ハーミット

和名:ハーミット

英名:Hermit

1864年生

栗毛

父:ニューミンスター

母:シクルージョン

母父:タドモル

虚弱体質を克服して人気薄の英ダービーを勝利して人間同士のスキャンダルに決着をつけ、種牡馬としても7度の英愛首位種牡馬に輝く

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績23戦8勝2着9回

誕生からデビュー前まで

英国ミドルパークスタッドにおいて、同牧場の所有者ウィリアム・ブレンキロン氏により生産された。英国ヨークシャー州リッチモンドの農家に生まれたブレンキロン氏は、家業の農業を放棄してロンドンに移住して事業家として成功した。40歳時の1847年に馬主となり、1852年にミドルパークスタッドを開設して馬産も開始していた。

本馬は成長しても体高15.2ハンドにしかならなかった小柄な馬であり、しかも両親から虚弱体質を受け継いでおり、母系も目立たなかった。しかし、燃えるような栗毛馬(こう書くと赤毛馬を連想するかもしれないが、赤色よりもむしろ黄色に近かったという)で、小柄とはいえ馬体の均整は取れていたという。性格は温和すぎるほど優しく、これほど気立てが良い馬は滅多にいないと評された。

1歳6月のエルサムセールに出品され、英国保守党所属の政治家ヘンリー・チャップリン氏の代理人ジェームズ・マッチェル氏により1000ギニーで購買された。チャップリン氏は本馬を、チャールズ・ブロス調教師とジョージ・ブロス調教師兄弟の厩舎に預けたが、本馬の出走に関しては、チャップリン氏のレーシングマネージャーだったマッチェル氏が決定していた。

競走生活(英ダービーまで)

1歳12月の非公式トライアル競走では、35ポンドのハンデを与えた同世代の牝馬プロブレム(翌2歳時にデビュー戦となったブロックレスビーSというステークス競走を勝っている)を一蹴しており、デビュー前からその高い素質を見せていた。2歳4月にニューマーケット競馬場で行われたスウィープS(T4F)でデビューした。しかしここでは本馬より斤量が3ポンド重かった同父の牝馬セリーナの2着に敗退した。その後にバス競馬場で出走したバイエニアルSでも、セリーナとの対戦となった。今回の斤量は本馬のほうがセリーナより3ポンド重かったのだが、今度は本馬がセリーナを首差の2着に下して初勝利を挙げた(他の出走馬12頭は全てこの2頭から3馬身以上後方だった)。

その後はエプソム競馬場に向かい、5月のウッドコートS(T5F)に出走。しかし英国三冠馬ロードリオンの1歳年下の全妹アチーヴメントに3馬身差をつけられて2着に敗れた。6月にはアスコット競馬場でバイエニアルSに出走した。ここでは単勝オッズ5倍といった程度の評価だったが、2着ドラゴンに首差で勝利した。さらにストックブリッジ競馬場に向かい、バイエニアルSに出走。ここでは単勝オッズ1.73倍で16頭立ての1番人気に支持された。そして2着ヴォーバンに首差で勝利した。引き続きストックブリッジ競馬場で出走したトロイSでは、ヴォーバン、後のシザレウィッチHの勝ち馬ジュリアスなどを抑えて単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持され、期待に応えて勝利を収めた。

この段階では、翌年の英国クラシック競走の有力候補と目されていた本馬だが、トロイSの後に体調を崩してしまい、秋に行われる2歳戦の大競走には出走できなかった。結局2歳時はトロイSが最後のレースとなり、この年の成績は6戦4勝2着2回となった。

3歳になった本馬は、英2000ギニーには出走しなかった。それはマッチェル氏が自身の所有馬であるナイトオブザガーターで英2000ギニーを勝ちたかったためであった。ところがこの英2000ギニーを勝ったのは、2歳時に本馬が2度に渡って破ったヴォーバンであり、ナイトオブザガーターは2馬身差の2着に敗れてしまった。一方の本馬は英ダービーを目標に調整されていた。

