和名:ベイヤード |
英名:Bayardo |
1906年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ベイロナルド |
母:ガリシア |
母父:ガロピン |
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不運にも春の英国クラシック競走2戦を落とすもその後は英セントレジャー・アスコット金杯など15連勝した20世紀英国屈指の名馬 |
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競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績25戦22勝2着1回 |
不運な事故により英ダービーを取りこぼしてしまったが、その後に立て直して15連勝を達成し、間違いなく20世紀英国競馬界における最高の名馬の1頭に数えられる。
誕生からデビュー前まで
英国の馬産家・馬主だったアルフレッド・ウィリアム・コックス氏により生産・所有された。スコットランドの綿業者の一家に産まれたコックス氏は、陸軍士官学校を卒業するのに失敗して20歳で豪州に渡った。そこでたまたま債務の弁済代わりに入手した羊牧場の跡地の地下に、大規模な銀鉱脈が発見されるという幸運に恵まれた彼は大富豪にのし上がった。やがて銀は枯渇したが、既に莫大な財産を築いていた彼は静かな余生を送るために英国に戻り、好きだった競馬活動に勤しむようになっていた。彼は匿名で競馬活動を行っており、代わりに常に“Mr Fairie(ミスターフェアリー)”という偽名を用いており、本馬も同様だった。“Mr Fairie”の正体がコックス氏である事が判明したのは、1919年に彼が61歳で死去した後の遺産相続に際してのことだった。
コックス氏は本馬を、自身と親交が深かったアレック・テイラー・ジュニア調教師に預けた。テイラー・ジュニア師は、英国クラシック競走を全て制した19世紀有数の名伯楽アレック・テイラー・シニア師の息子である。1895年に死去した父がウィルトシャー州に築き上げていた「英国で最も有名で権威がある調教施設」であるマントン厩舎を異母兄のトム・テイラー氏と共に受け継ぎ、トム・テイラー氏が厩舎の経営を、自身が馬の訓練を担当した。しかしマントン厩舎で働いていた15歳の少年が結核で死亡した際に、彼の身体に虐待によって出来た痣がある事が発覚。児童虐待防止協会の通報によりトム・テイラー氏は、マスター&サーヴァント法(雇用者と従業員の関係を規定する英国の法律)違反で裁判にかけられた(テイラー・ジュニア師は暴行に不関与とされて不起訴になっている)。結局トム・テイラー氏も証拠不十分で無罪になったが、無罪判決の言い渡しにおいて、トム・テイラー氏が子どもを奴隷のように扱っていた事実は認定されたため、彼の評判は失墜し、マントン厩舎の経営から手を引く事になった。
そのためにテイラー・ジュニア師は、自分が馬の調教だけでなく厩舎の経営も手掛けるようになった。テイラー・ジュニア師が全てを管理するようになってからマントン厩舎の評判は回復し始めた(父のテイラー・シニア師の時代から、マントン厩舎は従業員に対する懲罰が非道であるとして悪評高かった)。それと同時にテイラー・ジュニア師は調教師としての手腕を発揮し始め、過酷な使われ方により全身ぼろぼろになっていた英国クラシック競走4勝馬セプターを引き取って復活させるなど、徐々に名声を高めていった。彼はやがて「マントンの魔法使い」の異名を頂戴するようになり、英国クラシック競走も全て制覇する事になるのだが、そんなテイラー・ジュニア師が手掛けた最高傑作は紛れも無く本馬である。
競走生活(2歳時)
幼少期から非常に見栄えが良い馬だった本馬は、実際に高い素質を有しており、2歳6月のデビュー前調教においてテイラー・ジュニア師が試しにシードケーキという3歳馬と併せ馬をさせてみたところ、本馬は苦も無くシードケーキを6馬身ちぎり、本馬に騎乗していた英国平地首位騎手4回の名手オットー・マッデン騎手を感動させた。
