和名:マームード |
英名:Mahmoud |
1933年生 |
牡 |
芦毛 |
父:ブレニム |
母:マーマハル |
母父:ゲインズボロー |
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59年間破られなかったレースレコードで英ダービーを制しただけでなく種牡馬としても大きな成功を収めた純白の快速馬 |
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競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績10戦4勝2着2回3着3回 |
誕生からデビュー前まで
既にこの名馬列伝集では御馴染みとなっている名馬産家アガ・カーンⅢ世殿下により生産された仏国産馬である。父ブレニムと母マーマハルはいずれもアガ・カーンⅢ世殿下の所有馬で、本馬は母マーマハルから芦毛の馬体を受け継いでおり、若い頃から純白に近い毛色をしていた。成長しても体高は15.3ハンドほどにしかならない小柄な馬であり、その外見はサラブレッドというよりもアラブ馬を髣髴とさせるものだったという(最近の資料では、近年のポニーの水準と同程度とも評されている)。本馬の父ブレニムも母父ゲインズボローも共に体高15.3ハンドと小柄だったから、本馬がこの体格になるのは当然だったとも言える。
本馬が誕生した1933年は、本馬よりさらに小さい体高15.1ハンドのハイペリオン(ゲインズボローの代表産駒)が英ダービーや英セントレジャーを完勝した年だったし、ブレニムは英ダービー馬、ゲインズボローは英国三冠馬なのだから、当時の英国競馬における「小柄な馬は競馬に出て不利である」という常識はかなり揺らいでいたはずなのだが、それでも小柄な本馬に対するアガ・カーンⅢ世殿下の評価は低く、所有馬が多すぎた事もあって、仏国ドーヴィルで行われたセリに本馬を出品した。しかし本馬は最低落札価格に達しなかったため、主取りとなってしまった。結局本馬はそのままアガ・カーンⅢ世殿下の持ち馬となり、アガ・カーンⅢ世殿下の専属調教師だった英国フランク・バターズ師に預けられた。
競走生活(2歳時)
2歳5月にニューマーケット競馬場で行われたスプリングSでデビュー戦を迎えたが、スタートでフライングがあって「やり直し」の合図が出たのにも関わらず、出走馬16頭のうち本馬を含めた13頭がレースを続行。そのままゴールまで完走してしまったこの13頭は出走取消となり、本馬のデビュー戦は幻に終わった。6月にアスコット競馬場で行われたニューS(T5F)で改めてデビュー戦を迎えた。しかしここでは後にウィンダムと名付けられる当時名無しの牡馬の3着に敗れた。7月にニューマーケット競馬場で行われたエクセターS(T6F)で初勝利を挙げた。同月にグッドウッド競馬場で出走したリッチモンドS(T6F)も“very stylishly(とても粋な方法)”な勝ち方で勝利した(逃げ切り勝ちだったらしいが、具体的にどんな勝ち方だったのかは不明)。次走は9月の英シャンペンS(T6F)となった。ここでもスタートから先頭に立ち、そのまま2着アブジェルに3/4馬身差で勝利した。かつてニューSで本馬を破ったウィンダム(本当はこの時点でもまだ名無し)は3着だった。しかしチャールズ・スマーク騎手を鞍上に出走した次走のミドルパークS(T6F)では、スタートで致命的な出遅れを犯してしまい、勝ったアブジェルから2馬身差、2着ウィンダムから頭差の3着に敗れた。
2歳時は5戦3勝の成績を残し、英国の2歳馬フリーハンデにおいては、デューハーストSを勝っていた同馬主同厩馬バラヒサールより1ポンドだけ低い第2位にランクされた。しかしこの時点で本馬の能力に疑問符をつける者は多く、過大評価であるという意見も強かった。血統的にスタミナが不足している(母系は言うまでも無いが、父ブレニムも英ダービー馬でありながらスタミナ面の不安が指摘されていた)本馬にとっては、英ダービーはおろか英2000ギニーでも距離が長いのではないかという声も上がっていた。本馬にスタミナが不足しているという意見は血統的背景だけでなく、芦毛馬にはスタミナが無いという偏見(科学的には立証されていない)によるものでもあったと海外の資料には記されている。その偏見を形成した理由の1つは本馬に芦毛を受け継がせたザテトラークやムムタズマハルの競走実績によるところも大きいだろうが、芦毛馬が英国クラシック競走で活躍した事例が少なかったのも事実である。それを差し引いても、2歳時における本馬の勝ち方はスピードを活かした逃げ切りばかりだったらしく、マイル戦の英1000ギニーでさえもスタミナが保たずに敗れた祖母ムムタズマハルの走法を髣髴とさせるものであった。本馬の所有者であるアガ・カーンⅢ世殿下自身も、本馬には英国クラシック競走における活躍は望めないと思っていたらしい(本馬に対する彼の評価が幼少期から低かったのは小柄だったからだけではなく、血統に由来するスタミナ面の不安にもあったようである)。
