和名:マカイビーディーヴァ |
英名:Makybe Diva |
1999年生 |
牝 |
鹿毛 |
父:デザートキング |
母:トゥゲラ |
母父:リヴァーマン |
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豪州最大の競走メルボルンCを3連覇して豪州競馬の伝説となっただけでなく現役終盤にはコックスプレートも優勝した豪州が誇る長距離女王 |
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競走成績:3~6歳時に豪日で走り通算成績36戦15勝2着4回3着3回 |
メルボルンCを3連覇した豪州競馬の伝説
1861年に創設されて150年以上の歴史を持つメルボルンCは、豪州に星の数ほどある競走の中でも最高の賞金額(年々上昇しており、2005年は500万ドル、2009年は550万ドル、2010年は600万ドル、2012年以降は620万ドル)を誇っており、“the race that stops a nation(国民全てが歩みを止めて見守る競走)”とまで言われる豪州最大の競馬の競走である。同競走が行われる毎年11月上旬の時期は通称“Melbourne Cup Carnival(メルボルンカップカーニヴァル)”と呼ばれる豪州競馬最大の祭典であるが、特に同競走の当日は、同競走が施行されるフレミントン競馬場があるメルボルン地区の祝日になっている。
同競走には毎年300~400頭もの競走馬が初期登録するが、最終的には最大24頭まで絞られる(これはあくまでも現在の話で、1890年には史上最高の39頭が出走している)。距離、格、賞金、それに国際的な認知度を考慮すると、日本における天皇賞春とジャパンCと有馬記念を足したような競走であるが、決定的にそれらの競走と違うのはハンデ競走であるという点である。斤量の下限は49kg、斤量の上限は無いがトップハンデ馬は原則57kg未満であってはならないというルールがある。GⅠ競走に位置付けられているハンデ競走は米国等にも数多くあるが、パートⅠ国の平地競走における最高の競走として位置付けられているハンデ競走はメルボルンCをおいて他には無い。
1度勝った馬は翌年以降に厳しい斤量を課せられることもあり、同競走を2回以上勝つのは非常に困難であり、19世紀豪州最強馬カーバインは2回出走して1着1回2着1回、豪州競馬最大の英雄ファーラップは3回出走して1勝1回3着1回着外1回、史上唯一コックスプレートを3連覇したキングストンタウンは2回出走して2着1回着外1回と、いずれも良くて1勝である。同競走を2回勝った馬は、1861・62年に連覇したアーチャー、1932・34年に勝ったピーターパン、1968・69年に連覇したレインラヴァー、1974・75年に連覇したシンクビッグの4頭だけであり、そして3勝した馬は史上1頭しかいない。それが2003~05年にかけて3連覇した本馬なのである。
本馬が同競走3連覇を果たした直後には「メルボルンCの3連覇は不可能と考えられていました・・・しかしそれは今日までの話です」と報道された。本馬の性別は雌であり、短距離におけるブラックキャビア、マイル戦におけるサンラインと共に、豪州競馬において最も成功した牝馬3頭のうちの1頭に数えられている。豪州競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトにおいては「豪州競馬の伝説」と評されているほどの存在である。
誕生からデビュー前まで
そんな本馬だが、産まれは豪州ではなく英国である。本馬の生産者はトニー・サンティック氏という人物である。1952年にクロアチアで産まれたサンティック氏は6歳時に家族と一緒に豪州へと移住。そして長じてマグロの養殖業を始めて成功していた。彼が創業したマグロ水産会社エミリー・クリスティアーナ社は、南オーストラリア州のリンカーン港においては第2位の規模を誇る地元屈指の水産会社となっている。
しかし1997年にマグロの水揚げが減少したことがあり、代わりに競馬に注目して馬産を開始していた。サンティック氏の競馬エージェンシーをしていたジョン・フート氏は1998年12月にタタソールズ社が英国で実施した繁殖牝馬のセリにおいてトゥゲラという牝馬を6万ギニーで購入した。この時点でデザートキングの子を受胎していたトゥゲラは、サンティック氏の知人ディック・フォールストン氏が英国サマーセット州に所有していたブリットンハウススタッドに移動して、翌年3月21日に僅か5分の安産で1頭の牝馬を産み落とした。この子馬こそが本馬である。
サンティック氏は当初本馬を自分で所有するつもりは無かったらしく、当歳の本馬をタタソールズ社がニューマーケットで実施したセリに出品した。しかし本馬を買おうとおう人物は1人も現れなかった。1歳8月までブリットンハウススタッドに残っていた本馬だったが遂に買い手がつかなかったために、サンティック氏は本馬を豪州に連れてきて自分の所有馬として走らせることを決断した。
サンティック氏は、自分の会社で働いていた女性従業員、モーリーン、カイリー、ベリンダ、ダイアン、ヴァネッサの5人に本馬の命名を依頼した。すると彼女達は自分達の名前(Maureen、Kylie、Belinda、Diance、Vanessa)の頭文字を2文字ずつとった“Makybe Diva”という名前を造り出し、これが本馬の名前になった。
