッチェが3着、1903年にはセプターが2着、1928年には英セントレジャー馬ブックローが3着、1969年にはキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSの勝ち馬パークトップが2着、前年の1984年にはタイムチャーターが2着していたが、これら英国競馬史上に名を残す歴史的名牝をもってしても2着が精一杯だった。この年の出走馬は僅か4頭で、その内訳は本馬、前走コロネーションCでGⅠ競走初勝利を飾ってきたグレートヴォルティジュールSの勝ち馬でデューハーストS・愛ダービー2着・仏ダービー3着のレインボークエスト、ボブバック、ペースメーカー役のオーガストだった(コマンチランも出走予定だったがレース直前で回避)。本命視されていたのは単勝オッズ1.8倍のレインボークエストであり、本馬は牝馬が1度も勝っていないジンクスが影響したのか単勝オッズ4.5倍の2番人気だった。

本馬の焦れ込む気性を懸念したブリテン師は、本馬の入場を意図的に遅らせて、なるべく本馬に刺激を与えないようにした。スタートが切られると、オーガストが先頭を引っ張り、本馬は5~6馬身ほど離れた2番手を追走、ボブバックが3番手で、レインボークエストが最後方につけた(“A Century of Champions”には、本馬は最後方をゆったりと追走したと書かれていたが、これは何かの間違いで、筆者が見たレース映像では本馬は2番手である)。向こう正面まではそのまま淡々とレースが進んだが、三角に入ったところで後方の3頭が一斉に仕掛けてオーガストとの差を縮めにかかった。オーガストが2番手の本馬に1~2馬身ほどの差をつけて直線に入ってきたが、残り3ハロン地点で本馬がオーガストをかわして先頭に立った。後方からはレインボークエストとボブバックの2頭が追撃してきて、レインボークエストがボブバックを置き去りにして2番手に上がったが、残り2ハロン地点からゴールまで本馬とレインボークエストの差は全く縮まらなかった。そのまま本馬が2着レインボークエストに2馬身差、3着ボブバックにもさらに1馬身半差をつけて勝利。英タイムフォーム誌が「何一つ危ない場面はありませんでした」と評するほどの完勝で、エクリプスS創設100年目にして、牝馬として史上初の同競走制覇を成し遂げた。ゴール直後に実況は「牝馬がエクリプスSを勝てないジンクスをペブルスが打ち破りました」と伝えている。

次走としては、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSや、米国のバドワイザーミリオンなどが候補として挙がっていたが、エクリプスS後に原因不明の食欲不振に陥ってしまったため、ブリテン師は無理を避けて本馬を秋まで休養させた。

競走生活(4歳後半)

復帰戦は前年2着に惜敗した英チャンピオンS(英GⅠ・T10F)だった。対戦相手のレベルは本馬が過去に出走してきたレースの中で最高と言えるもので、この年の英ダービーを7馬身差で圧勝していた3歳最強のスリップアンカー、ベンソン&ヘッジズ金杯と愛チャンピオンSを連勝してきたコマンチラン(英チャンピオンSも勝てば100万ポンドのボーナスが出る事になっていた)、前走ラクープドメゾンラフィットを勝ってきた前年覇者パレスミュージック、この年の愛オークス馬ヘレンストリート(ドバイワールドCの勝ち馬ストリートクライの母)といった強敵が参戦してきた。スリップアンカーの主戦もコーゼン騎手であり、彼は前年のコロネーションSにおけるロビンソン騎手と同様の悩みを抱える事になったが、自身に英ダービー騎手の栄誉をプレゼントしてくれたスリップアンカーを選択。そのために本馬にはパット・エデリー騎手が騎乗した。

スタートが切られると、英ダービーを逃げて圧勝していたスリップアンカーが予想どおり先頭に立ち、コマンチランが2~3番手を先行、パレスミュージックが中団で、本馬は例によって馬群の最後方辺りにつけた。残り3ハロン地点でエデリー騎手が本馬に合図を送ると、本馬は馬群の間をするすると上がっていき、残り1ハロン半地点では先頭のスリップアンカーに並びかけていた。この段階に至っても本馬は明らかに馬なりであり、エデリー騎手は外側を走っていたスリップアンカーと、既にスリップアンカーを必死に追っていたコーゼン騎手の表情を見やるほどの余裕があった。外側から前方に視線を戻したエデリー騎手が残り1ハロン地点で満を持して仕掛けると、本馬は瞬く間にスリップアンカーを突き放した。このときに本馬が繰り出した末脚は、乗っていたエデリー騎手が「他の馬達が凄い勢いで後退して行くのが肩越しに見えました。あれは短距離戦で短距離馬が見せる脚でした」と述懐するほどのものだった。残り半ハロン地点で一瞬だけ後方を見やったエデリー騎手は、後続に4~5馬身ほどの差がついているのを確認したため、ここで本馬を追うのを完全に止めた。それでもスリップアンカーを3馬身差の2着、パレスミュージックをさらに鼻差の3着に切り捨てて勝利し、前年2着の雪辱を果たした。この英チャンピオンSにおける本馬の勝ち方は圧倒的であり、機会があれば是非とも映像で見て欲しい。エデリー騎手の感想が誇張でも何でもない事を実感できるはずである。