競走生活(3歳時)
3歳時は4月にニューベリー競馬場で行われたグリーナムS(T7F)から始動した。しかしレース前から元気が無かった本馬は、同厩馬ノーブルキングの5着に敗れた。なお、このレースでは馬場が湿っており、それも本馬の敗因になったと言われている。
次走の英2000ギニー(T8F)では、スマーク騎手がバラヒサールに騎乗したために、本馬には祖母の父ザテトラークの主戦も務めた当時51歳のスティーヴ・ドノヒュー騎手が騎乗した。しかし英国平地首位騎手に10度輝き、翌年の英1000ギニーをイクサビショニストで勝利する名手ドノヒュー騎手とコンビを組んでも本馬の評価はそれほど上がらず、単勝オッズ13.5倍の5番人気での出走となった。本馬はスタートで後手を踏み、後方からのレースとなった。しかもレースはスローペースで進み、本馬は馬群を捌くのに手間取ってしまった。残り1ハロン地点からようやく素晴らしい伸びを見せたが、勝った単勝オッズ6.5倍の2番人気馬ペイアップに短頭差届かず2着に敗れた(3着馬サンカートンは本馬から3馬身後方だった)。
次走の英ダービー(T12F)では、前走と同じ単勝オッズ13.5倍で、今度は6番人気での出走となった。前走の好走にも関わらず評価が上がらなかったのは、やはりスタミナ面の懸念が大きかったためであろう。このレースには、本馬と同馬主同厩のチェスターヴァーズの勝ち馬タジアクバーと、バラヒサールも出走していた。タジアクバーの父は英セントレジャー馬フェアウェイ、バラヒサールの父は前年の英国三冠馬バーラム、一昨年の英ダービー・英セントレジャー馬ウインザーラッド、凱旋門賞馬ブラントームなどを出していた大種牡馬ブランドフォードであり、2頭とも血統的には明らかに本馬よりも英ダービー向きだったから、本馬はこの3頭の中では3番手評価だった。本馬の鞍上はスマーク騎手に戻っていた。一昨年の英ダービーと英セントレジャーをウインザーラッドで勝っていたスマーク騎手は、前年の英セントレジャーをアガ・カーンⅢ世殿下の所有馬でバターズ師の管理馬だったバーラムで勝っていたが、それはバーラムの主戦騎手フレデリック・フォックス騎手の負傷による代打騎乗であり、アガ・カーンⅢ世殿下にとってスマーク騎手は2番手以下の評価だった。しかもバターズ師とスマーク騎手は不仲だったらしく、スマーク騎手はその実績にも関わらず陣営からは高い評価を得ていなかった。彼がこの英ダービーで本馬に騎乗したのは、本馬もまた陣営からの評価が低かった故であり、陣営は一番期待していたタジアクバーの鞍上に当時英国最高の騎手という名声を不動のものとしていたゴードン・リチャーズ騎手を迎えて必勝を期していた。スマーク騎手は「タジアクバーに乗るように声をかけられませんでしたが、それは逆に幸運でした」とレース後に語っている。この年の英ダービーは非常に乾燥した堅い馬場で行われ、芝が枯れて所々に地面が露出しているという異常な状態だった。
スマーク騎手は、散々にスタミナ不足を指摘されていた本馬にどのように騎乗すれば良いのか悩んだらしく、レース前にドノヒュー騎手に相談していた。すると前走で敗北しながらも本馬の能力を掴んでいたらしいドノヒュー騎手は「チャーリー、君はきっと今回のダービーに勝てるよ」と応じ、本馬に乗る方法をスマーク騎手に伝授した。スマーク騎手はドノヒュー騎手の指示どおりに、スタートが切られると速やかに本馬を馬群の中団後方に陣取らせた(当時の白黒の映像でも、真っ白い本馬がどこにいるのか一目で分かる)。そして徐々に位置取りを上げていき、タッテナムコーナーを5番手で回ってきた。そして直線に入ると素晴らしい伸びを見せ、タッテナムコーナーで後続を大きく引き離す逃げを打って直線でも粘っていた英2000ギニー3着馬サンカートンを残り1ハロン地点で外側から一気に抜き去った。そして最後は追い上げてきた2着タジアクバーに3馬身差、3着サンカートンにはさらに1馬身差をつけて完勝。1番人気に推されていた英2000ギニー馬ペイアップは着外だった。
