キングトム

和名:キングトム

英名:King Tom

1851年生

鹿毛

父:ハーカウェイ

母:ポカホンタス

母父:グレンコー

脚部不安のために競走馬としては大成できなかったが半兄ストックウェルと共に種牡馬として成功を収め、セントサイモンの母父となる

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績6戦3勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

サミュエル・セルーソン大佐という人物により生産・所有された英国産馬である。セルーソン大佐は、本馬の母ポカホンタスを現役中に購入して繁殖入りさせていたウィリアム・シアボールド氏という人物が本馬の誕生する2年前に死去した際に、ポカホンタスを購入して自身の牧場で繁殖生活を続けさせていた。後世になって「史上もっとも偉大なる繁殖牝馬」と呼ばれるようになるポカホンタスも、本馬が誕生した当時は無名に近かった。本馬の兄には、英2000ギニー・英セントレジャーなどを勝ったストックウェルや、82戦42勝の成績を挙げたラタプランがいるのだが、それぞれ本馬より2歳と1歳年上であり、本馬が誕生した当時はまだ競走馬としてデビューしていなかったのである。

ストックウェルやラタプランの父はシアボールド氏が所有していた愛国産の英セントレジャー馬ザバロンだったが、ザバロンはシアボールド氏の死後に仏国政府に購入されて英国にはいなくなっていたため、セルーソン大佐はラタプランを産んだ年のポカホンタスの交配相手として、同じ愛国産馬のハーカウェイを選択した。グッドウッドCを2連覇したハーカウェイは競走馬としても種牡馬としても愛国と英国を行ったり来たりしながらの生活を送っており、ポカホンタスとの交配はハーカウェイが英国に来ていた時期に行われた。

管理調教師は、ウエストサセックス州に厩舎を構えていたワイアット師という人物だった。

競走生活(2歳時)

デビュー戦は、2歳時にグッドウッド競馬場で行われたグレートノース&サウスオブイングランドバイエニアルS(T6F)というレースだった。結果は、この年のジュライSの勝ち馬マーシャス、後にチェスターCを勝つスキタイアンという2頭のオーランド牡駒に屈して、マーシャスの3着というものだった。次走はブライトン競馬場で行われたバイエニアルSで、ここで6頭の対戦相手を破って初勝利を挙げた。この時期は、兄ラタプランがアスコットゴールドヴァーズを勝つなど活躍を始めていた時期でもあった。兄ストックウェルは既に前年の英2000ギニー・英セントレジャーを制覇していたから、この2頭の弟という血筋を有する本馬は注目された。

本馬の購入に手を挙げたのは、有名なロスチャイルド家の一員である英国の政治家・事業家メイヤー・アムシェル・ド・ロスチャイルド男爵だった。彼はユダヤ人として初めて英国ジョッキークラブの会員となった競馬好きでもあった。セルーソン大佐とロスチャイルド男爵の交渉はかなり熱を帯びたものになったそうだが、最終的には取引が成立。2千ポンドで購入された本馬は、ロスチャイルド男爵の所有馬となった。そしてロスチャイルド男爵の専属調教師ジョセフ・ヘイホー厩舎に転厩した。

ヘイホー師は、自分の厩舎にやってきた本馬を、ロスチャイルド男爵から任されていた別の馬と試走させてみることにした。対戦相手となったのはトゥインクルという牝馬で、父は本馬と同じハーカウェイだった。斤量はトゥインクルより本馬のほうが12ポンド重く設定されたのだが、本馬が先着した。

この試走から1週間も経たないうちに本馬は3戦目の公式戦に出走。それは10月にニューマーケット競馬場で行われたトリエニアルプロデュースS(T6F)だった。このレースには、英シャンペンSの勝ち馬で後の英2000ギニー3着馬シャンペンなど8頭が本馬以外に出走していたのだが、本馬が勝利。2歳時の成績は3戦2勝となった。

競走生活(3・4歳時)

