セントフラスキン

和名:セントフラスキン

英名:St.Frusquin

1893年生

鹿毛

父:セントサイモン

母:イサベル

母父:プレビーアン

同父の好敵手パーシモンと競走馬・種牡馬として好勝負を展開した、セントサイモン牡駒として初の英国クラシック競走勝ち馬

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績11戦9勝2着2回

誕生からデビュー前まで

有名なロスチャイルド一族の出身である英国の銀行家レオポルド・デ・ロスチャイルド氏により、彼が英国ベッドフォードシャー州に所有していたサウスコートスタッドにおいて生産・所有された。ロスチャイルド氏は優秀な銀行家だっただけでなく、名種牡馬キングトム、キングトム産駒の英オークス馬トーメンター及び英国牝馬三冠馬ハンナ、英ダービー馬サーベヴィスといった名馬達を所有した名馬産家でもあり、英国ジョッキークラブの会員でもあった。

本馬の馬体は中型で、額に鋏で切ったような流星が走った頭だけは身体に比して大きいという、頭でっかちな馬であり、後に競走馬としても種牡馬としても好敵手として凌ぎを削る同父のパーシモンと比べるとあまり見栄えはしなかったようである。また、リウマチの持病を抱えていたこともあり、それほど足元が強い馬ではなかった。それでも父が大種牡馬セントサイモンで、母イサベルも競走馬として11勝を挙げた活躍馬という血統背景から、ロスチャイルド氏の期待は大きかったようである。

馬名を英語で直訳すると「聖フラスキン」だが、これは仏語(英語ではない)のくだけた表現で「(個人が)所有する全ての財産」を意味しており、キリスト教とは直接無関係である。こんな意味の馬名が付けられたのは、父の馬名からの連想ではあったのだろうが、ロスチャイルド氏の本馬に対する期待を象徴しているようにも思える。

競走生活(2歳時)

英国ニューマーケットに厩舎を構えていたアルフレッド・ヘイホー調教師に預けられ、2歳5月にケンプトンパーク競馬場で行われたロイヤル2歳プレート(T5F)でデビュー。主戦となるトミー・ローテス騎手が騎乗した本馬は、先頭に立った後に左側によれる青さを見せながらも、2着グリスタンに首差で勝利した。次走は6月にサンダウンパーク競馬場で行われたサンドリンガムCとなり、2着ラブラドール(後にジュライSや英チャンピオンSに勝っている)に3馬身差をつけて勝利した。さらに7月にはニューマーケット競馬場でチェスターフィールドSに出て勝利したが、この後にリウマチを発症したためにしばらく休養入りした。

復帰戦は10月にケンプトンパーク競馬場で行われたインペリアルプロデュースS(T6F)となった。しかしここでは136ポンドもの斤量を課せられてしまい、12ポンドのハンデを与えたタウフェルとの激しい一騎打ちの末に、半馬身差の2着に敗れてしまった。

翌週にはミドルパークプレート(T6F)に出走。ここで好敵手パーシモンと初めて顔を合わせた。このレースではローテス騎手が騎乗出来なかったため、本馬には当時20歳のフレデリック・プラット騎手が騎乗した。プラット騎手は父セントサイモンの主戦騎手で、この9年前に29歳の若さで自ら命を絶った天才フレッド・アーチャー騎手の甥だった。1番人気に支持されたのはコヴェントリーS・リッチモンドSを勝っていたパーシモンのほうだったが、本馬は逃げる牝馬オムラディナ(英シャンペンSを勝っていた)を見るように先行すると、残り1ハロン地点で内側から並びかけ、ゴール前では余裕で競り落とし、半馬身差で勝利した(レース前に咳が出るなど体調が万全では無かったパーシモンはオムラディナからさらに4馬身差の3着だった)。

次走のデューハーストプレート(T7F)でも、プラット騎手が騎乗した。このレースにパーシモンは出走しておらず、131ポンドを背負って出た本馬は対戦相手4頭全てにハンデを与える事になったが、それでもゴール前でプラット騎手が手綱を抑える余裕を見せながら、2着ナイトオブザシスルに3馬身差をつけて楽勝。ミドルパークプレートとデューハーストプレートを連勝したのは1891年のオーム以来4年ぶり史上5頭目であり、これで本馬は同世代最強の2歳馬としての評価を確立させた。

