和名:シービスケット |
英名:Seabiscuit |
1933年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ハードタック |
母:スウィングオン |
母父:ウィスクブルーム |
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三流馬から最強馬へと大変身、小説や映画の主人公にもなった米国競馬の伝説的英雄 |
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競走成績:2~7歳時に米墨で走り通算成績89戦33勝2着15回3着12回 |
小説や映画の主人公
小柄な馬体や激しい気性の持ち主だった上に、初勝利まで18戦を要した事などもあって、現役当初はまったくの無名馬だったが、着実に実力を磨き上げ、遂には米国三冠馬ウォーアドミラルとの世紀のマッチレースを制して全米最強馬に上り詰めた。当時は競馬後進地だった米国西海岸の英雄となっただけでなく、世界大恐慌の影響で暗く沈んでいた米国民全体の希望のシンボルともなった。
本馬については、米国の競馬作家ローラ・ヒレンブランド女史が書いたベストセラー小説“Seabiscuit:An American Legend(邦題は「シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説」。以下「小説シービスケット」という)”が邦訳されて2003年に出版されているほか、同小説を原作とする映画も2004年に日本で公開されたため、既に詳しくご存知の方も多いものと思われる。筆者も初めてこの小説を入手したときは、何もかもほったらかしにして夢中になって読んだものである。当時の筆者はそれほど海外の競馬には詳しくなかったので、本馬に関する物語のみならず、当時の米国競馬における環境も事細かに記されていたこの本を読んで、競馬観が変わったほどだった。未読の方は是非一読される事をお薦めする。
しかし確かに面白かったのだが、あまりにも面白すぎる逸話が数多く紹介されており、これらは果たして全て本当にあった事なのだろうかと疑問に感じたのも事実である。そこで本項を書くに当たって色々と調べてみたところ、本馬以外の競走馬の描写などに脚色が見られる(ウォーアドミラルが産まれた直後から評判馬だったとか、エクワポイズやディスカヴァリーのように高い斤量でも走りつづけた馬はいっさいレースに勝てなくなったといった記載がある。いずれも明らかに事実と異なる)ものの、さすがに4年間をかけて緻密に取材・執筆しただけあって、本馬に関して紹介されている逸話は概ね実際にあった出来事に基づいているようである。したがって本項は「小説シービスケット」を参照しながら執筆しようかとも一瞬思ったのだが、そんな事をするくらいなら本項を読むよりも小説を読んでもらったほうが良いだろうし、著作権等の問題もあるので、それは断念した。米国には事実を淡々と書き並べているだけの資料もあり、それを参照して事実を書き綴るのであれば著作権や翻訳権にも抵触しないだろうから、それを基本方針とすることにした(これは本項に限らずこの名馬列伝集の基本方針でもある)。原則として「小説シービスケット」の記載内容は頭の隅に追いやった状態で執筆しているため、小説と異なる箇所が部分的にあることを予めお断りしておく。一部には「小説シービスケット」の内容を引用した箇所もあるが、当該部分にはその旨を明記してある。
誕生からデビュー前まで
1933年5月23日、米国の馬産家グラディス・ミルズ・フィップス夫人(名馬産家オグデン・フィップス氏の母)の馬主名義ホイートリーステーブルの生産・所有馬としてこの世に生を受けた。母スウィングオンの従兄弟には本馬が産まれた頃の米国競馬界を席巻していた名馬中の名馬エクワポイズがいたため、フィップス夫人の期待は決して低くなかったはずである。
誕生後はクレイボーンファームで育成されたが、馬格が小さい上に膝が瘤のように膨らんでおり、あまり見栄えが良い馬ではなかった。しかも馬衣を跳ね除けるような激しい気性の持ち主だった。米国各地から優れた馬達が育成のために集まってきていたクレイボーンファームには当時、フレアズ(米国三冠馬オマハの全弟で、後に欧州に渡って英チャンピオンS・アスコット金杯を制覇)、スナーク(後のメトロポリタンH・サバーバンHの勝ち馬)、ティンタジェル(後にベルモントフューチュリティSを勝って米最優秀2歳牡馬に選出)、フォーエヴァーユアーズ(後にアーリントンラッシーSを勝って米最優秀2歳牝馬に選出)、そしてグランヴィルといった期待馬達がいた。そのために本馬は相対的にも評価が下がることになり、アーサー・ブル・ハンコック・ジュニア氏を始めとするクレイボーンファーム関係者の本馬に対する評価は一様に低かった。1歳4月にフィップス夫人が預託した馬の様子を見るためにクレイボーンファームを訪れた際、彼女が失望する事を確信していたハンコック・ジュニア氏は、本馬を雲隠れさせたという。なお、その21年後にもハンコック・ジュニア氏はフィップス夫人から預託されたある1歳馬を似たような理由で雲隠れさせたが、その馬こそが後のボールドルーラーだったという逸話も残っている。
