和名:ナイスダンサー |
英名:Nice Dancer |
1969年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ノーザンダンサー |
母:ナイスプリンセス |
母父:ルボープリンス |
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個性的な産駒を多く出し、日本に種牡馬として輸入されたノーザンダンサー直子としてはノーザンテーストに次ぐ成績を収めた加最優秀3歳牡馬 |
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競走成績:2~4歳時に加米で走り通算成績20戦10勝2着2回3着3回 |
誕生からデビュー前まで
ディーン・アルファンジュ氏という人物(同姓同名の米国の著名な政治家と同一人物かどうかは不明)により、加国オンタリオ州において生産された。加国が生んだ世界的大種牡馬ノーザンダンサーが、加国ウインドフィールズ牧場で繋養されていた時期の最終世代の産駒(父は、本馬が産まれる直前に米国のウインドフィールズ牧場メリーランド支場に移動している)でもある。
成長した本馬は、加国の実業家ディック・ボニーキャッスル氏の所有馬となった。ディック・ボニーキャッスル氏は加国のトロントに本社を置く出版社ハーレクイン・エンタープライズ社の創業者リチャード・ボニーキャッスル氏の息子であり、大学卒業後に父の会社に入った。ハーレクイン・エンタープライズ社を恋愛小説専門の出版社とした父が1968年に死去すると、後を継いで社長に就任していた。その後には世界的に事業を展開し、ハーレクイン・エンタープライズ社を世界で最も有名な恋愛小説出版社に育て上げることになる。ディック・ボニーキャッスル氏の先祖ダーシー・ボルトン氏は加国競馬黎明期において競馬の発展に貢献した人物だったため、彼もまた競馬に興味を抱くようになった(後に加国ジョッキークラブの委員長にも就任)。そして彼が馬主生活の初期に所有した代表馬が本馬である。
ディック・ボニーキャッスル氏の馬主名義ハーレクイン牧場と、ディック・ボニーキャッスル氏の知人トム・モートン氏の共同名義となった本馬は、加国のジェリー・G・ラヴィーニュ調教師に預けられた。主戦は米国と加国の両国で殿堂入りしている名手サンディ・ホーリー騎手だった。
競走生活
2歳時は北米を大寒波が襲ったため、無理使いされずに2戦未勝利、3着が1回という成績に終わった。
3歳時は初戦のダート6ハロンの未勝利戦で初勝利を挙げた。2戦目は敗れたが、3戦目の芝8ハロンの一般競走で2勝目をマークした。その後はダートの一般競走で7馬身差、続くダートの一般競走も4馬身差と、2戦連続圧勝して注目を集めた。7月にアッシニボイア競馬場で出走したマニトバダービー(D9F)では、前月に行われた加国三冠競走第1戦クイーンズプレートを勝ってきたコロネーションフューチュリティ・カップ&ソーサーS2着馬ヴィクトリアソングを2着に破って勝利を収めた。翌8月にフォートエリー競馬場で出走したアチーヴメントH(D8.5F)では、ヴィクトリアソングを今度は3着に破って勝利を収めた。
そして満を持して加国三冠競走第2戦の加プリンスオブウェールズS(D9.5F)に向かった。しかしカップ&ソーサーS・トロントカップH・加国際Hを勝っていたプレジディアルだけでなく、ヴィクトリアソングにも負けてしまい、プレジディアルの3着に終わった。それから15日後にはウッドバイン競馬場に赴き、RSマクラフリン大佐H(D9.5F・現オンタリオダービー)に出走。ここでは1分56秒4のコースレコードを計時して、米国から来たウエストヴァージニアダービー馬ボールドノーブルマン、ラークスパーSの勝ち馬バックストッパーを破って勝利した。
そしてそれからちょうど2週間後の10月1日に行われた加国三冠競走最終戦ブリーダーズS(T12F)に参戦した。ここでは12ハロンの距離をものともせずに果敢に逃げて、プレジディアルを2着に抑えて逃げ切り優勝した。3歳時の成績は12戦8勝3着2回で、この年の加最優秀3歳牡馬に選ばれた。
