ウインディシティ

和名:ウインディシティ

英名:Windy City

1949年生

栗毛

父:ウィンダム

母:ストーントン

母父:ザストラップ

愛英仏の3か国の2歳戦で圧倒的な実力を見せつけ、英タイムフォーム社のレーティングにおいて2歳馬としては唯一の140ポンド台となる142ポンドを獲得

競走成績:2・3歳時に愛英仏米で走り通算成績9戦6勝2着2回

誕生からデビュー前まで

ハーブランド・チャールズ・アレクサンダー氏により生産された英国産馬である。アレクサンダー氏は、英国の政治家だった第4代カレドン伯爵ジェームズ・アレクサンダー卿の息子であり、有名な英国の軍人である初代チュニス伯爵ハロルド・アレクサンダー卿(第一次世界大戦・第二次世界大戦で活躍した。特に第二次世界大戦では、英国陸軍の指揮を執り、有名な独国の軍人エルヴィン・ロンメル元帥を破るなど連合軍の勝利に貢献した)の実兄に当たる人物である。

本馬は1歳時に愛国ダブリンで実施されたゴフズセールに出品されたが、その地味な血統が影響して、殆ど注目されることは無かった。結局、米国人馬主レイ・ベル氏の代理人としてセリに参加していたパディ・プレンダーガスト調教師により700ギニーで購入された。本馬の所有者となったベル氏は、米国ワイオミング州の牧場一家に生まれ、若い頃は名うてのカウボーイとして鳴らし、同じくカウボーイ出身で後に映画俳優として活躍したウィル・ロジャース氏と映画で共演した事もあったそうである。本馬の管理調教師となった愛国出身のプレンダーガスト師は、後に調教師として愛国クラシック競走を全て勝利し、さらに英国のクラシック競走も英ダービー以外は全て勝つなど、英国と愛国で幾度も平地首位調教師に輝くことになる当時愛国きっての名伯楽だった。プレンダーガスト師は、本馬が仕上がり早い早熟馬である事を早い段階で見抜いており、2歳戦からその能力を発揮させるつもりで育成していった。

競走生活(2歳時)

2歳4月にフェニックスパーク競馬場で行われた芝5ハロンの未勝利戦でデビューした。ジミー・マレーン騎手が騎乗した本馬は単勝オッズ1.67倍で20頭立ての1番人気に支持された。そして結果は2着ドーバーロックに10馬身差をつける圧勝で、鮮烈なデビューを飾った。ここで本馬にちぎられたドーバーロックは、その次走で同世代愛国トップクラスの牝馬レディソフィアを短頭差の2着に破っている。そのレディソフィアは、その後のインペリアルプロデュースSで、同年のチェヴァリーパークSを4馬身差で圧勝する事になるザバラ(翌年に英1000ギニー・コロネーションSを勝ち英オークスで2着している)と接戦を演じて首差の2着に入っている。

さて一方、その実力は愛国内に留まるものではないと判断したプレンダーガスト師により英国に派遣された本馬は、5月にチェスター競馬場で行われたオールトンS(T5F)に出走した。英国の名手ゴードン・リチャーズ騎手を鞍上に迎えた本馬は、単勝オッズ1.53倍の1番人気に支持された。そして実に簡単に、6馬身差で勝利を収めた。

その後は軽度の負傷のために少し間隔を空け、次走は8月の愛フェニックスS(T5F)となった。現在はGⅠ競走になっている同競走は、当時から既に愛国の最も重要な2歳戦の1つとして認識されていた。再びマレーン騎手が騎乗した本馬は、他馬を全く寄せ付けない走りを披露して、2着スノーシャワーに8馬身差をつけて圧勝した。

それから12日後には再び英国に姿を現し、ヨーク競馬場でジムクラックS(T6F)に出走した。本馬は過去に5ハロンを超える距離のレースで走ったことが無く、距離6ハロンでも長いのではないかと言われていた。また、このレースには、仏国の名馬産家マルセル・ブサック氏が送り込んできたボワ賞の勝ち馬で後にこの年のフォレ賞を古馬相手に勝利する牝馬ファラオスという強敵も出走していた。そのためにここでは1番人気には支持されたが、単勝オッズは2.25倍に留まった。しかしリチャーズ騎手が騎乗する本馬は、ファラオスを5馬身差の2着に切り捨てて圧勝し、実力の違いを見せつけた。

