レヨンドール

和名:レヨンドール

英名:Rayon d'Or

1876年生

栗毛

父:フラジョレ

母:アローキャリア

母父:アンブローズ

仏国調教馬ながら英国を主戦場とし、引退後は米国で首位種牡馬になるなど世界的に活躍した英セントレジャー馬

競走成績:2~4歳時に英仏で走り通算成績25戦17勝2着3回3着4回

誕生からデビュー前まで

英国三冠馬グラディアトゥールの生産・所有者として知られるフレデリック・ラグランジュ伯爵により仏国ダンギュ牧場において生産・所有された。ラグランジュ伯爵は所有馬を仏国と英国に振り分けていたが、本馬はグラディアトゥールも手掛けた英国トム・ジェニングス調教師に預けられた。そのために現役時代に出走したレースの大半は英国におけるものであった。主戦はジョームズ・ゴーター騎手が務めた。

競走生活(2歳時)

2歳時にデビューして、グッドウッド競馬場で出走したラヴァントS、ニューマーケット競馬場で出走したグラスゴーSとスウィープS、ドンカスター競馬場で出走したクリアウェルSに勝利した。しかし7月にニューマーケット競馬場で出走したジュライS(T6F)では、ルペッラ、後のミドルパークプレート3着馬ガンナーズベリーの2頭に屈して、ルペッラの3着に敗退。9月にドンカスター競馬場で出走した英シャンペンS(T6F)では、カリベルトの2着に敗退。2歳時の成績は6戦4勝だった。“Thoroughbred Heritage”には、2歳時の本馬の唯一の敗戦はニューマーケット競馬場で出走したクリテリオンSで、ムッシュフィリップ、ランカストリアンの2頭に屈して3着だったと記載されているが、複数の基礎資料においてこの年のクリテリオンSの勝ち馬はエランゴワンという牝馬であるとなっている。本馬はジュライSや英シャンペンSでも負けており、2歳戦の敗戦は唯一ではないから、基本的には“Thoroughbred Heritage”を信用している筆者もこれは採用できない。したがって、クリテリオンSのレース後に英国の記者が書いたとされている以下の文章の存在の信憑性も疑問なのだが、一応掲載しておく。「レヨンドールは非常に優れた馬ですが、彼の成長は長い時間をかけて見守らなければなりません。そのため2歳戦で彼の能力を発揮させることは難しいでしょう。トム・ジェニングス調教師は毎週2~3回彼を調教で走らせていますが、そんな事をしていては彼の気性に大きな悪影響を与えるのではないでしょうか。」

競走生活(3歳時)

3歳時は、英2000ギニー(T8F17Y)から始動したが、前年の英シャンペンSで本馬を破ったカリベルトが2着カドガンに1馬身半差で勝利を収め、本馬はカドガンからさらに4馬身差の3着に敗退した(“Thoroughbred Heritage”には、カリベルトと本馬の着差は11馬身半差となっているが、着順が3着であることには変わりが無い)。その後に出走した英ダービー(T12F29Y)では、サーベヴィズの着外に敗れた。この英ダービーは不良馬場で行われたらしく、本馬鞍上のゴーター騎手は「陣営から積極的に行くよう指示を受けていたのですが、その指示が無ければ勝っていたと思います」と主張したという。しかしゴーター騎手が陣営批判をしたなら彼は本馬の鞍上から降ろされそうなものだが、本馬が競走馬を引退するまで一貫して乗っている事からして、発言の有無の信憑性は疑問である。ただ、馬場状態が非常に悪かったのは事実のようで、サーベヴィズの勝ちタイム3分02秒0は、エプソム競馬場12ハロン29ヤードで実施された英ダービー史上において唯一の3分代だった。2番目に遅いのは前年のセフトンと1891年のコモンの2分56秒0だが、これよりさらに6秒も遅い。最も速かった1910年のレンベルグの勝ちタイム2分35秒2と比べると26秒8もの差があり、重馬場の巧拙が勝敗を分けた可能性は確かにありそうである。