英ダービー

さて、この辺りで本馬を語る上で決して外せないあるエピソードについて記さなければならない。もっともこれは本馬自身には何の関係もない、人間同士のスキャンダルである。本馬の馬主チャップリン氏は本馬が誕生した1864年、24歳のときに第2代アングルシー侯爵ヘンリー・パジェット卿の娘フィレンツェ・パジェット嬢と婚約していた。2人の結婚式当日、パジェット嬢は衣装合わせのために、チャップリン氏を店の外に待たせてオックスフォード通りの店に入っていった。ところがパジェット嬢はチャップリン氏が待っている側とは逆の出口から出ていき、同日中にチャップリン氏の友人だった後の第4代ヘイスティングス侯爵ヘンリー・ヘイスティングス氏と結婚してしまった。残されたチャップリン氏は婚約者に逃げられた男として大恥をかく羽目になった。

チャップリン氏より2歳年下のヘイスティングス氏は仕事に無頓着で、財産を湯水のように浪費し、賭博好きで無謀な賭けを頻繁に行う(それでも賭けで大儲けした事もしばしばあった)という、どうしようも無い男だった。ヘイスティングス氏は馬主でもあり、数々の有力馬を所有していた。本馬の同世代にも、アンカスという馬がヘイスティングス氏の所有馬として走っていた。そしてヘイスティングス氏は、チャップリン氏が所有する本馬が英ダービーに出走する旨を聞きつけると、本馬が負けるほうに全財産を賭けたのである。もっとも、それは決して無謀な賭けではなく、本馬は英ダービーの2週間前の調教中に体質弱から生じた鼻出血を発症していたのである。口呼吸が出来ないサラブレッドにとって鼻出血は競走どころか生命にも関わる重大な疾患だった。そして本馬が鼻出血を発症したという事実は既に競馬ファンや賭博者達の間で知れ渡っていたのである。

英ダービーまであとほんのわずかの期間しかなく、本馬が英ダービーに勝つことはおろか出走さえも絶望視されたため、マッチェル氏は本馬の主戦を務めていたハリー・カスタンス騎手に対して他の馬に乗ってよいという許可を出した。そこでカスタンス騎手はザレイクという馬に乗ることになった。

しかしマッチェル氏は出来ることならば本馬を英ダービーに出したいと内心で考えていた。何故なら、本馬はこの段階で英ダービーの本命(最終的には単勝オッズ2.375倍の1番人気)となっていたヴォーバンを2歳時に2度も破っていた上に、鼻出血発症前に出走した非公式のトライアル競走では10ポンドのハンデを与えたナイトオブザガーターを破っていたからである。そこで、レース直前に陣営は本馬の鼻出血を抑えるために、血圧を下げるなど様々な努力を行った。この努力が功を奏して、本馬は英ダービーの数日前には調教でかなり良い動きをする程度までに回復した。カスタンス騎手が乗る予定だったザレイクの事前調教の動きが思わしくない事を聞きつけたマッチェル氏は、ザレイクの所有者と交渉をしてカスタンス騎手を返してもらおうとした。しかしザレイクの所有者がそれを拒否したため、本馬には弱冠20歳のジョン・デーリー騎手が騎乗する事になった。

こういった経緯を経て何とか英ダービー(T12F)出走を果たした本馬だが、トロイS以来10か月ぶりの実戦である上に、鼻出血を発症していた事が大きく影響して、単勝オッズ67.67倍という全くの人気薄だった。この年の英ダービーには英2000ギニー馬ヴォーバンに加えて、ヘイスティングス氏の所有馬アンカス、モールコームSの勝ち馬で英2000ギニー3着のマークスマンなど、本馬を含めて計30頭が出走していた。既に6月だというのにエプソム競馬場にはみぞれ混じりの雪が降っていた。「まるでシベリアのようだ」と評されたほどの悪天候だったためにレースを延期しようという話も出たが、結局は予定どおりに実施されることになった。あまりの寒さのために観客数は例年よりはるかに少なかった。出走馬はどれも寒さのために震えていたが、その中でも小柄な本馬は「やせ衰えた駄馬」「まるで死体」と評されるほどみすぼらしく見えたという。寒さのためか馬や騎手達の呼吸が合わず、スタートでフライングが10回もあり、発走が何と1時間も遅れる事態となった。そのために数少ない観衆だけでなく出走馬や騎手も焦らつきを隠せないような状況となっていたが、気性が穏やかな本馬は平素と変わりが無かった。

ようやく正規のスタートが切られると、ヴォーバンとマークスマンが先手を取った。本馬鞍上のデーリー騎手は、マッチェル氏の指示に従って本馬を好位につけると、タッテナムコーナーで大外に持ち出し、前を行く2頭を直線で急追。ヴォーバンをかわして単独先頭に立ち勝利をほぼ手中に収めていたはずのマークスマンをゴール直前で首差かわして見事に優勝した。ヴォーバンは3着、アンカスは遥か後方でゴールインした。