そしてその直後にアスコット競馬場で行われたニューS(T5F)で本馬はデビュー戦を迎えることになったのだが、その鞍上はマッデン騎手ではなくバーナード・ディロン騎手だった。実はマッデン騎手は、自分が調教で乗ったのはシードケーキのほうだと勘違いしており、シードケーキに歯が立たなかった2歳馬に乗る価値はないとしてこのレースで他馬に乗る事にしていたのである。厩舎外における本馬の評価はそれほど高いものではなく、このレースでは単勝オッズ8倍といった程度のものだった。しかし結果は馬なりのまま走った本馬が、後にモールコームSを勝つペルディッカスを1馬身半差の2着に、ウッドコートSの勝ち馬ペローラをさらに首差の3着に破って楽勝してしまった。自分の勘違いに気付いたマッデン騎手は後悔したが時既に遅く、彼に本馬の鞍上が回ってくることは無かった(この逸話は“A Century of Champions”に載っている話で、“A Century of Champions”をあまり信用していない筆者は嘘くさいと思って本項からは外そうと思っていたのだが、“Legends of the Turf:Bayardo(競馬場の伝説ベイヤード)”という他の海外の資料にも同様の話が載っていたから、結局掲載することにした)。
次走のナショナルブリーダーズプロデュースS(T5F)からは、ダニエル・アロイシウス・マハー騎手が主戦を務める事になった。米国生まれで当時27歳のマハー騎手は、最初は米国で騎手デビューし、1898年に17歳の若さで北米首位騎手になったが、米国で生じた賭博反対運動の中で活動の場を制限されたために英国に移住。ロックサンド、キケロ、スペアミントで3度の英ダービー制覇を成し遂げていた名手だった。結果は、単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持された本馬が2着グラスゲリオンに1馬身半差をつけて楽勝を収め、新コンビ初戦を飾った。
続くリッチモンドS(T6F)では、英1000ギニー・ミドルパークプレートを制したフレアや、ミドルパークプレート・ジュライCを制したレスビアの全妹に当たる良血牝馬ヴィヴィッドが対戦相手となった。しかしヴィヴィッドは前走ナショナルブリーダーズプロデュースSで既に本馬の1馬身半差3着に敗れていた。というわけで単勝オッズ1.33倍の1番人気に支持された本馬が、ヴィヴィッドを3馬身差の2着に退けて快勝した。
次走のバッケナムS(T5F)も、2着ボニーラッシーに3/4馬身差で勝利した。僅か2頭立てとなったロウス記念S(T5F)では、単勝オッズ1.05倍という圧倒的な1番人気に応えて、唯一の対戦相手アウセプスに1馬身半差をつけて勝利した。ミドルパークプレート(T6F)では、単勝オッズ1.17倍の1番人気に応えて、2着ヴィヴィッドに1馬身差、3着となったジムクラックSの勝ち馬ブランクニーにはさらに4馬身差をつけて勝利した。全体的に2着馬との着差は小さいが、着差以上の強さを感じさせる内容ばかりだったという。
2歳最後のレースとなったデューハーストプレート(T7F)では、単勝オッズ1.27倍の1番人気に支持された。そして2着ペローラに3馬身差をつける快勝を収め、これで英国の主要2歳競走を総なめにした。なお、ペローラは翌年の英オークスを勝ち、英1000ギニーで3着している。
2歳時の成績は7戦全勝で、2歳フリーハンデのトップにランクされた。また、主戦のマハー騎手もこの年に初の英国平地首位騎手になっている。
競走生活(3歳前半)
2歳戦が終わった時点で英国クラシック競走の最有力候補となった本馬だったが、2歳から3歳にかけての冬場は異常に寒い日が続いた影響で馬場に草が生えず、この硬い馬場で行われた調教中に本馬は転倒して脚を痛めてしまった。そのためまともな調教が出来ず、しかも下痢を起こしてしまったため、テイラー・ジュニア師はコックス氏に英2000ギニーの回避を進言した。しかしコックス氏が聞き入れなかったため、止むを得ず本馬を英2000ギニー(T8F)に出走させた。それでもデビュー以来無敗の本馬に対するファンの期待は大きく、1番人気に支持された。しかし、英国王エドワードⅦ世の所有馬だったグリーナムSの勝ち馬ミノル、後のジョッキークラブSの勝ち馬ファレロン、コヴェントリーSの勝ち馬ルーヴィエの3頭に屈して、勝ったミノルから3馬身半以上の差をつけられた4着に敗退してしまった。
