マッチェム

和名:マッチェム

英名:Matchem

1748年生

鹿毛

父:ケード

母:パートナーメア

母父:パートナー

ゴドルフィンアラビアンの孫として、その直系を現代まで伝える事に成功した18世紀の名競走馬にして大種牡馬

競走成績:5~11歳時に英で走り通算成績12戦10勝2着2回

サラブレッド三大始祖の1頭ゴドルフィンアラビアンの直系の孫で、ゴドルフィンアラビアンの直系が現在まで続く長寿血統となる事が出来た最大の功労馬。エクリプスヘロドとともに、サラブレッドという種を形成した存在であるが、その3頭の中でも生年は最も早かった。

誕生からデビュー前まで

スコットランドとの国境にあるイングランドはカンバーランドにある町カーライルにおいて、ジョン・ホームズ氏という人物により生産された。後にウィリアム・フェンウィック氏に購入され、フェンウィック氏がノーサンバーランド州のバイウェルに所有していた牧場に移動した。フェンウィック氏は米国サウスカロライナ州にある有名な農園邸宅フェンウィックホール(当時の名前はジョンアイランドスタッド)の創設者一族であり、本馬の1歳年上の全兄に当たるチェンジリングも所有していた馬主だった。

本馬は強靭な肉体と骨格の持ち主ではあったが、体高は約14.75ハンド(14ハンド3インチ)程度で、サラブレッドという品種がまだ確立していない当時としてもかなり背が低い馬だった。15.1ハンドだったと記載されている資料もあるが、いずれにしてもあまり大きい馬ではなかったのは間違いないようである。実はエクリプスも当時の標準と比べても小柄な馬だったというのは最近の研究により確実視されているのだが、それでも研究結果によるとエクリプスの体高は15.2ハンドだったというから、本馬はそれよりもさらに背が低かった。その反面、胴体は長かったため、あまり均整が取れた馬格の持ち主ではなかったと評されていた。成長も遅かったため、レースに使われ出したのは5歳からだった(もっとも当時としては一般的なデビュー年齢だった)。

競走生活(5~8歳時)

最初のレースは8月にヨーク競馬場で行われた距離4マイルのグレートサブスクリプションパースだった。3頭立てで単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された本馬は、クリストファー・ジャクソン騎手を鞍上に、バーフォースビリーとボールドの2頭を蹴散らして勝利した。この年にはモーペス競馬場で50ポンド競走にも出走して、これもブレイムレス以下に勝利した。

翌6歳時は8月にヨーク競馬場でグレートサブスクリプションパースに出るはずだったが、対戦相手がいなかったために本馬の勝利という扱いになった。その直後には同じヨーク競馬場で距離4マイルのヒート競走レディーズプレートに出て勝利。さらにリンカーン競馬場でも距離4マイルのヒート競走レディーズプレートに出て勝利した。

7歳時は4月にニューマーケット競馬場で距離4マイル1.5ハロンの競走に参戦。このレースには当時の英国トップホースだったトラジャンなど3頭が本馬に前に立ち塞がったが、単勝オッズ1.71倍の1番人気に支持された本馬が、7分20秒という非常に速い走破タイムで勝利した。このレース後にトラジャン陣営が、トラジャンの体調が悪かったために敗北したと主張したため、本馬とトラジャンのマッチレースが翌年4月に同じコースで組まれる事になった。本馬はその再戦まで全くレースに出なかったわけではなく、7歳8月にヨーク競馬場で行われたオープン競走に出走して勝利(対戦相手がいたという記録が無いため単走だった可能性あり)。

