ダイヤモンドジュビリー

和名:ダイヤモンドジュビリー

英名:Diamond Jubilee

1897年生

鹿毛

父:セントサイモン

母:パーディタ

母父:ハンプトン

両親から受け継いだ極度の気性難をクリアして史上9頭目の英国三冠馬となり、後に亜国で種牡馬として大活躍する

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績16戦6勝2着5回3着1回

誕生からデビュー前まで

史上9頭目の英国三冠馬で、19世紀最後の英国三冠馬でもある。英国女王ヴィクトリアの息子であるアルバート・エドワード英国皇太子の生産・所有馬である。父が大種牡馬セントサイモン、全兄が名馬パーシモンということで大いに期待されていた。

馬名は「60周年記念式典」の意味で、本馬が産まれた年の6月にヴィクトリア女王在位60周年記念式典が行われたことから、エドワード皇太子の妻であるアレクサンドラ皇太子妃(ロシア最後の皇帝ニコライⅡ世の伯母に当たる)の提案で命名されたものである。

エドワード皇太子の専属調教師だったリチャード・マーシュ師の管理馬となった。体高は16ハンド弱で、非常に整った知的な顔立ちと、極めて力強い腰と脚を有しており、その馬体はサラブレッドの見本と言われるほど素晴らしいものだった。馬体のみならず、その血統背景と、皇太子の生産馬という事なども相まって、かなり早い段階からマスコミの間で注目される期待馬だった。しかしながら「悪魔の馬」と呼ばれるほど、恐ろしく気性が悪いという欠点があった。父に似て気性難の産駒が多いセントサイモンの子の中でも、本馬のそれは最悪の部類に属しており、まともに接することができる人間はほとんどいなかった。

競走生活(2歳時)

2歳7月にアスコット競馬場で行われたコヴェントリーS(T5F)でデビューして、単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持された。騎乗するのは王室お抱えの名手ジャック・ワッツ騎手だった。しかしパドックで観客を蹴ろうとするなど大暴れしてスタート時刻を大幅に遅らせてしまった。そしてレースにおいても、走る事よりも騎乗したワッツ騎手を振り落とそうとする事に情熱を注ぎ、デモクラート、後の英1000ギニー3着馬ヴェインダッチェス、仏国から来た後のモルニ賞の勝ち馬ルシエといった馬達に屈して、デモクラートの着外に敗れた。同月にニューマーケット競馬場で出走したジュライS(T5.5F)では、スタート前にワッツ騎手を振り落として走り回った。捕獲されてレースには出たが、キャプテンケトルの最下位に終わった。

このあまりの気性の悪さを改善するため、去勢が検討された。ところが検査の結果、本馬は停留睾丸(通常、睾丸は胎生期には腹腔内にあり、成育とともに下降して、出産時には陰嚢内に完全に収まるものだが、この正常な睾丸下降が行われず、下降の途中で睾丸が停滞してしまった状態を指す)である事が判明した。当時の獣医学では、停留睾丸を摘出する手術はかなり困難で危険が伴うものだったため、去勢は見送りとなり、とりあえず騎手を変更して様子を見る事になった。

同月にグッドウッド競馬場で出走したプリンスオブウェールズS(T6F)では、モーニントン・キャノン騎手が騎乗した。結果は5ポンドのハンデを与えたエプソムラッドの半馬身差2着と、3戦目にして初めてまともに走った。秋にニューマーケット競馬場で出走したボスコーエンSでは、再度キャノン騎手が騎乗して、辛くも初勝利を挙げた。続いてミドルパークプレート(T6F)に出走する事になったが、このレースではキャノン騎手の都合がつかなかったため、本馬には再度ワッツ騎手が騎乗した。結果は、コヴェントリーSで本馬を破った後にナショナルブリーダーズプロデュースS・英シャンペンSを勝っていたデモクラートの半馬身差2着だったが、ワッツ騎手は最初の2戦で悲惨な目に遭っていたこともあり、2着という結果に喜んだという。マーシュ師も、この調子ならば来年の英ダービーは貰ったと語ったという。続くデューハーストプレート(T7F)でもワッツ騎手を鞍上に、デモクラートの3/4馬身差2着と好走。2歳時を6戦1勝2着3回の成績で終えた。

本馬に何度も勝利したデモクラートが、英国クラシック競走には向かない早熟の快速馬とみなされていた(実際にデモクラートは2歳戦限りで表舞台から消えている)ため、本馬は翌年の英国クラシック競走の最有力候補と目されるようになっていた。