3歳時は英ダービーのみを目標として、最初から英2000ギニーは眼中に無かった。英ダービー前に公式戦には出走しなかったが、試走には出走している。内容は、ちょうどこの少し前に出走したシティ&サバーバンHで19世紀最強牝馬の呼び声高かったヴィラーゴの3着に入ったウッドコートS勝ちの4歳牡馬オレステス、前年のドンカスターCを勝っていた6歳牡馬ハンガーフォード、この年の英2000ギニー2着馬ミドルセックスの3頭と戦うというものだった。斤量設定は、本馬が121ポンド、オレステスが127ポンド、ハンガーフォードが114ポンド、ミドルセックスが100ポンドというものだった。結果はミドルセックスが再先着し、本馬は短首差の2着だったが、斤量を考慮すると本馬が最も良い走りを見せたのは明らかだった。

そしてその後は英ダービーに向かおうとしたのだが、本番まで残り2週間を切った段階でアクシデントが発生。本馬が脚を捻挫してしまったのである。出走不能なほど重度な怪我では無かったらしいが、本番までろくな調教が出来ないまま(1回だけ馬なりで走っただけだったという)、英ダービー(T12F)に出走することになった。27頭立てで行われたレースは、単勝オッズ4.5倍の1番人気に支持されていたモールコームSの勝ち馬アンドーバーが勝利を収め、1馬身差の2着が本馬、さらに半馬身差の3着が英2000ギニー馬ザハーミットだった。

本馬が脚を痛めながら英ダービーに出走したのは公然の事実として認識されていたようで、後に本馬が種牡馬として活躍すると、ある競馬記者は本馬の担当厩務員チャールズ・マーカム氏に向かって「あのダービーは不運でしたが、あのレースで見せた闘争心は彼の子ども達によく伝わっているようですね」と語りかけられたという。しかし脚を痛めながら好走した反動はすぐに現れ、捻挫が屈腱炎までに悪化した本馬は3歳の残りシーズンを全て棒に振ることになってしまった。

4歳になった本馬は既に種牡馬活動を開始したという記録が残されているが、交配された繁殖牝馬の数が少なかったようで、翌1856年に誕生した本馬の産駒はいない(そのため事実上は1857年産馬が初年度産駒となっている)。繁殖シーズン終了後に競走馬生活に戻った本馬は、10月にニューマーケット競馬場で行われたトリエニアルプロデュースS(T16F119Y)で復帰戦を迎えた。1年以上も実戦から離れていた上に、いったん種牡馬活動をした後のレースだったが、この復帰戦は勝利を収めた。次走はシザレウィッチH(T18F)となった。ロスチャイルド男爵やヘイホー師は、本馬は距離が伸びてこそ良い馬だと思っていたそうである。しかし確かに競走能力はそのとおりだったとしても、本馬の脚は厳しい斤量を背負いながら18ハロンを走り切るほど頑丈では無かった。レース中に故障を発生して、ミスターサイクスの着外に敗退。生命には大事なかったが、二度と競馬場に姿を現すことは無かった。

血統

Harkaway Economist Whisker Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Floranthe Octavian Stripling
Oberon Mare
Caprice Anvil
Madcap
Fanny Dawson Nabocklish Rugantino  Commodore
Moll in the Wad
Butterfly Master Bagot
Bagot Mare
Miss Tooley Teddy the Grinder Asparagus
Stargazer
Lady Jane Sir Peter Teazle
Paulina
Pocahontas Glencoe Sultan Selim Buzzard
Alexander Mare
Bacchante Williamson's Ditto
Mercury Mare
Trampoline Tramp Dick Andrews
Gohanna Mare
Web Waxy
Penelope
Marpessa Muley Orville Beningbrough
Evelina
Eleanor Whiskey
Young Giantess
Clare Marmion Whiskey
Young Noisette
Harpalice Gohanna
Amazon

