スペアミント

和名:スペアミント

英名:Spearmint

1903年生

黒鹿

父:カーバイン

母:メイドオブザミント

母父:ミンティング

英ダービーをレコード勝ちしてパリ大賞も制覇し種牡馬としても大きな影響を残した、豪州の歴史的名馬カーバインが英国で送り出した最高傑作

競走成績:2・3歳時に英仏で走り通算成績5戦3勝2着1回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

19世紀豪州の歴史的名馬カーバインは豪州で種牡馬として成功を収めた後、大種牡馬セントサイモンの所有者で、セントサイモン牝馬に配合可能な異流血脈を求めていた英国の第6代ポートランド公爵ウィリアム・キャベンディッシュ・ベンティンク卿により種牡馬として購入され、ウェルベックアベースタッドで種牡馬供用された。1895年4月に豪州を出発したカーバインの船出を見送った大勢の人々や、ウェルベックアベースタッドでカーバインを見た人々はカーバインの種牡馬としての成功を期待したが、英国におけるカーバインの種牡馬成績は芳しくなかった。

1902年の春、英国ヨークシャー州の名門牧場スレッドメアスタッドの所有者だったタットン・サイクス卿は、自身の牧場に新たに加わる繁殖牝馬を求めてウェルベックアベースタッドにやって来た。サイクス卿がウェルベックアベースタッドの厩務員ジョン・フビー氏にお薦めの繁殖牝馬を尋ねると、フビー氏は第2代准男爵ジェームズ・デューク卿という人物が所有していたメイドオブザミントという馬の名を挙げた。メイドオブザミントは不出走馬で、近親に活躍馬も少なかったが、メイドオブザミントを見て気に入ったサイクス卿はデューク卿と交渉し、1500ポンドという高額に加えて、当時メイドオブザミントが身篭っていたカーバインの子が無事誕生したら追加で500ポンドを支払うオプション付きの契約でメイドオブザミントを購入した。当時デューク卿は何かの裁判沙汰を抱えており、訴訟費用を必要としていたため、高額をふっかけたと言われている。

翌年にメイドオブザミントは牡馬を産み、サイクス卿はデューク卿に500ポンドを追加で支払った。前置きが長くなったが、この産まれた牡馬が本馬である。英国では結局あまり成功できなかったカーバインだが、本馬を出した事だけでもカーバインの種牡馬としての功績は大きいと言える。

1歳になった本馬はスレッドメアスタッドのセリに出され、300ギニーで購入された。本馬は成長すると体高は16ハンドになり、見栄えが良い優れた馬格の持ち主で、父カーバインによく似ていると評された馬だったという。しかしスレッドメアスタッドがセリに出した1歳馬の平均売却額は1200ギニーだったらしいので、本馬の評価は平均よりかなり下だったという事になる。それは、当時の英国における父カーバインの種牡馬としての低評価が影響したようである。

本馬を購入したのは愛国の馬産家・馬主だったユースタス・ローダー卿という人物だった。ローダー卿は本馬より2歳年上の超名牝プリティポリーの生産・所有者で、本馬を購入したのはプリティポリーが大活躍する最中だった。プリティポリーも管理していたピーター・ギルピン調教師に預けられた本馬だが、厩舎到着後間もなく病気に罹ったり、管骨瘤という脚部不安を抱えていたりしたため、デビュー前調教は順調にはいかなかったようである。

競走生活(3歳初期まで)

2歳7月にリングフィールド競馬場で行われたグレートフォールプレートでデビューした。単勝オッズは3.25倍であり、調教は順調でなくてもこの時期にはある程度仕上がっていたようである。レースでは道中で不利を受けながらも、9頭の対戦相手を破って、頭差で勝利した。次走は9月にダービー競馬場で行われたブリーダーズフォールプレートとなったが、勝ったブラックアローから3馬身差の2着(3着とする資料もある)に敗退。10月にニューマーケット競馬場で出走した2歳ハンデ競走はトップハンデを背負って4着に敗退。

