グラディアトゥール

和名:グラディアトゥール

英名:Gladiateur

1862年生

鹿毛

父:モナルク

母:ミスグラディエイター

母父:グラディエイター

仏国産馬として英国の大競走を総なめにして仏国競馬史上最大の英雄と讃えられただけでなく英国競馬関係者からも19世紀最高の馬との評価を得た第2代英国三冠馬

競走成績:2~4歳時に英仏で走り通算成績19戦16勝3着1回

意外と資料に乏しい仏国競馬史上最大の英雄

史上2頭目の英国三冠馬で、ちょうど100年遅れで同じ仏国において誕生したシーバードと並び称される仏国産の最強馬である。両親ともに仏国産馬である生粋の仏国産馬として英国の大レースを勝ちまくり、仏国競馬界に自信と活力をもたらした仏国競馬の英雄的存在であり、ロンシャン競馬場の正面入り口には等身大の銅像が建てられている。

日本でも19世紀欧州屈指の名馬として各方面でしばしば紹介されており、筆者もこの名馬列伝集を編み始める以前から本馬の事は知っていた。そのため、さぞかし海外における資料も豊富だろうと思っていたのだが、詳細な資料は予想外に少なかった。もちろん、“One of the best horses ever to grace the turf in any century(全世紀を通じて最良の馬の1頭)”、“his performance on the track remains one of the most impressive in Thoroughbred horse racing history(サラブレッド競馬史上最も印象的な走りを見せた馬)”、“l’Eclipse moderne(エクリプスの再来)”といったように最高級の評価は受けているのだが、評価だけで競走内容までは載っていない資料が殆どである。

本馬がこの名馬列伝集を作成する上で分かった事実の一つに、「仏国産馬は、英・愛国産馬や米国産馬と比べると圧倒的に資料が少ない(豪州産馬や独国産馬より少ないかも)」ことが挙げられる(数少ない資料も仏語で書かれているため筆者には敷居が高かったりする)が、まさか英国三冠馬である本馬までもこれほど資料が乏しいとは思わなかった。試みに仏語版ウィキペディアの本馬の項目を覗いてみると、そのあまりの記載内容の薄さに仰天した。「グラディアトゥールは1862年に仏国でモナルクとミスグラディエイター(グラディエイターの娘)の間に産まれたサラブレッドです。1871年まで生産者であるラグランジュ伯爵の所有馬でした。主戦はアンリ・グリムショー騎手が務めました。彼は1865年に仏国産馬として初めて英ダービーを勝ちました。」以上で終わりである。

このように本馬は詳しい海外の資料が乏しいため、海外の資料に基づいた内容だけでなく、日本の資料には載っているが海外の資料には載っていない内容も織り交ぜながら本項を書き進める事とする(日本の資料から引用する場合にはその旨を明記することにする。その旨が書かれていない場合には海外の資料に載っているという事である)。そうしなければ、仏国競馬史上最強馬としては相応しくないほど薄っぺらな紹介になってしまうからである。

誕生からデビュー前まで

仏国ノルマンディー地方にあるダンギュ牧場において同牧場の所有者フレデリック・ラグランジュ伯爵により生産・所有された。本馬の馬格については仏国の競馬作家と英国の競馬作家とで記載がかなり異なり、前者は「非常に調和がとれた馬」と評し、後者は(本馬が英国で活躍した後に)「体毛はぼさぼさで痩せこけた質の悪い馬」と評している。前者は贔屓目が、後者は仏国に対する対抗意識が入っていると思われるので、いずれの評価もあまり信用は出来ないと思われる。ただ、背が高くて大柄な馬だったという点では英仏双方の評価が一致しており、「(英)ダービーにおけるグラディアトゥールは小人の中にいる巨人のように目立った」そうである。ちなみに後世の英国競馬作家は本馬を「力強く、優美で、気立てがよく、勇敢な馬」と評しているらしいが、これもまた果たしてどこまで信用できるか不明である。競走馬の馬格については、後に伊国の天才馬産家フェデリコ・テシオ氏が「好ましい馬格かどうかを判断する目は、その馬のおかれた環境と見る時の気分で著しく違ってくる。優れた資質を外見から予測するのはほとんど不可能に近いので、馬を選ぶ際にわたしは馬格をあまり重視しない(原田俊治氏の「新・世界の名馬」中のアレフランスの項より抜粋)」と言っているのが正解だろうから、身も蓋も無い言い方だが、本馬の体格について誰がどのように書いていようが別にどうでもよいだろう。ただ、本馬が産まれてすぐにラグランジュ伯爵は英国と仏国のクラシック競走に登録を行っているから、彼が本馬にそれなりの期待を掛けていたのは確かであろう。