その後はセントジェームズパレスS(T8F)に出走して、カリベルトを2着に破って勝利した。さらに同月にはプリンスオブウェールズS(T13F)に出走しているが、英1000ギニー・英オークス・デューハーストプレート・リッチモンドSなど破竹の8連勝中だった同世代最強牝馬ホイールオブフォーチュン、英オークス3着馬アドベンチャーの2頭に後れを取り、3着に敗れた。アドベンチャーの斤量は110ポンドで、125ポンドの本馬より15ポンド軽かったが、ホイールオブフォーチュンの斤量は126ポンドで本馬より1ポンドだけだが重く、それで負けたのだから完敗だった。翌月にはサセックスS(T8F)に出走して、かつてジュライSで本馬を破って勝った馬であるルペッラを2着に、コロネーションS2着馬リープイヤーを3着に破って勝利した。

その後は英セントレジャー(T14F132Y)に向かった。出走していれば最大の強敵となるはずだったホイールオブフォーチュンは、ヨークシャーオークス勝利後に脚に腫れが出たにも関わらず2日後のグレートヨークシャーSに出走させるという陣営の愚行のために2着に敗れ、そのまま現役引退に追い込まれていた。そのグレートヨークシャーSでホイールオブフォーチュンに生涯最初で最後の黒星を味合わせたのは、サセックスSで本馬が破ったルペッラだった。サセックスSでは本馬のほうがルペッラより斤量が重かった事もあり、この英セントレジャーでは本馬が単勝オッズ4倍の1番人気に支持された。ゴーター騎手が手綱を取る本馬は比較的早い段階で先頭に立つと、そのまま後続を寄せ付けずに危なげなく逃げ切り、2着ルペッラに5馬身差をつけて圧勝。仏国産馬としては1865年のグラディアトゥール以来14年ぶり史上2頭目の英セントレジャー馬となった。

その数日後にはゼトランドSに出走して単走で勝利。さらにニューマーケット競馬場で出走したグレートフォールS(T10F)でもトップハンデを課されながら、クレイヴンSの勝ち馬でデューハーストプレート3着のディスコードとの接戦を首差で制して勝利した。しかしニューマーケットセントレジャー(T16F105Y)では、7ポンドのハンデを与えたベイアーチャーの頭差2着に敗れた。その後も休まずに走り、セレクトS・英チャンピオンS(T10F)・チャレンジS(T6F)を勝利した。特に英チャンピオンSは、一昨年の英オークス馬プラシダを6馬身差の2着に、英セントレジャーで本馬の3着だった後のハードウィックSの勝ち馬でアスコット金杯3着のエクセターを3着に破る圧勝だった。その後はニューマーケットフリーH(T10F)に出走したが3着に敗れ、3歳時を13戦8勝の成績で終えた。

競走生活(4歳時)

4歳時は地元仏国のカドラン賞(T4200m)から始動したが、これが仏国産馬である本馬の仏国デビュー戦であった。本馬はこのレースを馬なりのまま楽勝した。次走のレインボー賞(T5000m)では、同世代の仏国最強馬ジュットとの対戦となった。本馬と同じフラジョレを父に、英オークス馬レガリアを母に持つ良血馬だったジュットは、本馬と同じくラグランジュ伯爵の所有馬であり、本馬が英国に派遣されたのに対して仏国に居残っていた。管理調教師は本馬と同じくトム・ジェニングス師とされているが、トム・ジェニングス師は専ら英国にいたために、実際には仏国にいた彼の弟ヘンリー・ジェニングス調教師が管理していたと思われる。ジュットは前年の仏2000ギニー・仏ダービー・ロワイヤルオーク賞を勝ち、史上初めて仏国牡馬クラシック競走三冠馬になった強豪馬だった。ちなみに仏国牡馬クラシック競走三冠馬は歴史上、ジュットと1899年のパースの2頭しかいない。しかしそれでも本馬のほうが実力では上位だったようで、馬なりのまま走った本馬がジュットを難なく破って勝利した。

