ナイトナース

和名:ナイトナース

英名:Night Nurse

1971年生

鹿毛

父:ファルコン

母:フローレンスナイチンゲール

母父:アバヴサスピション

英タイムフォーム社のレーティングにおいてハードル分野史上最高の182ポンドを獲得している史上最強のハードル障害競走馬

競走成績:2~12歳時に英愛で走り通算成績79戦35勝(うち障害64戦32勝。入着回数は不明)

英愛の障害競走ナショナルハントは、距離が比較的短く障害の飛越難易度も低いため平地の脚が要求される置障害ハードル分野と、距離が長くて障害の難易度が高いため一層正確な飛越力と持久力が要求されるスティープルチェイス分野に大別される。どちらが格上という事はなく、ファンからの人気にもそれほど大きな差はない(しかし英国において最も注目度が高い障害競走である英グランドナショナルがチェイスなので、あえて言えばチェイスのほうが人気上位かも知れない)。しかしハードルで活躍した馬は、やがてチェイスに活躍の舞台を移すことが多い。言い換えれば、最終的にはチェイスに向かう馬であっても、当初は障害に慣れるためにハードルを走ることが多く、その観点ではハードルはチェイスの踏み台的な印象もある。しかしハードルとチェイスでは求められる能力が異なるため、ハードルで活躍してもチェイスでは活躍できなかったり、ハードルではいまいちでもチェイスでは大活躍したりする馬はおり、やはりいずれが上位とは言えない。

そのハードル界において、英タイムフォーム社のレーティングにおける史上最高の評価を得ているのが本馬ナイトナースである。平地におけるシーバードフランケル、チェイスにおけるアークルと同じ位置づけにある馬であるわけだが、他の多くの歴史的名障害競走馬と同様に資料が決定的に不足している(アークルやレッドラムは例外的に資料が多いが、この2頭は別格である)。そんなわけであまり詳しい紹介が出来ないのは残念である。

誕生からデビュー前まで

愛国クロランスタッドにおいて、エレノア・サミュエルソン夫人により生産された。サミュエルソン夫人の父は、快速牝馬ムムタズマハル、英ダービー馬フィフィネラブレニムなどを手掛けた、英平地首位調教師3回のリチャード・ディック・ドーソン師である。ドーソン師は馬産も手掛けており、大種牡馬ブランドフォードを擁してかなりの収益を得ていたが、1935年にブランドフォードが他界した後は急激に運気が下がり、調教師としても馬産家としてもそれ以降は活躍しないまま1955年に90歳で死去していた。サミュエルソン夫人は父が遺したクロランスタッドを受け継いで馬産活動を続けていた。彼女は幼少期に片方の目を失明していたが、それでも乗馬を嗜むなど大の馬好きであり、馬に関するその知識は比類がないとまで評されたほどだった。

そんな彼女の手によりこの世に生を受けた本馬は、1歳時のニューマーケットセールに出品された。そして英国ノースヨークシャー州モルトン町のグレートハブトンに厩舎を構えていたピーター・イースタービー調教師により1300ギニーで購入され、彼の顧客だったレグ・スペンサー氏の所有馬、イースタービー師の管理馬となった。イースタービー師は平地と障害の両方の競走馬を手掛けていたが、どちらかと言えば障害競走馬の育成に長けていたようである。

競走生活(73/74~75/76シーズン)

もっとも本馬は当初から障害競走を目指していたわけでは無く、最初は平地競走を走り続けた。しかし2歳時は6戦未勝利。3歳時も6戦して、リポン競馬場で出走した未勝利戦を1勝しただけだった。4歳時は平地競走を3戦して2勝2着1回の成績を挙げたが、これはおそらくナショナルハントが主催する将来の障害競走馬が距離や重い斤量に慣れるための準備競走だったと思われる。

4歳時の1975/76シーズンからハードル競走に向かった。障害競走の主戦はパディ・ブロデリック騎手が務めた。ハードル競走に参戦した本馬は連勝街道を邁進した。11月にはニューカッスル競馬場でファイティングフィフスハードル(16F)に出走して勝利。さらに愛国レパースタウン競馬場に向かい、アイリッシュスウィープハードル(16F:現ボイルスポーツハードル)に出走して勝利。さらに年明けにはフォスラス競馬場で行われるウェールズチャンピオンハードル(16F)も勝利。

