アメリカンエクリプス

和名:アメリカンエクリプス

英名:American Eclipse

1814年生

栗毛

父:デュロック

母:ミラーズダムセル

母父:メッセンジャー

代理南北戦争の様相を呈したサーヘンリーとの世紀のマッチレースに勝利するなど8戦全勝の成績を誇った米国競馬黎明期の歴史的名馬

競走成績:4~9歳時に米で走り通算成績8戦8勝

誕生からデビュー前まで

1814年5月25日、米国ニューヨーク州ロングアイランドにおいて、ナサニエル・コールス将軍により生産・所有・調教された。本来の馬名は「エクリプス」である。これは、本馬の祖母の父の父でもある18世紀英国の歴史的名馬エクリプスの名前そのままであり、本馬の能力がエクリプスに匹敵するほど高くなることを期待して命名された。しかし「エクリプス」ではオリジナルの馬と区別できないため、今日では一般的に「アメリカンエクリプス」と呼ばれるようになっている。

成長後の体高は15.1ハンドで、今日の基準に照らせばかなり低いが、19世紀初頭の米国の基準と比べると平均的だったと思われる。ちなみにオリジナルのエクリプスは体高16ハンドを誇る大柄な馬だったという説が以前は一般的だったが、最近の研究により本馬と同程度の15.2ハンドだったという説が有力となっている。毛色も同じ栗毛であるし、本馬とオリジナルのエクリプスはよく似ていたのかもしれない。

コールス将軍は3歳になった本馬に対して9週間の調教を施したが、この年はレースに出さず、翌4歳になってから競馬場に送り出した。

競走生活(4・5歳時)

本馬の現役当時は、距離3~4マイルのレースに同じ馬同士が一日に複数回出て、最初に二度1着となった馬が勝利馬になるという、ヒート競走という形式が一般的だった。本馬の最初のレースもヒート競走であり、4歳春にニューヨーク州ニューマーケット競馬場で行われた距離3マイルのレースだった。そしてブラックアイドスーザン、シーガルという2頭の馬相手に難なく勝利を収めた。4歳時はこの1戦のみだった。

5歳になった本馬をコールス将軍はコーネリアス・ヴァンランスト氏に売却した。売却価格は3千ドルであり、前年のヒート競走に勝って得た賞金300ドルの10倍だった。ヴァンランスト氏の所有馬となった本馬は、まず距離4マイルのヒート競走に出走。リトルジョン、ボンズエクリプス、ジェームズフィッツジェームズといった馬達を蹴散らして勝利した。10月には再び距離4マイルのヒート競走に出て、リトルジョンを破って勝利した。

5歳時の成績は2戦2勝で、この年に稼いだ賞金は1000ドルだった。購入金額にはまだ達していなかったが、本馬はこの5歳限りでいったん競走馬を引退して、種付け料12.5ドルで種牡馬入りした。何故かというと、ニューヨーク州における競馬が一時的に中止されたためだった。その理由は後の1908年にニューヨーク州において成立した賭博禁止法のような反賭博を目的とするものではなく、むしろ逆だった。当時のニューヨーク州の競馬場は整備状態が悪かった。その状況を是正するために一時的に競馬の開催を中止して、ロングアイランドに新しい競馬場を作る事になったのである。そして本馬が7歳時の1821年になって、ユニオン競馬場という名前の競馬場が完成した。これは世界で初めてとなるダートコースのみの競馬場だった。ユニオン競馬場の初代代表者に就任したジョン・コックス・スティーブンス氏は観客誘致のために、本馬を現役復帰させるようにヴァンランスト氏に依頼した。ヴァンランスト氏がそれを承諾したため、本馬は3年ぶりに競馬場に戻ってくることになった。

競走生活(7・8歳時)

スティーブンス氏は、31勝を挙げて当時の米国競馬における最高の名牝として知られていた2歳年上のレディライトフットと本馬を戦わせる企画を考えていた。そして迎えたレディライトフットとの対戦の舞台となった距離4マイルのヒート競走(他にも出走馬がおり、マッチレースではない)。第1戦目は本馬が2着レディライトフットに2馬身差をつけて勝利した。第2戦目はレディライトフット以外の対戦相手が全て回避したため、これは本馬とレディライトフットのマッチレースとなった。結果は本馬がレディライトフットに1ハロン差(3mを1馬身として計算すると67馬身差に相当する)をつけて勝利を収め、2連勝で勝ち馬となった。ちなみにレディライトフットは11歳まで走って40勝を挙げたとも言われており、米国競馬の殿堂入りをしていてもおかしくない馬なのだが、2015年現在においては殿堂入りしていない。本馬の7歳時はこの1戦のみだった。