翌年も現役を続け、6月にウッドバイン競馬場でエクリプスH(D8.5F)に出走したが、ここではトゥワイスラッキーの2着に敗れた。しかしちょうど1か月後にウッドバイン競馬場で出走したドミニオンデイH(加GⅢ・D9F)では、トゥワイスラッキーを3着に破り、1分48秒4のコースレコードを計時して勝利した。それから13日後に出走した加マチュアリティS(T10F)では、ヴィクトリアS・ヴァンダルS・コロネーションフューチュリティ・ケベックダービーの勝ち馬でクイーンズプレート3着のジェントルマンコンを3着に破って勝利。4歳時を6戦2勝2着2回の成績を残して競走馬を引退した。
血統
Northern Dancer | Nearctic | Nearco | Pharos | Phalaris |
Scapa Flow | ||||
Nogara | Havresac | |||
Catnip | ||||
Lady Angela | Hyperion | Gainsborough | ||
Selene | ||||
Sister Sarah | Abbots Trace | |||
Sarita | ||||
Natalma | Native Dancer | Polynesian | Unbreakable | |
Black Polly | ||||
Geisha | Discovery | |||
Miyako | ||||
Almahmoud | Mahmoud | Blenheim | ||
Mah Mahal | ||||
Arbitrator | Peace Chance | |||
Mother Goose | ||||
Nice Princess | Le Beau Prince | Fontenay | Tornado | Tourbillon |
Roseola | ||||
Flying Colours | Massine | |||
Red Flame | ||||
Quillerie | Sultan Mahomed | Massine | ||
Rollybuchy | ||||
Hotep Heres | Cadum | |||
Reine Mab | ||||
Happy Night | Alizier | Teleferique | Bacteriophage | |
Beaute de Neige | ||||
Alizarine | Coronach | |||
Armoise | ||||
Happy Grace | His Grace | Blandford | ||
Malva | ||||
Happy Morn | D'Orsay | |||
Cicely |
父ノーザンダンサーは当馬の項を参照。
母ナイスプリンセスは米国産馬で、現役時代に30戦してニューヨークブリーダーズフューチュリティなど4勝を挙げた。本馬の半妹ミスアトラクティヴ(父ヴィクトリアパーク)の子には本邦輸入種牡馬パークリージェント【カップ&ソーサーS】が、同じく半妹ミドルマーチ(父バックパサー)の子には1994年のソヴリン賞最優秀古馬牝馬ペニーヒルパーク【ターフウェイBCS(米GⅡ)・ピムリコディスタフH(米GⅢ)】がいる。また、ミドルマーチの娘コマーズは繁殖牝馬として日本に輸入され、ゴールデンジャック【桜花賞トライアル四歳牝馬特別(GⅡ)・オークストライアル四歳牝馬特別(GⅡ)・2着優駿牝馬(GⅠ)】とスターリングローズ【JBCスプリント(GⅠ)・かしわ記念(GⅡ)・プロキオンS2回(GⅢ)・シリウスS(GⅢ)・兵庫ゴールドトロフィー(GⅢ)】の姉弟を産んでおり、ミドルマーチ自身も後年日本に繁殖牝馬として輸入された。ゴールデンジャックの子であるサイドワインダー【京阪杯(GⅢ)・京都金杯(GⅢ)・関屋記念(GⅢ)】、ゴールデンミション【中日杯】や、ゴールデンジャックの半姉ジャビラバの孫であるナムラタイタン【武蔵野S(GⅢ)・赤松杯2回・シアンモア記念・みちのく大賞典・北上川大賞典・岩鷲賞・青藍賞】も近親。ナイスプリンセスの祖母ハッピーグレースの半弟にはハッピーナイト【英2000ギニー】がいる。→牝系:F1号族⑦