本馬は、父ハードタックと母スウィングオンを共に管理した米国きっての名伯楽サニー・“ジム”・フィッツシモンズ調教師に預けられた。しかしハードタックの気性難とスウィングオンのみすぼらしい馬体を兼備した本馬を見た彼は、何も感じることが無かった。フィッツシモンズ厩舎において“The Runt(ちびすけ)”と呼ばれた本馬は、オマハ、グランヴィル、フェアレノ(ベルモントS・ドワイヤーS・ローレンスリアライゼーションSの勝ち馬)といった有力馬をも当時管理していたフィッツシモンズ師を見直させるような何かを示すことは無く、フィッツシモンズ師は本馬をクレーミング競走で走る程度の器だと思った。そのためにフィッツシモンズ師は、本馬にスパルタ特訓を課すこととし、調教に際しては鞭を徹底して使うように指示した。
競走生活(2歳時)
その後、フィッツシモンズ師の調教助手V・マーラ氏に委ねられた本馬は、1歳暮れにフロリダ州に連れて行かれ、年明け1月19日にハイアリアパーク競馬場で行われたダート3ハロンの一般競走でデビューした。結果は勝ったホワヘーから4馬身半差の4着だった。3日後には同コースで行われた2500ドルのクレーミング競走に出走。直線で差を詰めて2馬身差の2着と健闘した。1か月後にも同コースで行われた2500ドルのクレーミング競走に出たが、勝ったブラックベスから3馬身差の6着に敗れた。3月にも同コースで行われた一般競走に2回出たが、前者は勝ったジェームズシティから5馬身差の8着、後者は後のメイトロンS2着馬ヴィクトリアスアンから3馬身半差4着と、結果は出なかった。
その後、フィッツシモンズ師の調教助手G・タッペン氏が預かることになった本馬はメリーランド州に移動。4月にボウイー競馬場で行われたダート4ハロンの未勝利戦に出て、2馬身半差の2着。6日後に同コースで行われた一般競走は、ヴィクトリアスアンの7馬身1/4差8着だった。さらにその3日後に同コースで行われた未勝利戦は、勝ったパラグアイティーから5馬身半差の10着と、結果は悪くなる一方だった。この3戦はいずれも重馬場だったが、本馬は現役時代を通じて重馬場を不得手とすることになる(重馬場では生涯13戦したが結局未勝利)。
4月下旬にはハヴァードグレイス競馬場に移動して、ダート4.5ハロンのクレーミング競走に2回出たが、前者は勝ったハイエイタスから3馬身半差の3着、後者は勝ったチェリーストーンから半馬身差の4着に終わった。
フィッツシモンズ師の元に戻ってきた本馬は、黙々と下級戦への出走を続けることになった。5月1日にジャマイカ競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走に出て、勝ったガルサックから半馬身差の2着と健闘。しかし3日後に同コースで行われた未勝利戦では、勝ったプルマンから8馬身差の6着と惨敗した。5月下旬にはロッキンガムパーク競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走に出て首差3着。7日後に同コースで行われた未勝利戦では2馬身半差の4着。6月に同コースで行われた未勝利戦では、勝ったスワッシュバックラーから3馬身差の2着。
少しはましになってきたと思われたようで、次走は初のステークス競走となるロッキンガムパークジュヴェナイルH(D5F)となった。102ポンドという計量に恵まれた事もあり、勝ったウィンタースポーツから1馬身1/4差の3着とそれなりの走りを見せた。同コースで行われた次走の未勝利戦は、重馬場が災いして、勝ったジュビリージムから6馬身差の2着に終わった。
しかし6月22日にナラガンセットパーク競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走では1分00秒6のコースレコードタイで走破して、2着ネッドレイに2馬身差をつけて勝利した。デビューから5か月、18戦目にしての初勝利だった。4日後のウォッチヒルクレーミングS(D5F)では1番人気に支持され、前走よりも時計を1秒短縮する59秒6のコースレコードを樹立して、2着インフィドックスに2馬身差で勝利した。
これでまがりなりにもステークスウイナーとなった本馬だったが、この後はまた連敗街道に逆戻りしてしまう。オールドコロニーS(D5F)では1番人気に応えられずに、勝ったブライトアンドアーリーから2馬身半差の5着に敗退。サフォークダウンズ競馬場に移動して出走した新設競走メイフラワーS(D6F)も、勝ったマエリエルから4馬身差の4着に終わった。メイフラワーSと同コースの一般競走も、ブラックハイブロウの1馬身半差2着に敗退。ベイステートS(D6F)も、ブラックハイブロウの3馬身差4着に敗れた。8月にはサラトガ競馬場に向かい、ダート6ハロンの一般競走に2度出走したが、前者は勝ったマエリエルから5馬身1/4差の9着、後者は翌年のケンタッキーダービー・プリークネスSを勝利するボールドヴェンチャーから8馬身半差の6着と振るわなかった。
9月にはアケダクト競馬場に移動して、バビロンH(D6F)に出たが、初勝利時に2着に破ったネッドレイが勝利を収め、本馬は12馬身差をつけられて6着最下位に終わった。さらに1週間以内にダート6ハロンの一般競走に2度出走。前者は重馬場が影響したようで、勝ったファントムフォックスから6馬身差の3着に終わったが、後者は後にクラークH・グレートウェスタンH・ベンアリHなどに勝利するカウントモースを3馬身差の2着に破って3勝目を挙げた。しかし次走のイースタンショアH(D6F)では、ポステージドゥーの1馬身半差4着に敗退。レムセンH(D6F)では、グランドユニオンホテルSの勝ち馬ザファイターから7馬身3/4差をつけられた9着と惨敗。
10月にはジョージ・ウルフ騎手と初コンビを組んでコンスティテューションH(D6F)に出たが、勝ったインフィドックスから10馬身差をつけられた10着最下位と惨敗。後に本馬の快進撃の立役者の1人となるウルフ騎手をもってしても、この時期の本馬を勝利に導く事は出来なかった。
