シャルドン

和名:シャルドン

英名:Challedon

1936年生

鹿毛

父:チャレンジャー

母:ローラギャル

母父:サーギャラハッド

生粋のメリーランド馬として地元の大競走プリークネスSを制したメリーランド州の英雄は第二次世界大戦勃発前後における米国最強馬としても名を馳せる

競走成績:2~6歳時に米で走り通算成績44戦20勝2着7回3着6回

誕生からデビュー前まで

米国メリーランド州ブランキャッスルファームにおいて、ウィリアム・L・ブラン氏とロバート・S・キャッスル氏の両名により生産された。ブランキャッスルファーム名義で競走馬となり、ルイス・J・シェーファー調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳7月にデラウェアパーク競馬場で行われたダート5.5ハロンの一般競走でデビューしたが、後のサンフォードSの勝ち馬バーチロッドに6馬身差をつけられて3着に敗退。9月にナラガンセットパーク競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦が2戦目となり、ここを2着グリーダンに4馬身差で勝ち上がった。その10日後にはイースタンショアH(D6F)に出走するが、タイムアローン、後のサンタスサナSの勝ち馬スウィートナンシー、後のケンタッキージョッキークラブS・フォールハイウェイトHなどの勝ち馬ティーエムドーセットといった面々に歯が立たず、勝ったタイムアローンから6馬身半差の12着に大敗した。

その後は1か月の間隔を空けて、メリーランドフューチュリティ(D6F)に出走。主戦となるジョージ・シーボ騎手と初コンビを組み、鼻差で勝利を収めた。2週間後のニューイングランドフューチュリティ(D8F70Y)でも重馬場を克服して、2着となった後のサンヴィンセントSの勝ち馬インパウンドに2馬身差で勝利した(後の好敵手の1頭ギルデッドナイトが3着だった)。さらに2週間後のピムリコフューチュリティ(D8.5F)にも骨膜炎を押して参戦し、2着サードディグリーに1馬身半差で勝利(ここでもギルデッドナイトが3着だった)。2歳時は6戦4勝の成績だった。

競走生活(3歳前半)

3歳時は4月のチェサピークS(D8.5F)から始動したが、以前に破ったことがあるギルデッドナイトとインパウンドの2頭に屈して、勝ったギルデッドナイトから2馬身半差の3着に敗戦。

続いて参戦したケンタッキーダービー(D10F)では、レムセンS・ブリーダーズフューチュリティ・ウッドメモリアルSなど6連勝中のジョンズタウン、フラミンゴSの勝ち馬テクニシャン、ユナイテッドステーツホテルS・ユースフルS・ジュニアチャンピオンS・グレートアメリカンS・サラトガスペシャルS・ホープフルSなどを制して前年の米最優秀2歳牡馬に選ばれたエルチコ、ブルーグラスSを勝ってきたヘザーブルーム、ダービートライアルSを勝ってきたヴィスカウンティ、前年のイースタンショアHで本馬に先着する3着だったティーエムドーセットなどとの対戦となった。ジョンズタウンはメリーランド州にあるベルレアスタッドの生産馬ではあるが、誕生したのは預託先のクレイボーンファームだったため、本馬とは異なりケンタッキー州産馬だった。そのジョンズタウンが1番人気に支持され、テクニシャンが2番人気、本馬が3番人気となった。レースでは先行したジョンズタウンが圧勝し、本馬は追い上げたものの8馬身も離された2着に敗れた。

次走は、本馬が誕生したメリーランド州にあるピムリコ競馬場で行われるプリークネスS(D9.5F)となった。このレースでは、ケンタッキーダービーの圧勝ぶりからマンノウォーの再来とまで言われるようになっていたジョンズタウンが断然の1番人気に支持されており、本馬、ギルデッドナイト、フラミンゴS・ウッドメモリアルS2着馬ヴォリタント、サンタアニタダービーを勝ってきた牝馬シエンシアといった他の出走馬5頭がジョンズタウンに勝てると考える者は少数派だった。もっとも、当のジョンズタウンを管理していたサニー・ジム・フィッツシモンズ調教師(彼はギルデッドナイトも管理していた)は、今回はギルデッドナイトに勝機があると言い切っていた。その理由はおそらく、レース当週に降った大雨により当日の馬場状態が不良だったためである。