しかし本馬は幼少期に牧場で前脚を負傷(「新・世界の名馬」には生後すぐに母ミスグラディエイターが踏んでしまったためとある。なお、「新・世界の名馬」には右前脚を負傷したとあるが、“Thoroughbred Heritage”には左前脚を負傷したと記載されている。いずれが正しいのかは分からない)して、舟状骨(四肢動物の四肢を構成する短骨の一つ)に慢性の炎症を起こしてしまった。これは競走能力に致命的な影響を及ぼすほどでは無かったが、しばしば激痛を起こして本馬を悩ませた。それも影響したのか本馬は成長が遅く、英国ニューマーケットに厩舎を構えるトム・ジェニングス調教師に預けられた後もなかなかデビュー出来なかった。

競走生活(英セントレジャーまで)

ようやくデビューしたのは2歳10月のことで、ニューマーケット競馬場で行われたクリアウェルS(T6F)が初戦となった。ここでは主戦となるアンリ・グリムショー騎手を鞍上に、1馬身差で勝ち上がった。しかしそれから僅か3日後に出走したプレンダーガストS(T5F)は、勝ったベッドミンスターから1馬身差の3着同着に敗退。さらに10日後に出走したクリテリオンS(T7F)では、ストックウェルの甥という良血馬チャタヌーガの着外に敗れた。2歳時はこの3戦のみで終えた。

3歳時はぶっつけ本番で英2000ギニー(T8F)に出走した(「新・世界の名馬」には、3歳になった頃に脚部不安が悪化して冬季の殆どを馬房の中で過ごしたが、3月に復調して同厩馬との試走で好走したため出走に踏み切ったとある)。クリテリオンS(本馬が敗れたのとは別競走)の勝ち馬でジュライS2着のアルキメデス、後の英オークス馬レガリア、後のプリンスオブウェールズSの勝ち馬ブレドオルベン、リディントン、ベッドミンスター、カンガルーといった有力馬が対戦相手となり、本馬は単勝オッズ8倍といった程度の評価だった。このレースはゴール前で5頭以上が横一線となる大接戦となったが、本馬が2着アルキメデスに首差、3着リディントンにもさらに首差をつけて辛くも勝利を収めた(日本語版ウィキペディアには、これは仏国産馬として史上初の英国クラシック競走制覇だったと記載されているが、実際には前年の英オークスを本馬と同馬主同厩の仏国産馬フィユドレールが勝っているので誤りである)。

次走の英ダービー(T12F)では、単勝オッズ3.5倍で30頭立ての1番人気に支持された。「新・世界の名馬」には、レース前に行われた前述の英オークス馬フィユドレールとの試走で8ポンドのハンデを与えながら難なく勝利したとあり、それも評価されての1番人気だったようである。しかし英2000ギニーを勝ったとはいえ、英ダービーは別格であり、仏国産馬では勝つのは難しいだろうとする冷めた意見も少なからず存在したようである。しかし結果は本馬が2着クリスマスキャロルに2馬身差、3着エルサムにはさらに半馬身差をつけて勝利を収め、英国産以外の馬として史上初の英ダービー馬となった。このときのレースぶりは「新・世界の名馬」によると、タッテナムコーナーを10番手で回って直線一気に追い込んだというものだった。仏国産馬を見下していた誇り高き英国競馬関係者もこれには沈黙するしかなく、逆にラグランジュ伯爵の元には仏国競馬関係者や仏国の政治家達から祝辞が殺到した。