母父ルボープリンスは仏国産馬で、競走馬としては米国で走り18戦8勝の成績を残した。しかしステークス競走の勝ちは無く、ナラガンセットスペシャルHで2着、ヴォスバーグHで3着した程度であった。ルボープリンスの父フォンテネーは、フォレ賞・ガネー賞・シェーヌ賞の勝ち馬。フォンテネーの父トルネイドはトウルビヨンの直子で、現役時代はリュパン賞・ダリュー賞・ジャンプラ賞・サブロン賞を勝ち、種牡馬としても父の後継の1頭として活躍した。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は5歳時の1974年から加国で種牡馬入りした。この1974年は父ノーザンダンサーの代表産駒の1頭ニジンスキーの初年度産駒がデビューした年でもあった。このニジンスキーに加えて、リファールなどのノーザンダンサー直子種牡馬が世界中で猛威を振るい始めたため、本馬に対しても期待がかけられた。しかしそれほど産駒の成績が上がらなかったため、5年後の1979年に日本に輸入され、同年から日高スタリオンステーションで種牡馬供用された。なお、日本に輸出された後に、フィドルダンサーボーイがクイーンズプレートを制するなど加国に残された産駒が活躍し、最終的に加国では76頭の産駒中9頭がステークスウイナーとなっている。
本馬が日本に輸入された1979年は、社台スタリオンステーションで繋養されていた同じノーザンダンサー直子種牡馬のノーザンテーストの初年度産駒がデビューした年でもあった。ノーザンテーストが種牡馬として大ブレイクするのはもう少し先の話であり、この段階における本馬とノーザンテーストの種牡馬としての評価にはそれほど決定的な差は無かった。初年度である1979年は60頭(同年のノーザンテーストは64頭)、2年目は54頭(同年のノーザンテーストは61頭)の交配数だった。
しかし3年目の1981年はノーザンテーストの初年度産駒アンバーシャダイが有馬記念を勝った年であり、この時期から種牡馬としての評価が開き始めた。本馬のこの年の交配数が55頭だったのに対して、ノーザンテーストは75頭まで増えた。この後にノーザンテーストは押しも押されもしない日本一の種牡馬として君臨する事になるのだが、一方の本馬の人気が落ちたかと言うとそんな事もなかった。1981年は本馬の加国における代表産駒フィドルダンサーボーイがクイーンズプレートを勝った年だったこともあり、ノーザンテーストの種付け料を払えない中小馬産家達からのノーザンテーストの代替種牡馬としての需要が増えた。4年目の1982年の交配数は68頭、5年目は55頭、6年目は71頭、7年目は66頭、8年目は63頭、9年目は61頭、10年目は51頭、11年目は45頭、12年目は48頭、13年目は45頭、14年目も45頭と、かなり後になっても安定して繁殖牝馬を集めた。
1982年にデビューした本馬の産駒成績はノーザンテーストと同じく当初は今ひとつだったが、徐々に実績を積み重ねていった。初年度産駒カルストンダンサーが京都牝馬特別を勝った1984年は全日本種牡馬ランキングで34位となった。1986年にはラグビーボールやシングルロマンなどの活躍により同17位にランクイン。1988年にはダイナブリーズなどの活躍により同16位。1989年にはナイスナイスナイスなどの活躍により同15位。1990年にはナイスナイスナイス、ロングアーチ、ヒカルダンサーなどの活躍により同20位。1991年にはナイスネイチャなどの活躍により自身最高の同12位に入った。このナイスネイチャが3年連続有馬記念で3着に入るなど堅実に走ったために、1992年は同16位、93年は同17位に入り、全日本種牡馬ランキング20位以内に入ること合計7回を数えた。
