ブラックゴールド

和名:ブラックゴールド

英名:Black Gold

1921年生

青毛

父:ブラックトニー

母:ユーシーイット

母父:ボニージョー

ケンタッキー州など米国4つの州でダービーを制した史上初の馬だが種牡馬失格の烙印を押されて現役復帰させられた後のレース中に故障し命を落とす

競走成績:2~7歳時に米で走り通算成績35戦18勝2着5回3着4回

日本では無名だが米国では有名な悲劇の主人公

1930年代に米国で活躍したシービスケットの物語を既に知っている日本の競馬ファンは少なくないだろう。しかし本項を見る前から既に本馬の物語を知っていたという日本の競馬ファンはおそらく100人に1人、いや1000人に1人もいないのではないだろうか。しかしながら本馬は米国ではかなり有名な存在である。それも「悲劇の主人公」としてである。「史上最もロマンティックなケンタッキーダービー優勝馬」と評されており、本馬を主役としたハリウッド映画、書籍、児童書が存在しており、米国では子どもでも知っているかもしれないほどの馬である。日本でも出版されたシービスケットを主役としたベストセラー小説「シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説」の著者ローラ・ヒレンブランド女史は、本馬を題材とした小説を書く気はないかと尋ねられて、「書けません。この馬の話はあまりにも悲しすぎますから」と応じたそうである。本馬を日本の著名馬に当てはめると、キーストンが最も近い存在であろうか。もっとも、騎手と馬の信頼関係を示す美談として語り継がれているキーストンと異なり、本馬の場合は美談にはなりそうにないが・・・。

誕生からデビュー前まで

米国オクラホマ州やその近隣に住んでいるネイティヴ・アメリカンのオーセージ族出身のローザ・アル・フーツ夫人により生産・所有されたオクラホマ州産馬である。

母ユーシーイットは地味な血統で現役時代5回のクレーミング競走出走を経験しながら、その優秀なスピード能力を武器に122戦して34勝を挙げた。オクラホマ州においてユーシーイットに短距離戦で勝つことが出来たのは、米国顕彰馬にも選ばれている稀代の快速牝馬パンザレタのみであったという。もっとも、ユーシーイットはスタミナには欠けており、6ハロンを超える距離では勝ち負けにならなかったという。ユーシーイットに騎乗した騎手はユーシーイットの事を“chunky little speedball(がっちりとした小さい速球)”と呼んだ。

最終的にフーツ夫人の夫アル・フーツ氏の所有馬となったユーシーイットだったが、メキシコで出走したクレーミング競走を勝利した際に他者により譲渡要求された。クレーミング競走は出走させること自体が馬主にとっての賭けであり、他者に譲渡要求された場合には、否応なしに手放さなければならない。ところがユーシーイットを溺愛していたフーツ氏はユーシーイットを手放す事を拒否し、最後には散弾銃を振りかざして譲渡要求者を追い払ってしまった。当然これは大問題となり、それ以降ユーシーイットはあらゆるレースに出走する事を禁止されて引退、繁殖入りした。拒否するくらいならクレーミング競走に出すなと思うかもしれないが、フーツ氏はユーシーイットをクレーミング競走に出す意図が無かったにも関わらず、本人の無知か何かの手違いかでエントリーされていたようである。

フーツ氏はユーシーイットを相当高く評価しており、もしトップクラスの種牡馬と交配させればケンタッキーダービー馬を産む事が出来ると考えていたが、1917年に死去。亡き夫の遺志を受けたローザ夫人は当時優秀な種牡馬として名を上げ始めていたブラックトニーをユーシーイットの交配相手とする事に成功(フーツ氏とブラックトニーの所有者エドワード・ライリー・ブラッドリー大佐は面識があったようである)し、そして誕生したのが本馬である。本馬は、フーツ氏の友人で母ユーシーイットも手掛けたハンリー・ウェブ調教師に預けられた。主戦はジョン・D・ムーニー騎手が務めた。

競走生活(3歳初期まで)