8歳時はまず距離4マイルのヒート競走に出て、当時のトップホースとして知られていた無敗馬サーウォルターを破って容易に勝利した。秋にはサーウォルターが再び本馬に挑んできたが、このヒート競走も本馬が簡単に2連勝して勝利した。

その後、ヴァージニア州の馬主ジェームズ・J・ハリソン氏が20勝を挙げていた自身の所有馬サーチャールズと本馬とのマッチレースを申し出てきた。最初に企画された2頭のマッチレースはサーチャールズが調教中に負傷したために流れたが、その後の1822年11月20日に5千ドルを賭けた本馬とサーチャールズのマッチレースがワシントンDCで実施された。このレースは珍しくヒート競走ではなく一発勝負の競走だった。しかしサーチャールズがレース中に脚を痛めてしまったこともあり、本馬が容易に勝利を収めた。8歳時の成績は3戦全勝だった。

サーヘンリーとの代理南北戦争

さて、米国南部の州に属するヴァージニア州のサーチャールズが、米国北部の州に属するニューヨーク州の本馬に負けたのを耳にした、「競馬場のナポレオン皇帝」ことウィリアム・R・ジョンソン大佐を含む南部の州の馬主達は本馬に対する敵意を抱いた。そして彼等は米国ジョッキークラブの会合においてユニオン競馬場の代表者スティーブンス氏と会った際に、南部の代表として選出する馬と本馬のマッチレースを行いたい旨を伝え、その舞台を整えるようにスティーブンス氏に要望した。その舞台は翌1823年の春に設定されることになり、負けた方が勝った方に2万ドルという当時としてはとんでもない大金を支払う内容となった。この段階では本馬と対戦する馬は決まっていなかった。マッチレースの条件の1つに、レース直前まで対戦相手の名前を明らかにしないという条項が含まれていたのである。その目的は、直前まで対戦相手を明らかにしないことにより、本馬陣営が対策を立てづらくする事にもあったが、マッチレースの開催まで半年間あったため、その間にじっくりと最良の馬を選定する事にもあった。マッチレースの開催が決定するとすぐさまジョンソン大佐達は代表馬の選定作業に入った。5頭の馬が候補として挙がったが、その中から最終的に本馬より5歳年下の牡馬サーヘンリー(Sir Henry。“Sir”を付さずに単に“Henry”と表記されている場合も多い)が南部の代表として選ばれた。

そして1823年5月27日、ユニオン競馬場において本馬とサーヘンリーのマッチレース(距離4マイルのヒート競走)が実施された。この年はアメリカ南北戦争が勃発する1861年より38年も前だったが、この時点において既に奴隷制の是非を巡って北部の州と南部の州の意見の相違が表面化しており、双方の対立が激しくなりつつあった。そのためにこのマッチレースは、北部の代表馬である本馬と南部の代表馬であるサーヘンリーによる、代理南北戦争の様相を呈した。当時の米国史上における最大級のスポーツの祭典として喧伝されたため、レース当日のユニオン競馬場には6万人もの大観衆が詰めかけた。当時の米国副大統領ダニエル・トンプキンズ氏や、この6年後に第7代米国大統領に就任するアンドリュー・ジャクソン氏を始めとする多くの米国の政治家達が、当日予定されていた会議を延期させてユニオン競馬場にやってきた。日頃は競馬に興味を持たない一般の人も、このレースにお金や財産を賭けていた。レースの経過を迅速にニューヨーク市民に伝えるために、ニューヨーク市の各場所には信号係が配置された。本馬が勝った場合は白旗、サーヘンリーが勝った場合は黒旗を揚げることになっていた(レースが実施された場所が南部の州であれば白旗と黒旗は逆になっていただろう)。4歳馬であるサーヘンリーの斤量は108ポンド、9歳馬である本馬の斤量は126ポンドに設定されていた。

第1戦では、サーヘンリーが先行して、1馬身半ほど後方を本馬が追撃する展開となった。そして勝負どころで本馬鞍上のウィリアム・クラフト騎手が仕掛けたのだが、その仕掛け方は、本馬を手で追うのを放棄してひたすら鞭と拍車を打ち続けるというものだった。クラフト騎手があまりにも鞭と拍車に気を取られたために、彼の身体は鞍から半分はみ出しており、手綱からも手を放してしまっていた。人馬一体になれなかったために本馬の加速は付かず、結局サーヘンリーが1馬身差をつけて7分37秒5という当時の全米レコードタイムで逃げ切った。クラフト騎手はレース前から本馬に対して厳しく接していたようで、レース前の状況は、サーヘンリーが比較的落ち着いていたのに対して、本馬はかなり焦らついていた。当時の競馬雑誌“An Old Turfman”は、このレースにおけるクラフト騎手の騎乗ぶりを「エクリプスの騎手としてはあまりにも無能だった」と酷評している。第1戦で本馬が敗れ、市内に黒旗が次々に翻ったのを見たニューヨーク市民はパニックを起こし、ニューヨーク証券取引所(1792年開設)の株価が一気に下落したほどだった。