本馬の現役最後のレースとして選ばれたのは、海を渡ったニューヨークのアケダクト競馬場で行われた第2回BCターフ(米GⅠ・T12F)だった。本馬はブリーダーズカップの初期登録がされていなかったため、モハメド殿下は24万ドルの追加登録料を支払ってまでBCターフに参戦させたのだった。

カリフォルニアンS・ハリウッド金杯・サンバーナーディノHの勝ち馬でサンフェルナンドS・チャールズHストラブS・サンタアニタH・サンセットH・バドワイザーミリオンとこの年だけで5度のGⅠ競走2着があったグレイントン、豪州でローズヒルギニー・AJCダービー・クイーンズランドダービー・コックスプレートなどを勝った後に海外に旅立ちバーデン大賞を勝利して前走ワシントンDC国際Sで3着していたストロベリーロード、前年の第1回BCターフを勝利していたコンセイユドパリ賞の勝ち馬ラシュカリ、バドワイザーミリオン・クイーンエリザベスⅡ世S・愛国際S・デズモンドS・クインシー賞の勝ち馬で前走クイーンエリザベスⅡ世S2着のテレプロンプター、エクリプスS3着後に愛チャンピオンS・マンノウォーSで2着していたボブバック、ジェフリーフリアS・セプテンバーSの勝ち馬シェルナザール(名馬シャーガーの半弟)、レキシントンS・ローレンスリアライゼーションS・ラトガーズH・ヒルプリンスS・ペンシルヴァニアガヴァナーズCの勝ち馬で現在グレード競走3連勝中のデンジャーズアワー、ジャンプラ賞の勝ち馬でマンノウォーS3着のバイアモン、デリンズタウンスタッドダービートライアルSの勝ち馬で愛ダービー2着のシアトリカル、ユジェーヌアダム賞・コートノルマンディ賞・ケルソHの勝ち馬ムルジャネ、アーリントンH・タイダルH・ケルソHの勝ち馬でユナイテッドネーションズH2着のフーズフォーディナー、ディキシーH・ゴールデンハーヴェストH・シープスヘッドベイH・セネカH・ラプレヴォヤンテHの勝ち馬でワシントンDC国際S2着・フラワーボウルH・ソードサンサーH3着のパーシャンティアラ、ボーリンググリーンH・レッドスミスH・バランタインズスコッチクラシックの勝ち馬シャランプールの13頭が対戦相手となった。

今回も本馬にはエデリー騎手が騎乗することになり、コーゼン騎手はストロベリーロードに騎乗した。初の英国外のレースである事に加えて、初の12ハロンの距離と、不安材料が多かったのだが、米国のファンは出走14頭中の紅一点である本馬を単勝オッズ3.2倍の1番人気に支持した。グレイントンが単勝オッズ3.6倍の2番人気、ストロベリーロード、ボブバック、シアトリカルの3頭カップリングが単勝オッズ4.8倍の3番人気、ラシュカリとシェルナザールのカップリングが単勝オッズ8.7倍の4番人気、デンジャーズアワーが単勝オッズ10.3倍の5番人気と続いていた。本馬が焦れ込む事を懸念したブリテン師は、アケダクト競馬場の関係者の1人を買収して、本馬のレース前パレード参加を終盤のみに限定させてもらったのだと、後年になって暴露している。

スタートが切られると、13番枠と外側発走だった本馬をエデリー騎手は速やかに後方に下げた。レースはテレプロンプターが先頭を引っ張り、フーズフォーディナーやストロベリーロードが離れた2~3番手につけた。最初のコーナーに入るところで本馬は内埒沿いに進路を取り、後方3番手をロス無く追走した。テレプロンプターは後続を4~5馬身ほど引き離す大逃げを打ったが、向こう正面に入った辺りで脚色が衰え始め、後続馬が差を詰めてきた。本馬も向こう正面で進出を開始し、内側の隙間を突いて上がってきた。三角に入る手前で一瞬だけ進路が塞がってブレーキが掛かったが、三角入り口6番手から再び加速して、直線に入ったところで最内から一気に先頭に立った。そこへ、先行しながらも四角で少し位置取りが下がっていたストロベリーロードが外側から強襲してきた。しかしストロベリーロードに並ばれかけたところで本馬がもう一伸び。その追撃を首差で封じて、2分27秒0のコースレコードタイムで優勝。英国調教馬がブリーダーズカップで勝利したのはこれが初めてだった(欧州調教馬初ではない。欧州調教馬初は仏国のアラン・ド・ロワイエ・デュプレ調教師が管理していた前年の第1回BCターフ勝ち馬ラシュカリである。なお、前年の第1回BCマイルを制したロイヤルヒロインを管理していたのは後に英国の名伯楽となるジョン・ゴスデン調教師だが、彼はその当時は米国で開業していたからロイヤルヒロインは米国調教馬である)。