その後は英国に戻り、6月にアスコット競馬場でロウス記念S(T8F)に出走した。本馬には132ポンドが課せられたのだが、それでも単勝オッズ1.25倍の1番人気に支持された。そして8ポンドのハンデを与えた2着サンダーストーンに1馬身半差をつけて、馬なりで勝利した。さらにポストSを単走で勝利すると、プリンスオブウェールズS(前年に本馬がホイールオブフォーチュンの3着に敗れたのとは同名の別競走)にも勝利した。しかしハードウィックS(T12F)では、136ポンドを課せられてしまい、10ポンドのハンデを与えたエクセターの頭差2着に惜敗。それでも、プリンスオブウェールズS(これは前年に本馬がホイールオブフォーチュンの3着に敗れた競走)で2着してきた英2000ギニー3着馬ジアボットには26ポンドのハンデを与えながらも4馬身差の3着に切り捨てており、決して恥ずべき内容ではなかった。このレースを最後に、4歳時6戦5勝の成績で競走馬を引退した。

本馬はとても体格が大きい馬で、写真を見る限りでは優に17ハンドはある。首が高いため、「キリン」と呼ばれたらしい。気性には少々問題があり、真面目に走らない事も多かったという。

血統

Flageolet Plutus Trumpeter Orlando Touchstone
Vulture
Cavatina Redshank
Oxygen
Britannia  Planet Revenue
Nina
Alice Bray  Venison
Darkness 
La Favorite Monarque The Emperor Defence
Reveller Mare
Poetess Royal Oak
Ada
Constance Gladiator Partisan
Pauline
Lanterne Hercule 
Elvira
Araucaria Ambrose Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Annette Priam Emilius
Cressida
Don Juan Mare Don Juan
Moll in the Wad
Pocahontas Glencoe Sultan Selim
Bacchante
Trampoline Tramp
Web
Marpessa Muley Orville
Eleanor
Clare Marmion
Harpalice

父フラジョレもラグランジュ伯爵によりダンギュ牧場で生産された馬で、誕生した年に発生した普仏戦争の影響でヨアヒム・ルフェーブル氏にリースされて走った。2歳時は地元仏国でドゥーアン賞(現モルニ賞)を勝ち、英国ではホープフルS・ラトランドS・フォーローンS・バーウェルS・クリテリオンSを勝ち、ミドルパークプレートでは3着だった。3歳時は地元仏国では仏ダービー・パリ大賞共にボイアールの2着など勝ち星に恵まれなかったものの、英国ではアスコット金杯で英ダービー馬クレモーンの2着した後、グッドウッドCではクレモーンとファヴォニウスという2頭の英ダービー馬を30馬身ちぎって圧勝。さらにジョッキークラブC・グランドデュークマイケルS・ニューマーケットフリーHなども楽勝した。4歳時はカドラン賞やレインボー賞でボイアールの2着に敗れたが、英国ではクラレットSで前年の英2000ギニー馬ギャングフォワードを破って勝利した。しかしアスコット金杯ではボイアールの2着(英ダービー馬ドンカスターと同着)、翌日のアレクサンドラプレートではキングルッドの3着(ボイアールが2着)など、どうしてもボイアールに勝てないまま引退して、仏国で種牡馬入りした。

種牡馬としては本馬の活躍により1879年の英首位種牡馬になっており(仏国産馬が英首位種牡馬になったのは史上初)、仏国や後に輸出された独国でも数多くの活躍馬を出して成功した。母方の祖父モナルクに似た非常に美しい馬だったという。フラジョレの父プルートゥスはグレートイースタンレイルウェイHやニューマーケットスプリングHの勝ち馬で、その父はトランペッター、その父はオーランドである。