芦毛馬の英ダービー制覇は、1821年のグスタヴァス、1912年のタガリーに次いで24年ぶり史上3頭目の快挙で、その後も1946年のエアボーン1頭しか登場していない。また、勝ち時計2分33秒8は、3年前の1933年にハイペリオンが計時した英ダービーのレースレコード2分34秒0を更新するもので、1995年にラムタラが2分32秒31を計時するまでなんと59年間破られなかったという驚異的なレースレコードタイムだった。しかしこの素晴らしい勝ち時計にも関わらず本馬の評価は上がらず、「運に恵まれて勝った」「対戦相手が弱かったから勝てた」とレース直後に酷評されている。本馬のスタミナ不足を散々に指摘していた人達の負け惜しみという一面もあったと思われるが、芦毛馬は弱いという偏見もやはり影響していたようである。さらに本馬の勝利は、本馬に低評価を下していた陣営にとっては敗北にも等しかったようである。お調子者のアガ・カーンⅢ世殿下は所有馬がワンツーフィニッシュを決めたこともあって満面の笑みで本馬やスマーク騎手と一緒に記念撮影に収まっているが、バターズ師は何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。
次走のセントジェームズパレスS(T8F)では、勝ったローズスカラー(英2000ギニー4着後、馬場が堅過ぎるという理由で英ダービーを回避していた)から5馬身差をつけられ2着に敗れた。陣営は敗因に関してコメントしなかったが、本馬は英ダービーの激走の疲労がまだ残っていたのだという意見が外部から出た。しかし実際にはレース中に裂蹄を発症していたのが最大の敗因だったようである。なお、このセントジェームズパレスSから2週間後に行われたプリンセスオブウェールズSで、英ダービー2着馬タジアクバーが米国三冠馬オマハを2着に破って勝利しており、さらにエクリプスSではローズスカラーが6馬身差で圧勝したため、間接的に本馬の評価も上昇することになった。
一方の本馬は裂蹄の治療のために夏場は完全に休養に充て、秋の英セントレジャー(T14F132Y)に直行した。ここではローズスカラーと共に上位人気の一角を占めた。レースではやはり後方を進み、直線で追い込む競馬を見せた。しかし英ダービーのような豪脚を発揮する事は出来ず、単勝オッズ21倍の伏兵ボスウェル(翌年にエクリプスSを勝利)と、フィアレスフォックス(翌年にグッドウッドC・アスコットゴールドヴァーズを勝利)の2頭に届かず、勝ったボスウェルから6馬身半差の3着に敗れた。このレースを最後に、3歳時5戦1勝の成績で引退した。
血統
Blenheim | Blandford | Swynford | John o'Gaunt | Isinglass |
La Fleche | ||||
Canterbury Pilgrim | Tristan | |||
Pilgrimage | ||||
Blanche | White Eagle | Gallinule | ||
Merry Gal | ||||
Black Cherry | Bendigo | |||
Black Duchess | ||||
Malva | Charles O'Malley | Desmond | St. Simon | |
L'Abbesse de Jouarre | ||||
Goody Two-Shoes | Isinglass | |||
Sandal | ||||
Wild Arum | Robert le Diable | Ayrshire | ||
Rose Bay | ||||
Marliacea | Martagon | |||
Flitters | ||||
Mah Mahal | Gainsborough | Bayardo | Bay Ronald | Hampton |
Black Duchess | ||||
Galicia | Galopin | |||
Isoletta | ||||
Rosedrop | St. Frusquin | St. Simon | ||
Isabel | ||||
Rosaline | Trenton | |||
Rosalys | ||||
Mumtaz Mahal | The Tetrarch | Roi Herode | Le Samaritain | |
Roxelane | ||||
Vahren | Bona Vista | |||
Castania | ||||
Lady Josephine | Sundridge | Amphion | ||
Sierra | ||||
Americus Girl | Americus | |||
Palotta |
父ブレニムは当馬の項を参照。本馬は父の2年目産駒である。
