プールモア

和名:プールモア

英名:Pour Moi

2008年生

鹿毛

父:モンジュー

母:グウィン

母父:ダルシャーン

19歳のミカエル・バルザローナ騎手を鞍上に直線殿一気の追い込みで仏国調教馬として35年ぶりの英ダービー馬となるが故障で引退した未完の大器

競走成績:2・3歳時に仏英で走り通算成績5戦3勝3着1回

誕生からデビュー前まで

馬産団体リンチバージュ社により生産された愛国産馬である。リンチバージュ社は、クールモアグループの総裁ジョン・マグナー氏の片腕で、クールモアの専属調教師エイダン・オブライエン師の従兄弟でもあるポール・シャナハン氏が運営しており、事実上はクールモア傘下の組織だった。

そんなわけで本馬も当然クールモアの所有馬となったわけだが、預けられたのはオブライエン師ではなく、仏国のアンドレ・ファーブル調教師だった。本馬がファーブル師に預けられた理由を知りたいと思った筆者は色々と資料を漁ったが、結局その理由が書かれているものは見つけられなかった。

本馬は成長しても体高15.3ハンドと非常に小柄な馬だった。そのために馬力に欠けると思われ、起伏が大きい英ダービーよりも仏ダービー向きと判断されたのかも知れないが、これは完全に筆者の憶測である。

競走生活(3歳初期まで)

2歳9月にフォンテーヌブロー競馬場で行われたリエヴル賞(T1600m)で、ダミアン・メスカム騎手を鞍上にデビューした。単勝オッズ4.5倍で10頭立ての2番人気に推されたが、スタートで出遅れた上に、他馬の後方をふらふらと走るという酷いレース内容で、勝ったフリンチキャットから9馬身差の8着に敗れた。

次走は10月にロンシャン競馬場で行われたフォイヨン賞(T1800m)となった。このレースで本馬に騎乗したのは、ミカエル・バルザローナ騎手だった。2008年に騎手免許を取得したバルザローナ騎手は、2か月前に19歳になったばかりの見習い騎手だった。前走の酷い内容に加えて、鞍上が見習い騎手では評価されるわけはなく、本馬は単勝オッズ15.9倍で5頭立ての最低5番人気だった。ところがレースでは4番手を追走すると、残り400m地点でスパートして残り200m地点で先頭に立ち、単勝オッズ1.6倍の1番人気に支持されていたオペノートを首差の2着に抑えて勝ってしまった。2歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は2戦1勝だった。

3歳時は4月にロンシャン競馬場で行われたフォルス賞(仏GⅢ・T2100m)となった。対戦相手は、コンデ賞の勝ち馬でクリテリウムドサンクルー3着のプレイリースター、凱旋門賞馬バゴの半弟に当たるトーマブリョン賞の勝ち馬マキシオス(後にイスパーン賞・ムーランドロンシャン賞を勝利)、前月の未勝利戦を3馬身差で楽勝してきたバラーン、リステッド競走モーリスカイヨー賞を勝ってきたスタロの計4頭だった。プレイリースターが単勝オッズ2.5倍の1番人気、マキシオスが単勝オッズ3.8倍の2番人気、バラーンが単勝オッズ4.4倍の3番人気、スタロが単勝オッズ5倍の4番人気で、今回もバルザローナ騎手が騎乗する本馬は、1頭だけ蚊帳の外といった雰囲気の単勝オッズ13倍の最低人気だった。

スタートが切られるとバラーンが先頭に立ち、プレイリースター、マキシオス、本馬、スタロの順番で走っていった。しかし本馬は明らかに折り合いを欠いており、レース中盤でマキシオスを抜いて3番手に上がった。そのまま3番手で直線に入るとすぐにバルザローナ騎手は本馬を追い始めたが、なかなか前との差は縮まらなかった。前方ではバラーンとプレイリースターの2頭が抜きつ抜かれつの一騎打ちを演じており、残り200m地点でバラーンが競り勝って先頭に立っていた。本馬も残り200m地点からようやく鋭い脚を繰り出したものの、プレイリースターを捕らえることも出来ず、勝ったバラーンから1馬身半差の3着に敗れた。

次走は翌5月にサンクルー競馬場で行われたグレフュール賞(仏GⅡ・T2000m)となった。対戦相手は、サンタラリ賞を勝った名牝ヴァダウィナの息子で前走のリステッド競走フランソワマテ賞を勝ってきたヴァダマール、そのフランソワマテ賞で2馬身差の2着だったラストル、2連勝で臨んできたサンデジール、クリテリウムドサンクルー・コンデ賞など4戦連続2着中のバブルチック、前走タタソールズミリオン3歳トロフィー3着のクエスチョニング、前走で5着最下位に終わっていたマキシオスなど8頭だった。ヴァダマールが単勝オッズ1.8倍の1番人気、サンデジールが単勝オッズ6.5倍の2番人気、バブルチックが単勝オッズ11倍の3番人気、クエスチョニングとマキシオスが並んで単勝オッズ12倍の4番人気で、今回もバルザローナ騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ13.3倍の6番人気だった。