この話自体は海外の資料にも載っている有名なものだが、日本の某海外馬紹介サイトではこの辺りの経緯が脚色されて、より面白く書かれている。ところがこのサイトには、本馬の所有者はエミリー・クリスティアーナという女性であるとしている根本的な誤りがある(エミリー・クリスティアーナはサンティック氏の会社の名前。この会社名はサンティック氏が死別した最初の妻ソーニャ夫人との間にもうけた娘エミリー嬢と、サンティック氏が再婚した2人目の妻クリスティアーナ夫人の名前を足し合わせたものである)から、脚色された話は面白いけれども同サイト運営者による創作だと思われる。
エミリー・クリスティアーナ社名義で競走馬となり、デヴィッド・ホール調教師に預けられた本馬は、2002年7月にデビューした。この月は本馬と同じく1999年に産まれた豪州産馬にとっては2歳末の時期である(豪州では8月に馬齢が加算される)が、英国産まれの本馬にとっては既に3歳7月の時期であった。同年産まれの豪州産馬達より半年近く早く産まれた本馬は、同年産まれの豪州産馬達が出走する2歳・3歳限定の大競走には参加する資格が無かったのである。
競走生活(01/02・02/03シーズン)
デビュー戦はメルボルン地区にあるベナラ競馬場で行われた芝1200mの3歳未勝利戦だったが、ブルースエクスプロージョンの4馬身3/4差4着に敗れてしまった。次走は翌2002/03シーズンとなる翌月に同じメルボルン地区にあるワンガラッタ競馬場で行われた芝1600mの未勝利戦だった。このレースでは主戦となるV・ホール騎手を鞍上に、2着シングアスアチューンに2馬身3/4差をつけて初勝利を挙げた。
次走はやはりメルボルン地区にあるセール競馬場で9月に行われたホテリアーズH(T1700m)となり、2着ザニサに1馬身差で勝利した。次走はやはりメルボルン地区にあるバララット競馬場で同月に行われたカールトンドラフトH(T2000m)となり、2着アワーファイアーマンサムに2馬身1/4差で勝利した。
ここまでは筆者も聞いたことが無いようなマイナー競馬場における出走ばかりだったが、10月に出走した次走のジェサビールH(T2000m)は、メルボルンCが行われるフレミントン競馬場におけるレースだった。ここではリトルミスクイックという馬が1位でゴールインし、本馬は首差2位入線だったのだが、リトルミスクイックが降着となった(理由は資料に記載が無く不明)ために本馬が繰り上がって勝ちを拾った。
しかし1位ではゴールインできなかったためか、次走は同じメルボルン地区にあるマイナー競馬場に逆戻り。ウェリビー競馬場で同月末に行われたニューウェリビーC(T2000m)に出走した。ここではルーク・カリー騎手を鞍上に、2着アクィヴァーに3/4馬身差で勝利した。
次走は11月にフレミントン競馬場で行われたクイーンエリザベスS(豪GⅡ・T2500m)だった。このレースはハンデ競走であり、5連勝中と言っても表舞台における出走が無かった本馬の斤量は52kgだった。そして今回もカリー騎手とコンビを組んだレースでは、本馬より3kg斤量が重い2着スピリットオブウエストベリーに頭差で勝利した。この勝利がきっかけで、ホール師は翌年のメルボルンCに目標を据えたと言われている。
その後はしばらく休養を取り、本馬にとっては4歳時となる翌2003年4月にコーフィールド競馬場で行われたアニヴァーサリーヴァーズ(T1400m)で復帰した。しかしここではカラマゾーの4馬身半差8着と完敗して連勝ストップ。それから間もなくフレミントン競馬場で出走したオークランドRCH(T1600m)でも、勝った9歳馬オールドマンからの着差は僅か1馬身1/4差ながらも6着に敗退。再び休養入りし、2002/03シーズンの出走はこれが最後になった。
競走生活(03/04シーズン)
復帰戦は8月にコーフィールド競馬場で行われたウェルターH(T1400m)だった。ここでは勝ったウェスルレーヴから4馬身半差の4着に敗れた。次走は9月にムーニーバレー競馬場で行われたストックスS(豪GⅢ・T1600m)だった。ここでは、同年4月のAJCオークスを勝っていた豪州産馬サンデージョイ(父は日本が誇る大種牡馬サンデーサイレンスだが、誕生したのは1999年8月であり、ローズヒルギニー・AJCダービーなどにも出走している)が対戦相手となった。結果はサンデージョイが勝ち、本馬は4馬身差の4着に敗れた。
次走は10月にフレミントン競馬場で行われたターンブルS(豪GⅡ・T2000m)となった。ここでもサンデージョイと顔を合わせたが、本馬が単勝オッズ6倍の1番人気に支持された。しかし勝ったスチュードベーカーから1馬身3/4差の4着に敗れた。GⅡ競走クレイグリーSを勝ってきたペンタスティックが2着に入り、サンデージョイは8着だった。
それから2週間後にはGⅠ競走初出走となるコーフィールドC(豪GⅠ・T2400m)に登場した。対戦相手の層の厚さはさすがに段違いであり、サンデージョイやスチュードベーカーに加えて、サウスオーストラリアンダービー・アンダーウッドSの勝ち馬マミファイ、クイーンズランドオークスの勝ち馬ザガリア、前年のシドニーC勝ち馬オナーベイブ、AJCオークスの勝ち馬ローズアーチウェイ、スプリングチャンピオンSの勝ち馬プラティナムシザーズ、ドンカスターHの勝ち馬グランドアーミー、新ダービー・ザビールクラシックの勝ち馬ヘイル、新国のGⅠ競走ケルトキャピトルSの勝ち馬ディスティンクトリーシークレット、新国のGⅠ競走ウェリントンCの勝ち馬オアーズマンと、多くのGⅠ競走勝ち馬が出走してきた。結果は実績最上位のマミファイが勝ち、グレン・ボス騎手が騎乗した単勝オッズ15倍の本馬は4着に敗れたが、マミファイとの着差は僅か1馬身差であり、18着最下位に敗れたサンデージョイを始めとする大半のGⅠ競走勝ち馬達に先着した。