競走馬としての評価

4歳時の成績は5戦4勝で、30票中28票を獲得して英年度代表馬に選ばれた他に、エクリプス賞最優秀芝牝馬にも選ばれた。英国調教馬がエクリプス賞のタイトルを受賞したのもまた史上初のことだった(仏国調教馬は何度か受賞していたから、これまた欧州調教馬初ではない)。国際クラシフィケーションの評価は132ポンドで、牝馬では130ポンドで2位だった3歳馬オーソーシャープを抑えてトップ、牡馬を含めてもスリップアンカー(135ポンド)、ペトスキ(134ポンド)、レインボークエストとサガス(133ポンド)に次ぐ第5位にランクされた。

英タイムフォーム社のレーティングでは135ポンドであり、136ポンドのスリップアンカーに次ぐ全体の2位タイだった。第二次世界大戦後に開始された英タイムフォーム社のレーティングにおいて、本馬より高い数値を獲得した古馬牝馬は、1974年に136ポンドを獲得した仏国調教馬アレフランスと、2011年と2013年の2度に渡り136ポンドの評価を得た豪州調教馬ブラックキャビアの2頭のみ(仏国調教馬のダリアが1974年に135ポンドを獲得して本馬と並ぶ当時2位タイとなっている)であり、本馬以降に135ポンド以上を獲得した古馬牝馬はブラックキャビアのみである(それ以外では1988年のミエスク、2002年のアゼリ、2009年のゴルディコヴァの3頭がいずれも133ポンドだったのが最高。ちなみに3頭とも英国調教馬ではない)から、英タイムフォーム社の評価は今日においても、英国調教の古馬牝馬では本馬が最強という位置づけのままとなっている。

英タイムフォーム社の公式評価には第二次世界大戦前の馬は含まれていないが、英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏とジョン・ランドール氏が出版した前述の“A Century of Champions”においては20世紀に走った全ての競走馬が対象となっている。この中でも本馬には135ポンドの数値が与えられており、これはプリティポリー(137ポンド)、アレフランスとサンチャリオット(共に136ポンド)に次ぐ第4位(セプター、コロネーションと同値)となっている。これらの数値は何歳時の評価か不明であるが、古馬になって走っていないサンチャリオットと古馬としては活躍できなかったコロネーションは確実に3歳時、プリティポリーとセプターもおそらく3歳時の評価であろうから、古馬牝馬としては本馬がアレフランスに次ぐ単独2位のはずである。

なお、国際クラシフィケーションの評価に関して補足しておくと、2013年の見直しにより本馬は129ポンドに格下げとなっており、古馬牝馬としては132ポンドのブラックキャビア、131ポンドのミエスクとボスラシャム、130ポンドのゴルディコヴァといった馬達の方が上になってしまっているが、2013年の見直しは西暦19〇〇年の馬は一律△ポンド減少という乱暴なものであり、英タイムフォーム社の評価のほうが信用できるだろう。

本馬は翌年も現役を続ける予定だったが、肩を負傷したために5歳時はレースに出ることなく引退した。

競走馬としての特徴

本文中で幾度も書いたとおり、本馬は非常に神経質な馬だった。そんな本馬の心の友と言える存在は、2歳年上の“Bluesy”ことカモンザブルースという名前の騙馬(競走馬としては6歳時にロイヤルハントCを勝っている)だった。本馬は苛立っていても、カモンザブルースの姿を見ると落ち着きを取り戻したという。カモンザブルースは本馬の米国遠征にも同行しており、BCターフの制覇に一役買っている。また、気性が激しい本馬の調教は、牝馬の育成が得意なブリテン師であっても手こずったらしい。普通に走らせる調教が困難だったため、ブリテン師は本馬のメイン調教を水泳で実施したという。

本馬の好物はギネスビールだったらしく、毎日のように1リットルは飲んでいたという。気性が荒くて酒豪の上に、牡馬より強かったわけであるから、良くも悪くも「女傑」という言葉が最も似合う馬である。

馬名は英語で「小石」という意味である。そのために海外の資料では「ペブルスは石よりも強い心を持っていました」とか「(3歳時のコロネーションS後に石を踏んで負傷した際に)ペブルスは石の上に乗ってしまいました」のように、それを意識した表現が散見される。