デビューは2歳1月8日というこれ以上無いほど早い段階で、ルイジアナ州ニューオーリンズのフェアグラウンド競馬場が舞台だった。6馬身差で初勝利を挙げた後もフェアグラウンド競馬場で勝ち星を重ねた後に、他州にも遠征。ケンタッキー州チャーチルダウンズ競馬場で出走したバッシュフォードマナーS(D4.5F)では、53秒0のレースレコードタイを計時して勝利した。奇しくもこの日は、ゼヴが勝ったこの年のケンタッキーダービーが施行された日でもあった。同じくケンタッキー州ラトニア競馬場で出走したシンシナティトロフィー(D6F)では、後年にこの年の米最優秀2歳牡馬に選ばれるワイズカウンセラーに敗れて2着だった。同じくラトニア競馬場で出走したタバコS(D4F)という非常に距離が短いレースでは、牝馬エドナファイヴの首差2着だった。なお、このエドナファイヴは出走過多が祟ってこの年のうちに2歳の若さで命を落としている。同じくラトニア競馬場で出走したブリーダーズフューチュリティ(D6F)では、ワースモアの3着に敗れた。結局2歳時のステークス競走の勝利はバッシュフォードマナーSのみだったが、この年は18戦9勝の成績を収めている。

3歳時は2連勝スタートの後、ルイジアナダービー(D9F)に出走した。霧雨が降る中で行われたレースではスタートから先頭を奪うと、不良馬場の中を快走して、2着ブリリアントキャストに6馬身差をつけて圧勝した。その後、本馬を5万ドルで購入したいという申し出がフーツ夫人の元にあったが、フーツ夫人はこの申し出を断った。その後に本馬はケンタッキー州に移動して、新設競走ダービートライアルS(D8F)に出走。ルイジアナダービーと異なり良馬場だったが、本馬の強さは馬場状態に影響されるものではなかったようで、2着ワイルドアスターに8馬身差をつけて圧勝した。

ケンタッキーダービー

そしてケンタッキーダービー(D10F)に参戦した。対戦相手は、ピムリコフューチュリティの勝ち馬でブルーグラスS2着のボーバトラー、ブルーグラスSの勝ち馬アルタウッド、トレモントS・ハドソンSの勝ち馬トランスムート、ホープフルSの勝ち馬でトレモントS・サラトガスペシャルS3着のディオゲネス、マッドプレイ、ハーツデールSの勝ち馬でホープフルS・レムセンS2着のブラカデール、チェサピークSの勝ち馬ノーティカル、ケンタッキージョッキークラブS3着馬チルホウィーなど18頭だった。

しかし、シンシナティトロフィーの他にケンタッキージョッキークラブS・ハロルドSなどを勝っていたワイズカウンセラー、ベルモントフューチュリティS・サラトガスペシャルS・ユナイテッドステーツホテルSを勝っていたセントジェイムズという前年の米最優秀2歳牡馬2頭や、シャンペンS・オークデールH・ピムリコフォールシリアルナンバー2などを勝っていたサラゼンといった有力馬は体調不良などの理由で回避していた。それもあって、ほんの数週間前まではケンタッキーダービーの前売りオッズ101倍だった本馬が、31倍、13倍とどんどんオッズが下がり、当日は単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持されていた。

この年のケンタッキーダービーは創設50周年の節目であり、8万人もの大観衆が詰めかけて、50年式典として大きく賑わっていた。出走馬の本馬場入場の際にスティーブン・フォスター氏作曲のケンタッキー州歌“My Old Kentucky Home(ケンタッキーの我が家)”を観衆全員で歌うのがケンタッキーダービーの恒例となっているが、それが始まったのはこの年からだという。この記念すべきケンタッキーダービーをムーニー騎手騎乗の本馬は見事に勝利した。スタートから逃げ馬を追走するも、進路を失ってしまい、ようやく見つけた進路からスパートを掛けると、先に抜け出したチルホウィーを半馬身差し切るという、同競走史上稀に見るスリリングかつ荒々しい勝利だったという。