そして次走がメルボルンC(豪GⅠ・T3200m)となった。この年の出走馬は本馬を含めて23頭で、アンダーウッドSとコーフィールドCでいずれも2着だったVRCセントレジャーの勝ち馬グレイソング、コーフィールドCで3着だったディスティンクトリーシークレット、同6着だったザガリア、サウスオーストラリアンオークスの勝ち馬シーズアーチー、サウスオーストラリアンダービーの勝ち馬ビッグパット、一昨年のシドニーCの勝ち馬ミスタープルーデント、クイーンズランドダービーの勝ち馬カウンティティロン、ブリスベンCの勝ち馬ピアチャイ、オセアニア外部からもバーデン大賞・オイロパ賞・ヨークシャーC・クイーンズヴァーズを勝っていたゴドルフィンの所属馬マムール、グッドウッドCの勝ち馬ジャーディンズルックアウト、愛国の障害GⅠ競走チャンピオンステイヤーズハードルの勝ち馬ホーリーオーダーズなどが参戦してきた。
メルボルンCをトップハンデ馬が勝った事例は長らく無かったのだが、この年のトップハンデ馬マムールは同競走としては例外的に55.5kgと比較的軽量であり、鞍上のF・デットーリ騎手効果もあったのか単勝オッズ6.5倍の1番人気に支持された。そして単勝オッズ8倍の2番人気は本馬であった。斤量は51kgと軽量だったが、本馬と同斤量以下の馬が13頭おり、トップハンデが軽量だった事、本馬が牝馬である事も考慮すると特別に斤量に恵まれたというわけではなかった。
スタートが切られるとマムールが先行して、前走から引き続きボス騎手が騎乗した本馬は馬群の中団やや後方を追走した。最後の直線に入る前にマムールは失速していき、直線に入ると後方待機馬勢が一気に押し寄せてきた。その中から馬群の間を割るように抜け出してきたのは直線入り口13番手の本馬だった。残り200m地点で先頭に踊り出ると、最後方からの追い込みに賭けたシーズアーチーやジャーディンズルックアウトの追撃を完封。2着シーズアーチーに1馬身1/4差をつけて勝利を収め、牝馬としては2001年のエセリアル以来2年ぶり14頭目のメルボルンC覇者となった。
しかし2番人気の本馬が勝ったにも関わらず、1番人気のマムールが最下位に沈んだ事もあってか、マスコミが当日に報じたレース結果の見出しは“Local Horse Makybe Diva Upsets Melbourne Cup(地方馬のマカイビーディーヴァがマルボルンCで番狂わせを演じました)”だった。なお、これ以降は本馬の鞍上にはボス騎手がいる事が多くなり、本馬が出走する殆どのGⅠ競走でボス騎手が騎乗する事になる。
その後はしばらく休養を取り、翌2004年2月にフレミントン競馬場で行われたチェスターマニフォールドS(T1400m)に出走した。本馬には59.5kgが課せられた事もあり、ここではオーストラリアンギニー・豪フューチュリティS・イートウェルリヴウェルCとGⅠ競走で3勝を挙げていたミスターマーフィーの10馬身差5着に敗れた。次走のカリヨンC(豪GⅢ・T1600m)では56.5kgまで斤量が下がり、勝ったラシレヌーセから2馬身差の3着(後にドバイレーシングクラブS・トゥーラックH・豪フューチュリティSとGⅠ競走を3勝するリーガルローラーが2着だった)とまずまずの内容だった。
この2戦は単なる叩き台であり、次走のオーストラリアンC(豪GⅠ・T2000m)からが本番となった。ここにおける対戦相手は、コーフィールドギニー・ヤルンバS2回・マッキノンS・チッピングノートンS・ジョージライダーS・クイーンエリザベスS・ジョージメインS・CFオーアSとGⅠ競走で9勝を挙げていた現役豪州最強馬ロンロ、マミファイ、ヴィクトリアダービーの勝ち馬エルヴストローム、オーストラレイシアンオークスの勝ち馬サウンドアクション、新1000ギニーの勝ち馬ザジュエルなどであり、これは少し厳しいメンバー構成だった。レースではやはりロンロが勝利を収め、本馬は4馬身半差の6着に敗退した。
その後はメルボルンからシドニーに移動して、ランヴェットS(豪GⅠ・T2000m)に出走。ここでは、前走5着のマミファイ、同7着のサウンドアクションに加えて、サイアーズプロデュースSの勝ち馬ライトニングスター、ザビールクラシック・新国際S・ニュージーランドSの勝ち馬ラッシェドが出走してきた。出走馬中最軽量のライトニングスターが単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持され、マミファイが単勝オッズ4.6倍の2番人気、本馬が単勝オッズ5.5倍の3番人気となった。しかし結果は4番人気馬サウンドアクションが前走完敗から巻き返して勝ち、ライトニングスターとの2着争いに敗れた本馬は、サウンドアクションから1馬身1/4差の3着に終わった。
次走のザBMW(豪GⅠ・T2400m)では、サウンドアクション、前走4着のマミファイ、同5着のラッシェド、オーストラリアンCで3着だったエルヴストローム、メルボルンCで本馬の6着だったグレイソング、ローズヒルギニーで2着してきたグランドズールなどが出走してきた。結果はグランドズールが2着マミファイに1馬身半差で勝ち、本馬はマミファイから2馬身3/4差の3着だった。