その後は生国である仏国に凱旋して、英ダービーから11日後のパリ大賞(T3000m)に出走した。仏国産馬として初めて英ダービーを制した本馬は既に仏国の国民的英雄となっており、1815年6月に行われたワーテルローの戦いにおいて皇帝ナポレオンⅠ世が英蘭普連合軍に敗れてからこの年がちょうど50年目に当たっていたため、“Le vengeur de Waterloo(ワーテルローの復讐者)”の愛称で呼ばれるようになっていた。そしてロンシャン競馬場に詰め掛けた15万人以上の大観衆の前で、仏2000ギニー・仏ダービーの勝ち馬ゴントラン、後のバーデン大賞・アンペルール大賞の勝ち馬ベルチュガダン、アンペルール賞(後のリュパン賞)の勝ち馬で仏ダービー2着のルマンダリン、フォレ賞・ダリュー賞の勝ち馬ツールマレーなどを一蹴。2着ベルチュガダンに3馬身差をつけて完勝した(「新・世界の名馬」では8馬身差、仏語の資料では7~8馬身差となっているが、海外の基礎資料では3馬身差となっている)。

英国に戻った本馬は一間隔を空けて、7月末にグッドウッド競馬場で行われたドローイングルームS(T10F)に出走。このレースでは2着ロングダウンに40馬身差で大圧勝した。翌日にはベンティング記念S(T12F)に出走したが、対戦相手が集まらず単走での勝利となった。

その後は英セントレジャー(T14F132Y)に直行した。レース前に脚部不安が悪化して状態は良くなかったが、それでも単勝オッズ1.62倍の1番人気に支持された。そして2着となった英オークス馬レガリアに3馬身差、3着アルキメデスにもさらに3馬身差をつけて快勝し、1853年のウエストオーストラリアン以来12年ぶり史上2頭目の英国三冠馬となった。ただし、ウエストオーストラリアンの項にも記載したとおり、「三冠」という用語が一般的に使用され始めたのは1870年代になってからであるから、英セントレジャーを勝った本馬がすぐさま「英国三冠馬」と呼称されたわけではない。

競走生活(英セントレジャー以降)

その僅か2日後にはドンカスターS(T12F)に出走して、これも3馬身差で勝利した。さらに渡仏した本馬は、ドンカスターSから9日後のプランスアンペルール大賞(T3200m・現ロワイヤルオーク賞)に出走。バーデン大賞を勝ってきたパリ大賞2着馬ベルチュガダンが唯一の対戦相手として果敢に本馬に立ち向かってきたが、本馬がその挑戦を一蹴して勝利した。英国に戻った本馬はプランスアンペルール大賞から19日後のニューマーケットダービー(T12F)に出走。唯一の対戦相手ロングダウンに40馬身差をつけて大圧勝した。さらに9日後には当時も現在も英国有数のハンデ競走であるケンブリッジシャーH(T9F)に出走した。しかし同世代の牝馬ガーデヴィシュア(英国三冠馬ロードリオンや、英1000ギニー・英セントレジャーを勝った名牝アチーヴメントの半姉)の着外に敗れてしまい、連勝は9で止まってしまった。敗因はトップハンデの138ポンドという酷量(仏語の資料には「狂気の重量」とある)に加えて、エンジンがかかるのが遅い追い込み馬である本馬には9ハロンという距離が適さなかったためだとされている(創設当初のケンブリッジシャーHはマイル戦であり、本馬が出走したこの年の前後あたりで9ハロン戦になっている。この年はまだマイル戦だったとする資料も存在する)。ちなみに勝ったガーデヴィシュアの斤量は86ポンド、2着馬ヌーの斤量は77ポンド、3着馬シスタートゥザドレイクの斤量は80ポンドであり、まさしく狂気の重量差だった(77ポンドは約35kgであるが、いったいどのような騎手が騎乗したのだろうか)。3歳時は10戦9勝の成績で終え、仏国で越冬して翌4歳時に備えた。

4歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたダービートライアルS(T12F)から始動したが、対戦相手が集まらずに単走で勝利した。翌日に出走したクラレットS(T16F105Y)も単走で勝利した。その僅か3日後には仏国ロンシャン競馬場で行われたアンペラトリス大賞(T5000m)に出走。ベルチュガダンが三度本馬に挑んできたが、本馬が2着フュメに20馬身差をつけて圧勝を収め、ベルチュガダンは3着に終わった。さらに7日後に出走したラクープ(T3200m)では、前年のパリ大賞でいずれも本馬の前に着外に終わっていたゴントランとルマンダリンの仏ダービー1・2着馬コンビが挑んできたが、本馬が2着ルマンダリンに10馬身差をつけて圧勝した。

その後は英国に戻り、1か月半後のアスコット金杯(T20F)に出走した。対戦相手はレガリア、前年のプリンスオブウェールズSを勝っていたブレドオルベンなどだった。これはまさに本馬のベストレースで、レース半ばで先頭から300ヤード(約100馬身)も離されていたが、そのうちに差を詰めると突き抜けて、ゴールした時には2着レガリアに40馬身差(海外の基礎資料にも40馬身差と明記されている)をつけて圧勝していた。

その後はしばらくレースに出ず、10月にロンシャン競馬場で行われた仏国最古のパターン競走アンペルール大賞(T6400m)に出走した。レース数日前に本馬の過去全戦に騎乗したグリムショー騎手が交通事故で死去していたため、本馬にはジョージ・プラット騎手が騎乗した。そして翌年のこのレースを勝利するベルチュガダンを3馬身差の2着に下して亡き相棒の弔いを果たし、これを最後に4歳時6戦全勝の成績で競走馬を引退した。ちなみにこのアンペルール大賞はこの3年後にグラディアテュール賞と改名されている。

競走馬としての評価

前述したように意外と資料が少ない本馬だが、それはどうやら競走馬を経済動物として考える傾向がある仏国の文化性と、仏国産馬だけに英語圏では客観的評価がしづらいためであるようで、本馬が世紀の名馬であるという評価をされている事は間違いない。仏国競馬当局であるフランスギャロのウェブサイトには“Quelques stars(何頭かのスター)”と題する名馬紹介ページが存在する(平地競走馬が、本馬、タンティエームライトロイヤル、シーバード、アレフランス、アイリッシュリヴァーミエスクエリシオパントレセレブル、ジムアンドトニック、ダラカニディヴァインプロポーションズの12頭、障害競走馬が8頭の合計20頭しか掲載されていない)が、その筆頭に来ているのは「ナポレオンのような馬、ワーテルローの復讐者!このように仏国の王者グラディアトゥールは記述されています。ナポレオンの不名誉な敗北の50年後である1865年の英ダービーを勝利することで彼は仏国の名誉を回復しました。彼はさらに英2000ギニーと英セントレジャーも勝って英国三冠馬となり、世界競馬史上最も成功した最初の非英国産馬となりました。この成功は英国の競馬界に衝撃を与え、仏国産馬が英国で活躍するのは不可能だと考えていた多くの人間を黙らせました。彼はさらにロンシャン競馬場でパリ大賞を勝ちました。現在ロンシャン競馬場の正面入り口には彼の彫像が建っています」という記事である。簡潔だが、本馬に対する仏国競馬界の評価をずばりと指し示している名文である。

後の1886年6月に、英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、65票を獲得して堂々の第1位となった。また、同時に行われた「自分の目で見た最も偉大な競走馬」の投票では11票を獲得し、これも第1位となった。このアンケートは英国の競馬関係者に対して行われたものなのだが、彼等は仏国からやってきた本馬こそが地元英国のあらゆる名馬を上回る19世紀最高の競走馬であると評価したのである。