所有者のフーツ夫人は女性として初のケンタッキーダービー馬主となった。彼女はネイティヴ・アメリカン(当時の呼び名で「インディアン」)だったため、本馬は“The Indian Horse”と呼ばれた。彼女はレース当日に優勝賞金を現金で即払いするように要求し、チャーチルダウンズ競馬場側を困惑させたという。米国においてネイティヴ・アメリカンに市民権が授与されたのは「スナイダー法」という法令によるものだが、それが公布されたのはまさにこの1924年だった。また、ルイジアナダービーの勝ち馬がケンタッキーダービーを制したのは史上初で、本馬以降も1996年のグラインドストーンのみである(勝ち馬に限らなければ、2003年にファニーサイドがルイジアナダービー3位入線2着繰り上がりからケンタッキーダービーを勝った例がある)。あと、これは本馬の勝利には直接関係ないが、このケンタッキーダービーは上位5頭までが1馬身以内にひしめき合う大乱戦だったため、本当は3位入線だったブラカデールが5着、本当は5位入線だったボーバトラーが3着と誤って発表された。この2頭の馬主は異なっていたのだが勝負服が酷似していたために誤りが発生したようである。この誤りは現在でも公式には修正されておらず、ボーバトラーが3着でブラカデールが5着のままとされている。

競走生活(3歳後半)

さて、本馬の時代は米国三冠路線が確立されていなかったため、本馬はプリークネスS・ベルモントSには出走しなかった。ちなみにこの年のプリークネスSはケンタッキーダービーの5日前に既に行われており、牝馬ネリーモスが勝っていた。ベルモントSのほうはケンタッキーダービーで本馬から遥か後方の10着でゴールインしたマッドプレイが勝利している。

本馬が次に出走したのは、オハイオ州メープルハイツパーク競馬場で行われるオハイオダービー(D9F)だった。目下6連勝中の本馬の勢いに敵う馬はここにはおらず、2着ペイマンに8馬身差をつけて圧勝した。

その後はイリノイ州ホーソーン競馬場で行われるシカゴダービー(D10F)に向かった。このレースにはドワイヤーSの勝ち馬ラドキンが出走していた。本馬の斤量が129ポンドだったのに対して、ラドキンは123ポンドだった。それもあって、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持されたのはラドキンのほうだった。さらに本馬はスタートで出遅れてしまった。しかし6ポンドの斤量差やスタートの出遅れ程度では本馬と他馬の実力差を埋めるにはあまりにも不十分だったようで、いつのまにか先頭に立っていた本馬が直線を独走して、2着ギブロンに6馬身差、4着に終わったラドキンにはさらに2馬身差をつけて圧勝した。これで本馬は4つの異なる米国の州でダービーを制したことになったが、これは史上初の快挙だった。

しかし本馬はこの時期から裂蹄の症状が出始めた。これは父ブラックトニーにもあった症状で、出走過多がその一因に挙げられている。126ポンドを背負って出走したラトニアダービー(D12F)では、いずれも8ポンドのハンデを与えたケンタッキーダービー2着馬チルホウィーとシカゴダービー2着馬ギブロンの2頭に雪辱されて、チルホウィーの3着に敗れた。ケンタッキー州レースランドパーク競馬場で出走したレースランドダービー(D10F)も、ブルーグラスS3着馬ボブテイルの3着に終わった。ラトニアダービーとレースランドダービーはいずれもケンタッキー州のレースであり、仮に勝ったとしても5州以上のダービーを勝ったことにはならないが、いずれにしても本馬はダービーに6回出走した事になる。

3歳時13戦9勝の成績を残した本馬だが、後年になって選定された米最優秀3歳牡馬の座は国際競走インターナショナルスペシャル第3戦で仏国最強馬エピナードを2着に破って勝つなど12戦8勝の成績を挙げたサラゼンのものとなった。本馬とサラゼンの直接対決は無いが、本馬にシカゴダービーで手も足も出なかったラドキンが国際競走インターナショナルスペシャル第2戦でエピナードを2着に破っている事から、ラドキンとエピナードを物差しに単純に考えるとサラゼンより本馬の方が上だったとする意見もある(勿論、証明は出来ないと予め断った上での意見ではある)。

種牡馬失格の烙印を押されたため競走馬に復帰して落命する

裂蹄の状態が思わしくなかったため、本馬は3歳限りでいったん競走馬を引退して4歳時から種牡馬入りした。ところが本馬は授精能力が著しく低い事が判明した。授精能力が皆無というわけではなく、1頭だけ産駒が誕生したのだが、その唯一の子は落雷により不慮の事故死を遂げてしまった。