次走はシドニーC(豪GⅠ・T3200m)となった。このレースはメルボルンCと比べると国際的な知名度では格段に下だが、その創設はメルボルンC創設の翌年1862年(シーズン的には同じ)まで遡り、シドニー地区では最も歴史がある競走である。19世紀においてはメルボルンCとほぼ同格であり、メルボルンCに2回出走したカーバインはこのレースにも2回出走している(いずれも勝利)。20世紀以降にメルボルンCの格が格段に上昇してしまい、シドニーCの格は相対的に低下したが、それでも春シーズンに実施されるメルボルンCに対峙する秋シーズン最大の豪州長距離競走だった。本馬がシドニーまで遠征してきたのは、おそらくこのレースが目標だったからである。マミファイ、前走5着のグレイソング、メルボルンCでは本馬の15着だったカウンティティロンが主な対戦相手だった。レースでは、単勝オッズ3.5倍の2番人気だった本馬と、本馬より5.5kg斤量が軽いマナワキングの接戦となったが、本馬が短首差で勝利。メルボルンCとシドニーCを同一シーズンに両方勝利したのは、1903/04シーズンのロードカーディガン、1957/58シーズンのストレートドロー、1966/67シーズンのガリラヤ以来37年ぶり史上4頭目(カーバインは同一シーズンに勝利できていない)の快挙だった。
2003/04シーズンの成績は11戦2勝だったが、メルボルンCとシドニーCのダブル制覇が評価されてこのシーズンの豪最優秀長距離馬に選出された。
競走生活(04/05シーズン)
この頃、本馬を管理していたホール師は本拠地を豪州から香港に移す準備を開始しており、本馬の実質的な管理調教師はリー・フリードマン師にバトンタッチされた。フリードマン師は本馬の好敵手マミファイなどを管理していた豪州のトップ調教師だった。
翌2004/05シーズンは8月のメムジーS(豪GⅡ・T1400m)から始動した。もう分かっているかもしれないが、明らかに長距離馬である本馬がこんな短距離戦に出るのは、出走するレースの距離を徐々に伸ばしていく調整手段である。やはりここでは、GⅡ競走JJリストンSを勝ってきた前述のリーガルローラー(この段階ではGⅠ競走未勝利。ドバイレーシングクラブSを勝ってGⅠ競走の勝ち馬となるのはこの翌月である)の3馬身1/4差4着に敗退した。
次走のジョンFフィーハンS(豪GⅡ・T1600m)では、デルザオの頭差2着。マミファイ、アンダーウッドSを勝ってきたエルヴストローム、シーズアーチー、クレイグリーSでエルヴストロームを2着に破ったハグズダンサー、AJCダービー2着馬ストラスブール、グレイソングなどとの対戦となった次走のターンブルS(豪GⅡ・T2000m)では、上記に挙げた対戦相手のうちグレイソングを除く全馬に屈して、エルヴストロームの1馬身1/4差7着に敗れた。しかし着順ほど大きく負けたわけではなく、次走のコーフィールドC(豪GⅠ・T2400m)でも、エルヴストロームの短頭差2着と無難にまとめた。このレース直後に本馬は正式にホール厩舎からフリードマン厩舎に転厩した。
そして2度目のメルボルンC(豪GⅠ・T3200m)の日を迎えた。この年の出走馬はフルゲートの24頭。エルヴストローム、マミファイ、シーズアーチー、ハグズダンサー、グレイソング、ラッシェド、デルザオ、トゥーラックHの勝ち馬ローマンアーチ、オークランドCの勝ち馬アップセットズム、サウスオーストラリアンダービーの勝ち馬ハードトゥゲットなどに加えて、オセアニアの外からも愛セントレジャー4連覇・ロワイヤルオーク賞勝ちのヴィニーロー、前年最下位の雪辱を期するマムール、一昨年のメルボルンCを勝利していたメディアパズル、英国の長距離競走シルヴァーCとトロイSを連勝してきたディスティンクションなどが出走していた。
トップハンデは愛セントレジャーを4連覇してきたばかりのヴィニーローの58kgで、マムールが57kg、エルヴストロームが56.5kg、前年より5kg斤量が重くなっていた本馬、マミファイ、メディアパズルの3頭が斤量4位の56kgだったが、性別を考慮すると本馬が事実上のトップハンデだった(コックスプレートなど豪州の主要定量戦では同齢の牡馬と牝馬の斤量差は2.5kg)。しかし本馬が単勝オッズ3.6倍の1番人気に支持され、ヴィニーローが単勝オッズ6倍の2番人気、54kgのディスティンクションがデインヒル産駒という点も買われて単勝オッズ13倍の3番人気、52kgの前年2着馬シーズアーチーが単勝オッズ15倍の4番人気で、本馬とヴィニーローの一騎打ちムードに近かった。
雨天の中でスタートが切られると、ヴィニーローが馬群の中団、本馬はその少し後方につけた。本馬は勝負どころで内側を突き、外側のヴィニーローとの差を徐々に縮めていった。そして本馬が8番手、ヴィニーローが10番手で直線に入ってくると、2頭がほぼ同時にスパートして先頭目掛けて突き進み、残り200m地点で揃って先頭に立った。しかし2頭が横一線となったのはほんの一瞬であり、本馬がすぐに付き抜けた。そして2着ヴィニーローに1馬身1/4差をつけて勝利。1975年のシンクビッグ以来29年ぶり史上5頭目、牝馬としては初となるメルボルンC2連覇を成し遂げた。
