和名:ハンプトン |
英名:Hampton |
1872年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ロードクリフデン |
母:レディーラングデン |
母父:ケトルドラム |
||
デビュー当初は芽が出ず障害競走も走ったが古馬になって英国長距離路線のトップホースに上り詰め、種牡馬としても優秀なスタミナを後世に伝える |
||||
競走成績:2~6歳時に英で走り通算成績33戦19勝2着3回3着1回(障害競走を除く) |
誕生からデビュー前まで
英国の政治家だったロード・ノーレイズこと第6代アビングドン伯爵モンタギュー・バーティー卿が英国オックスフォード近郊に所有していた牧場において、母レディーラングデンの初子として誕生した。父ロードクリフデンは名種牡馬ニューミンスター直子の英セントレジャー馬。母レディーラングデンは不出走馬だが、その父ケトルドラムは英ダービー馬。さらにレディーラングデンの母ハリコットは名繁殖牝馬クイーンメアリーの娘であり、レディーラングデンの半姉コーラーオウは英セントレジャーを勝った名牝という、とても由緒正しい血統の持ち主だった。
競走生活(4歳前半まで)
しかし本馬は成熟するのが遅く、体格が小さかった。そのため全く期待されておらず、バーティー卿の所有馬として2歳時にデビューした当初は名前さえ付けられていない状態だった。デビュー戦の未勝利プレートで初勝利を挙げ、その後2歳10月にサウスウェスタンSというセリングレース(決められた価格が付けば必ず売らなければならない、売却を前提とした下級レース。米国におけるクレーミング競走よりもさらに格下の競走)を勝利し、200ギニーでジェームズ・ナイテンガル氏により購入された。ナイテンガル氏は、本馬が勝ったサウスウェスタンSが施行されたハンプトン競馬場の名前にちなんで、本馬を「ハンプトン」と名付けた。その後ナイテンガル氏は本馬を再度セリングレースに出走させ、本馬はそこでも勝利を挙げたが、価格が安かったため、本馬はナイテンガル氏の所有馬のままだった。2歳シーズン後半にはナーサリーSを2戦したが3着が1回ある程度で、2歳時の成績は5戦3勝だった。翌年の英国クラシック競走云々という事は誰も考えなかった。
3歳になっても本馬の成績は向上せず、この年の英ダービーをガロピンが優勝した頃にも下級レースをうろうろしていた。後に、本馬とガロピンが種牡馬として凌ぎを削る事になるとは誰も予想していなかった。結局3歳時の成績は5戦2勝(ただし障害競走を除く)だったが、2勝のうちの1勝は上級ハンデ競走として知られるエプソム競馬場のグレートメトロポリタンH(T18F)だった。ここでは87ポンドという軽量にも恵まれて、2着テンプルバー(この馬も斤量82ポンドだった)に頭差で勝利している。
3歳後半から4歳前半の時期にかけては障害競走にも参戦した。障害未勝利戦を勝利し、グランドインターナショナルハードルで2着した成績が残っており、障害競走で少なくとも2戦している事は判明しているが、本馬の障害競走における詳細な記録は不明である。なお、この時期に本馬を管理していた調教師のハーヴェイ氏とナイテンガル氏が、本馬の調教方針や費用を巡って諍いを起こし、本馬はロバート・ペック厩舎に転厩している。さらにこの後に、本馬の所有者もナイテンガル氏から、第三者を経て、四番目の馬主フレッド・G・ホブスン氏に変わった。
競走生活(4歳後半)
新たに本馬を管理することになったペック師は優秀な調教師であり、1873年にはドンカスターで英ダービーを、メアリーステュアートで英オークスや英セントレジャーを制するなどの実績を有していた。そのため、ペック厩舎には優れた馬が多くおり、本馬はそれらの馬との併せ馬調教で鍛えられ、徐々に素質を開花させていった。
ホブスン氏とペック師は本馬を6月にグッドウッド競馬場で行われたグッドウッドS(T20F)に参戦させた。本馬は108ポンドという軽量にも恵まれて、2着モーダンに3/4馬身差で勝利を収めた。4歳時はその後にドンカスターC(T18F)・シザレウィッチH(T18F)と2戦した。しかし前者は、同世代の英セントレジャー・セントジェームズパレスS・モールコームSの勝ち馬でアスコット金杯2着のクレイグミラー、リンカンシャーH・リヴァプールサマーCの勝ち馬コントロヴァーシー、グレートヨークシャーHの勝ち馬ベルサリエリの3頭に屈して、クレイグミラーの4着。後者もローズベリーの4着に敗れた。