レースではジョンズタウンがケンタッキーダービーと同様に先行し、それにギルデッドナイトが絡んでいった。向こう正面でジョンズタウンがギルデッドナイトを引き離そうとしたが、馬場に脚を取られて上手くいかなかった。そこへ後方からシエンシアがやって来て先頭争いに参戦。さらに遅ればせながら本馬が進出して前3頭の争いに参加した。そして4頭四つ巴となったまま直線に突入。4頭のうちジョンズタウンとシエンシアが脱落し、残った本馬とギルデッドナイトの叩き合いとなった。最後は本馬が前に出て、2着ギルデッドナイトに1馬身1/4差をつけて優勝。3着には追い込んだヴォリタントが入り、ジョンズタウンは5着に敗れた。本馬が地元メリーランド州産馬であることを知っていた観衆達は歓喜の声を上げた。過去にもメリーランド州に縁がある馬がプリークネスSを制した例はあったが、本馬は地元で誕生して地元で育ち地元の人間が所有して地元で調教された生粋のメリーランド馬であり、メリーランド州の誇りとして讃えられた。メリーランド州では各地で本馬の勝利を祝福する催しが行われ、優勝記念クッキーも販売されたという。また、管理するシェーファー師は騎手時代の1929年にドクターフリーランドに騎乗してプリークネスSを勝っており、騎手と調教師の両方でプリークネスSを勝った史上初の人物となった。

競走生活(3歳後半)

ベルモントSには登録が無かったため回避し、ドワイヤーS(D9F)に出走。このレースでは、プリークネスS5着後にウィザーズS・ベルモントSを連勝してきたジョンズタウンとの再戦となったが、勝ったジョンズタウンから7馬身差、2着サンラヴァーからも6馬身差をつけられた3着と完敗した(本馬とジョンズタウンの斤量は同じだったが、サンラヴァーには10ポンドのハンデを与えていた)。1週間後に出走したケントH(D8.5F)では、サンラヴァーに加えて、米国三冠競走には不参戦だった同世代の実力馬エイトサーティも出走してきた。しかし結果はサンラヴァーが勝利を収め、エイトサーティは2着、本馬はサンラヴァーから2馬身差の3着に敗れた。

次走のヤンキーH(D9.5F)からは、シーボ騎手からH・リチャーズ騎手に主戦が交替となった。結果は後のローレンスリアライゼーションS勝ち馬ハッシュを1馬身差の2着に抑えて勝利した。しかしマサチューセッツH(D9F)では、グランドユニオンホテルS・ウッドメモリアルS・カーターHなどを勝っていた4歳馬ファイティングフォックス(米国三冠馬ギャラントフォックスの全弟)、ベルモントフューチュリティS・ジュニアチャンピオンS・ナショナルスタリオンS・サンカルロスH・ディキシーHなどを勝ち、ケンタッキーダービー・プリークネスSでいずれも米国三冠馬ウォーアドミラルの2着という実績もあった3年前の米最優秀2歳牡馬ポンプーン、一昨年のトラヴァーズSの勝ち馬バーニングスターの3頭の古馬に屈して、勝ったファイティングフォックスから6馬身差の4着に終わった。

それから10日後に出走したアーリントンクラシックS(D10F)では、ドワイヤーSから直行してきたジョンズタウンと4度目にして最後の対決となった。3連勝中のジョンズタウンと、前走4着の本馬では、ジョンズタウンに分があると思われたが、結果は本馬が2着サンラヴァーに首差で勝利を収め、ジョンズタウンはさらに6馬身差の3着に敗れた。この後ジョンズタウンが故障で現役引退に追い込まれたため、本馬が3歳牡馬のエース格となった。

アーリントンクラシックSから1か月後のジェームズCソーントン記念H(D9F)は128ポンドの斤量が堪えたのか、10ポンドのハンデを与えた同世代のベルモントフューチュリティS・シャンペンSの勝ち馬ポーターズマイトの1馬身半差2着に敗れた。翌週に出走したナラガンセットスペシャルH(D9.5F)では、サンカルロスH・サンタアニタH・アメリカンH・ハリウッド金杯と4戦連続でコースレコード勝利を収めていたカヤック、亜国の大競走ポージャデポトリジョス大賞・亜ジョッキークラブ大賞・ナシオナル大賞を勝った後に米国に移籍してマンハッタンHを勝っていたソーティードとの対戦となった。結果は本馬がカヤックを3馬身差の2着に退けて勝利したが、斤量は本馬が10ポンドも軽く、実力による勝利とは言い難かった。しかし2週間後に出走したホーソーン金杯(D10F)では、14ポンドのハンデを与えた2着グリディロンに3/4馬身差で勝利。