そして3月にはチェルトナム競馬場で行われる欧州ハードル界の最高峰競走・英チャンピオンハードル(16F)に出走した。本馬が単勝オッズ3倍の1番人気に支持され、後にファイティングフィフスハードル3回・クリスマスハードルなどを勝ち、英タイムフォーム社のレーティングにおいて176ポンドを獲得するバーズネストが単勝オッズ4.33倍の2番人気となった。レースは本馬が先頭を走り、バーズネストが少し後方を先行する展開となった。そして2番手のバーズネストに3馬身ほどの差をつけて直線に入ると、最終障害も無事に飛越。ところがここから本馬は延々と外側に斜行を始めた。そして真っ直ぐに走ってきたバーズネストとの差がみるみる縮まった。しかしゴール前でブロデリック騎手が本馬に右鞭を使ってそれ以上の斜行を阻止し、バーズネストを1馬身差の2着に抑えて勝利した。

翌4月にはエアー競馬場でスコティッシュチャンピオンハードル(16F)に出走して、これもまた勝利した。

競走生活(76/77シーズン)

シーズンが変わって76/77シーズンになっても快進撃は続いた。何かのレースで敗れて連勝自体は10で止まってしまったが、年明けのウェールズチャンピオンハードル(16F)を勝利。

そして迎えた英チャンピオンハードル(16F)では、バーズネストに加えて、翌年と翌々年の英チャンピオンハードルを2連覇するモンクスフィールド、モンクスフィールドの後を受けて英チャンピオンハードルを2連覇する他にファイティングフィフスハードルも2勝する同厩馬シーピジョン、このシーズンのクリスマスハードルを勝ってきたドラマチストなどとの対戦となった。レースは前年と同じく本馬が先頭を引っ張り、他馬勢が離されずに追いかけてくる展開となった。そして本馬が先頭で直線に入ってきたが、この段階でモンクスフィールドとドラマチストもすぐ直後まで来ており、直線入り口では内側から順番に本馬、ドラマチスト、モンクスフィールドの3頭が横並びとなった。そして3頭がほぼ同時に最終障害を飛越したが、一番上手に飛越した本馬がここで単独先頭に立った。すぐにモンクスフィールドが並びかけようとしてきたが、ゴール前で突き放した本馬が、2着モンクスフィールドに2馬身差、3着ドラマチストにさらに1馬身差、4着シーピジョンにはさらに4馬身差をつけて勝利した。このハイレベルな英チャンピオンハードルを制覇したことが、本馬が英タイムフォーム社のハードル分野史上最高となる182ポンドのレーティングを獲得する決め手となった。

引き続きエイントリー競馬場でテンプルゲートハードル(20F:現エイントリーハードル)に出走して、モンクスフィールドとの再戦となった。レースは最終障害を先頭で飛越した本馬に、モンクスフィールドが外側から並びかけて、2頭の激しい叩き合いとなった。いったんはモンクスフィールドが前に出たのだが、ゴール直前で本馬が差し返して、2頭が並んでゴールインした。3着馬を10馬身以上も後方に置き去りにする壮絶な一騎打ちは、写真判定でも着差を判別できずに1着同着。これはナショナルハント史上最も有名な1着同着の事例となっている。モンクスフィールドは翌年から同競走も2連覇して、この年を含めて3連覇を達成する事になり、英タイムフォーム社のハードル分野においては本馬に次ぐ史上2位の180ポンドを獲得する事になる。チェイスにおいてアークルの評価が史上最高となっている理由には、ミルハウスというこれまたチェイス史上屈指の強豪馬が好敵手として存在していた事が大きいが、本馬とモンクスフィールドの2頭の関係もこれと似たようなものであり、それが結果的に2頭をハードル界のトップ2にした一面が強い。

競走生活(77/78シーズン以降)

ハードル界の頂点に立った本馬はこの後もしばらくはハードルを走り続ける。しかし3連覇を狙った英チャンピオンハードル(16F)では、勝ったモンクスフィールドから7馬身差、2着シーピジョンから5馬身差の3着に敗退。翌年の英チャンピオンハードル(16F)でも上位3頭は前年と全く同じ順位となり、本馬は3着に敗れた。ウィリアムヒルハードル・フリーハンデハードルを勝利したものの、ハードルで行き詰ってしまった本馬は、この後にチェイスに転向する事になった。

しかし冒頭で述べたように、ハードルで活躍したからチェイスでも活躍できるとは限らない。本馬はチェイスでも、グラハムトロフィー・ブキャナンウイスキー金杯・マンダリンチェイス(26.5F)・ペンニンチェイス・レッドアリゲーターチェイス・ノーベンバーチェイスなど13勝を挙げており、決して活躍しなかったわけではない。しかしチェルトナム金杯といったチェイス界の最高峰競走を制覇するには至らなかった。