しかし少しずつ良化の兆しが現れていたのも確かなようで、次走のスプリングフィールドH(D6F)では、アガワム競馬場のコースレコード1分11秒4を計時して、2着ブライトプルメイジに1馬身差で勝利。さらにアーズレイH(D5.75F)では、エンパイアシティ競馬場のコースレコード1分08秒8を計時して、2着ニープに3馬身差で快勝した。このレースには本馬が4着に敗れたデビュー戦の勝ち馬ホワヘーも出走していたが3着に終わっている。続くポウタケットH(D6F)でも、クロックスの半馬身差2着と好走した。しかし11月のウォルデンH(D8.5F)では重馬場に泣いて、バビロンHで本馬を破った以外にジュニアチャンピオンSを勝っていたネッドレイの6馬身差6着に終わり、35戦5勝の成績で2歳シーズンを終えた。
競走生活(3歳前半)
冬場は同厩のグランヴィルの調教相手を務めながら日々を過ごした。本馬は単走で走るときはやる気が感じられないにも関わらず、グランヴィルと併走すると不思議とやる気を発揮したとされている。負けん気が強かったのか、それともグランヴィルと仲が良かったのかは不明であるらしい。しかしこのグランヴィルとの併せ調教において、本馬は先着することを認められなかった。期待馬であるグランヴィルの走る気を殺ぐことを避けた、本馬は膝に炎症を起こしていたために無理をさせなかったなどが理由として挙げられているが、いずれにしても併せ調教で抑えられながら走った本馬はストレスのため、ただでさえ問題があった気性がますます激しくなったという。なお、「小説シービスケット」では本馬が併せ調教で意図的に抑えられたという説を否定しているが、映画「シービスケット」では同説を採用している。
3歳時は4月にジャマイカ競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動して、かつてクレイボーンファームで共に過ごした前年のベルモントフューチュリティSの勝ち馬にして米最優秀2歳牡馬ティンタジェルの1馬身半差2着と健闘。しかし同コースで出た次走のハンデ競走は、後にジェロームHを勝利するゴールデンアイの7馬身差3着に敗退。引き続き同コースで出た一般競走は、グリーマンの2馬身3/4差4着に終わった。5月にはナラガンセットパーク競馬場に向かい、プロヴィデンスH(D8.5F)に出走して、勝ったタグボートフランクから2馬身半差の4着。続いて出た同コースの一般競走では、前走プロヴィデンスHで2馬身差の2着だったピッコロを3馬身差の2着に破って勝利した。次走のニューハンプシャーH(D8F)は重馬場に泣いて、勝ったファウストから9馬身半差の12着と惨敗。6月にベルモントパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンのハンデ競走も、米国三冠馬ギャラントフォックスの初年度産駒の1頭ギャラントプリンスから6馬身1/4差の6着に敗退。サフォークダウンズ競馬場に移動して出走したコモンウェルスH(D6F)も重馬場に泣いて、勝ったパーティースピリットから10馬身3/4差の10着と惨敗。その5日後には前走と同コースで行われた一般競走に出走して、ここでは1馬身半差で勝利した。「小説シービスケット」によると、このレースをたまたま観戦して本馬に興味を抱いたのが、後に本馬の管理調教師となるトム・スミス師だったという。
本馬はその後、サラトガ競馬場に向かい、マイルズスタンディシュH(D9F)に出て、勝ったキアサージから4馬身1/4差の4着。次走のモホーククレーミングS(D8F)では109ポンドの軽量に恵まれた事もあり、2着アンオルリーに6馬身差で圧勝した。
8月10日にサラトガ競馬場で出走したダート9ハロンのハンデ競走も2着トレフォードに4馬身差で勝利したが、このレースを最後に、ホイートリーステーブルとフィッツシモンズ厩舎に別れを告げることになった。サンフランシスコの大富豪チャールズ・スチュワート・ハワード氏(ゼネラルモーターズ社の自動車の独占販売権を得て巨額の富を得た自動車王)の専属調教師だったスミス師が、ハワード氏の代理人として本馬を7500ドルで購入したのである。
競走生活(3歳後半)
スミス厩舎に転厩してきた本馬に対してスミス師がまず行ったことは、本馬の緊張を和らげるために他の動物達と触れ合わせることだった。まずは山羊が馬房に入れられたが、本馬は山羊をお気に召さなかったらしく、山羊を口で咥え上げると馬房の外に追い出してしまった(映画でも描かれている滑稽な場面だが、どうやら実話であるらしい)。そこでスミス師は、同厩のパンプキンという馬を本馬の癒し担当に指名した。本馬とパンプキンは同じ馬房か、又は互いに行き来できるように壁に穴をあけられた隣同士の馬房で過ごすことになった。パンプキンのお陰で本馬の緊張がほぐれると、続いてスミス師は不安を抱えていた本馬の脚を守るために、膝と脚首に特製の金具を装着させ、さらにバンデージを巻きつけた。やがて調教が始まった。スミス師は自ら本馬に跨ると、本馬に好きなだけ走らせた。本馬は、鞍上のスミス師が決して自分を止めようとしなかったため、やがて自分から減速して止まった。このように肉体よりも精神を鍛えるような調教により、元々競走能力自体は決して低くなく、気性面が課題だった本馬の真価は徐々に発揮されるようになっていった。本馬の主戦騎手に指名されたのは、スミス厩舎の専属騎手で、当時はまだステークス競走を3勝しかしていなかった元ボクサーのレッド・ポラード騎手だった。本馬とポラード騎手はすぐにお互いを気に入った。