父ハーカウェイは愛国産馬で、競走馬としては愛国と英国をまたにかけて走った。その競走成績に関しては異説もあるが、グッドウッドC2連覇など46戦27勝の成績を挙げたという。種牡馬としてもやはり愛国と英国を行き来した。愛国では2度の首位種牡馬に輝いたらしいが、英国では種牡馬ランキング8位に1回入った程度で、その高い潜在能力に見合うだけの種牡馬成績を残したとは言えないと評されている。ハーカウェイの父エコノミストはウィスカー産駒の英国産馬で、競走馬としてはスタンレーSなど5勝を挙げている。競走馬引退後は愛国で種牡馬入りしていた。平地競走よりも障害競走で活躍する産駒が多かったそうである。エコノミストの種牡馬としての功績はハーカウェイを出しただけではなく、ザバロンの母の父となった事も大きい。

ポカホンタスは当馬の項を参照。→牝系:F3号族①

母父グレンコーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ロスチャイルド男爵がバッキンガムシャー州に所有する有名邸宅メントモアタワーズに隣接するメントモア&クラフトンスタッドで種牡馬入りした。競走馬としてはその有する能力に見合うだけの成績を残せなかった本馬だが、種牡馬としては本領を発揮。さすがに「種牡馬の皇帝」と評された兄ストックウェルには一歩を譲るものの、多くの活躍馬を出して成功した。1861年から1877年までの17年間のうち、英種牡馬ランキングトップ20入りが16回、トップ10入りが13回だった。1864年にはストックウェルに次ぐ2位に入って、兄弟で1・2位を独占。1871・72年には、ストックウェル、ニューミンスター、パルメザンといった面々を押しのけて2年連続首位に立った。1866・76年には同3位に入っている。本馬の産駒は平地競走馬としてだけでなく障害競走馬や狩猟馬としての才能にも恵まれており、この方面で活躍した馬も多いらしい。しかし本馬の最大の功績が、セントサイモンの母セントアンジェラの父となった事であるのは誰もが認めるところであろう。本馬の血はセントサイモンを通じて、現代サラブレッドの全てに余すところなく行き渡っている。

気性や体格などについて

孫のセントサイモンは狂気の気性の持ち主だったし、母ポカホンタスや兄ストックウェルもかなり気性が激しい馬だったが、本馬にはそういった気性の激しさは見られず、至って気立てが良く従順な馬だったという。本馬の体格に関しては、ストックウェルやラタプランほど大柄な馬ではなくむしろ弱々しい馬だったという意見と、大柄で筋肉質な馬体の持ち主だったという意見の、まったく相反する2説が存在する。大柄な馬だったと言われていたエクリプスが実際は当時としても小柄な馬だった事が判明したという話もあるし、古い時代の馬の体格が正確に後世に伝わるのは難しいようである。

しかし“Thoroughbred Heritage”には、種牡馬入り後の本馬に面会しに行った人物が書き残した以下のような話が載っている。「1871年、メントモアを訪問して、担当厩務員のチャールズ・マーカム氏の案内により、当時20歳のキングトムを見てきました。マーカム氏に声を掛けられたキングトムはすぐにこちらにやってきました。気立てが良い巨人のようなキングトムは、訪問客を迎えるのが午後の日課だったようです。壁に顔を向けて立ったキングトムは、いつものように身体の痒いところをかいてもらいました。それから私達のところにやってきて、柵超しに対面しました。彼の額には目立つ星型の流星があり、白い部分は鼻先にもありました。その巨大な馬力の源となる筋肉は、かつてダービーで勇敢に戦ってその素質を垣間見せた頃と変わりませんでした。短い背中、傾斜した肩、首筋など全てが力強かったです。最も驚くべきは下半身の強靭さで、これを受け継いだ子孫が急な事で有名なアスコット競馬場の上り下りを平気でこなしたのも納得でした。彼がこの年齢になっても元気なのは、競走馬時代にあまり走らなかった事と関係がありそうです。彼は決してストックウェルやラタプランのような超巨体ではありませんでしたし、あそこまで注目されるべき最上級の馬体ではありませんでした。それでも彼の特徴を受け継ぐことが出来た子ども達は、その父のように王に相応しい栄光を手に入れる事が出来るように思います。」この話からすると、ストックウェルやラタプランの体格が大きすぎたから相対的に本馬が小さく見えたのであって、本馬自身も並の馬より大柄で筋肉質な馬体を有していたというのが真相のようである。