実は1度だけ惜しかった事がある。それは1981年に出走したチェルトナム金杯(T26F)だった。先頭で直線に入ってきた本馬だったが、すぐにキングジョージⅥ世チェイス2連覇のシルヴァーバック(翌年のチェルトナム金杯を制覇)、リトルオウルの2頭に抜かれてしまった。2頭が叩き合いながら伸びていき、本馬は離された3着に落ちた。最後から2番目の障害でシルヴァーバックが飛越にてこずって失速し、リトルオウルが単独で先頭に立ち、シルヴァーバックとそれに並びかけた本馬が追う展開となった。すぐにシルヴァーバックを競り落とした本馬だったが、ここから右側によれる悪い癖が顔を覗かせ、真っ直ぐに走ったリトルオウルを捕まえられずに2馬身差の2着に敗退。これを勝てば史上初の英チャンピオンハードル・チェルトナム金杯ダブル制覇だったのだが、達成できなかった。12歳まで走って競走馬を引退した。

競走馬としての特徴

本馬の競走馬としての特徴は、頭を高く上げて走る点だった。本馬の主戦を務めたブロデリック騎手は騎乗馬を勝負どころでも長手綱で走らせる事で有名であり、本馬がラストスパートでも頭を高く上げて走ったのはそれも影響したと思われる。しかし本馬自身がそういう走り方を好んだ点もあったらしく、いわゆる切れ味には欠けていたが、(斜行さえしなければという但し書き付きで)なかなか失速しない持続力ある脚を武器としていた。本馬とシーピジョンの2頭を手掛けたイースタービー師が「速度だけならシーピジョンのほうが上でしたが、その他の面ではナイトナースのほうが断然上でした」と語っているのも、それを裏付けている。

血統

ファルコン Milesian My Babu Djebel Tourbillon
Loika
Perfume Badruddin
Lavendula
Oatflake Coup De Lyon Winalot
Sundry
Avena Blandford
Athasi
Pretty Swift Petition Fair Trial Fairway
Lady Juror
Art Paper Artist's Proof
Quire
Fragilite Prince Bio Prince Rose
Biologie
Fanchonnette Mon Talisman
Floribella
Florence Nightingale Above Suspicion Court Martial Fair Trial Fairway
Lady Juror
Instantaneous Hurry On
Picture
Above Board Straight Deal Solario
Good Deal
Feola Friar Marcus
Aloe
Panacea Galene Blue Skies Blandford
Blue Pill
Static Teddy
Listen In
Toute Vite Vatout Prince Chimay
Vashti
Hurry off Hurry On
Bay Lady

父ファルコンは英国産馬で、競走馬としては9戦4勝。ニューS・英ナショナルS・テンプルSを勝った早熟の快速馬だった。種牡馬としては当初英国や愛国で供用されていたが、12歳時の1976年に日本に輸入された。この1976年は、ファルコンと同じくマイリージャンを父に持つパーソロンが2度目の全日本首位種牡馬を獲得した年であり、おそらくパーソロン人気にあやかっての来日だったと思われる。しかしこの1976年は本馬が大活躍するまさに寸前の時期であり、タイミングがもう少しずれていたら日本に輸入されることは無かったかも知れない。日本では大競走の勝ち馬こそ出さなかったが、まずまずの種牡馬成績を収めた。しかしそのまま海外で供用されていたらさらに凄い障害競走馬を出したかも知れず、日本に輸入されて正解だったかどうかは微妙なところである。

母フローレンスナイチンゲールの競走馬としての経歴は不明。本馬の生産者サミュエルソン夫人の元で繁殖入りしていた。フローレンスナイチンゲールの母パナシアの半妹スピードウェルの子にスピードウェイ【ユジェーヌアダム賞】がいる他、パナシアの祖母ハリーオフの半妹レディアベスの牝系子孫にデュクドゲルドル【リュパン賞】、日本で走った南関東三冠馬サンオーイ【羽田盃・東京ダービー・東京王冠賞・東京大賞典】などがいるが、近親の活躍馬は多くない。ハリーオフの4代母メモワールは1890年の英オークス・英セントレジャーの勝ち馬で、ヒンドスタンワイルドアゲイン、アローエクスプレス、ファンタスト、バンブーアトラス、プリモディーネといった馬達もメモワールの牝系子孫出身馬である。→牝系:F3号族③

母父アバヴサスピションはコートマーシャル産駒で、現役成績は12戦2勝。セントジェームズパレスS・ゴードンSを勝ち、コロネーションCでプティトエトワールの3着している。血統的には、ヨークシャーオークス馬アバヴボードの息子、英1000ギニー馬ハイペリキュームの甥、オリオールラウンドテーブルの従兄弟であるから、かなりの良血である。しかし種牡馬としては大失敗ではないにしても、それほどの成功は収められなかった。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、イースタービー師の元で余生を送った。そして1998年3月に疝痛のため27歳で安楽死の措置が執られ、遺体は自身の生涯の大部分を過ごしたグレートハブトンに埋葬された。

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