母マーマハルは現役成績15戦2勝、未勝利戦とウィットリーHの2競走に勝利している。本馬は母の初子である。本馬の半弟には新国で種牡馬として成功したフェロッシャー(父ファロス)【コーク&オラリーS】がいるほか、本馬の半妹マーイラン(父バーラム)の子にはミゴリ【凱旋門賞・デューハーストS・エクリプスS・英チャンピオンS・クレイヴンS・キングエドワードⅦ世S・ホワイトローズS】とムーンダスト【ダイオメドS・クレイヴンS】、孫にはプティトエトワール【英1000ギニー・英オークス・サセックスS・ヨークシャーオークス・英チャンピオンS・コロネーションC2回】、ダラノーア【モルニ賞】、玄孫世代以降には、ザインタ【サンタラリ賞(仏GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)】、アルボラーダ【英チャンピオンS(英GⅠ)2回】、アルバノヴァ【ドイツ賞(独GⅠ)・ラインラントポカル(独GⅠ)・オイロパ賞(独GⅠ)】、アラムシャー【愛ダービー(愛GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ)】、ザイヤド【仏チャンピオンハードル(仏GⅠ)2回・ドートンヌ大賞(仏GⅠ)】、オージールールズ【仏2000ギニー(仏GⅠ)・シャドウェルターフマイルS(米GⅠ)】、ザルカヴァ【凱旋門賞(仏GⅠ)・マルセルブサック賞(仏GⅠ)・仏1000ギニー(仏GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)】、アランディ【愛セントレジャー(愛GⅠ)・カドラン賞(仏GⅠ)】、ヨセイ【AJCサイアーズプロデュースS(豪GⅠ)・MRC1000ギニー(豪GⅠ)・ウインターS(豪GⅠ)】、イググ【ダーバンジュライ(南GⅠ)・SAフィリーズクラシック(南GⅠ)・ウーラヴィントン2000(南GⅠ)・J&Bメトロポリタン(南GⅠ)】、日本で走ったワールドクリーク【東京大賞典(GⅠ)】とスマートファルコン【JBCクラシック(GⅠ)2回・東京大賞典(GⅠ)2回・帝王賞(GⅠ)・川崎記念(GⅠ)】の兄弟などがいる。また、本馬の半妹マバル(父ビッグゲーム)の牝系子孫には、日本で走ったタニノギムレット【東京優駿(GⅠ)】などもいる。
マーマハルの母は名牝ムムタズマハルであり、本馬の従兄弟にはナスルーラやアバーナントがいる世界的名牝系である。→牝系:F9号族③
母父ゲインズボローは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はアガ・カーンⅢ世殿下が英国ニューマーケットに所有していたエジャートンスタッドで種牡馬入りした。しかし本馬の英国における種牡馬生活は短かった。1940年、本馬が7歳のときにエクワポイズやトップフライトなどの所有者として知られた米国競馬界の大物コーネリウス・ヴァンダービルト・ホイットニー氏が、本馬を売ってほしいとアガ・カーンⅢ世殿下に打診してきたのである。この前年に第二次世界大戦が勃発しており、英国が戦場になる事も懸念したアガ・カーンⅢ世殿下はこの申し出を快諾。2万ギニー(8万4千ドル)で取引が成立し、本馬はその年にうちに米国に旅立つことになった。
しかし本馬の旅路はトラブル続きだった。本馬を乗せる予定だった船の船長は、書類不備を理由に本馬の乗船を拒否した。それでも辛うじて許可を得て乗船したのだが、本馬を乗せた船は大西洋上で独国潜水艦による魚雷攻撃を受けた。ここで船が撃沈されていたら、後世の世界競馬界は後述する「ケルソもノーザンダンサーもサンデーサイレンスもフランケルもいない競馬界」になっていたところだった(もっとも、この4頭のうちケルソだけは本馬が米国到着後に出した馬の血を引いていないから、ケルソは誕生していたかもしれない)が、辛うじて船は難を逃れて、本馬は無事に米国に到着した。
欧州に残してきた本馬の産駒から、1941年の伊最優秀2歳牝馬ドナテラ、1942年の愛最優秀3歳牝馬マジデーといった活躍馬が出たこともあり、アガ・カーンⅢ世殿下は本馬を米国に放出した事を英国の競馬関係者から非難されたが、既に本馬の父ブレニムを米国に売っていた彼は気にする風も無く、その後も英国三冠馬バーラムを米国に売り飛ばし、英国の競馬関係者からさらなる憎悪を向けられる事になる。
さて、米国に到着した本馬は、ホイットニー氏がケンタッキー州に所有する牧場で種牡馬生活に入った。米国の競馬関係者の中には本馬の能力を評価しない人もいた。数々の名馬を手掛けたマックス・ハーシュ調教師もその1人であり、「マームードの血統はホイットニー氏が所有する繁殖牝馬には合わない」と言って、本馬を輸入したホイットニー氏を非難した。しかしそれは一部の例外であり、米国の馬産家達の多くは本馬の魅力に惹かれて、所有する繁殖牝馬の多くを本馬のところに送ってきた。