本馬が4歳時の1876年は父ロードクリフデンが英2000ギニー・英セントレジャーを制したペトラークの活躍により英首位種牡馬になっているのだが、本馬は父のタイトル獲得にあまり貢献できなかった。しかし、ホブスン氏とペック師はまだ本馬が真価を発揮していないと確信しており、オフシーズンの冬場に本馬を丹念に調整し、本馬の実力はさらに向上していった。
競走生活(5歳時)
5歳になった本馬は、本格的に大競走戦線に参戦。まずは6月にニューカッスル競馬場で行われたノーザンバーランドプレート(T16F)で、24ポンドのハンデを与えた2着グレンデールに短頭差で勝利。次走のグッドウッドC(T20F)では、アスコット金杯を勝ってきた1歳年下の英2000ギニー・英セントレジャー・ミドルパークプレート・プリンスオブウェールズSの勝ち馬ペトラークとの、ロードクリフデン産駒対決となった。1番人気はペトラークで、本馬は単勝オッズ5倍の2番人気だった。しかし結果は本馬が、アスコット金杯でペトラークの1馬身差2着だったニューマーケットダービー・アスコットゴールドヴァーズの勝ち馬スカイラークを1馬身半差の2着に抑えて勝利を収め、ペトラークは4着に終わった。これで本馬はようやく英国内にその名を轟かせた。
その後はドンカスターC(T21F)に出走した。133ポンドを課せられたが、単勝オッズ2.25倍の1番人気に応えて、2着チェスタートンに2馬身差で完勝。この年は他にも、139ポンドを背負ったケルソ金杯と、138ポンドを背負ったカレドニアンセンテナリーCを勝ち、3回出走したクイーンズプレートも全て勝利した(うち1戦は単走での勝利)。5歳時の本馬は、10戦してグッドウッドS(T20F)とエボアH(T14F)の2戦に負けたのみで、6連勝を含む8勝を挙げ、英国長距離路線のトップホースに上り詰めた。
競走生活(6歳時)
6歳になった本馬は、第3代エレズメア伯爵フランシス・エジャートン卿に7200ギニーでトレードされた。この頃になると、本馬と他馬のハンデ差は相当なものになっており、さすがの本馬も少し勝率が下がった。6月に出走したエプソム金杯(T16F)では、ジョッキークラブCを勝ち仏ダービー2着・仏2000ギニー・パリ大賞3着の実績があった仏国調教馬ヴェルヌイユを6馬身差の2着に破って圧勝した。しかしグッドウッドS(T20F)では、ノーウィッチの2着に敗退。さらに最大目標としていたアスコット金杯(T20F)では、エプソム金杯で一蹴したはずのヴェルヌイユが、2着となった前年の英ダービー・英セントレジャー・アスコットダービーの勝ち馬シルヴィオに10馬身差、3着となったパリ大賞・カドラン賞・ギシュ賞・シャンティ賞の勝ち馬セントクリストファーにはさらに半馬身差をつけて圧勝してしまい、本馬はセントクリストファーからさらに半馬身差の4着最下位に敗退。年をまたいだ英国長距離カップ三冠競走の全制覇は成らなかった。
その後は2連覇を目指してグッドウッドCに参戦する予定だったが、ハンガリーから無敗の牝馬キンチェムが参戦すると聞いた陣営が、競馬後進国と思っていたハンガリーの馬に負ける危険性を恐れたため回避した(ヴェルヌイユもこのレースに出走予定だったが怪我を理由に回避している)。キンチェムはこのグッドウッドCを勝った1戦のみで英国を去ったため、ドンカスターC(T21F)には2連覇を目指して出走した。しかし結果はグッドウッドCでキンチェムの2馬身差2着だったチェスターCの勝ち馬ページェントに敗れて2着に終わり、後世の人から「ハンプトンよりキンチェムのほうが強かった」と陰口を言われる一因となってしまった。129ポンドを背負って出たケンブリッジシャーH(T9F)では、30ポンドのハンデを与えたアイソノミーの2馬身半差4着に敗れてしまった(ただし34頭立ての多頭数であり、30頭に先着している)。アイソノミーはこのレースでは単勝オッズ41倍の伏兵だったが、最終的には19世紀英国最強馬の1頭として名を馳せることになり、このレースは本馬からアイソノミーへの最強馬バトンタッチの意味合いも持っていた。一方の本馬は、140ポンドを課せられたジョッキークラブC(T18F)で、シルヴィオの4着に敗れたのを最後に競走馬を引退。6歳時の成績は10戦5勝だった。