関係者に関する補足

ここで、本馬の馬主ラグランジュ伯爵と調教師のジェニングス師に関して簡単に触れておく。この両名の人物像に関しては筆者が調べた範囲における海外の資料には殆ど触れられていないので、「新・世界の名馬」から抜粋する。ラグランジュ伯爵はナポレオン1世麾下の将軍の一人息子で、親から受け継いだ遺産を各方面の企業に投資して成功し、ダンギュ牧場を買い取って馬産を開始した。競馬に関しては仏国より英国のほうが進んでいると考えていた彼は、生産した馬のうち見込みがある馬は英国で調教し、そうでない馬は仏国で調教するようにしていた。本馬は見込みがある馬に分類されたようで、ラグランジュ伯爵の英国における専属調教師ジェニングス師に預けられた。

このジェニングス師に纏わる有名な逸話として以下のようなものがある。仏国の国民的英雄となった本馬を一目見ようとニューマーケットの厩舎を訪れたあるフランス人に対して、ジェニングス師は傍らの馬を指差して「これは繋賀車を引く馬車馬で、おれが競馬場に行くときに使う」と言った。その仏国人が「本当にひどい太っちょで無様な馬だ」と応じ、「それよりも早くフランス生まれの英雄を見せてくれ」と催促すると、ジェニングス師は「お前さんの目の前にいるのがそうだよ。フランス人があんな冗談を真に受けるほどの馬オンチだったとは知らなかった」と冷笑したというのである。この話の信憑性は不明(海外の資料には載っていない)だが、最初に書いたとおり本馬の体格に対する評価は英国と仏国でまるで違うことからしても、本馬に関して両国民の間に色々と軋轢があったのは事実のようである。

ラグランジュ伯爵は後の1870年に普仏戦争で敗れて捕虜になったナポレオン3世が退位して第二帝政が崩壊した際に本馬を含む財産の大半を失ったが、その後も馬主として競馬を楽しんだという。ジェニングス師はニューマーケットに建てた厩舎と邸宅をラグランジュ屋敷と命名して幸福な晩年を送ったという。なお、脚部不安を抱える本馬を酷使したとしてラグランジュ伯爵を非難する意見も見られる(ジェニングス師を非難する声もあるが、彼はラグランジュ伯爵の専属調教師だったのだから、主の指示に従ったまでだろう)。別に筆者もそれを否定はしないが、仏国では競走馬を経済動物と割り切って考えるのが常識のようである(マルセル・ブサック氏の馬産に対する姿勢などを見れば一目瞭然である)から、それは国民性・文化の違いと考えるのが妥当だろう(仏国産馬の生涯を記した資料が少ないのもそれ故ではないかと筆者は考えている。極論すれば家畜の生涯を逐一記録する必要も無いという考え方であろう)。

血統

Monarque The Emperor Defence Whalebone Waxy
Penelope
Defiance Rubens
Little Folly
Reveller Mare Reveller Comus
Rosette
Design Tramp
Defiance
Poetess Royal Oak Catton Golumpus
Lucy Gray
Smolensko Mare Smolensko
Lady Mary
Ada Whisker Waxy
Penelope
Anna Bella Shuttle
Drone Mare
Miss Gladiator Gladiator Partisan Walton Sir Peter Teazle
Arethusa
Parasol Pot-8-o's
Prunella
Pauline Moses Seymour
Gohanna Mare
Quadrille Selim
Canary Bird
Taffrail Sheet Anchor Lottery Tramp
Mandane
Morgiana Muley
Miss Stephenson
The Warwick Mare Merman Whalebone
Mermaid
Ardrossan Mare Ardrossan
Shepherdess