しかし本馬はワッツ騎手に騎乗されるのをとにかく嫌がった。そのために他の騎手を探す必要が生じたのだが、キャノン騎手も、冬場の調教中に振り落とされて危うく本馬に踏み殺される寸前となったために、二度とこの馬には乗りたくないと言い張った。話し合いの結果、ハーバート・ジョーンズ氏を本馬の臨時主戦騎手とすることが決定された。当時19歳だったジョーンズ氏は、エドワード皇太子の元で障害競走馬を担当していたジャック・ジョーンズ調教師の息子だった。騎手としての経験は皆無ではなく、レースで勝ち星を挙げたことも既にあったが、この時期にはマーシュ師のところで厩務員として働いていた。しかし担当する馬全てに愛情を注いでいたため、さすがの本馬もジョーンズ氏にだけはほんの少しだけ心を開いていたようである。後にマーシュ師をして「これほど正直に馬に乗る騎手は滅多にいない」と言わしめた彼の誠実さに陣営は賭けたのだった。

競走生活(3歳時)

ジョーンズ騎手を鞍上に迎えた本馬は、相変わらず暴れたり、騎手を振り落とそうとしたりの行為が収まらなかったが、ジョーンズ騎手は辛抱強く本馬をなだめ、本馬も実戦になるとしっかりと走るようになっていった。

そして3歳初戦となったのは、英2000ギニー(T8F11Y)だった。鞍上の経験が浅すぎたためか、ここでは単勝オッズ3.75倍の3番人気止まりだった。しかしレース前には見る者を感心させるほどに落ち着いており、馬体の出来も申し分なかった。そしてスタート後2ハロン地点で先頭に立つと、そのまま危なげなく走り続け、ウッドコートSの勝ち馬で後にセントジェームズパレスSを勝つボナローザを4馬身差の2着に、後にドンカスターCを勝ちセントジェームズパレスSで2着するシダスをさらに3/4馬身差の3着に破って圧勝した。

この2週間後には、英ダービーの脚慣らしとしてニューマーケットS(T10F)に出走。ここでは単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。そしてレース中盤で先頭に立つと、チーヴニングの追撃を短頭差抑えて勝利した。着差こそ僅かだったが、ジョーンズ騎手が一度も鞭を使わなかったことから、着差以上に楽勝だったと評価された。

そして迎えた英ダービー(T12F29Y)では、単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。レース前に行われるパレードで本馬が興奮しないように、パレードに出ずに直接スタート地点に向かう案が出されたが、アレクサンドラ皇太子妃が本馬をパレードで見たいと願ったためにその案は却下された(アレクサンドラ皇太子妃に関しては、後のロンドンオリンピックにおいても、マラソン競技のスタート地点とゴール地点に関して注文をつけ、その結果としてマラソン競技の距離が42.195kmという半端な距離になってしまったという有名な逸話がある)。しかし陣営の心配は杞憂に終わり、ジョーンズ騎手を鞍上にレースに出た本馬は完璧なレース運びを見せた。道中は逃げる2番人気馬フォーファーシャーの直後を追走し、直線に入るとドミノ産駒の米国産馬ディスガイズと一緒に先頭に立った。そしてディスガイズを引き離すと、最後に追い上げてきた2着サイモンデールに1馬身半差、3着ディスガイズにはさらに1馬身差をつける完勝を収めたのだった。勝ちタイム2分42秒0は、全兄パーシモンが3年前に樹立したレースレコードと同タイムだった。皇太子の持ち馬が英ダービーを制覇したことを祝福するため、エプソム競馬場に詰め掛けた観衆達は空中に帽子を放り投げ、空が帽子で黒く染まるほどだったという。

7月にニューマーケット競馬場で出走したプリンセスオブウェールズS(T8F)では、131ポンドを課せられながらも単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された。しかしここでは、20ポンドのハンデを与えた同世代の英オークス2着馬メリーギャルの逃げ切りを許し、4馬身差の2着に敗れた。メリーギャルは後にナッソーS・ハードウィックS・ドンカスターCを勝つなど牡馬顔負けの活躍を見せる実力馬であるから、ここでは斤量差が大きすぎたと言うべきであろう。それに本馬と同じ131ポンドで出走したミドルパークプレート・サセックスSの勝ち馬でデューハーストプレート・英2000ギニー・英セントレジャー2着の4歳牡馬カイマンは2馬身差の3着に抑えている。