本馬はその競走実績から、晩成の長距離馬であるという評価が定着しているが、種牡馬となった本馬の産駒の仕上がりの早さを見ると、長距離馬という評価はともかく、晩成という評価には個人的には疑問がある。本当はもっと早い段階で活躍できる能力を有していたのに、周囲の人間が素質を引き出せなかっただけなのではないかと思える。ホブスン氏やペック師のように、本馬を評価できる人ともっと早く巡り会っていれば、英ダービーや英セントレジャーでも好勝負できたのではないだろうか。
血統
Lord Clifden | Newminster | Touchstone | Camel | Whalebone |
Selim Mare | ||||
Banter | Master Henry | |||
Boadicea | ||||
Beeswing | Doctor Syntax | Paynator | ||
Beningbrough Mare | ||||
Ardrossan Mare | Ardrossan | |||
Lady Eliza | ||||
The Slave | Melbourne | Humphrey Clinker | Comus | |
Clinkerina | ||||
Cervantes Mare | Cervantes | |||
Golumpus Mare | ||||
Volley | Voltaire | Blacklock | ||
Phantom Mare | ||||
Martha Lynn | Mulatto | |||
Leda | ||||
Lady Langden | Kettledrum | Rataplan | The Baron | Birdcatcher |
Echidna | ||||
Pocahontas | Glencoe | |||
Marpessa | ||||
Hybla | The Provost | The Saddler | ||
Rebecca | ||||
Otisina | Liverpool | |||
Otis | ||||
Haricot | Lanercost | Liverpool | Tramp | |
Whisker Mare | ||||
Otis | Bustard | |||
Election Mare | ||||
Queen Mary | Gladiator | Partisan | ||
Pauline | ||||
Plenipotentiary Mare | Plenipotentiary | |||
Myrrha |
父ロードクリフデンは当馬の項を参照。
母レディーラングデンは不出走馬だが、血統的にはかなり優秀。レディーラングデンの半姉には、英セントレジャーを勝つなど86戦44勝の成績を残した名牝コーラーオウ(父ストックウェル)がいるし、レディーラングデンの母ハリコットも、リンカンシャーH・マンチェスターC・スターリング金杯を勝つなど40戦17勝の成績を残した活躍馬。そしてハリコットは世界的名牝系の祖となったクイーンメアリーの娘であり、ハリコットの半妹ブリンクボニーは英ダービーと英オークスを制覇した19世紀英国を代表する名牝である。レディーラングデンは本馬の半弟である英ダービー馬サーベヴィズ(父ファヴォニウス)も産んでおり、繁殖牝馬として一流の活躍を見せた。本馬の半妹ミスラングデン(父シルヴァークラウン)の孫にはラントルナ【ミラノ大賞】、玄孫にはパメルス【ウィリアムレイドS・オークレイプレート】がいるが、レディーラングデンの牝系子孫はそれ以上発展しなかった。クイーンメアリーの牝系は世界的に大発展を遂げており、ここには挙げ切れないほどの活躍馬がいるため、その詳細はクイーンメアリーの項を参照してほしい。→牝系:F10号族①
