ルースレス

和名:ルースレス

英名:Ruthless

1864年生

鹿毛

父:エクリプス

母:バルバリティ

母父:シムーン

記念すべき第1回ベルモントSを優勝した1860年代米国最強牝馬は自身や姉妹の強烈な名前から「野蛮な大隊」の一員と呼ばれる

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績11戦7勝2着4回

誕生からデビュー前まで

米国ニューヨーク州ウエストチェスター郡において、フランシス・モリス氏(19世紀末から20世紀初頭に存在したニューヨーク州モリスパーク競馬場の創設者ジョン・アルバート・モリス氏の父)により生産・所有され、A・ジャック・マイナー調教師に預けられた。

競走生活

2歳時に競走馬デビューし、この年は4戦して2勝2着2回の成績を残した。2勝のうち1勝は、ジェロームパーク競馬場のこけら落し競走として実施されたナーサリーS(D8F)で、ニューヨーク・タイムズ紙をして「まるで準備運動のようだった」と評させたほどの馬なりで、2着となったニューミンスター牝駒メイドオブオナーに6馬身差をつけ、同馬主同厩の牡馬マンデーも3着に破って圧勝した。もう1勝はサラトガ競馬場で行われたハンデ競走で、これも牡馬相手に勝利している。2歳時に出たもう1つのステークス競走であるサラトガSでは2着だった。

3歳時は春先にスプリングSというレースに勝ち、その翌日に出走したダート10ハロンのレースでは古馬牡馬相手に勝利した。後の6月にはニューヨーク州パターソン競馬場で行われたジャージーダービー(D12F)に出走したが、ここではマンデーの2馬身差2着に敗れた。

この15日後には、ジェロームパーク競馬場で施行されたダート13ハロンの新設競走にマンデーともども出走。このレースは、競馬愛好家として知られていた米国の銀行家・政治家オーガスト・ベルモント氏(マンノウォーの生産者として知られる米国ジョッキークラブ初代会長オーガスト・ベルモント・ジュニア氏の父)にちなんで、ベルモントSと命名された。当初は本馬とマンデーの他に7頭ほどが出走登録していたが、この2頭と対戦するのを嫌がった他馬陣営の回避が相次ぎ、結局は4頭立てとなった。重馬場で行われたレースでは、後に米国競馬の殿堂入りを果たす名手ギルバート・パトリック騎手が手綱を取った本馬が、ゴール前の大激戦を制して2着デカーシーに短首差で勝利を収め、記念すべき第1回ベルモントSの優勝馬として歴史にその名を刻んだ。勝ちタイムは3分05秒0だった。このレースにおいてモリス氏はマンデーに勝たせたいと思っていたようで、パトリック騎手も最初はそのつもりでレースに臨んだらしいが、本馬と一緒に先行したマンデーが先に失速してしまい、敵陣営のデカーシーが快走を見せたため、方針転換して本馬がデカーシーに競りかけた結果、本馬がそのまま接戦を制して勝利したそうである。なお、マンデーは結局4着最下位だった。

本馬はその後出走したトラヴァーズS(D14F)も、アールビーコノリーという馬を2馬身差の2着に、デカーシーを3着に退けて、3分13秒75のレースレコードで勝利した。このレースではスタートでフライングがあったが、本馬は動じること無く、スタート後4ハロンほど走ったところで先頭に立つと、そのまま一度も先頭を譲ることなく勝利したという。なお、ベルモントSを勝った牝馬は本馬の他に2頭(1905年のターニャと2007年のラグストゥリッチズ)、トラヴァーズSを勝った牝馬は本馬の他に6頭(1865年のメイデン、1868年のザバンシー、1876年のスルタナ、1895年のリザ、1903年のエイダネイ、1915年のレディーロサ)いるが、両競走を勝った牝馬は本馬のみである。

10月にはパターソン競馬場で行われたジャージーセントレジャー(D18F)に出走したが、ここではデカーシーの2着に敗れた。この年は他にもサラトガ競馬場で行われた3頭立てのシーケルS(D16F)で、ヴァージル(19世紀米国屈指の名馬ヒンドゥーの父)を2着に、デカーシーを3着に破って、3分37秒5のレースレコードで勝利した記録がある。3歳時の成績は7戦5勝2着2回で、この年限りで競走馬を引退した。後になって、この年の米最優秀3歳牝馬に選出されている。また、米国の競馬史研究家で各競馬場の公式ハンデキャッパーも務めたウォルター・S・ヴォスバーグ氏(米国の重要な短距離競走ヴォスバーグSの名称は彼に由来する)は著書“Racing in America”の中において本馬を1860年代米国最強の牝馬と評価している。

血統

Eclipse Orlando Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Vulture Langar Selim
Walton Mare
Kite Bustard
Olympia
Gaze Bay Middleton Sultan Selim
Bacchante
Cobweb Phantom
Filagree
Flycatcher Godolphin Partisan
Ridicule
Sister to Cobweb Phantom
Filagree
Barbarity Simoom Camel Whalebone Waxy
Penelope
Selim Mare Selim
Maiden
Sea-Breeze Paulowitz Sir Paul
Evelina
Zephyretta Hedley
Diomed Mare
Buzzard Mare Buzzard Blacklock Whitelock
Coriander Mare
Miss Newton Delpini
Tipple Cyder
Donna Maria Partisan Walton
Parasol
Donna Clara Cesario
Nimble

