ハリーバセット

和名:ハリーバセット

英名:Harry Bassett

1868年生

栗毛

父:レキシントン

母:カナリーバード

母父:アルビオン

2歳時から4歳時にかけてベルモントSを含む破竹の14連勝を飾ったレキシントンの代表産駒の一頭

競走成績:2~6歳時に米で走り通算成績36戦23勝2着5回3着3回

誕生からデビュー前まで

レキシントンを種牡馬として所有していたロバート・A・アレクサンダー氏により、レキシントンが種牡馬生活を送っていたケンタッキー州ウッドバーンスタッドにおいて生産された。1歳時のセリにおいて、調教師兼馬主だったデビッド・マクダニエル大佐に315ドルで購入され、マクダニエル大佐の所有・管理馬となった。主戦はW・ミラー騎手が務めた。

競走生活(2・3歳時)

2歳時にサラトガ競馬場で行われたサラトガS(D5F)でデビューしたが3着に敗退。しかし同じくサラトガ競馬場で行われた新設競走ケンタッキーS(D8F)で初勝利を挙げた。ジェロームパーク競馬場で出走したナーサリーS(D8F)でも14頭の対戦相手を蹴散らして勝利。ピムリコ競馬場で行われたサパーSも勝利を収めて、3連勝で2歳時を4戦3勝で終えた。後年になってこの年の米最優秀2歳牡馬に選ばれている。なお、資料によっては2歳時にケンタッキーS・ナーサリーS・サパーSの他にセントラルSというレースにも勝利したと記載があり、これだと本馬の2歳時の成績は5戦4勝となる。どちらが正しいかは判然としない(どの資料も本馬の通算成績36戦23勝2着5回3着3回という点では一致を見ているのだが)。

3歳時はジェロームパーク競馬場で行われた第5回ベルモントS(D13F)から始動した。そして2着ストックウッドに3馬身差をつけて、2分56秒0のコースレコードタイムで優勝を飾った。なお、所有者のマクダニエル大佐は翌年にジョーダニエルズで、そのまた翌年にスプリングボックでベルモントSを制覇し、同レース3連覇を果たしている。

その後も本馬は当時の主要競走を勝ち続けた。ジャージーダービー(D12F)では、この年のグランドナショナルH・アニュアルSをいずれもレースレコードで勝つ同世代の強豪馬モナーキストを2着に破って勝利。トラヴァーズS(D14F)では、この年のレディーズSを勝つ牝馬ネリーグレイを2着に破って勝利。ケナーS(D16F)でも、牝馬ネリーランサムを2着に、トラヴァーズSで本馬の3着だったアロイを3着に破って、3分35秒75のレースレコードで勝利した。リユニオンS(D16F・現ディキシーS)では対戦相手が現れなかったために単走で勝利した。ジェロームH(D16F)でも、モナーキストを2着に、アロイを3着に破って勝利した。3歳秋に出走した米チャンピオンS(D16F)では、古馬勢を蹴散らして勝利。距離4マイルのヒート競走だったボウイーSでは5歳馬のヘンボールドと対戦したが、2戦連続で勝ち取ってこのヒート競走の勝者となった。結局3歳時は9戦全勝と完璧な成績を残し、後年になってこの年の米最優秀3歳牡馬に選ばれている。なお、この年の秋にマクダニエル大佐は英2000ギニー2着馬スターリング陣営に対して本馬とスターリングのマッチレースを申し込んだらしいが、条件面で折り合いがつかずに実現しなかったという。

競走生活(4~6歳時)

4歳時はウエストチェスターC(D16F)で名馬テンブロックの半兄リットルトン以下を下して勝利。さらに距離2マイルのヒート競走も勝って2歳時からの連勝を14まで伸ばした。その後はニュージャージー州モンマスパーク競馬場に赴いてモンマスC(D20F)に出走した。このレースは、前年の同競走の勝ち馬でもあったプロデュースS・オハイオS・ナッシュビルS・ポストS・サラトガCの勝ち馬ロングフェローとの対戦となった。ロングフェローの所有者だったジョン・ハーパー氏は、競走馬を引退した直後のレキシントンを種牡馬として所有していたのだが、レキシントンが種牡馬として大成功する将来を予見できずにアレクサンダー氏に売却してしまっていた過去があった。ハーパー氏はリーミントン産駒であるロングフェローの実力に相当自信を有していたらしく、ロングフェローをモンマスCに出走登録した際に「ロングフェローの勇気を試したければ誰でも来てごらん。」と告知した。それを耳にしたマクダニエル大佐が本馬でその挑戦を受けて立ったのである。当初モンマスCに出走予定だった他馬10頭の陣営は、ロングフェローだけでなく本馬までも出走してくると知って全て回避してしまったため、結局2頭のマッチレースとなった。しかしハーパー氏の自信に相応しい快走を見せたロングフェローが勝利を収め、本馬は実に100ヤード(91.44m)差をつけられて完敗してしまい、連勝は14で止まった。