前走から僅か12日後の8月22日にデトロイトにあるフェアグラウンズ競馬場で行われたモーターシティH(D8.5F)が転厩初戦となった。このレースでは同年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれる後の米国顕彰馬マートルウッド(ミスタープロスペクターやシアトルスルーの牝系先祖)がコースレコードで勝利を収め、本馬は4馬身1/4差の4着だった。翌月2日に出走したダート8ハロン70ヤードのハンデ競走は、重馬場にやられて3馬身半差3着に終わった。しかしその5日後に出走したミシガンガヴァナーズH(D9F)では、モーターシティHで3着だったプロフェッサーポールを首差の2着に抑えて、転厩後初勝利を挙げた。このレースには前年の第1回サンタアニタHを勝利したアザカーも出走していたが、3着に終わっている。
しかし次走のデラソールH(D8.5F)では、クリステート、プロフェッサーポール、前年のケンタッキーオークス・オハイオダービーの勝ち馬パラディシカルといった面々に屈して、クリステートの3馬身3/4差6着に敗れた。しかし次走のヘンドリーH(D8.5F)では2着クリステートに4馬身差をつけて勝利を収め、デトロイトを後にした。翌10月にはオハイオ州シンシナティに向かい、リバーダウンズ競馬場で行われたウエスタンヒルズH(D8.5F)に出走。しかしメアリーネルの1馬身半差3着に敗れた。次走のイーストヒルズH(D8.5F)も、ムーチョグスト(後に本馬とピムリコスペシャルで戦ったウォーアドミラルが続いて出走したロードアイランドHで2着している)の2馬身半差の3着に敗退。すると今度は古巣のニューヨークに向かい、エンパイアシティ競馬場で行われたスカーズデールH(D8F70Y)に出走して、2着ジェスティングに鼻差で勝利。続くヨークタウンH(D9F)では、トーソンの1馬身3/4差3着だった。
その後はハワード氏の地元である米国西海岸のカリフォルニア州に向かった。そしてベイメドウズ競馬場で出走したベイブリッジH(D8F)では、1分36秒0のコースレコードを計時して、2着アッパーモストに5馬身差で圧勝。次走のワールズフェアH(D9.5F)でも、1分55秒8のコースレコードを計時して、2着ワイルドランドに5馬身差で圧勝した。この連続レコード勝ちを最後に3歳シーズンは終了となり、この年の成績は23戦9勝(転厩後に限ると11戦5勝)となった。なお、この年の米年度代表馬は、かつて本馬と併せ調教を行ったグランヴィル(ベルモントS・アーリントンクラシックS・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションSに勝利)が受賞している。
競走生活(4歳前半)
4歳時はカリフォルニア州のサンタアニタパーク競馬場で2月末に行われる大競走サンタアニタHを目標として調整された。しかし、体重をなかなか絞り切れない日々が続いたため、調教の頻度を上げざるを得なかった。本馬の体重が減らなかった要因は、新しく本馬を担当することになった厩務員が、本馬の好物を与え続けた事によるらしいが、彼は馬房内で本馬と共に寝るくらい本馬を可愛がっており、本馬も彼にはよく懐いていたために、ある程度は大目に見てもらえたようである。
なんとかレースに出られる程度まで体重を絞り込むと、まずは2月9日のハンティントンビーチH(D7F)から始動した。このレースでは、ウィザーズS・ナラガンセットスペシャルHの勝ち馬で、一昨年のベルモントSと前年のサンタアニタHでいずれも3着していたローズモントや、ナラガンセットスペシャルH・サンヴィンセントS・サンアントニオH・マサチューセッツHなどの勝ち馬で前年のサンタアニタH2着のタイムサプライという強敵が相手となったが、本馬が2着サーエマーソンに4馬身半差で圧勝した。続いて本番1週間前のサンアントニオH(D9F)に出たが、ここでは道中で進路を失ってしまい、ローズモントの3馬身3/4差5着に敗れた。しかし敗れたとは言え、進路を失ってもなおやる気を失わずにゴール前で追い上げてきた脚には見るべきものがあった。
そして迎えたサンタアニタH(D10F)では、直線で馬群から抜け出して九分九厘勝ったと思われたが、ゴール直前で猛然と追い込んできたローズモントにかわされて鼻差の2着に敗れた。この敗因は、鞍上ポラード騎手の油断であるとされている。「小説シービスケット」では、調教中の怪我が原因で右目を失明していたポラード騎手が、右後方から来たローズモントに気付くのが遅れたためであると説明されているが、それでも油断である事には変わりが無い。
ポラード騎手は自分の失策を自分で非難し、本馬と共に速やかな汚名返上に乗り出した。まずはサンタアニタHに次ぐサンタアニタパーク競馬場屈指の大競走であるサンフアンカピストラーノH(D9F)に出走すると、1分48秒8のコースレコードを計時して、2着グランドマニトウに7馬身差で圧勝。これで遅まきながらも一流馬の仲間入りを果たした本馬は、次走のマーチバンクH(D9F)も2着グランドマニトウに3馬身差で勝利した。さらに126ポンドが課されたベイメドウズH(D8.5F)も、2着となった同馬主同厩馬エクスヒビットに1馬身1/4差で勝利した。
競走生活(4歳後半)
その後は米国東海岸に向かい、アケダクト競馬場で行われる東海岸有数の大競走ブルックリンH(D9F)に出走した。カーターH・サバーバンHを勝っていた地元の強豪アネロイド、サンタアニタHで本馬を破ったローズモント、マサチューセッツH・ナラガンセットスペシャルHなども勝っていた前年の第2回サンタアニタHの勝ち馬トップロウなどが対戦相手となった。しかし本馬がアネロイドを叩き合いの末に鼻差破って優勝。ローズモントやトップロウは馬群に沈んだ。翌週のバトラーH(D9.5F)も2着トーソンに1馬身半差で勝利。ヨンカーズH(D8.5F)では129ポンドを背負いながらも、前年のベルデイムHで2着していたジェスティングを4馬身差の2着に破り、1分44秒2のコースレコード勝ちを収めた。