30分の休憩の後、第2戦が開始された。第1戦であまりにも鞭と拍車を打たれた本馬は出血していた(陰嚢までも引き裂かれていたというから酷い話である)のに対して、鞭と拍車を1回も打たれなかったサーヘンリー(そもそもサーヘンリー鞍上のウィリアム・ジョンソン騎手は鞭と拍車を所持していなかった)はぴんぴんしており、本馬の単勝オッズは跳ね上がった。第1戦で駄騎乗をしたクラフト騎手は当然のように本馬から降ろされ、以前に本馬に騎乗した経験があったサミュエル・パーディー騎手が代わりに騎乗した。パーディー騎手は実は既に騎手を引退していた身だったのだが、クラフト騎手に代わって本馬に乗るように打診されると、喜んでそれを承諾したという。この第2戦でもサーヘンリーが先行して、本馬が後方を追いかける展開となった。最初の3マイルを通過するまではそのままの態勢だったが、4マイル目に入った直後にパーディー騎手は本馬に合図を送った。その仕掛け方はクラフト騎手のそれとは正反対であり、傷ついた本馬を優しく労わりながらも気合を入れるというものだった。すると本馬は徐々に加速してサーヘンリーとの差を詰めていった。そしてゴール前でサーヘンリーを内側からかわすと、2馬身差をつけて勝利した。この時の様子を“An Old Turfman”は「(本馬が第2戦を勝ったのを見届けた)観衆達は場内になだれ込み、雄叫びを上げながら、手を叩き、ハンカチを振って、喜びをあらわにしていた」と描写している。

これで対戦成績は1勝1敗となり、次の第3戦で勝敗が決する事になった。サーヘンリー陣営は鞍上をアーサー・テイラー騎手に交代させていた。テイラー騎手は調教師兼騎手であり、その経験と実績は当時の誰も比肩する事が出来ないほどの名調教師兼名騎手だった。一方、本馬の鞍上は引き続きパーディー騎手だった。テイラー騎手はレース前に、本馬を先に行かせるようにという指示を受けていた。そのためにレースは過去2戦と異なり、本馬が先行して、サーヘンリーが追いかける展開となった。しかしサーヘンリー陣営の作戦変更を事前に察知していたパーディー騎手は慌てなかった。そしてサーヘンリーが仕掛けて本馬に迫ろうとしたのを見計らってから、本馬に合図を送った。するとサーヘンリーは後方に置き去りにされ、そのまま本馬が3馬身差をつけて先頭でゴールイン。この結果はすぐに白旗でニューヨーク市内に伝達され、ニューヨーク証券取引所の株価は瞬く間に元通りに回復した。

北部の州の人達は本馬の勝利に大きく沸き上がったが、南部の州の人達は正反対だった。自分が所有していた農園を賭けの対象として注ぎ込んでいたために、サーヘンリーの敗北を聞いてすぐに自殺した人もいた。サーヘンリー陣営は即座に再戦を申し込んだが、ユニオン競馬場の代表者スティーブンス氏の仲裁によりその申し出は却下された。本馬はその競走馬生活におけるハイライトと言えるこのマッチレースを最後に競馬場を去り、二度とレースに出ることは無かった。通算成績は8戦全勝で、サーヘンリーとのマッチレース第1戦で敗れた以外に他馬に後れを取ったことは無かった。

本馬は決して優雅で軽快な速度の持ち主ではなかったが、その力強さ、持久力、闘争心は卓越しており、ニューヨーク市民の誇りだった。当時は、北部の馬は力強さと持久力が、南部の馬は速度が長所だと言われていた。その理由は、当時のニューヨーク州を始めとする北部の州は、道路の整備などのために馬力がある馬を必要としていたからだった。本馬の存在は、その競走馬としての個性と言い、南部の馬を撃破した事と言い、当時の北部の州の風潮をそのまま体現化したものだったと言われている。別に本馬とサーヘンリーが戦わなくても、南北戦争の勃発は避けられなかっただろうが、2頭のマッチレースが南北分断にある程度の追い打ちをかけたのはどうやら事実のようである(本馬やサーヘンリーには何の責もないが)。その点においても、本馬は19世紀初頭の米国を代表する馬であると言えるのである。