同月にサンダウンパーク競馬場で出走したエクリプスS(T10F)でも、130ポンドの斤量を背負うことになった。それでも単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持されると、レースでは過去最高とも評される走りを披露。2分07秒4のコースレコードを計時して、10ポンドのハンデを与えたチーヴニングを半馬身差の2着に、ライムキルンS・リヴァプールサマーCの勝ち馬スコポスをさらに6馬身差の3着に破って勝利を収めた。

その後は短期休養を取り、秋の英セントレジャー(T14F132Y)に直行。単勝オッズ1.29倍という断然の1番人気に支持された。しかし今回は気性難が久々に前面に出てしまい、レース前に発汗しながら大暴れしたために、マーシュ師が宥めるのに20分を要した。しかしレースに出ると、スタートしてから4ハロンを通過した時点で早くも先頭に立ち、そのまま押し切って2着イロープメントに1馬身半差で優勝。前年のフライングフォックスに続く史上9頭目の英国三冠馬の名誉を手にした。なお、この年は英1000ギニーと英オークスもセントサイモン産駒のウイニフレッダとラロッチェが優勝しており、英国競馬史上最初で最後となる、同一種牡馬による同一年クラシック5戦全勝の偉業が達成されている。

次走のジョッキークラブS(T14F)では、再びレース前のパドックで大暴れして、スタート発走時刻をひとしきり遅らせてしまった。そして今回はレースでも本来の力を発揮することが出来ずに、英ダービーで3着に負かしたディスガイズに敗れて着外に終わった。それでも3歳時は7戦5勝2着1回の好成績を残した。エドワード皇太子はこの年の英首位馬主に、マーシュ師はこの年の首位調教師に、セントサイモンもこの年の英首位種牡馬になっている。

競走生活(4歳時)

本馬が4歳になった年の1月にヴィクトリア女王が崩御したため、エドワード皇太子が即位して英国王エドワードⅦ世となった。多忙になった国王は、本馬を含む全ての所有馬を、当時の英国枢密院議長だった第8代デヴォンシャー公爵スペンサー・キャベンディッシュ卿に賃貸した。キャベンディッシュ卿の意向により本馬は4歳時も現役を続行した。冬場の間に体格は一層成長しており、古馬になってからの活躍も見込まれていた。しかし管理するマーシュ師は、冬場の間に本馬の気性がますます激しくなったのを感じており、楽観視はしていなかった。

4歳時における本馬の目標は、通称“Ten Thousand Pounders”と呼ばれる3つの重要競走プリンセスオブウェールズS・エクリプスS・ジョッキークラブSであり、この3競走のみに出走した。まずはプリンセスオブウェールズS(T8F)に出たが、ここでは136ポンドが課せられてしまい、11ポンドのハンデを与えたエプソムラッドの半馬身差2着に敗れた。1か月後のエクリプスS(T10F)では、ディスガイズと共に142ポンドのトップハンデが課せられ、前走で本馬を破ったエプソムラッドは139ポンドだった。さらにはスタート直前にひと悶着を起こして出遅れてしまい、ゴール前で追い上げてきたが、エプソムラッド、12ポンドのハンデを与えた3歳牡馬イアン、ディスガイズの3頭に届かず、エプソムラッドの4着に敗れた。秋のジョッキークラブS(T14F)では、143ポンドのトップハンデを課された。その結果、21ポンドのハンデを与えた3歳牡馬ピーターマリッツバーグから10馬身差、3ポンドのハンデを与えたエプソムラッドからも4馬身差をつけられて3着に敗退。結局4歳時は3戦して1勝も出来ないまま現役引退となった。

ちなみに、本馬で英国三冠騎手となったジョーンズ氏は、その後引退したワッツ騎手に代わって王室の専属騎手となり、やはりエドワードⅦ世の持ち馬だったミノルで英2000ギニー・英ダービーを制するなど活躍することになるが、彼を騎手として育てたのは本馬の気性難であったとも言える。

血統

St. Simon Galopin Vedette Voltigeur Voltaire
Martha Lynn
Mrs. Ridgway Birdcatcher
Nan Darrell
Flying Duchess The Flying Dutchman Bay Middleton
Barbelle
Merope Voltaire
Juniper Mare
St. Angela King Tom Harkaway Economist
Fanny Dawson
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Adeline Ion Cain
Margaret
Little Fairy Hornsea
Lacerta
Perdita Hampton Lord Clifden Newminster Touchstone
Beeswing
The Slave Melbourne
Volley
Lady Langden Kettledrum Rataplan
Hybla
Haricot Lanercost
Queen Mary
Hermione Young Melbourne Melbourne Humphrey Clinker
Cervantes Mare
Clarissa Pantaloon
Glencoe Mare
La Belle Helene St. Albans Stockwell
Bribery
Teterrima Voltigeur
Ellen Middleton