モンマスパーク競馬場を後にした本馬はニューヨーク州に戻ると、7月にサラトガ競馬場で行われたレースを勝利した。そしてそれから3日後のサラトガC(D18F)に出走した。このレースにはサマーCの勝ち馬ディフェンダーだけでなく、前年の同競走の勝ち馬ロングフェローも出走してきて、モンマスCのリターンマッチとなった。このレースにおける本馬の鞍上は主戦のミラー騎手ではなく、この年15歳にして米国の一流騎手として活躍していたジェームズ・G・ロウ騎手だった。ロウ騎手は後に名馬主ジェームズ・R・キーン氏の専属調教師として、コリンを始めとする数々の名馬を育て上げて米国競馬史上屈指の名伯楽として名を馳せることになるのだが、この時はまだ現役騎手だった(18歳で早くも騎手を引退して調教師に転身)。レースはモンマスCと異なり本馬が先行して、ロングフェローが追いかけてくる展開となった(ディフェンダーは申し訳ないが最初から蚊帳の外だった)。ロングフェローはスタート前に脚を負傷しており万全の状態ではなかったが、それでもゴールが近づいてくると猛然と本馬に迫ってきた。しかし本馬がその追撃を1馬身差で凌いで勝利を収め、ロングフェローに雪辱した。ロングフェローはレース中に蹄鉄が外れて脚にめり込むという状態で走っており、それが無ければ本馬が勝ったかどうかは定かではないのだが、本馬が計時した勝ちタイム3分59秒0はそれまでの記録を2秒5も更新するコースレコードであり、本馬の走りが素晴らしかった事は間違いない。ロングフェローはこの時の負傷が原因で引退してしまったため、本馬との対戦成績は1勝1敗の五分となった。

その後も本馬はサラトガ競馬場で勝ち星を積み重ねた(勝ったのは一般競走やハンデ競走が主だったらしく、ステークス競走を勝ったという記録は見当たらない)。しかし、秋シーズンには厳しいスケジュールと距離で走り続けた反動が来たようで不調に陥った。ジェロームパーク競馬場で出走したフォールマチュリティS(D24F)では2頭立ての2着に敗れている。それでも4歳時は11戦8勝2着3回の成績を残し、後年になってこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれた。

5歳時以降も現役を続けたが、前年秋からの不調から立ち直る事が出来ず、5歳時の成績は8戦2勝2着2回3着1回。サラトガC(D18F)で、前年のベルモントS・トラヴァーズS・ジェロームH・米チャンピオンS・ケナーSを勝っていた同馬主馬ジョーダニエルズの2着に入ったのが目立つ程度だった。このレースにおけるジョーダニエルズの勝ちタイムは4分10秒75で、前年の本馬の勝ちタイムより11秒75も遅く、本馬の競走能力の減退は明らかだった。

6歳時も4戦1勝3着1回の成績に留まり、この年限りで競走馬を引退した。

血統

Lexington Boston Timoleon Sir Archy Diomed
Castianira
Saltram Mare Saltram
Symes Wildair Mare 
Sister to Tuckahoe Ball's Florizel Diomed
Atkinsons Shark Mare
Alderman Mare Alderman 
Clockfast Mare
Alice Carneal Sarpedon Emilius Orville
Emily
Icaria The Flyer
Parma
Rowena Sumpter Sir Archy
Robin Redbreast Mare
Lady Grey Robin Grey
Maria 
Canary Bird Albion Actaeon Scud Beningbrough
Eliza
Diana Stamford
Whiskey Mare
Panthea Blacklock Whitelock
Coriander Mare
Manuella Dick Andrews
Mandane
Penola Ainderby Velocipede Blacklock
Juniper Mare
Kate Catton
Miss Garforth
Sweetbriar Recovery Emilius
Rubens Mare
Primrose Comus
Cowslip

レキシントンは当馬の項を参照。

母カナリーバードは競走馬として出走歴はあるようだが、詳しい戦績はよく分からない。小柄で見栄えがしない馬だったようである。母としては2番子である本馬以外にも、本馬の全弟チャーリーハワード【ジェロームH】も産んでいるが、牝系子孫は発展しなかった。カナリーバードの半妹ペネロープ(父コモドール)の曾孫にはアジル【ケンタッキーダービー】がいるが、近親に他の活躍馬は見当たらず、牝系としては振るわない部類に入る。→牝系:F24号族

母父アルビオンは英国産馬で、米国に種牡馬として輸入されているが、競走馬としてのキャリアは不明瞭である。種牡馬としては活躍し、1859年には北米首位種牡馬になっている。遡るとアクテオン、ドンカスターCの勝ち馬スカッド、英セントレジャー・ドンカスターCの勝ち馬ベニングブロー、キングファーガスへと至るエクリプス系だが、アルビオンの父はケインという馬(セントサイモンの祖母の父であるアイオンの父)であるという説もあり、この場合はパウロウィッツ、英セントレジャー3着馬サーポール、サーピーターティーズルへと至るヘロド系である。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はニュージャージー州トレントンにあったマクダニエル大佐所有の牧場で種牡馬入りした。しかし1878年10月に10歳の若さで他界。早世した影響もあってか、種牡馬として好成績を残す事はできなかった。2010年に米国競馬の殿堂入りを果たした。

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