スタートが切られると単勝オッズ23倍の8番人気馬ディルダールが先頭に立ってハイペースで逃げを打った。ディルダールは1番人気馬ヴァダマールの同厩馬であり、ペースメーカー役としての出走だった。そのヴァダマールとバブルチックが2~3番手を進み、本馬は馬群の最後方を進んだ。そのままの態勢で直線に入ると、ペースメーカー役の割には粘るディルダールを残り300m地点でかわして先頭に立ったのはヴァダマールではなくバブルチックのほうだった。ヴァダマールには今ひとつ伸びが無く、そのままバブルチックが勝つと思われた次の瞬間、直線入り口でもまだ最後方だった本馬が外側から猛然と追い上げてきた。そして残り150m地点でバブルチックを抜き去ると、1馬身半差をつけて勝利した。

英ダービー

次走は仏ダービーではなく英ダービー(英GⅠ・T12F10Y)となった。本馬陣営がいったいどの段階で英ダービーを視野に入れていたのかは良く分からない。グレフュール賞に出走させる前から英ダービーが脳裏にあったとも言われるが、真相は不明である。

対戦相手は、未勝利ステークスを9馬身差で勝ち上がり前走ダンテSも快勝してきたカールトンハウス、クリテリウムドサンクルー・デリンズタウンスタッドダービートライアルSの勝ち馬リサイタル、レーシングポストトロフィー・ダンテS2着のセヴィル、ソラリオS・クレイヴンSの勝ち馬で英2000ギニー3着のネイティヴカーン、ニューマーケットSを勝ってきたオーシャンウォー、前走で本馬から2馬身半差の3着だったヴァダマール、デリンズタウンスタッドダービートライアルS2着馬メンフィステネシー、チェスターヴァーズを勝ってきたロイヤルロッジS3着馬トレジャービーチ、クックドハットSを勝ってきたマスクドマーヴェル、タタソールズミリオン2歳トロフィー2着・ダンテS3着のピスコサワーなど12頭だった。

この年の英ダービーにおける最大の話題は、カールトンハウスの所有者であるエリザベスⅡ世女王陛下が、英国王としては曽祖父であるエドワードⅦ世以来史上2人目の英ダービー馬主になれるか否かだった。また、本馬を任されなかったオブライエン師も、リサイタル、セヴィル、ネイティヴカーン、メンフィステネシー、トレジャービーチの5頭出しで臨んできていた。カールトンハウスが単勝オッズ3.5倍の1番人気、バルザローナ騎手が騎乗する本馬が単勝オッズ5倍の2番人気、リサイタルが単勝オッズ6倍の3番人気、セヴィルが単勝オッズ7.5倍の4番人気、ネイティヴカーンが単勝オッズ9倍の5番人気となった。

スタートが切られると単勝オッズ21倍の8番人気馬メンフィステネシーが先頭に立ち、単勝オッズ26倍の9番人気馬トレジャービーチなど人気薄の馬達がそれを追って先行。注目のカールトンハウスは馬群の後方からレースを進めた。一方の本馬はスタートで後手を踏んでおり、そのまま馬群の最後方を進んでいた。人気薄のメンフィステネシーだったが非常に快調に逃げており、坂の頂上手前から徐々に後続との差を広げ始め、タッテナムコーナーを回って直線に入った時点で2番手のトレジャービーチに6馬身差をつけていた。そして直線でも粘り続けたが、さすがに残り2ハロン地点から少しずつ脚色が衰え始め、そこへトレジャービーチが並びかけて叩き合いに持ち込んだ。8番手で直線に入ってきたカールトンハウスも優れた末脚を繰り出し、先頭の2頭に接近していった。一方の本馬は直線入り口でもまだ最後方だったが、外側に持ち出すと豪快な末脚を繰り出して一気に伸びてきた。残り1ハロン地点でメンフィステネシーを競り落としたトレジャービーチが単独で先頭に立ったが、そこへカールトンハウスと本馬の2頭が襲い掛かった。そして本馬が僅かにトレジャービーチとカールトンハウスの2頭をかわした次の瞬間がゴールだった。2着トレジャービーチに頭差、3着カールトンハウスにさらに3/4馬身差をつけた本馬が優勝し、1976年のエンペリー以来35年ぶりとなる仏国調教馬による英ダービー制覇を成し遂げた。