2歳時を3戦1勝の成績で終えた本馬の厩舎内における評価は、ロウス記念Sを勝ちミドルパークプレートで2着したプリティポリーの半弟アドミラブルクライトン、ミドルパークプレート・インペリアルプロデュースSを勝った牝馬フレアに次ぐ3番手といったところだった。陣営は本馬を英ダービーには向かわせない事を決めたが、ペースメーカー役として出走させる可能性を考慮して、登録だけはしておいた。アドミラブルクライトンは成長力に欠けていたため、フレアが英ダービーを目標とすることになった。

一方の本馬は、自身の母父ミンティング以来の英国調教馬による勝利を目指してパリ大賞へ向かう事になった。これは、本馬の血統構成が長距離向きであるために英ダービーより距離が長いパリ大賞の方が向いているという判断に加えて、英ダービーよりパリ大賞の方が施行時期は遅かったため、本馬を訓練する時間が十分に取れるという考えもあったようである。

英ダービー

ところが英1000ギニーを勝ったフレアは英ダービーの3週間前の調教中に故障して、英ダービーには出走できなくなってしまった。そのために急遽本馬が代役として英ダービー(T12F29Y)に参戦する事になった。しかしパリ大賞に向けて順調に調整が積まれていた本馬は、英ダービー参戦決定時には既にかなり仕上がっていたようで、ヨークシャーオークス・クリテリオンS・ジュライS・リッチモンドS・グレートヨークシャーH・クイーンアレクサンドラS・シザレウィッチHを勝ち英オークスで2着していた3歳年上の同厩馬ハンマーコップ、そしてまだ現役ばりばりだったプリティポリーとの併せ馬調教を1回ずつ行うだけで事足りたようである。このプリティポリーとの併せ馬調教は距離12ハロンで行われたが、本馬が先着を果たした。ハンマーコップとの併せ馬調教でも本馬が先着した。これらの事実が明らかになったため、本馬の英ダービーにおける単勝オッズは1週間で21倍から6.5倍まで急激に下がった。本番当日は、ニューマーケットS・リッチモンドSの勝ち馬で後にエクリプスSを勝つラリー(単勝オッズ5倍)に次ぐ単勝オッズ7倍の2番人気になっていた。

時の英国王エドワードⅦ世を含む50万人の観衆が詰め掛けたレースは、晴天続きだったため絶好の良馬場で行われた。本馬は暑さのためか発汗が見られたが、それを除けば万全の状態に見受けられた。スタートが切られると、3頭の馬がハイペースで先頭を飛ばし、ディーSの勝ち馬で後に英セントレジャー・サセックスSを勝つトラウトベックが4番手、デューハーストプレートの勝ち馬ピクトンが5番手を追走し、ダニエル・マハー騎手が手綱を取る本馬はその2頭の直後につけた。そのままの態勢で直線に入ると、トラウトベックとピクトンが先頭争いを開始した。しかし残り2ハロン地点で大きなストライドで豪快に伸びてきた本馬が前2頭をかわして先頭に立った。そして最後は2着ピクトンに1馬身半差、3着トラウトベックにはさらに2馬身差をつけて完勝。勝ちタイム2分36秒8はコースレコードで、前年にやはりマハー騎手騎乗のキケロが樹立した2分39秒6のレースレコードを2秒8も更新する素晴らしいものだった。この翌日(同日とする資料もある)には同コースで行われたコロネーションCをプリティポリーが本馬と同タイムで勝利したこともあり、2歳時は全く目立たなかった本馬は冬場に急成長して今やプリティポリーと並ぶ英国のトップホースへと上り詰めていた。

パリ大賞

その後に本馬は当初の予定どおり仏国に遠征して、パリ大賞(T3000m)に参戦した。英ダービーからは11日後という強行軍で、鞍上も愛国出身のバーナード・ディロン騎手に乗り代わっていた(マハー騎手が続けて乗らなかったのは、一昨年にプリティポリーと共に仏国に遠征して出走したコンセイユミュニシパル賞で負けてしまった事や、この時期のマハー騎手は愛馬バチェラーズボタンと共に打倒プリティポリーの執念を燃やしていた事が影響しているのかも知れない)。対戦相手の中で最も手強いと思われたのは、仏ダービー・リュパン賞・オカール賞を勝っていたメントノンで、後にロワイヤルオーク賞・コンセイユミュニシパル賞・ユジェーヌアダム賞2回・仏共和国大統領賞・ロンシャン賞・ドーヴィル大賞・ラクープドメゾンラフィットを勝っており、当時の仏国では最強を謳われた馬だった。しかし単勝オッズ1.9倍という断然の1番人気に支持されたのは本馬のほうだった。