次走のマサチューセッツH(D9F)には、当時の米国東海岸で最強の名をほしいままにしていた米国三冠馬ウォーアドミラルも参戦予定だったが、ウォーアドミラルは結局回避した。レースでは130ポンドを背負わされた本馬が2着カバレロに1馬身差をつけて、1分49秒0のコースレコードで勝利した。次走のナラガンセットスペシャルH(D9.5F)では、132ポンドが課せられた上に、本馬の大嫌いな重馬場となってしまった。結果は、米国三冠馬ギャラントフォックスの初年度産駒の1頭であるディキシーHの勝ち馬カルメットディックと、かつてホイートリーステーブル時代に本馬と同僚だったこの年のメトロポリタンH・クイーンズカウンティHの勝ち馬スナークの2頭に屈して、勝ったカルメットディックから2馬身半差の3着に敗退してしまい、連勝は7で止まった。
しかし続くコンティネンタルH(D8.5F)は130ポンドを背負いながらも、2着カバレロに5馬身差で圧勝した。次走のローレルH(D8F)では12ポンドのハンデを与えたヒールフライと同着で勝利し、真実の勇気を示したと賞賛された。翌11月にはピムリコ競馬場で行われるリグスH(D9.5F)に出走。130ポンドを背負いながらも、この年のトラヴァーズSを勝っていたバーニングスターを鼻差の2着に抑えて勝利した。勝ちタイム1分57秒4はコースレコードであり、この2日前に同コースで行われたピムリコスペシャルHを128ポンドで勝利したウォーアドミラルの勝ちタイム2分03秒8よりも実に6秒4も速かった。しかしやはり130ポンドを課されたガヴァナーボウイーH(D13F)では、15ポンドのハンデを与えた牝馬エスポサに鼻差で敗れた。もっとも、エスポサはレムセンH・エンパイアシティH・マーチャンツ&シチズンズH・ホイットニーSなどを勝っていた男勝りの名牝で、前年のマーチャンツ&シチズンズHにおいては名馬ディスカヴァリーを破り、この年と翌年の2年連続で米最優秀ハンデ牝馬に選ばれるほどの馬であり、エスポサの勝ちタイム2分45秒2がコースレコードだった事、距離が長かった事なども考え合わせれば悪い内容ではなかった。この年の本馬の出走はこれが最後となり、地元カリフォルニア州に帰ってきた。4歳時を15戦11勝の好成績で終えた本馬は、この年に16万8580ドルを獲得してシーズン賞金王になっただけでなく、米最優秀ハンデ牡馬にも選ばれた。
競走生活(5歳初期)
かつて駄馬と思われていた馬は、こうして米国競馬のトップホースに上り詰めたわけだが、誰もが認める最強馬になるためには、ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントSの米国三冠競走に加えてワシントンH・ピムリコスペシャルHなど8戦無敗の成績でこの年の米年度代表馬に選ばれたウォーアドミラルを直接対決で負かす以外に無かった。2頭の直接対決が実現していない事は、米国の競馬ファンの間に不満の声を上げさせた。
本馬が5歳になってすぐに大事件が起こった。主戦のポラード騎手がサンカルロスHのレース中に落馬事故を起こして大怪我を負ってしまい、当面レースに出られなくなってしまったのである。そのため本馬には他の騎手を乗せる必要が生じた。5歳初戦のサンアントニオH(D9F)では、2歳時の本馬に1度だけ騎乗経験があったソニー・ワークマン騎手が騎乗した。しかし12ポンドのハンデを与えたアネロイドに敗れて鼻差の2着に終わった。アネロイドは前年のカーターH・サバーバンHの勝ち馬で、ブルックリンHで本馬の鼻差2着した馬であり、この斤量差であれば良く走ったほうだと客観的には思われるのだが、ワークマン騎手の騎乗内容を見たスミス師は不満を顕わにし、その結果ワークマン騎手は1戦のみで本馬の鞍上を去った。
続いて本馬の騎手として選ばれたのは、やはり2歳時の本馬に1度だけ騎乗経験があったウルフ騎手だった。そして本馬はウルフ騎手と共に2度目のサンタアニタH(D10F)に参戦した。本馬には前走と同じく130ポンドという過酷な斤量が課せられた(前年のサンタアニタHでは115ポンドだった)。このレースには、アネロイド、ベルモントフューチュリティS・カウディンS・サンカルロスHの勝ち馬ポンプーン、サンタアニタダービー馬ステージハンドなども参戦していたが、アネロイドとポンプーンは共に120ポンド、そしてまだ3歳だったステージハンドに至っては何と100ポンドの斤量に過ぎなかった。この理由は「小説シービスケット」によると、サンタアニタHの斤量が決定された前年12月の時点ではステージハンドは未勝利馬だった(1月に初勝利を挙げると連勝街道を邁進してサンタアニタダービーを勝利)ためとのことである。この非常識な斤量差に加えて、本馬はスタートで他馬に寄りかかられて致命的な不利を受けてしまった。何とか体勢を立て直すと、12番手から馬群の中を上手く抜け出して直線で先頭に立ったが、ステージハンドにゴール寸前で差されて鼻差2着に惜敗した。このレースを実況していたクレム・マッカーシー氏(後に本馬とウォーアドミラルのマッチレースにおいても実況を担当)は「シービスケットは何と偉大で、しかも不運な馬でしょうか!いったいそれはどんなレースだったか?130ポンドを背負った馬と100ポンドしか背負っていない馬の対決!公平性、スポーツマンシップはどこにありましたか?確かに優勝賞金は3歳馬の手元に転がり込みましたが、130ポンドを背負った馬から栄光を奪う事は出来ません。輝かしい競走、素晴らしい競走、壮大な競走、スリリングな競走、記録破りの競走。このように形容詞を積み重ねる事は出来ますが、しかしそれは最良の馬が不当に負かされた競走でした」と翌日の新聞に書いている。