モナルクは当馬の項を参照。

母ミスグラディエイターは仏国ヴィヌィユにおいてトーマス・カーター氏という人物により生産された。競走馬としてはエコールミリタリー賞というレースに勝利したが、脚の故障のためその1勝で終わっている。しかしグラディエイターの娘という血統を評価したラグランジュ伯爵により購入されて繁殖入りした。母としては、初子の牝駒フィユデジョネ(父プーディスポワール)、2番子の牝駒ヴィラフランカ(父モナルク)、3番子の本馬、4番子の牡駒インペラートル(父はモナルクかファーザーテムズのいずれか)、5番子の牝駒ラレンヌエリザベス(父モナルク)を産んだが、本馬以外に競走馬として大成した子はおらず(と海外の資料には書いているがヴィラフランカはオカール賞を勝っているから本馬以外のミスグラディエイター産駒が全然活躍しなかったわけではない)、牝系子孫を発展させた牝駒もいない。

ミスグラディエイターの2歳年下の全弟にはユニオンジャック【フォレ賞2回・リュパン賞】が、ミスグラディエイターの8歳年下の半妹クールトワジー(父フィッツグラディエイター)の子にはクールトア【イスパーン賞】がいる。

ミスグラディエイターの母タフレールの全姉ストーミーペトレルの牝系子孫は主に豪州で繁栄して多くの活躍馬を送り出し、現在も残っている。その筆頭格は海外馬として初めて高松宮記念を勝利したエアロヴェロシティ【高松宮記念(日GⅠ)・香港スプリント(香GⅠ)・クリスフライヤー国際スプリント(星GⅠ)】である。また、タフレールの半妹トリレームの牝系子孫からも世界各国で活躍馬が出ており、独国三冠馬ケーニヒスシュトゥールカッツィア【英1000ギニー(英GⅠ)・英オークス(英GⅠ)・フラワーボウル招待S(米GⅠ)】、日本で活躍したトクマサ【東京優駿・帝室御賞典(横浜)】、ボストニアン【皐月賞・東京優駿】、ヒカルタカイ【天皇賞春】、イナリワン【天皇賞春(GⅠ)・宝塚記念(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)】、バンブーメモリー【安田記念(GⅠ)・スプリンターズS(GⅠ)】、ナリタホマレ【ダービーグランプリ(GⅠ)】、ビッグロマンス【全日本2歳優駿(GⅠ)】などが登場して、これまた現在も残っている。→牝系:F5号族②

母父グラディエイターはクイーンメアリーの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はまず英国ミドルパークスタッドで種牡馬入りし、3年目からは生まれ故郷のダンギュ牧場に移動した。しかし1870年に普仏戦争が勃発して、所有する牧場がプロイセン王国の軍隊に接収されたことにより、ラグランジュ伯爵は安全の意味もあって本馬を含む所有馬の大半を手放さざるを得なくなった。タタソールズ社が実施したセリに出品された本馬は、ミドルパークスタッドの牧場主ウィリアム・ブレンキロン・ジュニア氏により15万2250フランで購入されて英国に戻り種牡馬生活を続けた。1873年にブレンキロン・ジュニア氏が死去すると、英国エセックス州ダンモウスタッドファームに購入されて種牡馬生活を続けた。しかし幼少期から本馬を悩ませ続けた舟状骨炎は徐々に悪化し、1876年1月に14歳の若さで安楽死の措置が執られた。遺体はダンモウスタッドファームに埋葬されたが、尾だけはニューマーケット国立競馬博物館に寄贈され現在も展示されている。

日本では失敗種牡馬と言われる事が多くても海外の資料では成功種牡馬と評価されている海外の名馬は少なくない(マンノウォーセクレタリアトアファームドなど)のだが、本馬に関しては海外の資料でも「期待外れだった」とはっきり書かれてしまっているほど種牡馬成績は不振だった。後継種牡馬としては、豪州で種牡馬入りしたグランドマスターがかなりの成功を収めたが、直系は現在残っていない。母父としては英グランドナショナル勝ち馬フリゲートと愛ダービー馬ケンティッシュファイアの姉弟を出している。また、20世紀初頭の仏国の名牝キジルクールガン(凱旋門賞2連覇の名馬クサールの母)の曾祖母の父が本馬であり、クサールの代表産駒トウルビヨンなどを通じて本馬の血は後世に受け継がれている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1871

Succes

オカール賞

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