その後はしばらく休養を取り、翌2005年2月のCFオーアS(豪GⅠ・T1400m)で復帰した。鞍上はボス騎手からスティーヴン・キング騎手に代わっていた。メルボルンCで4着だったエルヴストローム、同19着だったマミファイ、ミスターマーフィー、本馬を負かした前年のメムジーS後にドバイレーシングクラブS・トゥーラックHとGⅠ競走を2勝していたリーガルローラー、前年のコックスプレートとスプリングチャンピオンSを勝っていたサヴァビール、マッキノンSの勝ち馬カジュアルパス、クイーンズランドオークスの勝ち馬ヴーヴレイなどが出走しており、このメンバー構成でこの距離では勝ち切る事はできず、エルヴストロームの1馬身3/4差7着に敗れた。もっとも、道中で先頭から10馬身も離された後方からここまで差を詰めてきたわけで、一概に凡走とは言い難かった。
ボス騎手が鞍上に戻った次走のセントジョージS(豪GⅡ・T1800m)では、エルヴストローム、カジュアルパスなどが対戦相手となった。距離が伸びた分だけ追走には苦労せず、ゴール前ではエルヴストロームとの接戦となったが、短頭差敗れて2着だった。
次走は前年に6着と完敗したオーストラリアンC(豪GⅠ・T2000m)だった。エルヴストローム、カジュアルパス、マミファイの姿もあり、苦戦も予想された。レースでは先頭から最大12馬身も離された最後方を追走したが、直線に入ると全馬をごぼう抜きにしてしまい、2着ウイニングベルに1馬身差(1番人気に推されていたエルヴストロームはさらに3馬身半差の4着)で勝利を収めた。勝ちタイム1分58秒73は2001年の同競走でノーザリーが計時した1分59秒46を更新するコースレコードであったばかりでなく、豪州レコードでもあり(世界レコードではないかという意見も地元では噴出したらしいが、2001年7月に新潟競馬場で行われた芝2000mの1600万下条件競走でツジノワンダーが1分56秒4を計時しているからこの意見は確実に誤り)、単なる長距離専用馬ではない事を見せ付けた。
次走はこれまた前年に3着に敗れたザBMW(豪GⅠ・T2400m)だった。ドンカスターH・クイーンエリザベスS・ジョージメインS・マッキノンS・チッピングノートンS・ランヴェットSなどを勝ってきたグランドアーミー、ハグズダンサー、ヴーヴレイ、前年のザメトロポリタンでGⅠ競走2勝目を挙げていたカウンティティロン(翌年のシドニーCはこの馬が勝つ)、前年のシドニーCで本馬と接戦を演じたマナワキング、ザTJスミスの勝ち馬アウトバックプリンスなどが対戦相手となった。ここでも馬群の中団後方につけた本馬は、先頭から最大で10馬身も離されたが、直線に入ると一気に末脚を伸ばし、2着グランドアーミーに2馬身差をつけて完勝した。
その後は前年同様にシドニーCに向かうのではなく、天皇賞春を目指して来日した。まずは前哨戦のエイプリルS(T2000m)に出走。出走馬中唯一の牝馬でありながら59kgのトップハンデが課されたが、弥生賞2着馬スズノマーチ、中山金杯勝ち馬アサカディフィートなどを抑えて、単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持された(某スポーツ紙には、本馬の所有者サンティック氏が大量に馬券を購入したためだという記事が載った)。しかしレースでは馬群の中団後方から伸びずに、勝った単勝オッズ5.8倍の2番人気馬スズノマーチから5馬身差の7着に敗れた。
本番の天皇賞春(日GⅠ・T3200m)では、菊花賞・天皇賞春・宝塚記念の勝ち馬ヒシミラクル、一昨年の菊花賞馬でジャパンC2着のザッツザプレンティ、前年の阪神大賞典の勝ち馬で菊花賞・有馬記念2着のリンカーン、前走の阪神大賞典を勝ってきた京都記念・マイラーズC・中日新聞杯・京都金杯の勝ち馬マイソールサウンド、前走の阪神大賞典で2着してきたアイポッパー、前年の日経新春杯・京都記念の勝ち馬で宝塚記念2着・天皇賞春・有馬記念3着のシルクフェイマス、エリザベス女王杯2回・ローズS・マーメイドSの勝ち馬で秋華賞2着・桜花賞・天皇賞秋3着のアドマイヤグルーヴ、前年の京都新聞杯の勝ち馬で東京優駿2着のハーツクライ、産経大阪杯2連覇の天皇賞秋3着馬サンライズペガサス、京都記念・日経賞で連続2着してきたトウショウナイト、ステイヤーズS・目黒記念の勝ち馬チャクラ、朝日チャレンジCの勝ち馬スズカマンボ、大阪城S・大阪―ハンブルグCを連勝してきたビッグゴールド、前年の青葉賞の勝ち馬で東京優駿3着のハイアーゲームなどが対戦相手となった。
日本馬実績最上位はヒシミラクルだったが2年近く勝ち星が無く、ザッツザプレンティやリンカーンは前年の天皇賞春で惨敗を喫しているなど、前走敗退の本馬も含めて、大本命になるような馬は不在だった。リンカーンが単勝オッズ5.4倍の1番人気に押し出され、本馬が単勝オッズ5.8倍の2番人気、ヒシミラクルが単勝オッズ6倍の3番人気、アイポッパーが単勝オッズ7.9倍の4番人気、シルクフェイマスが単勝オッズ9.2倍の5番人気となった。
スタートが切られると、単勝オッズ45.5倍の14番人気馬ビッグゴールドが先頭に立ち、ザッツザプレンティが2番手につけた。本馬やヒシミラクルは馬群の中団につけ、リンカーンはさらに後方に陣取った。レース中盤で4番手にいたシルクフェイマスが加速して先頭を奪い、ヒシミラクルも進出してきた。淀の坂を下った辺りでシルクフェイマスが失速するとビッグゴールドが先頭を奪い返し、そのまま直線に突入して逃げ込みを図った。既に全盛期を過ぎていたヒシミラクルは馬群に沈み、その代わりに後方内側からスズカマンボ、アイポッパー、トウショウナイトなどがやって来た。本馬、リンカーン、ハーツクライもそれなりに伸びてきたが、外側を通ったコースロスの分だけ前との差が大きく、ビッグゴールドを捕らえるのは無理だった。結局はビッグゴールドを1馬身半かわした単勝オッズ35.1倍の13番人気馬スズカマンボが勝利を収め、本馬は2着ビッグゴールドから3馬身差の7着に敗れた。2500m以上の距離のレースで敗れたのは結果的にこれが最初で最後だった。