さらに2週間後に出たハヴァードグレイスH(D9F)では、カヤックの主戦騎手で、前年にシービスケットで同競走を勝っていたジョージ・ウルフ騎手とコンビを組んだ。レースは不良馬場で行われたが関係なく、2着ロバートエルに4馬身差をつける完勝。これ以降はウルフ騎手が本馬の主戦を務めることになった。続くトランターS(D9.5F)では、2着ハッシュに4馬身差をつけ、1分54秒6の世界レコードを樹立して完勝。さらに128ポンドを課せられたメリーランドH(D10F)も、2着ジェネラルモーリーに4馬身差で勝利した。

次走のピムリコスペシャルS(D9.5F)では、2度目の対戦となるカヤックに加えて、ジェロームH・サンフアンカピストラーノ招待H・ブルックリンH・サバーバンH・ジョッキークラブ金杯を勝っていたクラヴァトも出走してきて、勝った馬がこの年の米年度代表馬を獲得できる状況となった。ウルフ騎手がカヤックに騎乗したため、本馬はこのレース限定でエディ・アーキャロ騎手とコンビを組んだ。このレースは前年にカヤックの同厩馬シービスケットとウォーアドミラルが世紀のマッチレースを演じた競走だったが、本馬の地元メリーランド州におけるレースだけに、1番人気に支持されたのは本馬だった。そして2着カヤックに半馬身差をつけて勝利。ナラガンセットスペシャルHの時と異なり、今回の斤量差は3歳馬と古馬の一般的な差とされる5ポンドであり、ここでようやく本馬の実力が米国一であることが証明された。

3歳時15戦9勝の好成績を残した本馬は、サラトガスペシャルS・ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・ピムリコフューチュリティなど6戦全勝の2歳馬バイムレックや、カヤック、クラヴァトを抑えて米年度代表馬を、ジョンズタウンを抑えて米最優秀3歳牡馬のタイトルを獲得した。

競走生活(4歳時)

翌年は連戦の疲労が出て、復帰は7月までずれ込んだ。復帰初戦のサフォークダウンズ競馬場ダート8.5ハロンの一般競走は、2馬身半差の快勝で飾った。次走のマサチューセッツH(D9F)では、前年のケントH2着後にウィルソンS・サラトガH・トラヴァーズS・ホイットニーSを勝っていたエイトサーティと2度目の顔合わせとなった。結果はエイトサーティが勝ち、本馬は2馬身半差の3着に敗れたが、斤量は本馬がエイトサーティより4ポンド重い130ポンドだった。

マサチューセッツHの10日後には米国西海岸に姿を現し、ハリウッド金杯(D10F)に出走した。このレースには、ハリウッドダービーやサンカルロスHなどを勝っていた西海岸の強豪スペシファイ(2年前の同競走でシービスケットの2着だった)も出走していた。本馬には133ポンドという厳しい斤量が課せられたが、2着スペシファイに1馬身1/4差をつけて、2分02秒0のコースレコードで勝利した。

東海岸に戻って出走したホイットニーS(D10F)も、2着アイソレイターとの差は鼻差ながら、2分03秒2のレースレコードで勝利した。

翌9月から、本馬の管理調教師はドン・キャメロン師に交替となった。ナラガンセットスペシャルS(D9.5F)では130ポンドの斤量が堪えて、8ポンドのハンデを与えたハッシュの半馬身差2着と不覚を取った。次走のハヴァードグレイスH(D9F)でも130ポンドを課せられたが、ここでは2着ハニークラウドに3馬身差で勝利して同競走の2連覇を達成。

そして出走したピムリコスペシャルS(D9.5F)では、この年のメトロポリタンH・サバーバンH・ブルックリンHで全て2着、一昨年のケンタッキーダービーと本馬が勝ったハリウッド金杯で3着だったキャントウェイトの1頭だけが対戦相手となり、シービスケットが勝った一昨年の同競走と同じく2頭立てとなった。しかしシービスケットとウォーアドミラルが死闘を演じた2年前に比べると、当然だがあまり盛り上がらなかった。結果は本馬が地元では負けられないと言わんばかりに2馬身差で勝利を収め、2015年現在に至るまで唯一となる同競走の2連覇を達成。