すると今度は本馬が仏国に乗り込んでいった。そして9月にロンシャン競馬場で行われたアランベール賞(T1000m)に出走した。しかし本馬はロンシャン競馬場独特の賑やかさに動転したのか、レース前から焦れ込んでおり、スタート地点に並ぶのを嫌がった。そして本馬鞍上のチャーリー・スマーク騎手が本馬を宥めようとしているその最中にバリアが上がり、他馬達は先にスタートしてしまった。本馬は遅れて走り出したのだが、この時点で既に他馬からは6馬身の後れを取っていた。しかし本馬は猛然と加速すると、次々に他馬を追い抜いていき、先頭を走っていた牝馬ポマーレ(翌年の仏1000ギニー馬)に残り100m地点を切ったところで追いついた。しかしここでスマーク騎手がポマーレを完全に抜き去るべく本馬に檄を飛ばすと、本馬は左側によれてしまった。そしてその間隙をついてポマーレが先頭を奪還した次の瞬間がゴールだった。本馬は短頭差の2着に敗れてしまったが、斤量は本馬のほうがポマーレより5kgも重かった事や、1000mのレースでは致命的ともいえる大出遅れを仕出かしたのにゴール前でよれなければ勝てるところまで持ち込んだ事により、本馬の評価は上がりこそすれ下がることは無かった。

英タイムフォーム社のレーティングで142ポンドを獲得

2歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は5戦4勝だった。愛国2歳フリーハンデにおいては140ポンドの評価が与えられ、これは当然同世代の断然トップだった。英国2歳フリーハンデでも133ポンドの評価を受け、同世代2位のザバラに5ポンド差をつけてやはり断然トップとなった。そしてもっとも特筆すべきは、英タイムフォーム社のレーティングである。英タイムフォーム社が本馬に与えた評価ははなんと142ポンドだった。これは1947年に3歳で144ポンドの評価を受けたテューダーミンストレルに次ぐもので、1950年に4歳で142ポンドの評価を受けたアバーナントと並んで当時史上2位タイという異例の高評価だった。英タイムフォーム社は本馬に関して「単に優れた馬というだけではなく、見るものを魅了する輝かしい速度を有する、例外的な存在」と絶賛している。

2015年現在、英タイムフォーム社が140ポンド以上のレーティングを与えた馬は、上記3頭以外には、1956年に142ポンドの評価を得たリボー、1965年に145ポンドの評価を得たシーバード、1968年に140ポンドの評価を得たヴェイグリーノーブル、1972年に144ポンドの評価を得たブリガディアジェラード、1971・72年に141ポンドの評価を得たミルリーフ、1981年に140ポンドの評価を得たシャーガー、1986年に140ポンドの評価を得たダンシングブレーヴ、2000年に140ポンドの評価を得たドバイミレニアム、2009年に140ポンドの評価を得たシーザスターズ、2010年に140ポンドの評価を得たハービンジャー、2012年に147ポンドの評価を得たフランケルがおり(2年連続で140ポンド以上の評価を受けた馬は高いほうのみを表記)、合計で14頭いる。この中で2歳時に140ポンド以上の評価を受けたのは本馬だけである。つまり英タイムフォーム社が140ポンド以上の評価を与えた2歳馬は歴史上本馬唯1頭というわけである(ちなみに2位は1955年のスターオブインディアと1994年のケルティックスウィングが得た138ポンド)。2歳時に受けた評価と3歳時・4歳時以降になって受けた評価を同列視することは出来ないが、本馬以外の13頭はどれもこれも歴史に名を残す最強馬ばかりであり、本馬も一応はそれらに肩を並べる存在ということにはなる。

しかし英タイムフォーム社はこの3年前の1948年に創設されたばかりで、まだ競走馬のランク付けに関しては未熟な点があった事は否定できない。アラジやケルティックスウィングの項に記載したとおり、英タイムフォーム社の2歳馬に対するレーティングは、国際クラシフィケーションが開始された1977年頃から評価が辛くなっており、1976年までは毎年平均3.4頭の2歳馬が130ポンド以上の評価を受けていたのに対し、1977年以降は毎年平均0.87頭までに激減している。したがって本馬のこの数値を額面どおりに受け取るのは困難である。

英タイムフォーム社に勤務してレーティング作成作業に携わったジョン・ランドール氏とトニー・モリス氏は、自分達が独自に考案した評価システムに基づいて、著書“A Century of Champions”において、20世紀に走った馬(英タイムフォーム社の創設前に走っていたり、欧州以外で走っていたりしたたために、英タイムフォーム社の評価対象外だった馬も含む)を改めてランク付けした。その中で本馬は、1913年のザテトラーク、1919年のテトラテーマ、1946年のテューダーミンストレル、1970年のマイスワローに次いで、5番目に優れた2歳馬という事になっている。この“A Century of Champions”の評価はおそらく妥当であると思われるから、本馬が20世紀以降では最強の2歳馬とは言えないが、五本の指に入る存在である事には変わりはない。本馬が走ったレースを実際に見た人達は、本馬をザテトラーク以来最速の2歳馬であると確信したというし、スポーティングライフ紙のトム・ニッカルズ記者は本馬を「アイルランドから来た火の玉」と評した。

競走生活(3歳時)