こうして種牡馬失格の烙印を押された本馬は6歳時に現役復帰させられた。管理するウェブ師が、本馬の裂蹄は競走能力に致命的な影響を与えるものではないと判断したための現役復帰だったようである。しかし実際には裂蹄の状態は甚だ良くなかった。そのためかつての面影はまったく無く、6歳時は3戦して全て着外に終わった。この年の獲得賞金は50ドルだった。ちなみに本馬は2歳時に1万9163ドル、3歳時に9万1340ドル、合計で11万503ドルを稼いでおり、50ドルはその0.05%にも満たない額だった。

それでも7歳時も現役を続行した。7歳初戦は、ちょうど5年前に初勝利を挙げた地であるフェアグラウンド競馬場で1月18日に行われたサロメパースなるハンデ競走だった。しかし本馬はゴールまで残り半ハロン地点で左前脚を骨折してしまった。このレースで本馬に騎乗していたエメリー騎手は、異変に気付くと本馬を止めようとした。ところが優れた精神力を持っていた本馬はエメリー騎手の制止を振り切って3本の脚でゴールまで走りきってしまった。しかし本馬の頑張りむなしく結果は着外。そしてレース直後に予後不良の診断が下り、そのまま安楽死の措置が執られた。遺体はフェアグラウンド競馬場内にあった本馬の母ユーシーイットの好敵手パンザレタの墓地の隣に埋葬された。

本馬の死は、亡きフーツ氏がユーシーイットに対して有していた愛情を、フーツ夫人が本馬に対して有していなかったから起きた悲劇なのだが、フーツ夫人がネイティヴ・アメリカンだったためにデリケートな問題が絡んでくる米国では、陣営が本馬に対して行った仕打ちを非難する論調は表向きあまり見受けられないようである。ただ、パンザレタも本馬と似たような経緯を辿った末に命を落としており、この時期の米国競馬では競走馬に対する扱いがあまり良くなかった事は確実で、フーツ夫人だけが非難されるいわれはないのも事実だろうが。

本馬の馬名は「石油」という意味で、フーツ夫人の出身であるオーセージ族が石油の採掘で利益を得ていた事に由来するという。1947年には本馬の物語がハリウッドで映画化され、当時は無名だった俳優アンソニー・クイン(筆者が見た映画では「アラビアのロレンス」に出演していた)が主役を演じたが、事実を大きく脚色しているらしく、あまり出来が良いものではなかったらしい。

1989年に米国競馬の殿堂入りを果たした。フェアグラウンド競馬場では本馬の名を冠したブラックゴールドSが1958年から現在まで施行されているが、このレースを勝った騎手は本馬とパンザレタの墓碑に花を手向ける習慣になっている。

血統

Black Toney Peter Pan Commando Domino Himyar
Mannie Gray
Emma C. Darebin
Guenn
Cinderella Hermit Newminster
Seclusion
Mazurka See Saw
Mabille
Belgravia Ben Brush Bramble Bonnie Scotland
Ivy Leaf
Roseville Reform
Albia
Bonnie Gal Galopin Vedette
Flying Duchess
Bonnie Doon Rapid Rhone
Queen Mary
Useeit Bonnie Joe Faustus Enquirer Leamington
Lida
Lizzie G War Dance
Lecomte Mare 
Bonnie Rose Bonnie Scotland Iago
Queen Mary
Melrose Childe Harold
Miss Peyton
Effie M. Bowling Green King Galop Galopin
King Tom Mare
Playing Fields Adventurer
In Bounds
Alma Glyn Glyndon Rosicrucian
Umbria
Amelia Folsom Uncle Tom
Miss Cheatham

ブラックトニーは当馬の項を参照。

母ユーシーイットの経歴に関しては前述のとおり。近親における活躍馬は皆無であり、100年以上遡っても著名馬の名前は出てこない。牝系は数え切れないほどの活躍馬が出ている所謂ファミリーナンバー4号族であるが、その中でも最も地味な部分かもしれない。→牝系:F4号族⑤

母父ボニージョーの競走成績は今ひとつ良く分からないが、種牡馬としてはオクラホマ州で繋養されていたようである。遡ると、ファウスタス、エンクワイアラー(ドミノの母父)を経て、リーミントンへと行きつく。

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