4歳時は7戦5勝の成績で、メトロポリタンHを制したエイトサーティや、サンタアニタHを制したシービスケットを抑えて、2年連続の米年度代表馬と米最優秀ハンデ牡馬のタイトルを手にした。なお、メリーランド州競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトには、米年度代表馬に2度選ばれたのは本馬が史上初であるとされている。過去にはサルヴェイターヘンリーオブナヴァルコマンド、ヘルミス、コリン、フィッツハーバート、サラゼンエクワポイズなどが2年連続で米年度代表馬に選ばれた例があるのだが、現在の米国年度表彰エクリプス賞の選考にも携わっているデイリーレーシングフォーム紙が年度表彰選考を実施するようになった1936年以降では本馬が初である。

競走生活(5・6歳時)

5歳になった本馬の管理調教師はホワイティ・ホワイトヒル師に交替となった。そしてサンタアニタHを目指して2月にサンタアニタパーク競馬場で行われたサンアントニオH(D8.5F)から始動した。しかし結果はサンフアンカピストラーノ招待H・アメリカンダービー・サンパスカルHなどを勝っていたミオランドの7馬身差7着と大敗。このレースの斤量は128ポンドだったが、本番のサンタアニタH(D10F)ではさらに重い130ポンドが課せられた。そして結果は単勝オッズ59倍の伏兵ベイビューの18馬身差14着と惨敗。実はこの頃から本馬は前脚の裂蹄や腱の損傷に悩まされており、以前ほどの競走能力を発揮できない状態となっていたのである。

その後は夏場まで休養し、ハリウッド金杯2連覇を目指して前哨戦のアメリカンH(D9F)に出走。しかし結果はミオランドの8馬身差8着と大敗し、ハリウッド金杯には出走せずにこの年はそのまま休養入りすることになった。

5歳時の成績は3戦未勝利で、このまま引退かとも思われたが、6歳時も現役を続行。2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走で仕切り直しのスタートを切った。ここでは、勝ったシェリフカルキンから2馬身差の2着だった。次走ハイアリアパーク競馬場ダート9ハロンの一般競走では、アケダクトHの勝ち馬ポンティから5馬身差の2着。復帰3戦目のハイアリアパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走では2着シグネイターに3馬身差で勝利を収め、ピムリコスペシャルS以来1年3か月ぶりの勝ち星を挙げた。しかしハイアリアパーク競馬場ダート9ハロンの一般競走は、前年のジョッキークラブ金杯・ピムリコスペシャルSの勝ち馬マーケットワイズに6馬身1/4差をつけられて5着に敗退。ワイドナーH(D10F)も6着に敗れたが、勝ち馬ザライマーとの着差は1馬身半差だった。その後はハヴァードグレイス競馬場ダート8.5ハロンの一般競走に出て、アレイキングの頭差2着。次走のフィラデルフィアH(D8.5F)では2着ミオランドに鼻差で勝利し、久しぶりのステークス競走の勝利を挙げた。しかし、これが本馬の最後の勝利となった。

次走のディキシーH(D9.5F)では、前年の米国三冠馬ワーラウェイ、アーリントンクラシックS・ユナイテッドステーツホテルSの勝ち馬アテンション、ミオランドの3頭に屈して、ワーラウェイの1馬身1/4差の4着。続くベルモントパーク競馬場ダート9ハロンのハンデ競走には、この年のケンタッキーダービー馬シャットアウトがベルモントSの調教代わりに出走してきて、5馬身差をつけられて2着に敗れた。時代は確実に世代交代が進んでいた。この後は4か月間休養し、9月のハヴァードグレイスH(D9F)に出走。かつて2連覇したレースだけに1番人気に支持されたが、勝ったトラローズに14馬身差をつけられて8着と惨敗。次走のローレル競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走も、アーリントンH・エクワポイズマイルHの勝ち馬エクワフォックスに8馬身差をつけられて5着に敗退。地元メリーランド州で出走したピムリコ競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走では少し意地を見せて、クサールオブオードリーの2馬身1/4差の3着と健闘したが、勝利には至らず。ボウイー競馬場で行われたダート9ハロンのハンデ競走で、勝ったサーアルフレッドから5馬身差の5着最下位に沈んだのを最後に、6歳時13戦2勝の成績で競走馬生活を終えた。