血統

Duroc Diomed Florizel Herod Tartar
Cypron
Cygnet Mare Cygnet
Young Cartouch Mare
Sister to Juno Spectator Crab
Partner Mare
Horatia Blank
Sister One to Steady
Amanda Tayloes Grey Diomed Medley Gimcrack
Arminda
Sloe Mare Sloe
Vampire Mare
Virginia Cade Mare Virginia Cade Lightfoot's Partner
Kitty Fisher
Independence Mare Hickman's Independence
Lonsdale Mare
Miller's Damsel Messenger Mambrino Engineer Sampson
Young Greyhound Mare
Cade Mare Cade
Little John Mare 
Turf Mare Turf Matchem
Starling Mare 
Regulus Mare Regulus
Starling Mare
Sister to Timidity Pot-8-o's Eclipse Marske
Spilletta
Sportsmistress Sportsman
Golden Locks
Gimcrack Mare Gimcrack Cripple
Miss Elliott
Snapdragon Snap
Regulus Mare

父デュロックは、第1回の英ダービー優勝馬にして種牡馬として米国競馬史に大きな足跡を刻んだダイオメドの産駒。

母ミラーズダムセルはあまり詳しい競走成績は残っていないのだが、相当な実力馬だったようで、“Queen of the Northern Turf(米国北部の州における競馬場の女王)”とまで呼ばれた馬だった。ミラーズダムセルの4代母レギュラスメアは、その全妹ミスベルセアと共に所謂ファミリーナンバー3号族の根幹繁殖牝馬となった馬である。また、レギュラスメアの半姉ミッジの曾孫には種牡馬として大成功した英ダービー馬サーピーターティーズルがいる。同じ牝系からは数々の活躍馬が登場する事になるが、ここでそれら全てに関して触れるのは多大な労力を費やすので、ミラーズダムセルの祖母ジムクラックメアの半姉ラリティの牝系子孫から登場した主だった馬だけを掲載する事にする(それならかなり絞り込める)。ラリティの牝系子孫から出た主な馬は、英国牝馬三冠馬ハンナ、英ダービー馬ファヴォニウス、北米首位種牡馬2回のチャンスプレイ、英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSなどの勝ち馬ティーノソ、ケンタッキーオークス馬ティファニーラス、エクリプス賞最優秀古馬牝馬2回のパセアナ、英ダービー馬サーパーシー、ドバイワールドCの勝ち馬プリンスビショップ、阪神ジュベナイルフィリーズの勝ち馬ヤマニンシュクル、秋華賞馬ブラックエンブレムといった辺りである。→牝系:F3号族①

母父メッセンジャーは当馬の項を参照。祖母の父はポテイトウズであり、その父は本馬の名の由来となったエクリプスである。

競走馬引退後

競走馬を完全に引退した本馬は、ジョン・スネデカー氏という人物がニューヨーク州に所有していた牧場で本格的な種牡馬生活に入った。現役復帰前にいったん種牡馬入りしていた時期の種付け料は12.5ドルだったが、この時期の種付け料は75~100ドルまで跳ね上がっていた。しかし本馬の産駒は競走馬としてよりも労働力として活用される場合が多かった(その理由は前述したように、北部の州は馬力がある馬を労働力として必要としていたためである)。そのために北米首位種牡馬になる事はなかった。それでも競走馬になった産駒は活躍しており、種牡馬としての能力を示すことは出来た。

後にウォルター・リビングストン氏により8050ドルで購入された後もニューヨーク州にいたが、1833年にかつて本馬と対戦経験があるサーチャールズの所有馬ハリソン氏により購入されて、ヴァージニア州に移り住んだ。実はサーチャールズは種牡馬として大きな成功を収めており、この1833年まで4年連続で北米首位種牡馬に輝いていた(後の1836年に5度目の北米首位種牡馬を獲得)のだが、この1833年に他界しており、代わりの種牡馬を求めたハリソン氏が本馬に目をつけたのだった。しかしその後に再び転売され、メリーランド州を経て1837年にケンタッキー州にやって来た。さらに1839年にはジェームズ・スワンソン氏という人物がテネシー州に所有する牧場に移動。1841年にはA・ホワイトロック氏という人物がアラバマ州に所有する牧場に移動。さらにその後にエドワード・M・ブラックバーン大佐という人物に購入されて再びケンタッキー州に戻ってきた。その後はジルソン・イェーツ氏という人物の所有馬となり、1847年8月にケンタッキー州において他界。当時としては異例とも言える33歳の高齢だった。

その123年後の1970年に米国競馬の殿堂入りを果たした。2015年現在、米国顕彰馬の中で本馬は1805年生まれのサーアーチー(本馬と戦ったサーチャールズ、レディライトフット、サーヘンリー達の父である)に次いで2番目に生年が古い馬である。本馬の主な産駒は、57戦42勝の成績を残した女傑アリエル、11勝を挙げたブラックマリア(その母は本馬と対戦経験があるレディライトフット)、1840・41年と2度の北米首位種牡馬になったメドックがいる。

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