競走生活(5歳中期)
この頃、フロリダ州ハイアリアパーク競馬場でワイドナーHを勝ったウォーアドミラルと本馬のマッチレースが現実味を帯びてきた。アーリントンパークとベルモントパークの両競馬場は、勝ったほうだけが10万ドルを獲得できる2頭のマッチレースを提案した。かつて本馬を管理していたフィッツシモンズ師は、もしマッチレースが実現すれば本馬が勝つだろうと予測した。しかし本馬陣営は、ポラード騎手の怪我が治るまではマッチレースの提案に乗ろうとはしなかった。ポラード騎手の負傷はやがて癒えたが、彼の本格復帰前に本馬は隣国メキシコで開催された高額賞金競走アグアカリエンテH(D9F)に出走した。テン乗りのN・リチャードソン騎手とコンビを組んで、130ポンドを背負いながらも、ロングビーチH・サンタアナHを勝っていたグレイジャックを2馬身差の2着に破って勝利した。地元に戻ってくると、ベイメドウズH(D9F)に今度はウルフ騎手を鞍上に出走。ここでは133ポンドが課せられたが、1分49秒0のコースレコードを樹立して、2着ゴッサムに3馬身差で勝利を収めて同競走の2連覇を達成した。
そして5月末に本馬とウォーアドミラルのマッチレースがベルモントパーク競馬場で行われることが決定したため、本馬はポラード騎手と共にニューヨークに向かった。レース前の盛り上がりは大変なものであり、米国のマスコミ連中は大騒ぎだった。ところが、本馬は膝を痛めてしまい、レース直前に回避が決定。代わりにサフォークダウンズ競馬場で行われるマサチューセッツHにおいて、本馬とウォーアドミラルの対決が行われる予定となった。しかしマサチューセッツHの前にポラード騎手が調教中の事故で足に重症を負い、二度と馬に乗る事は出来ないどころか、歩くこともできないかもしれないとの診断を受けたため、急遽ウルフ騎手が本馬の主戦に復帰した。マサチューセッツH当日の馬場は泥んこ不良馬場であり、重馬場が苦手な本馬にとっては明らかに良くない状態だった。それでも直前まで出走予定だったが、まさにスタート直前になって脚の腱を痛めている事が判明した本馬は、獣医の診断を受けた上で回避が決定した。サフォークダウンズ競馬場の事務長は激怒し、競馬場に詰め掛けたファン達からは失望の溜息が漏れた。しかもレースに出走したウォーアドミラルも、ベルモントフューチュリティS・シャンペンS・ウィザーズSの勝ち馬メノウから8馬身1/4差をつけられた4着に負けてしまい、世間の熱は一気に冷めた。
世間からの轟々たる非難を背に受けながら東海岸を後にした本馬は、帰路途中のアーリントンパーク競馬場で行われたスターズ&ストライプスH(D9F)に出走したが、130ポンドの斤量と重馬場、さらにはスタートで出遅れた影響で、23ポンドのハンデを与えたウォーミンストレルから3馬身半差の2着に敗れ、そのまま西海岸に戻ってきた。
そしてすぐに新設競走ハリウッド金杯(D10F)に出走。133ポンドの斤量をものともせずに、2着となったハリウッドダービー馬スペシファイに1馬身半差をつけて、2分03秒8のコースレコードで優勝した。次走はデルマー競馬場ダート9ハロンで行われた、亜国から移籍してきてイングルウッドH・アメリカンHを勝つなど頭角を現し始めていた快速馬リガロティとのマッチレースとなった。本馬にはリガロティより15ポンド重い130ポンドが課せられたが、直線の激戦を鼻差で制して1分49秒0のコースレコードで勝利した。
この後、本馬はウォーアドミラルと戦うために再度東海岸に向かった。遠征初戦のマンハッタンH(D12F)では重馬場に脚を取られて、フィッツシモンズ師の管理馬アイソレイター、前年のアラバマS・ガゼルHを勝っていたリーガルリリーの2頭に後れを取り、アイソレイターの3馬身差3着に終わった。しかし次走のハヴァードグレイスH(D9F)では、8ポンドのハンデを与えたメノウを一蹴して、2着サヴェージビューティ(ハビタットの祖母)に2馬身半差、3着メノウにはさらに1馬身差で勝利した。
ウォーアドミラルとのマッチレース
この頃、先のマサチューセッツHでメノウにまさかの敗戦を喫したウォーアドミラルは、ウィルソンS・サラトガH・ホイットニーH・サラトガC・ジョッキークラブ金杯と再び連勝街道を突き進んでおり、両馬の対決を見たいという意見が再燃していた。そして来る11月1日にピムリコ競馬場において両馬のマッチレースが行われることが決定された。レースの2週間前に調教代わりに出走したローレルH(D8F)で、24ポンドのハンデを与えた牝馬ジャコラ(前年にセリマSなどを勝利して米最優秀2歳牝馬に選ばれていた)の2馬身半差2着した本馬は、いよいよピムリコスペシャル(D9.5F)でウォーアドミラルとの全米最強馬の座を賭けた歴史的マッチレースに臨んだ。
2頭の斤量は共に120ポンドに設定された。マッチレースは一般的にスタートで先手を奪った馬が有利とされていた。本馬が基本的に差し馬だったのに対して、ウォーアドミラルは典型的な逃げ先行馬だった。しかもこのマッチレースは立ち止まった状態からスタートするのではなく、あらかじめ歩きながらタイミングを合わせてスタートする常歩発走で行われることになっており、この発走方式に慣れていたのはやはりウォーアドミラルのほうだった。しかし、スミス師は本馬に対して密かにスタート特訓を施していた。