セントサイモンは当馬の項を参照。なお、本馬は父にとって最後の英国クラシック競走優勝馬となった。

母パーディタは現役時代、チェスターフィールドナーサリーS・リヴァプールサマーC・エアー金杯・グレートチェサーC2回など7勝を挙げた。マーシュ師の前にエドワード皇太子の専属調教師を務めていたジョン・ポーター師によって、その優秀なスタミナ能力を見初められ、彼の薦めにより英国王室に繁殖牝馬として迎えられていた。パーディタの産駒には、いずれも本馬の全兄で種牡馬としても成功したフロリゼル【セントジェームズパレスS・ゴールドヴァーズ・グッドウッドC・ジョッキークラブC】、パーシモン【英ダービー・英セントレジャー・アスコット金杯・エクリプスS・コヴェントリーS・リッチモンドS・ジョッキークラブS】、サンドリンガム(米国で種牡馬入りしてプリークネスS勝ち馬ロイヤルツーリストなどを輩出)がいる。パーディタの曾祖母テターリマの半兄には英ダービー馬ワイルドデイレル(名種牡馬バッカニアの父)がいる。

ポーター師の読みどおりに繁殖牝馬としては大成功を収めたパーディタだが、非常に神経質な気性の持ち主としても知られており、本馬の気性難はセントサイモンとパーディタの両方から受け継いだものだろうと言われている。もっとも、同血統のフロリゼルは分別がある利口な馬、パーシモンは親切な気性の持ち主だったと評されているから、両親が気性難だからといって、必ず産駒も気性難になるわけではないようである。ちなみに本馬とパーシモンは顔立ちも似ておらず、本馬のほうが断然ハンサムだったという。ただしレースに出た際の勇敢さでは、本馬よりもパーシモンのほうが上だったという。

パーディタの半妹ドロシードラッグルテール(父スプリングフィールド)の牝系子孫が発展しているが、既にパーシモンの項に記載したため、詳細はそちらや別ページの牝系図を参照してほしい。→牝系:F7号族①

母父ハンプトンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はエドワードⅦ世がサンドリンガムに所有していた牧場で種牡馬入りした。初年度の種付け料は300ギニーに設定された。しかし、セントサイモン産駒の種牡馬は当時の英国内には溢れかえっており、しかも本馬の全兄フロリゼルとパーシモンが人気種牡馬となっていたこともあって、本馬の種牡馬としての立ち位置は甚だ不利だった。

本馬が種牡馬生活5年目を迎えた1906年に、亜国ブエノスアイレス近郊のラスオルティガススタッド牧場の牧場主ドン・イグナチオ・コレア氏が種牡馬を求めて英国にやってきた。ラスオルティガススタッド牧場のエース種牡馬として活躍していたネアポリス(スプリングフィールド産駒の英国産馬で、合計7度の亜首位種牡馬に輝いた大種牡馬)がこの前年に他界したため、代わりの種牡馬を導入する必要があったのである。英国に来た当初は気に入った馬をなかなか発見できないでいたコレア氏だったが、サンドリンガムに来た際に本馬を見ると、とても夢中になった。コレア氏は早速、エドワードⅦ世の競馬マネージャーをしていたマルコス・ベレスフォード卿に対して、本馬の購入を打診した。ベレスフォード卿は最初、この馬は売る予定がないとしてこの申し出を断ったのだが、全兄パーシモンが既に1902年の英愛首位種牡馬に輝く(この1906年にも首位になっている)など大活躍しており、本馬が種牡馬として活躍する場はもはや英国にはないと判断されたこともあって、最終的には取引が成立。コレア氏により3万ギニーで購入された本馬は、同年の繁殖シーズンが終わった7月になって亜国へと旅立っていった。

亜国に到着した本馬は即座に種牡馬生活を開始(亜国などの南半球では9月頃からが繁殖シーズンである)した。セントサイモン産駒の有力種牡馬が他にいなかった亜国では本馬は人気種牡馬となった。そして実際に種牡馬としても大きな成功を収め、1914/15・15/16・16/17・21/22シーズンと4度の亜首位種牡馬に輝き、それ以外に9回も亜国種牡馬ランキング10位以内に入った。母父としては首位種牡馬になることはなかったが、1929/30シーズンの2位を筆頭に、1922/23~1931/32シーズンまで10年連続で10位以内に入る活躍を見せた。また、本馬の血を引く馬は亜国のみならず、チリ、ブラジル、ウルグアイなどにも広がり、各国で主要競走の勝ち馬を輩出した。これらの活躍により、本馬は南米競馬の発展に大きく寄与した。ただし、母国英国における「セントサイモンの悲劇」と同じ現象が南米でも発生し、本馬の直系は1950年代頃には南米でも完全に途切れている。