2歳時の成績は6戦5勝で、翌年の英ダービーの前売りオッズでは、パーシモン、それに英1000ギニー馬フェアウェルの息子で無敗の英国三冠馬オーモンドの甥に当たる血統などから「オーモンドの再来」と噂されていたリグレット(1915年のケンタッキーダービーを勝った牝馬と同名だが、こちらは牡馬である)の2頭と並んで単勝3.75倍の1番人気であり、この3頭の優劣に関して各方面で盛んに議論されたという。本馬は能力の高さもさることながら、どんな時でも一生懸命に走る頑張り屋の馬であり、そういった本馬の態度もまた賞賛の的だった。

競走生活(3歳時)

3歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたコラムプロデュースSから始動した。本馬の斤量は他馬より13ポンド以上重かったが、彼等を「こてんぱんにやっつけて」勝利した。

それから2週間後が3歳シーズンの第一目標たる英2000ギニー(T8F11Y)だった。ここで本馬との対戦が期待されていたパーシモンとリグレットはいずれも調教の動きが思わしくない事を理由に回避してしまい、完全に本馬の1強独裁状態となった。父セントサイモンはこの前年1895年まで6年連続で英愛首位種牡馬を獲得しており(この年も獲得している)、既に当時英国最高の種牡馬としての地位を確立させていた。それにも関わらず過去6世代の産駒からは英国三冠競走を勝った牡馬が登場しておらず(英国三冠競走を牡馬相手に勝った牝馬なら複数登場していた)、今日であればジンクスのように言われても仕方がなかったが、それでも本馬が負ける要素を見つけるほうが難しかった。そのために本馬の単勝オッズは最終的に1.12倍となり、これは記録に残る限りでは現在でも英2000ギニー史上最少オッズである(史上2位は1885年のパラドックスの1.33倍、同3位は1974年のアパラチーの1.44倍、同4位は2011年のフランケルの1.5倍。1934年のコロンボは資料によって単勝オッズ1.29倍と単勝オッズ1.57倍の2つの数字がある)。

レースではローテス騎手は本馬を先行させると、中盤で早々と先頭に立たせた。そして他馬が必死に走っているのを尻目に涼しい顔で先頭を走り続け、2着ラヴワイズリー(この僅か2か月後には古馬相手にアスコット金杯を勝っている)に3馬身差、3着ラブラドールにもさらに3馬身差をつけて楽勝。セントサイモンの牡駒としては初の英国クラシック優勝馬となった。しかし道中の下り坂で少し苦労する様子が見られたため、ニューマーケット競馬場よりはるかに起伏が大きいエプソム競馬場で施行される英ダービーにおいて不安要素が生じた。

それでも英ダービー(T12F29Y)では、これが3歳初戦だったパーシモンなど10頭の対戦相手を抑えて、単勝オッズ1.62倍の1番人気に支持された(パーシモンは単勝オッズ6倍の2番人気だった)。前走と異なりローテス騎手はスタートしてしばらくは本馬を抑え気味に走らせ、パーシモンも同様に後方からレースを進めた。しばらくすると本馬がパーシモンより先に位置取りを上げ始め、先頭のベイロナルド(後に名種牡馬となる)を射程圏内に捉えた2番手で直線に入ってきた。そして残り2ハロン地点で先頭に立ったのだが、ここでパーシモンが並びかけてきて、2頭の大激戦が展開された。最後はパーシモンが競り勝って2分42秒0のコースレコードで勝利を収め、本馬は首差の2着に敗れてしまった。

英ダービー史上に残る名勝負だったが、レース後に次のような根も葉もない噂が流れ、英国マスコミがそれを取り上げて本馬陣営の攻撃を行ったという嫌な話も伝わっている。噂の内容は、レース最終盤にローテス騎手が足を乗せていた鐙(あぶみ)が整備不良のために壊れてしまったとか、ヘイホー師が意図的に本馬の調子のピークを本番に合わせなかった等の内容である。これらの噂は、パーシモンの所有者がアルバート・エドワード・ウェールズ皇太子(後の英国王エドワードⅦ世)であり、本馬の所有者ロスチャイルド氏が自分の結婚式に皇太子を招待するほど2人の仲が親密だったという事実から派生したものだと思われる。要するに、皇太子に花を持たせようとしたロスチャイルド氏の指示により、整備不良のまま馬具を使用したり、調整を意図的に失敗させたりしたという論調であるが、2頭の激戦の様子や決着タイム等からして、このレースが八百長だったとはちょっと考えづらい。