名伯楽ハーシュ師の見立ては本馬に関しては完全に誤りだった。本馬は米国で最終的に70頭のステークスウイナーを出す成功を収め、1946年には北米首位種牡馬に輝いた。また、1957年には北米母父首位種牡馬にも輝いた。1962年9月に29歳で他界し、遺体は繋養されていた牧場(現ゲインズウェイファーム)に埋葬された。本馬の訃報を報じるサラブレッド・レコード誌(後のサラブレッド・タイムズ誌)では「マームードはとても個性的で人を楽しませる馬でした。彼はエルクホーン川(筆者注:ケンタッキー州を流れる川)に架けられた橋を渡ることを断固拒否するような頑固な性格と、親切で紳士的な性格を併せ持っていました。全ての生物は、マームードが暮らす牧場で共に生きることを許されていました」と本馬の性格について評している。
後世に与えた影響
本馬の直系は最終的には残らなかったが、母系に入っての影響力は絶大である。繁殖牝馬の父としては、マジデーの息子である米国顕彰馬ギャラントマン、ケンタッキーダービー馬ディターミン、ユアホスト(ケルソの父でトウショウボーイの母父)、米国三冠馬サイテーションの最高傑作と言われた米国顕彰馬シルヴァースプーン、仏グランクリテリウムでシーバードに唯一の黒星をつけたグレイドーン、北米首位種牡馬2回のワットアプレジャーなどを輩出している。さらに牝駒アルマームードは、ナタルマ(ノーザンダンサーの母)やコスマー(ヘイローの母)の母となっている。海外の資料では「想像してみてください。ケルソもノーザンダンサーもサンデーサイレンスもフランケルもいない競馬界を。これら全ての馬は、マームードがいなければ誕生しなかったのです」と功績を評価されている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1939 |
Donatella |
伊グランクリテリウム |
1939 |
Majideh |
愛1000ギニー・愛オークス |
1941 |
Olympic Zenith |
クイーンズカウンティH |
1942 |
Jeep |
ウッドメモリアルS・ピーターパンS |
1942 |
Mahmoudess |
モリーピッチャーH |
1942 |
Monsoon |
サンタマルガリータ招待H |
1943 |
Burra Sahib |
ウィルロジャーズS |
1943 |
Mahout |
ジャージーH・ピーターパンS・ジェロームH |
1943 |
Mighty Story |
ディスカヴァリーH |
1944 |
First Flight |
ベルモントフューチュリティS・メイトロンS・モンマスオークス |
1944 |
Keynote |
アスタリタS |
1944 |
Snow Goose |
ベルデイムH・レディーズH・サラトガC |
1945 |
Billings |
ホーソーン金杯 |
1945 |
Mount Marcy |
サラナクH・ベンアリH・クラークH・ニューオーリンズH |
1945 |
Speculation |
ウィルロジャーズS |
1945 |
Vulcan's Forge |
サンタアニタH・シャンペンS・ウィザーズS・サバーバンH |
1946 |
Adile |
モンマスオークス・アラバマS・デラウェアH |
1947 |
ヴァインランドH |
|
1947 |
Mr. Trouble |
ブルーグラスS |
1947 |
Oil Capitol |
ピムリコフューチュリティ・ブリーダーズフューチュリティS・エヴァーグレイズS・フラミンゴS・ニューオーリンズH・パームビーチS・ワイドナーH・ベンアリH・アーリントンH |
1948 |
General Staff |
ピムリコスペシャル・サルヴェイターマイルH |
1948 |
Mameluke |
ブルーグラスS・メトロポリタンH |
1948 |
Steadfast |
ジャージーS |
1948 |
Yildiz |
フラミンゴS |
1951 |
Dispute |
テストS |
1951 |
Happy Mood |
エイコーンS |
1951 |
Maharajah |
エヴァーグレイズS |
1953 |
Born Mighty |
オハイオダービー |
1954 |
Cohoes |
サラナクH・ブルックリンH・ホイットニーH |
1954 |
Mehdi |
リス賞 |
1956 |
Eurasia |
ブーゲンヴィリアH |
1958 |
The Axe |
サンマルコスH・ワシントンバースデイH・ニッカボッカーH・ロングアイランドH・アーケイディアH・サンルイレイS・加国際CSS・マンノウォーS |
1959 |
Spark Plug |
デルマーデビュータントS |