本馬の勝利でチャップリン氏は名誉と大金を、マッチェル氏も大金(本馬の勝利に賭けていた)を得た。また、デーリー騎手(この2日後の英オークスではヒッピアに騎乗して大本命馬アチーヴメントを半馬身差の2着に破って勝っている)には1000ポンドが、レース直前まで本馬の体調管理のために不眠不休で尽力していたブロス調教師兄弟には合計5000ポンドが、それぞれ報奨金としてチャップリン氏から支払われた。

その反対に、ヘイスティングス氏は12万ポンド(うち2万ポンドはチャップリン氏に対してのもの)もの大金を失う羽目になった。チャップリン氏は寛大にも、支払は遅れても良いとヘイスティングス氏に申し渡した。その後ヘイスティングス氏は必死に借金返済のための努力を続けたが、結局その努力は実を結ぶことなく、翌年に26歳で自殺した。遺言は「ハーミットのダービーにより私の心は破壊された。私は何故こんなことになったのだろうか」だった。これは本馬が1歳時に出品されたセリに彼も参加しており、本馬のセリでマッチェル氏と争って負けていた(もし勝っていれば本馬の馬主はヘイスティングス氏だったのである)事も含めて、後悔の念が彼の心を支配して出てきた言葉だったようである。なお、未亡人となったフィレンツェ・パジェット・ヘイスティングス夫人は、後に自身が会員だったジョッキークラブの事務長ジョージ・チェトウィンドサー氏と再婚したが、チェトウィンドサー氏が後に競馬に関する名誉毀損を受けたとして訴訟を起こし、その訴訟には勝ったが競馬界からは身を引いた事で、彼女も歴史の表舞台からその名が消える事になった。ちなみに長年独身だったチャップリン氏は、本馬の英ダービー勝利から9年後に第3代サザーランド公爵ジョージ・サザーランド・ガウアー卿の娘フィレンツェ嬢と結婚し、子爵の称号も与えられ、競馬界のみならず政治面でも活躍し、競馬界から身を引いた後もスポーツ界の著名人として敬意を集めることになった。

競走生活(3歳後半)

さて、人間同士の話はこれまでにして、本馬の競走生活に話を戻す。本馬は英ダービーの後にアスコット競馬場に赴いた。まずはバイエニアルS(T8F)に出走。英ダービーの勝利に加えて、英ダービー時点よりもはるかに馬体が良く見えた事もあって、単勝オッズ1.2倍という英ダービーとは雲泥の差の評価を受けた。そしてドラゴンやジュリアスといった馬達を蹴散らして、1馬身半差で勝利した。次走のセントジェームズパレスS(T8F)では、単勝オッズ1.05倍という圧倒的な1番人気に支持された。そして全くの馬なりのまま、2着ザパルマーに3馬身差をつけて勝利を収めた。

その後は秋まで休養し、英セントレジャー(T14F132Y)に出走した。ここでは、英ダービー3着後にプリンスオブウェールズS・グッドウッドCを勝っていたヴォーバン、ジュリアスなどに加えて、かつてウッドコートSで本馬を破った後にニューS・ジュライS・英シャンペンS・クリテリオンS・英1000ギニー・コロネーションSを勝ちミドルパークプレート・英オークス・プリンスオブウェールズSで2着していたアチーヴメントとの対戦となった。カスタンス騎手が主戦に復帰していた本馬が単勝オッズ2.2倍の1番人気、アチーヴメントが単勝オッズ2.875倍の2番人気となった。レースはアチーヴメントが先手を取り、本馬がそれを追いかける展開となった。しかしアチーヴメントがそのまま押し切って勝利を収め、本馬は1馬身差の2着に敗れた。後になってチャップリン氏は、このレース前における本馬に課された調教があまりにも厳しかったために疲弊したのが敗因ではないかと述べている。