そして翌8歳4月にトラジャンとのマッチレースに挑んだ。ジョン・シングルトン騎手が騎乗した単勝オッズ1.5倍の本馬は、トラジャンを易々と返り討ちにして、本馬の方が実力上位である事を証明し、当時の最強馬としての地位を確立した。しかしその直後にニューマーケット競馬場で出走したジョッキークラブプレートでは、スペクテイターの2着(正確にはヒート競走を3回走ってスペクテイターが2勝、本馬が1勝だった)に敗れて初黒星を喫した。それでもニューカッスル競馬場で出走した60ギニープレートでは、ドローカンサー、フルムーンの2頭の対戦相手を破って勝利した。

競走生活(10歳時)

体調を崩してしまったために9歳時には1回もレースに出なかったが、10歳になって実戦に復帰。4月には再びニューマーケット競馬場でジョッキークラブプレートに出走した。このレースは5頭立てであり、体調不良が囁かれていた本馬は単勝オッズ11倍の低評価だった。そして結果もミルザの2着に敗れてしまった。しかし同年9月にスカボロー競馬場で出た50ポンド競走では、やはり単勝オッズ11倍の低評価ながらも、フォックスハンター、スウィートリップスの2頭の対戦相手を下して勝利。これが公式記録に残る本馬最後のレースである。なお、本馬はこの10歳時から種牡馬活動を開始しており、この年は競走馬と種牡馬の二足の草鞋を履いていた。

本馬の競走成績に関しては、資料によって出走レースの施行時期が異なっている部分こそある(6歳時はグレートサブスクリプションパースより先にレディーズプレートに出ているなど)が、5歳から10歳まで走って12戦10勝という点では全ての資料で一致している。騎乗した騎手名や単勝オッズが残っているレースも幾つかある事から、正確な競走成績が不明瞭なことが多い当時の競走馬としては、比較的記録がはっきりしているほうである。本馬が種牡馬として出した産駒は豊富なスタミナと優れた気性が長所だったと評されたが、その長所は本馬自身が有していたものであり、その気性の良さに裏付けされたスタミナ能力は比類するものがないと評された。

血統

Cade Godolphin Arabian ? ? ?
?
? ?
?
? ? ?
?
? ?
?
Roxana Bald Galloway St.Victor's Barb  ?
?
Grey Whynot Whynot 
Royal Mare
Sister to Chaunter  Akaster Turk  ?
?
Cream Cheeks Leedes Arabian
Spanker Mare
Partner Mare Croft's Partner Jigg Byerley Turk ?
?
Spanker Mare Spanker
Old Morocco Mare 
Sister One to Mixbury Curwen Bay Barb  ?
?
Curwen Spot Mare Curwens Old Spot 
Lowther Barb Mare 
Brown Farewell Makeless Oglethope Arabian  D'Arcy's Yellow Turk 
?
? ?
?
Brimmer Mare Brimmer D'Arcy's Yellow Turk 
Darcy Royal Mare 
Trumpet's Dam Places White Turk 
Dodsworth Mare

父ケードはゴドルフィンアラビアンの直子。ケードの母ロクサーナは、ゴドルフィンアラビアンがホブゴブリンと取り合いになったという逸話で知られている。ロクサーナはゴドルフィンアラビアンとの間に、まずラス(スクワートなどの同世代の強豪を寄せ付けず、フライングチルダース以来の名馬と呼ばれた)を産み、その2年後にケードを産んだ。しかしロクサーナはケードを産んで間もなく他界してしまい、ケードは人の手で育てられたという。競走馬としては兄ラスほどではないが、キングズプレートを勝つなど優秀な成績を収めたという。種牡馬としては兄ラスを上回る活躍を見せ、1752・53・58・59・60年と5度の英首位種牡馬を獲得している。

母パートナーメアの競走馬としての経歴は不明。母としては本馬の全兄チェンジリングを産んでいる。チェンジリングは詳細な競走成績は不明だが種牡馬入りはしており、直系孫世代以降に英セントレジャー馬ブルボン、ドンカスターC・グッドウッドC2回の勝ち馬フルールドリスなどが出たが、直系を伸ばす事は出来なかった。パートナーメアの牝系子孫は全く残っていないが、パートナーメアの半姉グレイハウンドメア(父グレイハウンド)やパートナーメアの全姉ミスパートナーの牝系子孫は今も残っている。