母父ケトルドラムは英ダービー・ドンカスターCなど4勝を挙げ、英2000ギニー・英セントレジャーでも2着している。ケトルドラムの父ラタプランは、大繁殖牝馬ポカホンタスの息子でストックウェルの全弟という良血馬で、現役時代はドンカスターC・アスコットゴールドヴァーズ勝ちなど82戦42勝の成績を残した頑健な馬であり、種牡馬としても好成績を残した。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、マンチェスター近郊のワーセリーホールスタッドで種牡馬となった。自身の競走成績から産駒も晩成の長距離馬になるだろうと予測された。つまり英国クラシック競走では期待できないという事で、初年度の種付け料は30ギニーとあまり高値ではなかった。しかし本馬の産駒は予想外に仕上がりが早い活躍を見せ、本馬は当初繋養されていたワーセリーホールスタッドからニューマーケット近郊のステッチウォースパークスタッドに移動し、種付け料も150ギニーまで上昇した。
1887年には、英ダービー馬メリーハンプトン、英1000ギニー・英オークスを制したレーヴドールの活躍により、前年まで7年連続英首位種牡馬だったハーミットを破って、英首位種牡馬を獲得した。翌1888年もエアシャーが英2000ギニー・英ダービーを勝つ活躍を見せたが、この年は、それまで種牡馬人気が無かったものの代表産駒セントサイモンの活躍で人気種牡馬となっていた同世代の英ダービー馬ガロピンが初の英首位種牡馬を獲得したため、本馬の2年連続タイトル獲得は成らなかった。その後もガロピンとセントサイモン親子が種牡馬として猛威を振るったため、英首位種牡馬は結局1887年の1度しか獲得できなかったが、1894年の英2000ギニー・英ダービーを制したラダスを出すなど、長年に渡り英種牡馬ランキング上位の常連だった。24歳の高齢まで現役種牡馬だったが、翌1897年12月に老齢による衰弱のため25歳で安楽死の措置が執られ、遺体はステッチウォースパークスタッドに埋葬された。
本馬は、直子のベイロナルド、孫のベイヤードを通じて後世にスタミナや頑健さを伝え、直系子孫からハイペリオンやダークロナルドなどが登場して血統界に大きな影響を与えている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1880 |
Ladislas |
デューハーストS・ジョッキークラブC・アスコットダービー |
1881 |
Belinda |
パークヒルS |
1881 |
Duke of Richmond |
リッチモンドS |
1884 |
Grandison |
英シャンペンS |
1884 |
Maize |
ナッソーS |
1884 |
Merry Hampton |
英ダービー |
1884 |
Reve d'Or |
英1000ギニー・英オークス・デューハーストS・サセックスS・ヨークシャーオークス・ジョッキークラブC |
1884 |
Savile |
グッドウッドC・ディーS |
1885 |
英2000ギニー・英ダービー・エクリプスS・英シャンペンS |
|
1885 |
Sheen |
ジョッキークラブC・アスコットダービー・シザレウィッチH |
1886 |
Gay Hampton |
クレイヴンS |
1887 |
Fitz Hampton |
ミラノ大賞 |
1888 |
Prince Hampton |
ジュライC・クイーンズスタンドプレート |
1890 |
Phocion |
アスコットダービー・セントジェームズパレスS |
1891 |
Ladas |
英2000ギニー・英ダービー・コヴェントリーS・英シャンペンS・ミドルパークS |
1891 |
Speed |
ジュライS・オールエイジドS |
1891 |
Wedding Bell |
ニューS |
1892 |
Butterfly |
コロネーションS・ナッソーS |
1892 |
Kissing Cup |
ニューS |
1892 |
Troon |
セントジェームズパレスS・サセックスS |
1893 |
ハードウィックS |
|
1895 |
Hawamdieh |
ロンシャン賞 |