英セントレジャーの2日後に出走したドンカスターC(T18F)では早くも本馬とアチーヴメントの再戦となった。しかし結果はまたもアチーヴメントが勝ち、本馬は3/4馬身差の2着に敗れた。なお、アチーヴメントはその後若くして他界したため子を残す事は出来なかった。本馬はドンカスターCを走った同日の午後、英セントレジャーと同距離のスウィープS(T14F132Y)に出走して、いずれも7ポンドのハンデを与えた対戦相手2頭を一蹴して勝利した。しかし僅か3日間で3戦を消化するという無茶な日程が祟ったのか、本馬の競走成績はこの後に下降線を辿ることになった。

9月にニューマーケット競馬場で出走したグランドデュークマイケルS(T10F)では単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持されたが、7ポンドのハンデを与えたフリッポニアー(クリテリオンSでアチーヴメントの2着という実績があった)の1馬身差2着に敗れた。翌週に同じくニューマーケット競馬場で出走した次走のスウィープS(T8F)では、本馬とフリッポニアーの2頭立てとなった。斤量差は前走より縮まっていたが、それでも本馬が5ポンド重かった。しかしレースは5ポンドのハンデ差では説明できない内容となり、本馬はフリッポニアーに10馬身差をつけられて大敗してしまった。その翌日にはニューマーケットダービー(T12F)に出走したが、14ポンドのハンデを与えたロンシャン(翌年にカドラン賞を勝っており、決して弱い馬では無い)の1馬身半差2着に敗れた。3歳時の成績は9戦4勝2着5回だった。

競走生活(4・5歳時)

4歳時も現役を続け、まずは4月にニューマーケット競馬場で行われたバイエニアルSから始動した。しかし前年の英セントレジャーで本馬から頭差の3着だった後にシザレウィッチHを勝っていたジュリアスの2着に敗れた(ただし斤量は本馬の方がジュリアスより7ポンド重かった)。翌週にはニューマーケット競馬場の距離2マイルで、本馬とジュリアスのマッチレースが行われた。今回は本馬の斤量が1ポンドだけだが軽かった。しかし結果はジュリアスが勝ち、本馬は2馬身差をつけられて敗れた。その後は、前年のセントジェームズパレスSで本馬の2着に敗れた後にアスコットダービー・リヴァプールオータムCを勝っていたザパルマーとの距離10ハロンのマッチレースが予定されていたが、本馬の方が13ポンドも斤量が重く設定されたために、チャップリン氏は罰金を支払って回避した。

その後はしばらくレースに出ず、9月にドンカスター競馬場で行われたポートランドプレートで復帰した。トップハンデながらも単勝オッズ3倍の1番人気に支持されたが、牝馬レディゼトランドの着外に敗れた。10月にニューマーケット競馬場で出走した距離1マイルの下級ハンデ競走でも、トップハンデを課せられた影響があったのか、着外に敗れた。その後はホートン競馬場で再び本馬とザパルマーのマッチレースが組まれたが、今回もチャップリン氏が罰金を支払って回避した。代わりにホーソーンH(T6F)に出走したが着外に終わり、4歳時の成績は5戦未勝利となった。

4歳限りで競走馬を引退したとする資料もあるが、実際には5歳時も現役を続け、5月にエプソム競馬場で行われたシックスマイルヒルH(T12F)から始動した。ここでも130ポンドのトップハンデを課せられた本馬は単勝オッズ21倍の人気薄で、結果もナインエルムスの着外と冴えなかった。それから2週間後にはアスコット競馬場でロイヤルハントC(T8F)に出走したが、前年のケンブリッジシャーH・ニューマーケットダービーを勝っていたシーソーの着外に敗れた。7月にはグッドウッド競馬場でスチュワーズC(T6F)に出走したが、フィシューの着外に敗退。このレースを最後に、5歳時3戦未勝利の成績で競走馬を引退した。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第34位にランクインした。

血統

Newminster Touchstone Camel Whalebone Waxy
Penelope
Selim Mare Selim
Maiden
Banter Master Henry Orville
Miss Sophia
Boadicea Alexander
Brunette
Beeswing Doctor Syntax Paynator Trumpator
Mark Anthony Mare
Beningbrough Mare Beningbrough
Jenny Mole
Ardrossan Mare Ardrossan John Bull
Miss Whip
Lady Eliza  Whitworth
Spadille Mare
Seclusion Tadmor Ion Cain Paulowitz
Paynator Mare
Margaret Edmund 
Medora
Palmyra Sultan Selim
Bacchante
Hester Camel
Monimia
Miss Sellon Cowl Bay Middleton Sultan
Cobweb
Crucifix Priam
Octaviana
Belle Dame Belshazzar Blacklock
Manuella
Ellen Starch
Cuirass