また、本馬が英国に残してきた数少ない産駒の1頭ダイヤモンドウエッディングは後に日本に輸入され、アサヒ、レッドウヰング、ハツタマ、チハヤ、ダークメード、バンザイ、ゴールドウヰング、マツカゼ、ラレド、コウエイ、ヤングナカヤマと帝室御賞典の優勝馬を11頭輩出する成功を収め、黎明期の日本競馬に大きな影響を与えたが、日本においても直系はとうの昔に途絶えている。とはいっても本馬の血を引く馬が絶滅しているわけでは勿論なく、例えばテイエムオーシャンの母系を遡ると、ダイヤモンドウエッディングとビューチフルドリーマーの間に産まれた第二ビューチフルドリーマーに行き着いたりする。

生涯治らなかった気性難

閑話休題、本馬の激しい気性は亜国に来た後にも変わることはなかった。ラスオルティガススタッド牧場に到着したばかりの本馬の様子を見に来たコレア氏に対して、本馬は激しく威嚇を行った。驚いて逃げ出したコレア氏は厩務員の1人に命じて大きな杖を持ってこさせると、その杖を持って本馬の馬屋に入り、床を数回叩いた。さすがの本馬もこれには驚いたらしく、二度とコレア氏に威嚇行為をとることはなかった。

それでも本馬の気性難が改善されることはなく、死ぬまで大半の人間に対して悪魔的な振る舞いを取り続けたため、近づくことが出来る人間はひと握りだったという。コレア氏の他には、牧場のマネージャーだったハリー・ガーリック氏という人物のみが、辛うじて本馬の心を開くことができたという。ある晩のこと、見知らぬ人間が、餌を与える目的か何かのために、本馬の馬屋へと近づいてきた。そして本馬の首を撫でて悪意がないことを示そうとした次の瞬間、本馬が突如牙をむいた。悲鳴を聞きつけたガーリック氏が駆けつけてみると、本馬がその人の手に噛み付いて食い千切ろうとしていたという。

晩年になって病気がちになっても、相変わらず炎のような気性を有しており、経口薬を投与するなどの医療行為は困難を極めた。ガーリック氏は一計を案じ、先端に薬を塗りたくった棒を本馬の顔の前に置いた。すると目の前に現れた棒のことが気に入らなかった本馬は、即座に棒の先端に噛り付き、2時間以上もそのままの体勢でいた。こうしてこのときは薬の投与に成功したのだが、本馬はそう何度も同じ作戦に引っ掛かるほど馬鹿ではなかったらしく、次は上手くいかなかったようである。そのためガーリック氏は色々な策略を試みる必要が生じ、本馬との知恵比べのような様相を呈したという。

1923年7月に26歳で他界したが、死の数か月前には牧場を脱走して近隣の町に逃げ込むという事件が発生している。本馬が町に入り込んだところで、学校へ通う途中の男子生徒の集団と行き会った。本馬を止めようとしたのか、男子生徒達が手を繋いで人間の鎖を作り、本馬の行く手を遮った。するとそれを見た本馬はさらに興奮し、ボウリングのピンに向かって転がるボールよろしく、男子生徒の集団めがけて突撃していった。泡を食った生徒達が散り散りになって逃げ出した後も暴走を続けた本馬は、駅まで辿りついたところでようやく捕獲された。本馬が牧場に返される際には、抗議の声が街中から上ったという。もっとも本馬が人を殺したという話は幸いにも伝わっていない。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1903

Sancy

チェスターヴァーズ・ジョッキークラブS・プリンスオブウェールズS

1904

Jubilee

パークヒルS

1904

Queen's Advocate

プリンセスオブウェールズS

1908

As de Espadas

ナシオナル大賞

1911

Smasher

ナシオナル大賞

1913

Falerna

ラウル&ラウルEチェバリエル大賞

1914

Dalmacia

ポージャデポトランカス大賞

1914

Moloch

カルロスペレグリーニ大賞

1919

Mehemet Ali

サンパウロ大賞2回

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