3歳時の英2000ギニー等における活躍が期待されたが、本馬は2歳の暮れにカリフォルニア州在住のガス・ルエルウィッツ氏により16万5千ドル(15万ドルとする資料もある)で購入され、3歳時は米国に移籍する事になったため、本馬が欧州で走ったのは2歳戦のみだった。ルエルウィッツ氏は遠い英国にいる本馬に直接興味を示してベル氏に交渉を持ち掛けたわけでは無かった。ベル氏自身が本馬を米国に連れて行き、本馬をセリに掛けたため、そのセリに集まった人の中で最高価格を提示したのがルエルウィッツ氏だったという流れだった。ベル氏が本馬を手放した理由は、やはり本馬は2歳時がピークだろうと判断したためであるらしい。ウィリー・アルバラード厩舎に転厩した本馬は、既に同名の馬が過去に米国に存在したために「ウインディシティⅡ」と「Ⅱ」を付せられて、ルエルウィッツ氏の妻プチト夫人の名義で走ることになった。

まずは1月にサンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走に出走したが、ここでは着外に終わった。しかし同月に出走したサンガブリエルS(D7F)では、プリンセスパットSの勝ち馬で後にミレイディH2回・ハリウッドオークス・シネマH・ウェスターナーSなどを勝つアグリームを2着に、アーリントンフューチュリティの勝ち馬ヒルゲイルを3着に破って勝利した。2月に出走したサンフェリペH(D8.5F)では、距離が不安視されたが、エディ・アーキャロ騎手を鞍上に、後のヴォスバーグHの勝ち馬インディアンランドを2馬身半差の2着に、後にゴールデンゲートダービーを勝ちジェロームHで2着するマルカドールを3着に破って快勝した。その後はサンタアニタダービー(D9F)に出走して、単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。しかし前走のサンフェリペHで7着に終わっていたヒルゲイルが圧勝を収め、本馬は4馬身差をつけられた2着に敗退。その後はケンタッキーダービーを目標としたが、調教中の故障のため回避。本馬不在のケンタッキーダービーはヒルゲイルが勝利を収めた。本馬はその後いったん調教できる程度には回復したが、実戦に復帰できるほどまでには回復しなかったため、サンタアニタダービー以降にレースに出ることは無く、3歳時4戦2勝の成績で競走馬を引退した。

血統

Wyndham Blenheim Blandford Swynford John o'Gaunt
Canterbury Pilgrim
Blanche White Eagle
Black Cherry
Malva Charles O'Malley Desmond
Goody Two-Shoes
Wild Arum Robert le Diable
Marliacea
Bossover The Boss Orby Orme
Rhoda B.
Southern Cross Meteor
Resplendent
Rhodesian Mare Rhodesian St. Frusquin
Glare
Sanover Santry
Noverca
Staunton The Satrap The Tetrarch Roi Herode Le Samaritain
Roxelane
Vahren Bona Vista
Castania
Scotch Gift Symington Ayrshire
Siphonia
Maund Tarporley
Ianthe
Crotanstown Bridge of Earn Cyllene Bona Vista
Arcadia
Santa Brigida St. Simon
Bridget
Twincat Bachelor's Double Tredennis
Lady Bawn
Katusha Donovan
Lady M.

父ウィンダムはブレニム産駒で、父が米国に輸出される前に出した英国産馬である。現役成績は25戦3勝で、ニューSを勝ち、ミドルパークS・キングジョージS・チャレンジS・コーク&オラリーSで2着した短距離馬だった。ニューSやミドルパークSでは後の英ダービー馬マームードに先着している。

母ストーントンは不出走馬。ストーントンの母クロタンスタウンの半弟にダブルアーチ【愛2000ギニー】が、クロタンスタウンの曾祖母レディエムの半弟にヴォロディオフスキー【英ダービー】が、レディエムの曾祖母ザゴールデンホーンの半弟にハンガリーの大種牡馬バッカニアがいるが、近親の活躍馬には乏しく、牝系もあまり発展していない。→牝系:F14号族①

母父ザストラップはザテトラーク産駒で、リッチモンドS・ジュライS・チェシャムSの勝ち馬。ジュライSではシックルを2着に破っている。

競走馬引退後

4歳1月に正式に競走馬を引退した本馬は、カリフォルニア州リヴァーサイドにあるサニースロープファームで種牡馬入りした。18頭のステークスウイナーを出しており、繋養先が米国馬産の中心地ケンタッキー州ではなかった割にはかなり優れた成績だった。1964年に腸捻転のため15歳で他界した。繁殖牝馬の父としては、日本で種牡馬生活を送った時期もあるケンタッキーダービー馬ダストコマンダーなどを出した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1955

Old Pueblo

デルマーフューチュリティ・サンヴィンセントS・ハリウッドジュヴェナイルCSS

1956

Restless Wind

サンバーナーディノH

1959

Gushing Wind

オハイオダービー

1959

Windy Miss

アッシュランドS

1960

Denodado

サンフェリペS

1961

Blue Norther

ケンタッキーオークス・アッシュランドS

1965

Glory Hallelujah

デルマーダービー

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