その後は1か月後のプリンセスオブウェールズS(T8F)に向かった。このレースにもパーシモンが参戦してきて、2頭の直接対決第3ラウンドとなった。また、本馬とは初顔合わせとなるリグレット、さらには英2000ギニー勝ち馬カークコネル、英ダービー・英セントレジャー勝ち馬サーヴィストという前年の英国三冠競走勝ち馬2頭までも参戦してくるという超豪華メンバーとなった。英国クラシック競走を勝っていない3歳馬という点でリグレットが最軽量となり、それが評価されて1番人気。本馬はパーシモンより3ポンド斤量が軽かったが、リグレットより9ポンド斤量が重かった。しかしレース内容は英ダービーの再現に近く、序盤は抑え気味に走った本馬とパーシモンがゴール前で大激戦を演じた。そして今回は3ポンドの斤量差が効いたのか本馬が半馬身差で勝利を収めた(リグレットは3着だった)。このレースは大変な名勝負だったらしく(「らしく」というのは、このレースは映像が残っておらず筆者は見ていないからである。ちなみに前走の英ダービーの映像なら筆者は見たことがある)、各方面から2頭の闘争心は賞賛された。

次走は2週間後のエクリプスS(T10F)となった。休養入りしていたパーシモンは不参戦であり、本馬がリグレット、ラブラドール、それにセントジェームズパレスS・サセックスS勝ち馬トルーンなどの4歳馬勢を抑えて単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。レースはリグレットが一か八かの大逃げを打ち、本馬は一時的にかなりの差を付けられた。そのままリグレットが逃げ切るのではないかと思った人もいたようだが、冷静なローテス騎手は直線に入ってから本馬を加速させ、ゴール前できっちりとリグレットを差し切り、1馬身半差をつけて勝利した(トルーンが3着だった)。

その後は英セントレジャーに向けた調整が開始されたが、エクリプスSの段階で既にかなり危険な状態となっていた本馬の脚(同競走では脚部保護のために特製の蹄鉄を装着していた)はここで限界を超えてしまった。当初は両前脚の屈腱炎と診断され、いったんは回復の兆しも見えたが、実は靱帯損傷という競走生活にとって致命的な負傷だった。そのため本馬は二度と競馬場に姿を現すことはなく、3歳時5戦4勝の成績で現役引退となった。一説によるとこの年のニューマーケット競馬場は地面がまるで鉄のように堅かったらしく、そこでシーズン初戦に2戦した本馬が脚を痛める一因となったのだという。本馬が不在となった英セントレジャーはパーシモンが単勝オッズ1.19倍という圧倒的な1番人気(それでも英2000ギニーにおける本馬の単勝オッズ1.12倍には劣る)に応えて楽勝している。

本馬引退の翌年8月に英国のライブストックジャーナル紙は「その勇気と不屈の精神はとても偉大であり、アイシングラスドノヴァン、オーモンドと比較する価値がある19世紀有数の名馬です」と本馬を賞賛している。

血統

St. Simon Galopin Vedette Voltigeur Voltaire
Martha Lynn
Mrs. Ridgway Birdcatcher
Nan Darrell
Flying Duchess The Flying Dutchman Bay Middleton
Barbelle
Merope Voltaire
Juniper Mare
St. Angela King Tom Harkaway Economist
Fanny Dawson
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Adeline Ion Cain
Margaret
Little Fairy Hornsea
Lacerta
Isabel Plebeian Joskin West Australian Melbourne
Mowerina
Peasant Girl The Major
Glance
Queen Elizabeth Autocrat Bay Middleton
Empress
Bay Rosalind Orlando
Elopement
Parma Parmesan Sweetmeat Gladiator
Lollypop
Gruyere Verulam
Jennala
Archeress Longbow Ithuriel
Miss Bowe
Tingle Slane
Vibration 

セントサイモンは当馬の項を参照。

母イサベルは競走馬としてはクイーンズプレート・サマーCなど11勝をマークした。その産駒には、本馬の半弟セントグリス(父ガロピン)【リッチモンドS】がいる。また、本馬の半妹スニップ(父ドノヴァン)の牝系子孫が主に日本で発展している。スニップの孫フリッパンシーは英国で走って1勝だけ挙げた後に日本に輸入されて小岩井農場で繁殖入りした。そしてタイホウ【帝室御賞典(横浜)】、日本競馬史上初の三冠馬セントライト【横浜農林省賞典四歳呼馬(現・皐月賞)・東京優駿・京都農林省賞典四歳呼馬(現・菊花賞)】、クリヒカリ(現役当初の名前はアルバイト)【横浜農林省賞典四歳呼馬(現・皐月賞)・帝室御賞典(秋)】、トサミドリ【皐月賞・菊花賞】と、八大競走(又はそれに相当するレース)の勝ち馬を4頭(合計8勝も含めて現在でも繁殖牝馬としての日本記録。セントライトとトサミドリは顕彰馬となっており、2頭の顕彰馬を産んだのも日本競馬史上唯一)も送り出し、日本競馬の黎明期に偉大なる足跡を残した。フリッパンシーの牝系子孫からは、ヤシマヒメ【優駿牝馬】、ヤシマナショナル【東京大賞典】、ノースガスト【菊花賞】なども出ており、現在も残っている。