ニューミンスターは当馬の項を参照。

母シクルージョンは現役時代6勝を挙げたが、前述したように目立たない母系の出身で、そのため「隠居・隠遁」を意味する“Seclusion”という馬名を付けられたらしい。ちなみに本馬の名前は「隠者」という意味で、母の名前に由来しているようである。ただし、本馬の登場以降は、シクルージョンの牝系子孫から活躍馬が続出している。

本馬の2歳年下の全妹シャノワネスの牝系子孫からは、ミノル【英2000ギニー・ダービー・セントジェームズパレスS・サセックスS】、グランドパレード【英ダービー・セントジェームズパレスS】、スピアーフェルト【メルボルンC・ヴィクトリアダービー・オーストラリアンC】、クイーンオブザステージ【ソロリティS・スピナウェイS・メイトロンS・フリゼットS】、レヴュワー【サラトガスペシャルS・サプリングS】、シーキングザゴールド【ドワイヤーS(米GⅠ)・スーパーダービー(米GⅠ)】などが登場した。

本馬の4歳年下の半妹ステップ(父サウンテラー)【2着英1000ギニー】の牝系子孫は主にオセアニアで発展し、ボバディル【豪シャンペンS・オールエイジドS・コーフィールドギニー・オーストラリアンC・豪フューチュリティS】、レイピア【ニュージーランドC・オークランドC・ウェリントンC】、サマーリージェント【コックスプレート・AJCクイーンエリザベスS】、シンクビッグ【メルボルンC(豪GⅠ)2回】などが登場した。

本馬の7歳年下の半妹フェアロザモンド(父キングジョン)の子にはエリザベス 【英1000ギニー】が、牝系子孫からは、アペル【伊ダービー・ミラノ大賞・コロネーションC】、プリンスフート【メルボルンC・AJCサイアーズプロデュースS・AJCダービー・ヴィクトリアダービー・AJCプレート】、ストームクイーン【AJCサイアーズプロデュースS・豪シャンペンS・ゴールデンスリッパー・コーフィールドギニー】、スターアピール【凱旋門賞(仏GⅠ)・ミラノ大賞(伊GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)】、トントナン【AJCサイアーズプロデュースS・ゴールデンスリッパー・オールエイジドS・ドンカスターマイル】、セイントリー【メルボルンC(豪GⅠ)・コックスプレート(豪GⅠ)・オーストラリアンC(豪GⅠ)・CFオーアS(豪GⅠ)】、ハーディエステス【英チャンピオンハードル(英GⅠ)2回・パンチェスタウンチャンピオンハードル(愛GⅠ)・愛チャンピオンハードル(愛GⅠ)・モルジアナハードル(愛GⅠ)】、ミロードトーマス【パリ大障害(仏GⅠ)・モーリスジロワ賞(仏GⅠ)・ラエジュスラン賞(仏GⅠ)2回】、日本で走ったハツマモル【帝王賞】などが登場した。

本馬の10歳年下の半妹レティセンス(父ヴェスパシアン)の牝系子孫からは、オーバーサイト【サラマンドル賞・リュパン賞・仏共和国大統領賞】、英愛首位種牡馬サンインロー、ビーフレンドリー【スプリントC2回・キングズスタンドS・アベイドロンシャン賞】、リスクミー【ジャンプラ賞(仏GⅠ)・パリ大賞(仏GⅠ)】、レイクコニストン【ジュライC(英GⅠ)】、ブッシュファイア【アッシュランドS(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)・マザーグースS(米GⅠ)】、コスモバルク【シンガポール航空国際C(星GⅠ)】などが登場している。→牝系:F5号族②

母父タドモルは競走馬としてのキャリアは不明。種牡馬としての成績も振るわなかったらしい。タドモルの父アイオンは英ダービー・英セントレジャーともに2着。遡ると、ケイン、パウロウィッツ、サーポール、そして英ダービー馬にして名種牡馬のサーピーターティーズルへと行きつくが、競走馬としてのキャリアが不明な馬が多く、ヘロドの直系でもかなりの傍流に属している。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、馬主チャップリン氏が英国ヨークシャー州に開設したブランクニーホールスタッドで種牡馬入りした。本馬は種牡馬としても大活躍し、1880年から1886年まで7年連続で英首位種牡馬に輝いた。牝馬の活躍馬が多かった影響もあったのか、英母父首位種牡馬には5回輝き、それを含めて英母父種牡馬ランキングで10位以内が16回もあった。最初は20ギニーだった種付け料は最終的に300ギニーまで上昇した。産駒のステークス競走勝利は英国内だけで846勝に上ったという(もちろん、普通はステークス競走としてカウントしないような下級競走も含めているのだろうが)。ただし、本馬の産駒には虚弱体質を受け継いだ馬が多く、それが唯一の欠点とされていた。