周囲の人間から愛されて天寿を全うする

本馬を殊のほか気に入っていたロスチャイルド男爵は、本馬を絶対にメントモア&クラフトンスタッドの外部に出そうとせず、常に自分の目が届くようにしていた。ロスチャイルド男爵のこの本馬に対する溺愛ぶりは、本馬の種牡馬成績においてはむしろ不利に働いたという。当時の英国においては、待っていれば繁殖牝馬が集まってくるのは一部の超一流種牡馬のみで、多くの種牡馬は自身から優秀な繁殖牝馬を求めて各地に出向くのが一般的だったからである。そのために本馬の元に来る繁殖牝馬は、質量ともにそれほど恵まれていなかったそうである。本馬を溺愛していたのはロスチャイルド男爵だけでなく、担当厩務員のマーカム氏も同様で、本馬を“Tommy”と呼んで献身的に世話をした。

20歳になっても元気だった本馬だが、さすがにそれから数年すると老いが忍び寄ってきた。晩年は食事をしたり水を飲んだりすることも困難となったが、マーカム氏の世話のおかげで、死に至るほど衰弱することは無かった。1878年1月に本馬は27歳で他界したが、死因は老衰ではなく、疝痛を発症して丸一日倒れたままとなったために安楽死の措置が執られたものだった。当時の英国においては馬の安楽死は銃殺が一般的だったが、本馬の場合はクロロホルムが使用された。遺体はメントモア&クラフトンスタッドに埋葬された。

翌1879年、当時の有名彫刻家ジョセフ・エルンスト・ベーム氏(ヴィクトリア女王の戴冠50周年記念メダルも彼が手掛けた)が作成した本馬の銅像が本馬の埋葬場所に建てられ、台座には“Monarch of Mentmore(メントモアの君主)”と刻まれた。それから100年以上が経過した1982年に、文化的価値が高いメントモアタワーズの保存のために、メントモアタワーズは保存財団により購入され、メントモア&クラフトンスタッド共々ロスチャイルド男爵の一族の手を離れることになった。すると本馬の銅像は、ロスチャイルド男爵の一人娘だったハンナ嬢(本馬の代表産駒の1頭である英国牝馬三冠馬ハンナは彼女の名前に因む)と、彼女の夫となった英国首相の第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズ卿の子孫が、スコットランドのエジンバラに所有する有名邸宅ダルメニーハウスに移設された(おそらく遺骨も一緒に移されたと思われる)。現在でもダルメニーハウスを訪れた観光客は、凛々しい本馬の銅像を見ることが出来るようになっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1857

King of Diamonds

英シャンペンS

1858

Janus

アスコットダービー

1858

Queen of the Vale

コロネーションS・クイーンズスタンドプレート

1861

Breeze

コロネーションS

1861

Evelina

ニューS

1861

Tomato

英1000ギニー

1863

Tormentor

英オークス

1864

Hippia

英オークス・クイーンズスタンドプレート

1864

Jasper

ロイヤルハントC

1865

King Alfred

プリンスオブウェールズS

1865

Restitution

グッドウッドC

1867

King Cole

セントジェームズパレスS・アスコットダービー

1867

King o'Scots

プリンスオブウェールズS

1867

Kingcraft

英ダービー

1868

Corisande

コロネーションS・ニューS・シザレウィッチH

1868

Hannah

英1000ギニー・英オークス・英セントレジャー・ジュライS

1869

King Lud

シザレウィッチH

1873

Coltness

ニューS

1873

Great Tom

セントジェームズパレスS

1873

Skylark

ゴールドヴァーズ

1874

Lady Golightly

ヨークシャーオークス・英シャンペンS・ナッソーS・パークヒルS

1876

Lelia

コロネーションS

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