スタートが切られると、地元仏国の騎手による妨害を懸念したディロン騎手は意図的に本馬を先頭に立たせた。後続との差は結構開いたが、ディロン騎手は速すぎず遅すぎずの適切なペースで本馬を走らせた。さすがに3000mという長丁場だけあって直線に入ると脚色が衰え、直線入り口ではかなりあった後続馬との差はどんどん縮まってきた。しかし本馬は最後まで先頭を譲ることは無く、追い込んで2着に入った人気薄のブリーズクールに半馬身差で勝利を収めた(メントノンは着外だった)。英国調教馬がパリ大賞を勝ったのは、1886年に勝った本馬の母父ミンティング以来20年ぶりだった。

英国調教馬である本馬の勝利ではあったが、ロンシャン競馬場に詰め掛けた観衆は拍手で本馬を称え、仏国のアルマン・ファリエール大統領も個人的にローダー卿を訪ねて祝福したという。ロンシャン競馬場から英国に戻るべく列車に乗った本馬が、途中のアミアン駅で事故のため停車した列車から脱走し、頭に痣を作って戻ってきたという逸話もある。

しかし以前から不安を抱えていた本馬の脚元はいよいよ危なくなり、一応4歳暮れまで競走馬登録はされたものの、パリ大賞以降は二度とレースを走ることなく引退となった。本馬はキャリアが浅いのでその正確な競走能力を測る事は難しいが、英ダービーをレコード勝ちするスピードと、パリ大賞を逃げ切るスタミナを兼備した馬だったし、調教でプリティポリーとも互角以上に戦っている(もっとも、斤量差が伝わっていない上に、所詮は調教ではあるけれども)ところから、相当な能力を有していた事は間違いないだろう。

血統

Carbine Musket Toxophilite Longbow Ithuriel
Miss Bowe
Legerdemain Pantaloon
Decoy
West Australian Mare West Australian Melbourne
Mowerina
Brown Bess Camel
Brutandorf Mare
Mersey Knowsley Stockwell The Baron
Pocahontas
Orlando Mare Orlando
Brown Bess
Clemence Newminster Touchstone
Beeswing
Eulogy Euclid
Martha Lynn
Maid of the Mint Minting Lord Lyon Stockwell The Baron
Pocahontas
Paradigm Paragone
Ellen Horne
Mint Sauce Young Melbourne Melbourne
Clarissa
Sycee Marsyas
Rose of Kent
Warble Skylark King Tom Harkaway
Pocahontas
Wheat Ear Young Melbourne
Swallow
Coturnix Thunderbolt Stockwell
Cordelia
Fravolina  Orlando
Apricot 

カーバインは当馬の項を参照。

母メイドオブザミントは前述のとおり不出走馬。本馬以外に特筆できる産駒は出しておらず、牝系からもあまり活躍馬は出ていない。メイドオブザミントの1歳年上の半姉ウォーグレイヴ(父カーバイン)がシザレウィッチH・エボアHを勝った他に、メイドオブザミントの5代母にようやく英1000ギニー馬プリザーヴの名前が出てくる程度である。