このうち、グレイハウンドメアの牝系子孫は、現在世界競馬界で3番目に多いと言われている所謂ファミリーナンバー4号族の大半を占めており、とてもここにその全てを列挙することは出来ない。非常に厳選した代表馬の名前だけ挙げると、マンノウォーネアルコリボーブライアンズタイムドバイミレニアム、タイキシャトル、テイエムオペラオーといった辺りで、他にこの名馬列伝集に独立した項目がある馬も山のようにいる。

ミスパートナーの牝系子孫も今世紀まで残っているが、グレイハウンドメアに比べるとかなり活躍馬の数が少ない。この名馬列伝集に独立した項目がある馬は北米首位種牡馬にも輝いたベルモントSの勝ち馬ザフィンのみである。

あと、パートナーメアの全姉パートナーメア(同じ名前なのではなく両方「パートナーの牝駒」という無名馬である)の牝系子孫からも何頭かの活躍馬が出たが、こちらは20世紀初頭にはほぼ断絶してしまったようである。→牝系:F4号族⑤

母父パートナーはヘロドの祖父に当たるので、詳細はヘロドの項を参照。

競走馬引退後

前述のとおり、本馬は現役中の10歳頃から既に種付けを行っていたが、引退後の11歳時から本格的にフェンウィック氏がバイウェルに所有していた牧場で種牡馬生活に入った。本馬の種牡馬成績は素晴らしく、当時最高クラスの種牡馬として君臨した。英首位種牡馬は1972・73・74年と3度獲得している。勝ち上がった産駒数は354頭で、18世紀当時としてはヘロドの497頭に次ぐ第2位で、エクリプスの344頭よりも多かった。

本馬の産駒は、頑健で気性が良くスタミナに優れていた。そのため、当時の畜産家の間では“Snap for speed, and Matchem for truth and daylight(スピードのスナップ、誠実で明るいマッチェム)”という格言がよく知られていた(スナップはフライングチルダースの直系孫で、4度の英首位種牡馬に輝いた名種牡馬)。

本馬の産駒には、尻尾の付け根当たりに2~3の白い斑点が生じるという特徴があった。これは“Matchem arms(マッチェムの紋章)”と呼ばれ、本馬の孫世代以降にもしばしば発現し、そのときは“coon tail(アライグマの尾)”と呼ばれた。本馬の毛色は明らかに鹿毛だったが、活躍する産駒には不思議と栗毛馬が多かった。こうした毛色の特徴は、本馬は栗毛を発現させる遺伝子の影響力が強かった事を示している(同じ鹿毛馬でも、栗毛を発現させる遺伝子を持たない馬の産駒からは栗毛馬は出ない)。1781年2月21日に33歳の高齢で他界したが、死の直前まで現役種牡馬として活躍した。代表産駒の1頭テトータムの英オークス制覇は本馬の死の前年1780年であり、晩年になっても質が高い産駒を送り出していたことが分かる。

後世に与えた影響

本馬の直系は、本馬の直後に出現したヘロドの系統に押されて大規模な発展はできなかった。しかし産駒のコンダクターから、トランペッター、ソーサラー、コーマス、ハンフリークリンカー、メルボルン、ウエストオーストラリアンへと続いた直系は、史上初の英国三冠馬ウエストオーストラリアンからマンノウォーの系統とハリーオンの系統に分岐して、21世紀現代までしぶとく生き残っている。また、本馬の産駒マグナムボナムの子オールドレターの直系は、サラブレッドとしてではなくトロッターとしてではあるが、現在も仏国で大きな勢力を保っている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1773

Magnum Bonum

ドンカスターC

1773

Magog

ジョッキークラブプレート

1775

Hollandaise

英セントレジャー

1777

Tetotum

英オークス

TOP