イサベルの半姉リペレーション(父レスティチューション)の牝系子孫からは、カウントターフ【ケンタッキーダービー】、リアンガ【ロベールパパン賞(仏GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・アベイドロンシャン賞(仏GⅡ)・ジュライC(英GⅡ)】、デインヒルダンサー【愛フェニックスS(愛GⅠ)・愛ナショナルS(愛GⅠ)】、リレイズ【BCスプリント(米GⅠ)】、ストリートセンス【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・BCジュヴェナイル(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)】、日本で走ったプライドキム【全日本2歳優駿(GⅠ)】、サウンドトゥルー【東京大賞典(GⅠ)】などが出ている。

また、イサベルの半妹ビセルタ(父ロードリオン)の牝系子孫は、ビセルタの曾孫に当たる新国の根幹繁殖牝馬にして新国顕彰馬のユーロジーを経てオセアニアにおいて凄まじいまでの繁栄を見せ、ここには書ききれないほどの数の活躍馬が出ている。21世紀に入ると、ドバイデューティーフリーなどGⅠ競走を5勝したエルヴストローム、豪州から愛国に移籍して2010年のカルティエ賞最優秀短距離馬に選ばれたスタースパングルドバナーといった、オセアニア以外における活躍馬が出るなどさらに大きく発展している。→牝系:F22号族②

母父プレビーアンは現役成績1戦1勝だが、その1勝が本馬の祖父ガロピンを3着に破ったミドルパークプレート。プレビーアンの父ジョスキンはウエストオーストラリアン産駒。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はサウスコートスタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は200ギニーに設定された。これはパーシモンの300ギニーよりは安い価格だったが、種牡馬としてはほぼ互角の勝負を繰り広げた。1903・07年に英愛首位種牡馬を、1924年に英愛母父首位種牡馬を獲得した。パーシモンが長距離競走を得意とする重厚な産駒を多く出したのに対して、本馬は仕上がり早い快速馬を多く出した(あくまでも傾向であり、2頭とも傾向と異なる産駒を出している)。ただし産駒の大物感という点ではパーシモンのほうが勝っており、その分だけ英愛首位種牡馬を獲得した回数では負けてしまった(パーシモンは1902・06・08・12年の4回)。1914年8月に男性器に瘤が出来て種牡馬生活の続行が不可能と診断されたため、それ以外は全く健康体だったにも関わらず21歳で安楽死の措置が執られ(この当時はどんな活躍馬であっても、用済みとなった馬を処分する風潮が英国にも根強かったのである)、遺体はロンドンにある自然史博物館に寄贈された。

直系子孫は所謂セントサイモンの悲劇の影響を受けて、サラブレッドとしては滅亡している。ただし、サラブレッド以外の馬術競技用馬、特に障害飛越競技用馬では曾孫のオレンジピールを経由する直系が現在も繁栄している。また、母父としてはゲインズボローを出して、後世に大きな影響を与えた。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1898

Fortunatus

グッドウッドC

1900

Flotsam

ミドルパークS

1900

Quintessence

英1000ギニー・モールコームS・パークヒルS

1901

Rydal Head

プリンスオブウェールズS

1901

St. Amant

英2000ギニー・英ダービー・コヴェントリーS・ジョッキークラブS

1903

Catnap

ヨークシャーオークス

1903

Flair

英1000ギニー・ミドルパークS

1904

Frugality

コロネーションS

1905

Lesbia

ミドルパークS・ジュライC・コロネーションS・英シャンペンS

1905

Rhodora

英1000ギニー・デューハーストS

1905

Santo Strato

プリンスオブウェールズS

1907

Greenback

プリンスオブウェールズS

1907

Rosedrop

英オークス

1907

Saint Just

コンデ賞

1908

Maaz

チェスターヴァーズ

1908

Pietri

リッチモンドS・ジムクラックS・英シャンペンS

1908

St. Anton

ジュライS

1908

Tullibardine

グッドウッドC

1909

Eufrosina

パークヒルS

1909

Mirska

英オークス

1910

Arda

ナッソーS・パークヒルS

1910

Ecouen

仏グランクリテリウム・リュパン賞・アランベール賞・ダリュー賞・フォルス賞

1912

Quinologist

AJCメトロポリタンH

1912

Rossendale

クレイヴンS・プリンセスオブウェールズS

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