敗因は海外においては「堅すぎる日本の馬場に対応できなかった」と報じられた。それは本馬が勝った前年のメルボルンCの勝ちタイムが3分28秒55と遅かった(馬場状態が湿っていたとは言え、1990年にキングストンルールが計時したレースレコード3分16秒3より12秒以上も遅い)ためであるらしいが、本馬が3走前のオーストラリアンCで1分58秒73という高速タイムを計時している事を考えると、この意見にはやや疑問があり、本当の敗因は結局のところ不明である。
なお、これは当時流布した噂だが、本馬の所有者サンティック氏が、本馬に適した馬場状態にするために、出走取消をちらつかせて日本中央競馬会に京都競馬場に水を撒くように要求したが、結局その要求は通らなかったらしい。この噂の真相は不明だが、筆者は真実である可能性が高いと思っている。何故なら、後のメルボルンC出走直前にサンティック氏が同様の事をしたという確定事実があるためである。かつて第1回ジャパンCにおいて優勝馬メアジードーツ陣営から同様の要求を受けて屈した日本中央競馬会だが、ここで本馬陣営の脅迫に屈しなかったことは評価できる。確かにあまりの高速馬場だと競走馬の脚に負担が掛かるので、主催者側が自分の判断により水を撒くのが世界的には一般的なのだが、それは一陣営だけの要望によって行われるべきではないだろう。
2004/05シーズンは天皇賞春が最後の出走となったが、11戦3勝の成績ながらも、豪年度代表馬(有効得票数145票中114票を獲得。次点はアンダーウッドS・コーフィールドC・ドバイデューティーフリーを勝利したエルヴストロームの18票)・豪最優秀長距離馬・豪最優秀牝馬のタイトルを獲得した。また、一般人の投票により決定される豪州最高人気馬にも選出された。
競走生活(05/06シーズン)
翌2005/06シーズンは、8月のメムジーS(豪GⅡ・T1400m)から始動した。本馬にとっては明らかに距離不足であり、やはりメルボルンCに向けた叩き台の第1戦目に過ぎないと思われた。ところがキング騎手が騎乗した本馬は、直線入り口で先頭から7~8馬身ほどあった差を見事に引っくり返し、2着となったサイアーズプロデュースSの勝ち馬ベアリーアモーメント(すぐにドバイレーシングS・トゥーラックHとGⅠ競走2勝を上乗せ)に半馬身差で勝利した。
ボス騎手が騎乗したジョンFフィーハンS改めチンナムS(豪GⅡ・T1600m)では、先頭から最大で12馬身もあった差を猛然と縮めてきたが、直線が短すぎるムーニーバレー競馬場では届かずに、ラッドオブザマナーの短頭差2着に惜敗した。
キング騎手が騎乗した次走のターンブルS(豪GⅡ・T2000m)でも、先頭から最大9馬身ほど後方の最後方を追走したが、直線に入ると大外一気の豪脚を繰り出し、2着ラッドオブザマナーに3/4馬身差で差し切り勝ちを収めた。
そして過去2年間は参戦しなかったコックスプレート(豪GⅠ・T2040m)に向かった。コックスプレートはいまさら言うまでも無く、豪州中距離路線における最強馬決定戦である。この年も、コーフィールドギニーを勝ってきたゴッズオウン、次走のマッキノンSを勝つラッドオブザマナー、前年の新ダービーに加えてニュージーランドS・マッジウェイパーツワールドS・ケルトキャピトルSと新国GⅠ競走4勝のエクセレント、一昨年のコックスプレートの勝ち馬で前年は2着だったフィールズオブオマー、フライトSなどの勝ち馬ロッテリア、エミレーツSなどの勝ち馬スカイカドル、エプソムH2連覇のデザートウォー(後にGⅠ競走4勝を上乗せ)、スプリングチャンピオンSの勝ち馬ホテルグランド、アウトバックプリンスといったGⅠ競走級の馬が多数参戦しており、日本からもオールカマーの勝ち馬トーセンダンディ、香港からはスチュワーズC・チャンピオンズ&チャターCの勝ち馬スーパーキッド、南アフリカからはダーバンジュライ・サウスアフリカンクラシック・サウスアフリカンダービー・ドバイシティオブゴールドなどの勝ち馬グレイズインが遠征してきていた。
なお、長年に渡り本馬と戦ってきた同厩馬マミファイはこのレースにはいなかった。マミファイはこの1週間前に出走したコーフィールドCで3位入線後に左前脚を故障して安楽死となっていたのである。本馬と同様に大変な人気馬だったマミファイを失ったフリードマン師に対する同情票もあったかもしれないが、今の本馬であればこの距離でも問題ないと判断されたのも事実だったようで、単勝オッズ2倍の1番人気に支持された。
ボス騎手が手綱を取る本馬は好スタートから位置取りを下げて馬群の中団につけた。そして残り800m地点から外側を通ってスパートを開始。かなりカーブが急なムーニーバレー競馬場だけに、相当なコースロスを蒙ったが、それでも内側の馬達よりも瞬発力は遥かに上であり、直線入り口で先頭に踊り出た。こうなればムーニーバレー競馬場の短い直線を押し切るのは本馬の実力を持ってすれば容易な事であり、2着ロッテリアに1馬身1/4差をつけて勝利。長距離戦の王者が中距離戦の王者の座をも奪い取った瞬間だった。