母アローキャリアは大繁殖牝馬ポカホンタスの最後の子で、ストックウェル、ラタプラン、キングトムらの半妹に当たる。3歳時にデビューして7戦して1勝を挙げたのみだが、その勝ち星は英1000ギニー馬シベリアを破ったものであり、凡庸な馬では無かったようである。繁殖入り後は多くの人間の間を転々として、ルフェーブル氏の所有馬となり、最終的にはルフェーブル氏と提携していたラグランジュ伯爵の元で繁殖生活を送った。繁殖牝馬としての成績は素晴らしく、英1000ギニーを勝ち英オークスもアンゲーラーンドとの同着で勝利した本馬の半姉キャメリア(父マカロニ)、英2000ギニー・デューハーストプレート・ミドルパークプレートを勝った半兄シャマン(父モルトメール)を産み、本馬を含めて3頭の英国クラシック競走勝ち馬の母となっている。

本馬の半姉ステファノティス(父マカロニ)の牝系子孫には、メイドアットアームズ【アラバマS】、スレッジハンマー【ゴールドメダリオン(南GⅠ)・J&Bメトロポリタン(南GⅠ)・SAクイーンズプレート(南GⅠ)2回】などが、本馬の半姉ガーデニア(父マカロニ)の牝系子孫には、サンスーシ【パリ大賞・リュパン賞】、昭和初期における日本の名種牡馬チャペルブラムプトン、ハロウェー(有馬記念馬スターロッチや東京優駿勝ち馬タニノハローモアなどの父)、ダンテ【英ダービー・ミドルパークS】、サヤジラオ【愛ダービー・英セントレジャー】、サウンドトラック【キングズスタンドS】、トラックスペア【ミドルパークS・セントジェームズパレスS】、カヴィアト【ベルモントS(米GⅠ)】、トランキリティレイク【ゲイムリーS(米GⅠ)・イエローリボンS(米GⅠ)】、 アフターマーケット【チャールズウィッティンガム記念H(米GⅠ)・エディリードH(米GⅠ)】などがいる。→牝系:F3号族②

母父アンブローズはタッチストン産駒の不出走馬。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はダンギュ牧場で種牡馬入りしたが、普仏戦争などの影響によりラグランジュ伯爵の馬産家としての栄光は過去のものとなっており、交配される繁殖牝馬の質に恵まれなかった。ラグランジュ伯爵が財政難に陥っていたため、やがてダンギュ牧場に繋養されていた馬は1882年11月にタタソールズ社により競売にかけられた。そして当時6歳の本馬は、石炭業・鉄鋼業・銀行業・鉄道業などで成功を収めた米国の富豪で元下院議員でもあったウィリアム・L・スコット氏の代理人スミス氏により15万フラン(3万ドル)で購入され、米国に渡った。これは、米国に輸入された種牡馬としては当時の史上最高額だった。

スコット氏が所有するペンシルヴァニア州アルジェリアスタッドで種牡馬入りした本馬は次々に活躍馬を送り出し、1889年に北米首位種牡馬に輝くなど成功を収めた。しかし1892年にスコット氏が死去するとアルジェリアスタッドは解散した。そして本馬はオーガスト・ベルモント・ジュニア氏により購入され、ケンタッキー州ナーサリースタッドに移動し、1896年7月に20歳で他界するまでそこで過ごした。直子のオクタゴンが名牝ベルデイムの父となったが、直系を伸ばすような後継種牡馬は登場しなかった。しかし牝駒の多くは同じくベルモント・ジュニア氏が所有していたロックサンドと交配されて子孫を残し、今日に本馬の血を伝えている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1885

Tea Tray

モンマスH

1886

Gypsy Queen

ガゼルH

1886

Tenny

ブルックリンH

1887

Banquet

モンマスH・マンハッタンH

1887

Chaos

ベルモントフューチュリティS

1891

Rubicon

ジェロームH

1892

Liza

トラヴァーズS

1893

Souffle

ケンタッキーオークス・ジェロームH

1894

Octagon

ウィザーズS・トボガンH2回・ブルックリンダービー

1895

Firearm

マンハッタンH2回

TOP