ピムリコ競馬場を埋め尽くした大観衆と全米の聴衆の中で世紀の対決の火蓋が切られた。ウルフ騎手鞍上の本馬と、チャーリー・E・カートシンガー騎手鞍上のウォーアドミラルは同時にスタートを飛び出したが、本馬が少しずつ前に出て、最初のコーナーに入る頃には2馬身ほどリードを奪った。しかし向こう正面に入るとウォーアドミラルが外側から本馬に並びかけてきた。2頭は猛烈なペースで競り合いを続けたが、四角半ばで少し前に出ていた本馬が直線でウォーアドミラルを一気に突き放した。実況のマッカーシー氏は「シービスケットが1馬身リード!シービスケットが1馬身半リード!シービスケット3馬身!シービスケット3馬身!」と叫んだ。そして最後は4馬身差まで差を広げて勝利した。勝ちタイム1分56秒6は全米レコードだった。これで名実ともに全米最強馬の座へと上り詰めた本馬は、これを最後に5歳シーズンを締めくくった。この年の成績は11戦6勝で、米年度代表馬・米最優秀ハンデ牡馬に選出された(なお、サンタアニタHで本馬を破ったステージハンドが米最優秀3歳牡馬に選ばれている)。
競走生活(6・7歳時)
2年連続2着だったサンタアニタH制覇を目指して、翌6歳時も現役を続行した。しかしシーズン初戦となった2月のロサンゼルスH(D8F)において、本馬は左前脚に故障を起こして、トゥデイの2馬身1/4差2着に敗退。診断結果は腱靱帯の断裂で、もはや競走馬として走れる状態ではなく、本馬は事実上の現役引退に追い込まれ、種牡馬生活に入った。
しかし本馬は驚異的な回復力を見せて1年後に現役に復帰した。当時このような状況から復帰して成功した馬は1頭もおらず、無謀な挑戦と言われた。復帰した本馬の鞍上には、これまた驚異的な回復力を見せて復帰していたポラード騎手の姿があった。
復帰初戦となった7歳2月のラホヤH(D7F)は、10ポンドのハンデを与えたヒールフライの3馬身差3着。2戦目のサンカルロスH(D7F)は、スペシファイの6馬身3/4差6着と続けて敗戦。やはり復活は無理なのかと思われた矢先の3戦目サンアントニオH(D8.5F)では、前年に本馬が出走できなかったサンタアニタHに加えてサンカルロスH・アメリカンH・ハリウッド金杯なども勝利して米最優秀ハンデ牡馬に選ばれていた亜国出身馬カヤック(この馬も本馬と同馬主同厩だった)を2馬身半差の2着に退けて、1分42秒6のコースレコードで勝利を収め、復活を印象付けた。
そして本馬はポラード騎手を鞍上にサンタアニタH(D10F)に出走した。サンアントニオHで本馬に課せられた斤量は123ポンドだったが、今回本馬に課せられた斤量は130ポンドと厳しいものだった。レースでは馬群に包まれて進路を失うことを嫌ったポラード騎手の判断により2番手を追走した。そして四角で先頭に立つと、直線で追いすがってきたカヤックに1馬身半差をつけて、2分01秒2のコースレコードを樹立して完勝。念願だったサンタアニタH制覇を果たし、サンタアニタパーク競馬場に詰めかけた大観衆を狂喜乱舞の渦に巻き込んだ。本馬はこのレースを最後に完全に現役生活にピリオドを打った。獲得賞金総額43万7730ドルはサンボウの記録を更新する当時の全米史上最高額となった。
血統
Hard Tack | Man o'War | Fair Play | Hastings | Spendthrift |
Cinderella | ||||
Fairy Gold | Bend Or | |||
Dame Masham | ||||
Mahubah | Rock Sand | Sainfoin | ||
Roquebrune | ||||
Merry Token | Merry Hampton | |||
Mizpah | ||||
Tea Biscuit | Rock Sand | Sainfoin | Springfield | |
Sanda | ||||
Roquebrune | St. Simon | |||
St. Marguerite | ||||
Tea's Over | Hanover | Hindoo | ||
Bourbon Belle | ||||
Tea Rose | King Alfonso | |||
Tuberose | ||||
Swing On | Whisk Broom | Broomstick | Ben Brush | Bramble |
Roseville | ||||
Elf | Galliard | |||
Sylvabelle | ||||
Audience | Sir Dixon | Billet | ||
Jaconet | ||||
Sallie Mcclelland | Hindoo | |||
Red and Blue | ||||
Balance | Rabelais | St. Simon | Galopin | |
St. Angela | ||||
Satirical | Satiety | |||
Chaff | ||||
Balancoire | Meddler | St. Gatien | ||
Busybody | ||||
Ballantrae | Ayrshire | |||
Abeyance |
父ハードタックはマンノウォー直子で、ホイートリーステーブルの所有馬、フィッツシモンズ師の管理馬として走り、サラナクH・ニッカボッカーH勝ちなど15戦3勝の成績だった。取り立てて優れた競走成績ではなかったが、その理由は紛れもなく気性の問題であり、その気性難は伝説になるほど悪評が高かったという。種牡馬としては本馬の大活躍により一躍脚光を浴びたが、他にはモデスティHを勝ったシースナックを出した程度に終わった。没年は1947年で本馬と同じ年である。