血統

Sharpen Up エタン Native Dancer Polynesian Unbreakable
Black Polly
Geisha Discovery
Miyako
Mixed Marriage Tudor Minstrel Owen Tudor
Sansonnet
Persian Maid Tehran
Aroma
Rocchetta Rockefella Hyperion Gainsborough
Selene
Rockfel Felstead
Rockliffe
Chambiges Majano Deiri
Madgi Moto
Chanterelle Gris Perle
Shah Bibi
La Dolce Connaught St. Paddy Aureole Hyperion
Angelola
Edie Kelly Bois Roussel
Caerlissa
Nagaika Goyama Goya
Devineress
Naim Amfortas
Nacelle
Guiding Light Crepello Donatello Blenheim
Delleana
Crepuscule Mieuxce
Red Sunset
Arbitrate Arbar Djebel
Astronomie
Above Board Straight Deal
Feola

シャーペンアップは当馬の項を参照。

母ラドルチェは現役成績10戦2勝、英オークス(英GⅠ)でシンティレートの5着している。ラドルチェの牝系子孫は世界的に見てそれほど発展していないが、日本に繁殖牝馬として輸入された本馬の半妹ドルスク(父ダンチヒ)の子には、アドマイヤタッチ【兵庫ジュニアグランプリ(GⅢ)】とミレニアムバイオ【マイラーズC(GⅡ)・北九州記念(GⅢ)・富士S(GⅢ)】の兄弟が、孫にはマルブツトップ【佐賀記念(GⅢ)】とホワイトメロディー【関東オークス(GⅡ)・クイーン賞(GⅢ)】の兄妹が、曾孫にはゴールドキャヴィア【優駿スプリント】がいる。

ラドルチェの曾祖母アバヴボードの半姉ナイツドーターの子には米国の歴史的名馬ラウンドテーブル、牝系子孫には2001年のカルティエ賞最優秀2歳牡馬とエクリプス賞最優秀2歳牡馬をダブル受賞したヨハネスブルグがいる。アバヴボードの半姉ハイペリキュームの孫には世界的名牝系の祖となったハイクレアがおり、ハイクレアの子孫であるナシュワンやディープインパクトは本馬の遠縁という事になる。アバヴボードの半姉アンジェロラの子にはキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSなどに勝利したオリオールもいる。さらに遠くなってしまうが、ゴーフォーワンドサルサビルなども同じ牝系に属している。→牝系:F2号族②

母父コンノートは現役成績15戦7勝。コースレコードで勝利したエクリプスSを筆頭に、プリンスオブウェールズS2回・キングエドワードⅦ世S・グレートヴォルティジュールS・ウェストベリーSに勝利した他に、英ダービーでサーアイヴァーの2着している。種牡馬としては独国史上最強マイラーと言われる悲運の名馬リールンクなどを出した。コンノートの父セントパディはオリオールの代表産駒で、英ダービー・英セントレジャー・エクリプスS・ロイヤルロッジS・ダンテS・グレートヴォルティジュールS・ハードウィックS・ジョッキークラブS勝ちなど14戦9勝の成績を挙げた名馬。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はダーレーグループ所有のもと、英国と米国を行き来しながら繁殖生活を送り、ヌレイエフリファレンスポイントサドラーズウェルズナシュワンポリッシュプレシデントグリーンデザートカーリアンといった種牡馬達との間に産駒をもうけた。しかしヌレイエフとの間に産まれた初子の牝駒ペチェンガが4戦1勝の成績を挙げたのが関の山で、他は不出走馬や未勝利馬ばかりという産駒成績は、輝かしかった現役時代に比べるとあまりにも寂しいものだった。あまりにも産駒成績が悪かったため、1996年に日本に送られ、ノーザンファームや、ダーレーグループが日本に所有していた福満牧場で繁殖生活を続けた。日本ではドクターデヴィアスリアルシャダイジェイドロバリーといった種牡馬達との間に産駒をもうけたが、やはり活躍馬は出なかった。結局、本馬は12頭の子を産んだが、勝ち上がったのは2頭だけに終わった。

競走馬時代に大活躍しながら繁殖成績が期待外れに終わった馬は少なくないが、本馬はその最たる例の1頭である。その理由を科学的に説明することは不可能だが、現役時代にギネスビールを飲みすぎたのが影響しているのかもしれない(人間であれば妊娠後に飲酒しなければ胎児に悪影響を及ぼすことは特に無いらしいが、馬の場合は研究されていないので不明である)。2002年に繁殖牝馬を引退した後は福満牧場で余生を送り、2005年9月に老衰のため24歳で安楽死の措置が執られた。競馬の母国英国において史上最強クラスの名牝とまで謳われた本馬の最期は、殆ど注目される事も無い静かなものだった。

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