また、鞍上のバルザローナ騎手も、1981年にシャーガーで勝利した当時19歳のウォルター・スウィンバーン騎手以来30年ぶりとなる10代の英ダービー騎手となったが、彼は本馬がまだゴールする前から馬上に立ち上がってガッツポーズをしたために、エプソム競馬場側から警告を受けた。

エリザベスⅡ世女王陛下を英ダービー馬の馬主にすることが出来なかったカールトンハウス鞍上のライアン・ムーア騎手は、最後の直線でカールトンハウスが落鉄した事もあって、口惜しさを隠し切れなかった。

競走馬引退

レース後にファーブル師は、本馬の次の目標を凱旋門賞とする旨を発表した。英ダービーで2着だったトレジャービーチがその後の愛ダービー・セクレタリアトSを勝った事などもあり、本馬は凱旋門賞の前売りオッズで1番人気に支持されていた。

ところが8月25日の調教中に本馬は左前脚を負傷してしまった。怪我の度合いは深刻であり、凱旋門賞参戦どころか現役続行が不可能となり、2日後の8月27日に3歳時3戦2勝の成績で競走馬を引退する事が発表された。英ダービー馬がその勝利を最後に競走馬を引退したのは、1984年の勝ち馬セクレト以来のことだった。

本馬を管理したファーブル師は「私が手掛けた中でも最も鋭い末脚を有している馬でした」とその強さを賞賛した。しかし英ダービーが現役最後のレースだった上に、トレジャービーチ、英ダービー8着後に英セントレジャーを勝ったマスクドマーヴェルが揃って凱旋門賞で惨敗するなど、英ダービーで本馬が負かした馬達が他世代相手に活躍できなかったせいもあってワールド・サラブレッド・レースホース・ランキングの評価は上がらずに122ポンド止まりとなり、136ポンドを獲得した同世代のフランケルからは大きく水を空けられてしまった。

血統

Montjeu Sadler's Wells Northern Dancer Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Fairy Bridge Bold Reason Hail to Reason
Lalun
Special Forli
Thong
Floripedes Top Ville High Top Derring-Do
Camenae
Sega Ville Charlottesville
La Sega
Toute Cy Tennyson Val de Loir
Tidra
Adele Toumignon ゼダーン
Alvorada
Gwynn Darshaan Shirley Heights Mill Reef Never Bend
Milan Mill
Hardiemma ハーディカヌート
Grand Cross
Delsy Abdos Arbar
Pretty Lady
Kelty ヴェンチア
マリラ
Victoress Conquistador Cielo Mr. Prospector Raise a Native
Gold Digger
K. D. Princess Bold Commander
タミーズターン
Royal Statute Northern Dancer Nearctic
Natalma
Queen's Statute Le Lavandou
Statute

モンジューは当馬の項を参照。

母グウィンは愛国産の不出走馬。繁殖牝馬としては、本馬の半姉ガニョア(父サドラーズウェルズ)【レゼルヴォワ賞(仏GⅢ)・ペネロープ賞(仏GⅢ)】も産んでいる。グウィンの半姉フェルモイ(父アイリッシュリヴァー)は日本に繁殖牝馬として輸入され、フェリシア【フェアリーS(GⅢ)】を産んだ。

グウィンの母ヴィクトレスの半姉コナファの孫にはヘクタープロテクター【仏2000ギニー(仏GⅠ)・モルニ賞(仏GⅠ)・サラマンドル賞(仏GⅠ)・仏グランクリテリウム(仏GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)】、シャンハイ【仏2000ギニー(仏GⅠ)】、ボスラシャム【英1000ギニー(英GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)・フィリーズマイル(英GⅠ)】、曾孫にはシーロ【仏グランクリテリウム(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)・セクレタリアトS(米GⅠ)】、インターナリーフローレス【デルマーオークス(米GⅠ)】、レッドジャイアント【クレメントLハーシュ記念ターフCSS(米GⅠ)】、カリフォルニアメモリー【香港C(香GⅠ)2回】、ウルトラ【ジャンリュックラガルデール賞(仏GⅠ)】、玄孫にはアクトワン【クリテリウム国際(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)】が、ヴィクトレスの半姉アワーシフ【ヨークシャーオークス(英GⅠ)・伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)】の子にはスノーブライド【英オークス(英GⅠ)】、孫にはラムタラ【英ダービー(英GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ)・凱旋門賞(仏GⅠ)】、曾孫にはイソップスフェイブルズ【ジャンプラ賞(仏GⅠ)】が、ヴィクトレスの半姉ロイヤルローナの孫にはサンストラッチ【ローマ賞(伊GⅠ)】がおり、かなりの名門牝系である。→牝系:F22号族②

母父ダルシャーンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は愛国クールモアスタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は2万ユーロに設定された。初年度産駒は2015年にデビューしている。

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