血統

Challenger Swynford John o'Gaunt Isinglass Isonomy
Dead Lock
La Fleche St. Simon
Quiver
Canterbury Pilgrim Tristan Hermit
Thrift
Pilgrimage The Palmer
Lady Audley
Sword Play Great Sport Gallinule Isonomy
Moorhen
Gondolette Loved One
Dongola
Flash of Steel Royal Realm Persimmon
Sand Blast
Flaming Vixen Flying Fox
Amphora
Laura Gal Sir Gallahad Teddy Ajax Flying Fox
Amie
Rondeau Bay Ronald
Doremi
Plucky Liege Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Laura Dianti Wrack Robert le Diable Ayrshire
Rose Bay
Samphire Isinglass
Chelandry
Lady Errant Knight Errant Trenton
St. Mildred
Outcome Sir Dixon
Ollie Glenn

父チャレンジャーはスウィンフォードの直子で、当初は英国で走っていた。2歳時の成績は4戦2勝で、クレアウェルS・リッチモンドSに勝利した。その後馬主トマス・デュワー卿の死去に伴い米国に転売され、本馬の生産者ブラン氏とキャッスル氏の所有となったが、輸送中の事故で負傷してしまい、米国では3歳時不出走、4歳時8戦未勝利に終わった。通算成績は12戦2勝。種牡馬としては本馬の他にも米国競馬史上有数の女傑ギャロレット、ベルデイムH・ガゼルH・デラウェアH・ウエストチェスターH・ローマーHなどを勝ち1946年の米最優秀3歳牝馬に選ばれたブライダルフラワー、ハリウッド金杯・アーカンソーダービーの勝ち馬チャレンジミーなどを出して成功した。1939年には本馬の活躍により北米首位種牡馬に輝いた。

母ローラギャルは現役成績24戦2勝。本馬の全姉リトルスリーパーの孫に米国顕彰馬ベッドオローゼズ【メイトロンS・セリマS・デモワゼルS・ローレンスリアライゼーションS・ヴァインランドH・サンタマルガリータ招待H】がいるが、近親にはそれほど活躍馬はおらず、牝系もあまり発展していない。→牝系:F12号族①

母父サーギャラハッドは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はケンタッキー州ギャラハーファームで種牡馬入りした。しかし種牡馬としてはあまり振るわず、産駒のステークスウイナーは13頭に留まった。1958年1月に放牧中の事故のため脚を骨折して22歳で他界した。1977年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第38位。

本馬は日本における知名度はかなり低いが、第二次世界大戦勃発前後における時代の最強馬として米国における評価はかなり高く、「競走馬向きの素晴らしい気性と、抜群のスピード、そしてそのスピードを長時間持続させる能力を有した最上級の馬」とまで評されている。3歳シーズン終了後に、「サルヴェイター」の筆名で知られる米国の伝説的競馬作家ジョン・ハーヴェイ氏は「シャルドンがこの国に今まで登場した中で最も偉大なサラブレッドの1頭であるというのは、大多数の競馬関係者に共通する見解です」と書いている。また、アーキャロ騎手は結局ピムリコスペシャルSの1回しか本馬に騎乗しなかったが、後にサイテーションが登場するまでは、本馬を自身が乗った最良の馬だと言い続けた。

種牡馬としては失敗に終わった本馬だが、牝駒フリッタボートを経由して後世に血が受け継がれており、血統表に本馬の名を有する著名馬は何頭か見受けられる。例えばフリッタボートの孫には1967年の米最優秀2歳牝馬クイーンオブザステージと種牡馬レヴュワー(ラフィアンの父)が、曾孫には名種牡馬シーキングザゴールドがいる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1944

Donor

サプリングS・サンフォードS・シャンペンS・ジェロームH・マンハッタンH・ニューヨークH

1945

Challe Anne

ケンタッキーオークス

1945

Shy Guy

ブリーダーズフューチュリティS・ベンアリH・クラークH

1947

Mrs. Fuddy

ハリウッドオークス

1949

Ancestor

ディスカヴァリーH

1951

Gigantic

サンアントニオH・ロングエイカーズマイルH

1954

Tenacious

ニューオーリンズH2回

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