日本に輸入されたノーザンダンサーの直子種牡馬は本馬やノーザンテーストを含めて29頭いるが、その大半が種牡馬として成功したとは言えず、本馬は日本で種牡馬入りしたノーザンダンサーの直子種牡馬の中ではノーザンテーストに次ぐ好成績を収めたと言える馬である。ただし、産駒はナイスネイチャやラグビーボールに代表されるように、何故か大競走を勝ち切れない傾向があり、結局最後までGⅠ競走勝ち馬の父とはなれなかった。産駒が勝ち切れなかった理由はよく分からない。産駒に勝負根性を伝えなかったからだというのが世間一般の見方なのだろうが、筆者は出世した競走馬は例外なく根性があると確信しており、本当に根性無しの馬はGⅠ競走で勝ち切れない以前に未勝利戦を勝ち上がれないと思っているから、世間一般の見方には否定的である。身も蓋もない書き方をすれば、本馬の交配相手となった繁殖牝馬は量はともかくとして質はあまり高いとは言えなかったから、GⅠ競走を勝つだけの能力を有する産駒を出せなかったというのが本当の理由だろう。
ただし、母父としては名馬トウカイテイオーや東京大賞典を制したアドマイヤボサツなどを出している(やはりGⅠ競走を勝ち切れなかったホワイトストーンの母父でもあるが)。世界的にはBCクラシック2連覇の名馬ティズナウの祖母の父という点が注目されるところであり、種牡馬としても成功しているティズナウの血をひそかに支えている。
産駒は自身と同様に芝とダートを両方こなしており、地方競馬における活躍馬も多く輩出している(ただしこれは本馬を活用した馬産家には中小規模の牧場が多かったためという側面もある)。かなり晩年まで人気種牡馬だった本馬だが、種牡馬生活15年目を迎えた1993年は24歳という年齢もあって交配数が30頭まで減少。翌16年目の交配数は18頭で、その中から11頭の産駒が誕生したが、17年目の1995年は9頭の交配数で、その中から誕生した産駒が僅か2頭に終わった。そのために1996年シーズンは種牡馬活動を行わずに種牡馬を引退。その後は日高スタリオンステーションの近所の育成牧場に勤務していた個人女性に引き取られて余生を送り、翌1997年8月に老衰のため28歳で他界。遺体は牧場近くの山の中に埋葬されたという。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1978 |
Fiddle Dancer Boy |
クイーンズプレート |
1980 |
カルストンダンサー |
京都牝馬特別(GⅢ) |
1980 |
ナイスロード |
金杯(浦和) |
1981 |
セイランレディ |
プリンセス特別(笠松) |
1982 |
キクノダンサー |
平和賞(船橋) |
1982 |
シャルウイダンス |
読売杯(金沢)・農林水産大臣賞典(金沢) |
1982 |
シングルロマン |
京阪杯(GⅢ) |
1982 |
モガミシンドウ |
ジュニアC(札幌) |
1983 |
エイシンフェアリー |
東京障害特別春 |
1983 |
ダイナブリーズ |
ダイヤモンドS(GⅢ) |
1983 |
ダイワウインザー |
端午賞(高崎) |
1983 |
ラグビーボール |
NHK杯(GⅡ)・高松宮杯(GⅡ) |
1984 |
キリナイス |
みちのく賞(上山) |
1984 |
ニッポータイガー |
織姫賞(足利)・足利記念(足利) |
1985 |
ツインビー |
笠松オールカマー(笠松) |
1986 |
ナイスナイスナイス |
京都記念(GⅡ)・きさらぎ賞(GⅢ) |
1986 |
ヒカルダンサー |
牝馬東京タイムズ杯(GⅢ) |
1987 |
スズミッドビル |
しもつけオークス(宇都宮) |
1987 |
ロングアーチ |
中日スポーツ賞四歳S(GⅢ) |
1988 |
ダイジュマル |
珊瑚冠賞(高知) |
1988 |
ナイスネイチャ |
京都新聞杯(GⅡ)・鳴尾記念(GⅡ)・高松宮杯(GⅡ)・小倉記念(GⅢ) |
1988 |
メイショウマリーン |
小倉大賞典(GⅢ) |
1990 |
ナイスムラマサ |
栄城賞(佐賀) |
1993 |
キクノウイン |
東京王冠賞(南関GⅠ)・しらさぎ賞(南関GⅢ)・報知グランプリC(南関GⅢ)・京成盃グランドマイラーズ(南関GⅢ)・船橋記念(南関GⅢ) |