メイドオブザミントの祖母コチュールニクスの半妹レイカーの牝系子孫は発展しており、ハイクエスト【プリークネスS・ウッドメモリアルS】、フェアリーチャント【サンタマルガリータ招待H・ガゼルH・ベルデイムH2回】、パルロ【アラバマS・ベルデイムH・デラウェアH・トップフライトH】、アーツアンドレターズ【ベルモントS・ブルーグラスS・メトロポリタンH・トラヴァーズS・ウッドワードS・ジョッキークラブ金杯】、アイランドワール【ウッドワードS(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)】、アトタラク【パリ大賞(仏GⅠ)・マッキノンS(豪GⅠ)・メルボルンC(豪GⅠ)】、ノースサイダー【サンタマルガリータ招待H(米GⅠ)・アップルブロッサムH(米GⅠ)・マスケットS(米GⅠ)】、ワクォイト【ブルックリンH(米GⅠ)2回・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)】、アノコンナー【ヴァニティ招待H(米GⅠ)・ラモナH(米GⅠ)・サンタアナH(米GⅠ)】、グラインドストーン【ケンタッキーダービー(米GⅠ)】、オーサムアゲイン【BCクラシック(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)】、ベーレンズ【ガルフストリームパークH(米GⅠ)2回・オークローンH(米GⅠ)】、シルヴァービュレットデイ【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・ケンタッキーオークス(米GⅠ)・アッシュランドS(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)・ガゼルH(米GⅠ)】、シルヴァノ【アーリントンミリオンS(米GⅠ)・クイーンエリザベスⅡ世C(香GⅠ)】、マッチョウノ【BCジュヴェナイル(米GⅠ)・グレイBCS(加GⅠ)】、ザビアンゴ【バイエルン大賞(独GⅠ)・ドイツ賞(独GⅠ)・チャールズウィッティンガム記念H(米GⅠ)】などが出ている。→牝系:F1号族⑦

母父ミンティングは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ローダー卿が地元愛国に所有していたエアフィールドロッジスタッドで種牡馬入りした。種牡馬としての本馬は地元愛国のみならず英国・米国・伊国においてもクラシック競走の勝ち馬を出し、英愛種牡馬ランキングで5度10位以内(最高は1922年の3位)に入る成功を収めた。また、現役時代同厩で繁殖入り後も同じ牧場に繋養されていたプリティポリーとの間にも牝駒ベイビーポリー(凱旋門賞馬ヴェイグリーノーブルの父ヴィエナや凱旋門賞馬キャロルハウスの牝系先祖)をもうけたほか、プリティポリーの娘モリーデズモンドとの間にも愛2000ギニー・愛ダービー馬スパイクアイランドをもうけている。本馬は1924年6月に疝痛のため21歳で他界し、遺体はエアフィールドロッジスタッドに埋葬された。後にプリティポリーや息子のスピオンコップも同牧場に埋葬されている。

本馬の後継種牡馬としては、スピオンコップが父子三代となる英ダービー馬フェルスティードを出し、シクルも1929年の北米首位種牡馬に、また、日本に輸入されたミンドアーも帝室御賞典秋の勝ち馬ニパトアを出すなど、世界各国で活躍したが、本馬自身も含めてフィリーサイアー傾向があり(本馬は母父としても世界各国で8頭のクラシック競走の勝ち馬を出している)、直系は長くは続かなかった。

本馬の種牡馬としての最大の功績はプラッキーリエージュ、キャットニプという2頭の牝駒を残した事になるだろう。前者はサーギャラハッド、ブルドッグ、アドミラルドレイク、ボワルセルの首位種牡馬4兄弟の母となり、後者はネアルコの祖母となった。この2頭の牝馬や前述のベイビーポリーを通じて、現在でも本馬の血の影響力は世界的である。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1909

Catmint

プリンスオブウェールズS・グッドウッドC

1909

Lance Chest

プリンセスオブウェールズS2回

1910

The Curragh

ディーS・プリンセスオブウェールズS

1911

Fausta

伊グランクリテリウム・伊オークス・伊ダービー

1911

First Spear

ナッソーS・チャイルドS・パークヒルS

1912

Plucky Liege

1913

Chicle

ブルックリンダービー

1914

Telephus

デューハーストS

1915

Johren

ベルモントS・サバーバンH・ローレンスリアライゼーションS・サラトガC

1916

Flying Spear

コロネーションS・パークヒルS

1917

Spion Kop

英ダービー

1919

Royal Lancer

英セントレジャー・愛セントレジャー

1919

Spike Island

愛2000ギニー・愛ダービー

1919

Welsh Spear

ハードウィックS

1919

Wild Mint

クイーンメアリーS

1922

Spelthorne

愛セントレジャー

1922

Zionist

デューハーストS・愛ダービー

1924

Money Maker

デューハーストS

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