そしていよいよ3連覇を目指してメルボルンC(豪GⅠ・T3200m)に出走する事になった。しかしこの年のフレミントン競馬場は馬場状態が非常に堅く、それを嫌ったサンティック氏は本馬の出走についてなかなか明言せず、本馬に出てきてもらいたいフレミントン競馬場側がレース前に馬場に水を撒くという一幕があった。
この年もフルゲート24頭であり、ザメトロポリタン・コーフィールドCを連勝してきたレイリングス、クイーンズランドダービーの勝ち馬ラックランリヴァー、ブリスベンCの勝ち馬ポートランドシンガ、AJCオークス馬ディゼル、アデレードCの勝ち馬デマージャー、オークランドCの勝ち馬バゼル、ジョージメインSの勝ち馬ミスターセレブリティ、エクセレント、ヴーヴレイ、ストラスブール、ハグズダンサー、そして国外からも前走10着のグレイズイン、前年2着のヴィニーロー、前年6着のグッドウッドCの勝ち馬ディスティンクション、ヨークシャーCの勝ち馬フランクリンズガーデンズ、そして天皇賞春で本馬に先着する3着に入り前走のコーフィールドCで2着してきたアイポッパーが参戦してきた。
本馬に課されたのは前年より2kg重い58kgで、これはヴィニーローと並ぶトップハンデだったが、本馬の性別を考えると完全に単独トップハンデだった(他の牝馬は全て51.5kg以下)。斤量3位は56.5kgのグレイズインとディスティンクションの2頭で、5位は54.5kgのフランクリンズガーデンズ、6位が54kgのアイポッパー、エクセレント、レイリングスの3頭だった。メルボルンCをトップハンデで勝ったのは1975年のシンクビッグ(58.5kgを背負って連覇を達成)を最後に30年間出ていなかったが、それでも本馬が単勝オッズ4.4倍の1番人気に支持された。ちなみに30年前のシンクビッグは前年の勝ち馬でありながら単勝オッズ34倍の伏兵扱いだった。シンクビッグは1年間勝ち星に恵まれていなかったという事情はあったが、メルボルンCをトップハンデで勝つことが非常に難しい事を豪州の競馬ファンはよく理解しているのである。1969年に60.5kgのトップハンデを背負って連覇を果たしたレインラヴァーは1番人気だったが、それは前年に同競走史上最大の8馬身差で圧勝したが故である。
それはさておき、前月の豪州GⅡ競走ウイニングエッジプレゼンテーションズSを勝ってきたレイカファルコンが50kgの軽量を評価されて単勝オッズ5.5倍の2番人気、アイポッパーが単勝オッズ6倍の3番人気、レイリングスが単勝オッズ7倍の4番人気、ヴィニーローは単勝オッズ16倍の5番人気だった。本馬が人気を集めたのは、サンティック氏の地元である南オーストラリア州の人々が大量に本馬の単勝を買った影響もあったようで、その多くは1~2ドルだけ買うという記念馬券だった。
10万6479人もの大観衆が見守る中でスタートが切られると、本馬は速やかに馬群の中団後方内側に陣取った。しばらくはそのままじっと我慢し、三角から四角にかけて徐々に外側に持ち出しながら進出し、8番手で直線に入ると馬場の真ん中から抜け出し、残り300m地点で先頭に立った。そして大外から追い込んできた2着オンアジューンに1馬身1/4差をつけて勝利した。
これで前人未到(前馬未到か)のメルボルンC3連覇を達成すると同時に、シンクビッグ以来30年ぶりにメルボルンCをトップハンデで制覇した。本馬の斤量は58kgだったが、これは牡馬では60.5kgに相当する(前述したように豪州では通常、同齢の牡馬と牝馬の斤量差は2.5kg)わけで、メルボルンCをこれ以上の斤量で勝ったのは1969年に60.5kgを背負って勝ったレインラヴァー以来だった。
この勝利により本馬の獲得賞金総額は1452万6685豪ドル(当時の為替レートで約12億6000万円)に達し、サンラインが保持していた豪州調教馬獲得賞金記録1169万679豪ドルを更新した。
前述のとおりにレース前にサンティック氏の脅迫に屈したフレミントン競馬場が馬場に水を撒く一幕があったために、他の出走馬の陣営からはレース後に不満が噴出した。しかし勝ちタイム3分19秒17は、雨天のため稍重馬場で行われた前年の3分28秒55や、良馬場だった一昨年の3分19秒9よりも速く、実質的には水を撒いた効果は殆ど無かったと一般的に判断されている。
そしてこの直後に本馬の競走馬引退が発表された。このシーズンは上半期しか走らなかったが、5戦4勝の成績で、豪年度代表馬(有効得票数150票中145票を獲得)・豪最優秀長距離馬・豪最優秀中距離馬に選出された(豪最優秀牝馬のタイトルはこの年から消滅したらしく、前年の本馬を最後に受賞馬はいない)。2シーズン連続で豪年度代表馬に選ばれたのはマイトアンドパワー、サンライン(3シーズン連続)に次いで史上3頭目だった。また、2シーズン連続で豪州最高人気馬にも選出された。
さらにこれらのタイトル発表に先立つこと3時間前の2006年8月には豪州競馬の殿堂入りを果たした事も発表された。その1か月後には、サンティック氏の地元である南オーストラリア州のリンカーン港に本馬の実物大の銅像が完成して除幕式が施行された。
血統
デザートキング | デインヒル | Danzig | Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | ||||
Pas de Nom | Admiral's Voyage | |||
Petitioner | ||||
Razyana | His Majesty | Ribot | ||
Flower Bowl | ||||