父エクリプスは英国産馬だが、同じく英国産馬である生涯無敗を誇った18世紀の名馬エクリプス(1764年生)とは同名の別馬であり、父は英ダービー馬オーランドである。そのためにアメリカンエクリプスと一部で呼ぶらしいが、この呼び方でも米国顕彰馬アメリカンエクリプス(1814年生)と混同する事になるため、結局のところ「エクリプスⅡ」と「Ⅱ」を付して表記するのが無難なようである。

2歳時はクリアウェルSを勝ったが、英シャンペンSでは着外。3歳時はニューマーケットSを同厩馬ビーズマンと同着で勝利し、英ダービーに駒を進めたがビーズマンの4着に敗れた。その後はハンプトンコートセールズS・アスコットバイエニアルSに勝ち、ストックブリッジダービーで3着したが、英セントレジャーとケンブリッジシャーHではいずれも着外だった。3歳シーズン途中で米国の馬主リチャード・テン・ブロック氏(レキシントンの現役時代の所有者として有名)に購入され、その後に予定されていたビーズマンとのマッチレースを回避し、4歳時はレースに出ずに渡米した。

そしてケンタッキー州ディキシアーナスタッドを経てネックスタッドに移動して種牡馬生活を送り、1878年に23歳で他界した。エクリプスⅡは非常に気性が激しい馬だったが、種牡馬としては早い段階から優れたスピード能力を有する馬を送り出して活躍。同時代にレキシントンがいたために北米首位種牡馬にはなれなかったが、北米種牡馬ランキング2位に2回入った。

母バルバリティは愛国産馬で、4歳時にリチャード・テン・ブロック氏(レキシントンの所有者として知られる)に購入され、5歳時に米国に輸入された。現役時代は3回のマッチレースに勝利した記録がある。その後にブロック氏と本馬の生産者モリス氏の間で何事か訴訟騒ぎがあり、その和解の条件の一つとしてバルバリティはブロック氏からモリス氏に譲渡された。

モリス氏の元で繁殖入りしたバルバリティは、エクリプスⅡと何度も交配され、長姉である本馬ルースレス(Ruthless、無慈悲)、 リレントレス(Relentless、情け容赦無し)、リモースレス(Remorseless、無慈悲)、リガードレス(Regardless、無頓着)、マーシレス(Merciless、無情)という強烈な意味の名前を持つ牝馬5頭を産んだ。これらの牝馬5頭は全て優れた競走成績を残した。

リレントレスは現役成績1戦のみだったが、サラトガSを制して1867年の米最優秀2歳牝馬に選ばれた。リモースレスはフラッシュS・ナーサリーS・サラトガSを勝ってやはり1869年の米最優秀2歳牝馬に選ばれた。リガードレスはフラッシュS・アラバマS・モンマスオークスに勝利した。マーシレスもアラバマSを勝利した。これらの牝馬達は実力や名前もさることながら、所有者モリス氏が使用していた勝負服が血の色のような深紅だった事もあり、まとめて「野蛮な大隊」の意味を持つ“Barbarous Battalion(バルバロスバタリオン)”の異名で呼ばれた。本馬を含めた全姉妹達は全て「蛮行」を意味する母バルバリティ(Barbarity)の名前にちなんで命名されている。このバルバロスバタリオンの中でも本馬が最も強かったと言われている。これらの物騒な名前を持つ牝馬達は気性も物騒だったかどうかに関しては全く伝わっていない。

バルバリティの半姉レディバーバラ(父ランスロット)の牝系子孫は南米で発展し、末裔にギャビーズゴールデンギャル【エイコーンS(米GⅠ)・サンタモニカH(米GⅠ)】が出るなど、今世紀も残っている。→牝系:F33号族

母父シムーンは、1810年の英ダービー馬ホエールボーンの後継種牡馬として活躍した1838年の英首位種牡馬キャメル(タッチストンの父)の息子である英国産馬。競走成績は不明であり、種牡馬としてもそれほど活躍していない。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷であるウエストチェスター郡の牧場で繁殖入りした。しかし本馬は繁殖牝馬としてはあまり活躍できなかった。現役時代の同僚だったマンデーとの間に7歳時に産んだ牡駒バトルアックスが2歳戦のケンタッキーSを勝ったのが、本馬の産駒唯一のステークス競走勝ちである。1876年に本馬は繋養先の牧場においてハンターの誤射を受けて負傷し、その数週間後にこの怪我のため12歳で他界した。なお、本馬の全妹達も繁殖牝馬としては皆失敗に終わっており、バルバロスバタリオンの血を引く馬は現存していないようである。後の1975年に本馬は米国競馬の殿堂入りを果たした。

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