なお、1883年には本馬が繋養されていたブランクニーホールスタッドにガロピンがやって来た。ちょうどこの年は、ガロピンの代表産駒セントサイモンが2歳の時で、本馬の後はガロピンとセントサイモンの2頭が英国競馬界を制圧することになる。もっとも、既に老年期に差し掛かっていた本馬には直接関係が無い事で、チャップリン氏の幼い子どもを背中に乗せて遊ばせるなど、晩年まで温和な性格を保ち続け、1890年4月に26歳で他界した。チャップリン氏は本馬が遺した蹄鉄でインク壺を作り、競馬好きで知られていた当時のアルバート・エドワード皇太子(後の英国王エドワードⅦ世)に贈ったという。

本馬の活躍馬には牝馬が多かったため、直系は発展しなかった。唯一、ヒュームが直系を伸ばし、名馬ラファリナを経て登場したガーサントが日本で成功し、1990年代頃まで本馬の直系は世界中でも日本でのみ残っていたが、現在は完全に滅んでしまった。そのため、本馬の血は現在母系のみに残っている。もっとも、サラブレッドではなくクォーターホースとしてなら、史上最強のクォーターホースと言われた大種牡馬ダッシュフォーキャッシュが本馬の直子フライアーズバルサンの直系から出現し、現在走っているクォーターホースの大半に本馬の血を受け継がせている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1872

Holy Friar

ジムクラックS

1872

Trappist

ジュライC・オールエイジドS・スチュワーズC

1876

Peter

ミドルパークS・ハードウィックS・ロイヤルハントC・スチュワーズC

1877

L'Eclair

コロネーションS

1877

Retreat

ドンカスターC

1877

Zealot

プリンスオブウェールズS

1878

St. Louis

ミドルパークS

1878

Thebais

英1000ギニー・英オークス・ヨークシャーオークス・ナッソーS・ドンカスターC・グレートチャレンジS・ゴールドヴァーズ

1878

Tristan

アスコット金杯・ジュライC・英チャンピオンS2回・ハードウィックS3回・ドーヴィル大賞3回・ゴールドヴァーズ

1879

Marden

オールエイジドS

1879

Nellie

グレートチャレンジS

1879

Shotover

英2000ギニー・英ダービー・アスコットダービー・パークヒルS

1879

St. Marguerite

英1000ギニー・ナッソーS

1880

Clairvaux

ジュライC

1880

Formalite

ラクープ

1880

St. Blaise

英ダービー・モールコームS

1881

Hermitage

サセックスS

1881

La Trappe

モールコームS

1881

Queen Adelaide

デューハーストS・ジュライS

1882

Aida

ノアイユ賞

1882

Lonely

英オークス

1882

St. Helena

ヨークシャーオークス・コロネーションS

1883

Gamin

仏2000ギニー・ロワイヤルオーク賞

1883

Gay Hermit

カルロスペレグリーニ大賞・ロイヤルハントC

1883

Grey Friars

クレイヴンS

1883

Philosophy

ヨークシャーオークス

1883

St. Mirin

アスコットダービー

1883

Whitefriar

オールエイジドS2回

1884

Bavarde

仏オークス・ロワイヤルオーク賞

1884

Brio

仏2000ギニー・グレフュール賞

1884

Heloise

コロネーションS

1884

Timothy

アスコット金杯・アスコットダービー

1885

Friar's Balsam

ミドルパークS・デューハーストS・英チャンピオンS・ニューS・ジュライS・モールコームS・リッチモンドS

1886

Seclusion

コロネーションS・モールコームS

1887

Alicante

サラマンドル賞・フォレ賞・ロワイヤルオーク賞・ビエナル賞・ノアイユ賞・ケンブリッジシャーH

1887

Heaume

仏2000ギニー・仏ダービー・チャレンジS

1887

Heresy

コロネーションS

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