Spring Adieu | Buckpasser | |||
Natalma | ||||
Sabaah | Nureyev | Northern Dancer | Nearctic | |
Natalma | ||||
Special | Forli | |||
Thong | ||||
Dish Dash | Bustino | Busted | ||
Ship Yard | ||||
Loose Cover | ヴェンチア | |||
Nymphet | ||||
Tugela | Riverman | Never Bend | Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | ||||
Lalun | Djeddah | |||
Be Faithful | ||||
River Lady | Prince John | Princequillo | ||
Not Afraid | ||||
Nile Lily | Roman | |||
Azalea | ||||
ランブシュカ | Roberto | Hail to Reason | Turn-to | |
Nothirdchance | ||||
Bramalea | Nashua | |||
Rarelea | ||||
カツラ | Northern Dancer | Nearctic | ||
Natalma | ||||
Noble Fancy | Vaguely Noble | |||
Amerigo's Fancy |
父デザートキングは当馬の項を参照。
母トゥゲラはサウジアラビアの王族ハーリド・ビン・アブドゥッラー殿下が所有するジュドモントファームにおいて誕生した米国産馬である。アブドゥッラー殿下の所有馬として英国で走ったが競走馬としては2戦未勝利に終わった。競走馬引退後すぐにデザートキングを交配されて本馬を受胎。その後に本馬を産むまでの経過は本項の最初に述べたとおりである。本馬が英国から豪州に移動した際にトゥゲラも豪州に移り住み、日本から豪州にリースされたジェイドロバリーや、豪州の名種牡馬リダウツチョイスとの間に子を成し、2014年に19歳で他界した。本馬ほどの大物競走馬を産むことは無かったが、リダウツチョイスとの間に産まれた牡駒マスケットがシャノンS(豪GⅡ)を勝つなど14戦4勝の成績を残して豪州で種牡馬入りしている。
トゥゲラの母ランブシュカもジュドモントファーム産の米国産馬で、競走馬としては英国と米国で走り8戦3勝、ヴァージニアSを勝ち、プリティポリーSで2着している。トゥゲラを産んだ2年後に来日して日本で繁殖生活を送ったが、特筆できる成績を残した産駒は出なかった。
ランブシュカの母カツラは加国の名馬産家エドワード・プランケット・テイラー氏の生産馬で、競走馬としては18戦2勝、ブラウンズタウンフィリーズS(愛GⅢ)で2着している。競走馬引退後は長らく米国で繁殖生活を送ったが、ランブシュカより一足先に来日して日本で繁殖生活を続けた。カツラは母として10頭の子を産み、その全てが勝ち上がったが、優れた競走成績を残した産駒は出なかった。ランブシュカの半妹ラナレスの娘フェイムアットラスト(トゥゲラの従姉妹に当たる)は繁殖牝馬として活躍し、フェイマスネーム【レパーズタウン2000ギニートライアルS(愛GⅢ)・愛国際S(愛GⅢ)3回・デズモンドS(愛GⅢ)・アメジストS(愛GⅢ)2回・メルドS(愛GⅢ)3回】や、ビッグブレイク【キラヴーランS(愛GⅢ)・コンコルドS(愛GⅢ)】を産んでいる。カツラの半妹リージェンツファンシーの孫には、トレスボラコス【スワップスS(米GⅡ)・サンディエゴH(米GⅡ)】やハンプトンコート【スプリングチャンピオンS(豪GⅠ)】がいる。近親にはスマティ【伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)】、ゲットストーミー【メイカーズマークマイルS(米GⅠ)・ターフクラシックS(米GⅠ)・ガルフストリームパークターフH(米GⅠ)】、キャンフォードクリフス【愛2000ギニー(愛GⅠ)・セントジェームズパレスS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・ロッキンジS(英GⅠ)・クイーンアンS(英GⅠ)】などもおり、牝系としてはまずまずである。史上初の中央競馬牝馬三冠馬メジロラモーヌも同じ牝系(カツラの曾祖母ドクターズファンシーの全姉ウォーベッツィーの曾孫がメジロラモーヌ)だが、近親と言うには少し遠すぎる。→牝系:F9号族①
母父リヴァーマンは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、豪州のクールモアスタッドで繁殖入りした。本馬の素晴らしい戦績から無料の種付け依頼が殺到したらしい。初年度は順当にガリレオを交配され、初子となる牡駒を産んだ。150万ドルで取引されたこの牡駒はロックスターダムと命名され、騙馬となって12戦2勝の成績を残したが、厩舎内の事故のため6歳で他界した。ロックスターダムの翌年にはフサイチペガサスとの間に2番子となる牝駒を産んだ。120万ドルで取引されたこの牝駒はラドルチェディーヴァと命名されたが、4戦未勝利に終わった。その後もエンコスタドラゴ、ロンロ、ハイシャパラルと交配されて子をもうけているが、不出走馬ばかりであり、今のところ活躍した産駒は出ていない。