母スウィングオンもフィッツシモンズ厩舎に所属していたが、結局は不出走に終わった。本馬の半妹ブラウンビスケット(父サーアンドリュー)が母としてブラウニアン【フォールズシティH】、エスピー【ブーゲンヴィリアH】、レープクーヘン【セリマS】などを産む活躍を見せた。さらにブラウンビスケットの孫には、ディターミン【ケンタッキーダービー・サンタアニタダービー・サンガブリエルS・サンフェリペS・ベイメドウズダービー・ゴールデンゲートH・マリブS・サンタアニタマチュリティS・イングルウッドH】、曾孫にはヘイルトゥパッツィー【ケンタッキーオークス】がいる。
スウィングオンの半姉フラッター(父ペナント)の牝系子孫には、1960年の米最優秀3歳牝馬ベルロ【CCAオークス・マザーグースS・ガゼルH・ベルデイムH・レディーズH】や、ピースルールズ【ブルーグラスS(米GⅠ)・ハスケル招待H(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)】などがいる。
スウィングオンの母バランスの半姉エスカルポレットの曾孫には1959年の米最優秀短距離馬インテンショナリー【ベルモントフューチュリティS・ピムリコフューチュリティ・ウィザーズS・ジェロームH・トボガンH・パームビーチS・セミノールH】が、バランスの半妹スウィンギングの子には米国の歴史的名馬エクワポイズ【メトロポリタンH2回・ホイットニーS・サバーバンH・ピムリコフューチュリティ・トボガンH・スターズ&ストライプスH・アーリントンH・ホーソーン金杯H・ディキシーH】、牝系子孫にはニューヨーク牝馬三冠馬モムズコマンド【エイコーンS(米GⅠ)・マザーグースS(米GⅠ)・CCAオークス(米GⅠ)・セリマS(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)】がおり、こうして見ると本馬の牝系は結構優秀である。→牝系:F5号族③
母父ウィスクブルームは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、ハワード氏が所有していた牧場で種牡馬入りした。何頭かのステークスウイナーこそ出したが、種牡馬成績は不振に終わった。1947年5月17日に14歳で心臓発作のため他界した。本馬の墓の所在は伏せられ、現在でもハワード一族だけが知る秘密となっている。その代わりに、サンタアニタパーク競馬場に等身大の銅像が建てられている。1958年には米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第25位。
映画「シービスケット」について
本馬はしばしば小説や映画の主人公になった。1949年には映画「シービスケット物語」が米国で公開された(もっとも、非常に創作部分が多いこともあって評価は低い)。2001年には前述の「小説シービスケット」が米国で出版され、2003年にはそれを原作とした映画「シービスケット」が米国で公開された。「小説シービスケット」については既に触れたので、映画「シービスケット」について著作権侵害にならない程度に少し触れておく。あらすじは原作と同様(主要人物の中ではポラード騎手の扱いが原作よりやや大きく、スミス師の扱いは原作よりやや小さい)だが、小説の分量を140分という限られた時間に凝縮するために、当然の措置ではあるが大幅に内容が削られている。そのため、原作を知らないと主要登場人物達が出会う前における各々の経緯について描かれた導入部分が分かり辛いだろう。それでも、クリス・マッキャロン元騎手が技術顧問として携わっているだけあって、レースシーンの迫力はかなりのものである。特にウォーアドミラルとのマッチレースは史実に忠実に描かれており、手に汗握る内容になっている。また、ゲイリー・スティーヴンス騎手がウルフ騎手役で出演して、いい味を出している(原作の名言「心をつぶされるよりも脚をつぶされるほうがまし」は彼の台詞になっている)。筆者は、映画は原作より劣るという評判を耳にしていたため、映画を見たのはごく最近(というより本項を書くために見たようなもの)なのだが、それでも予想よりは楽しめたと思う。
参考までに原作との主な違いを以下に列挙する(ネタバレ注意)。1.ポラード騎手が右目の視力を失った原因が、調教中の怪我ではなくボクサー時代の怪我になっている。2.最初にサンタアニタHに出走するよりも前に、連勝街道を邁進した本馬は西海岸のトップホースとなっており、この時点で既にウォーアドミラルとの対戦が待ち望まれている。3.本馬とウォーアドミラルの対戦をお膳立てする目的でサンタアニタHが創設されたように描写されている。4.本馬とウォーアドミラルのマッチレースが実現するまでには紆余曲折あったわけだが、その大半が省略されている。そのため2度目のサンタアニタH敗戦などは描かれておらず、ポラード騎手が足を大怪我したのはマッチレース直前であり、そこで急遽ウルフ騎手が本馬に初めて乗るようになったことになっている。5.最後のサンタアニタHのレースぶりが異なる。最初は先行するが他馬の間を抜けられなかったために行き脚を無くし、馬群から遠く離れた最後方まで下がってしまう。しかしここで本馬の横まで下がってきた他馬に騎乗するウルフ騎手が、本馬とポラード騎手を激励すると、猛然とスパートを開始。三角から四角にかけて全馬を抜き去って直線入り口では先頭に立つという、劇的ではあるがやや非現実的な内容になっている。