その後はテイラー・ジュニア師の尽力により体調を戻し、英ダービー(T12F)に出走した。米国から移籍してきたサーマーティン(グレートアメリカンS・サラトガスペシャルS・ナショナルスタリオンSなどの勝ち馬で、後年になって前年の米最優秀2歳牡馬に選出されている)が1番人気に支持され、ミノルが2番人気、本馬は3番人気だったのだが、ミノルを管理していたリチャード・マーシュ調教師が「ベイヤードは英2000ギニーのときとは別馬のようであり、私の馬が勝てるのか不安に感じました」とコメントするほど本馬の仕上がりは万全だった。
ところがこの英ダービーでは大きな事故が起きた。レース中に1番人気のサーマーティンが落馬して競走を中止。それは馬群が密集しているレース半ばの時点で発生したため、後続の馬達はそれに巻き込まれて落馬したり、致命的な不利を受けたりした。その後続の馬の中に本馬も含まれており、落馬こそ免れたものの、推定6馬身差という大きなロスを蒙ってしまった。レースはサーマーティンより前でレースを進めたために不利を受けなかったミノルが、英2000ギニー3着後にニューマーケットSを勝って臨んできたルーヴィエを短頭差の2着に、不利を受けながらも直線で追い上げてきたウィリアムザフォースをさらに半馬身差の3着に抑えて優勝。マハー騎手が道中で追うのを止めた本馬は5着に敗れた(10着とする資料もあるが、いずれにしても着外である)。ミノルを管理していたマーシュ師は「事故がなければベイヤードが勝っていたでしょう」とレース後にコメントしている。
なお、事故の引き金となったサーマーティンは無事であり、その後も活躍して本馬とも顔を合わせることになる。サーマーティンは東京優駿や帝室御賞典を勝った名牝ヒサトモの母父であるから、ヒサトモの子孫であるトウカイテイオーにはサーマーティンの血が流れていることになる。また、サーマーティンの10歳年下の半弟であるサーバートンは史上初の米国三冠馬として有名であるが、これらは本馬とは何の関係も無い全くの余談である。
競走生活(3歳後半)
不幸続きで春の英国クラシック競走を2つとも落としてしまった本馬だが、その後は何の問題も無く連勝街道を驀進する。次走のプリンスオブウェールズS(T13F)では、131ポンドのトップハンデを課されながらも単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。そして6ポンドのハンデを与えた2着カッタロに3/4馬身差、21ポンドのハンデを与えた英オークス3着馬ヴェルヌにはさらに5馬身差をつけて勝利した。136ポンドを背負ったサンドリンガムフォールS(T10F)では、38ポンドのハンデを与えた後のシザレウィッチHの勝ち馬ヴァーニーに1馬身半差で勝利した(なお、同じ136ポンドを背負った英ダービー2着のルーヴィエは着外に終わっている)。
続くエクリプスS(T10F)は僅か4頭立てだったが、前年のエクリプスS・セントジェームズパレスS・英セントレジャーを制していたユアマジェスティ、ジムクラックS・ダリンガムプレートの勝ち馬ロイヤルレレム、プリンスオブウェールズS・チェスターCの勝ち馬でエクリプスS・アスコット金杯2着・英セントレジャー・コロネーションC3着のサントストラトといった強豪馬3頭が相手となった。それでも大本命は本馬であり、単勝オッズ1.47倍の1番人気に支持された。そして後方内側の待機策からマハー騎手が合図を送ると、本馬は馬なりのまま全馬を抜き去り、2着ロイヤルレレムに2馬身差をつけて楽勝した。次走のダッチェスオブヨークプレート(T10F)も、2着ヴァレンスに2馬身差で快勝。
そして迎えた英セントレジャー(T14F132Y)では、英国三冠馬を狙うミノルを抑えて、単勝オッズ1.91倍の1番人気に支持された。今回は何のトラブルも無く、2着ヴァレンスに1馬身半差で優勝(ミノルは4着だった)。ゴール前でマハー騎手が手綱を緩める楽勝だった。
余力十分の本馬はその2日後にドンカスターS(T12F)に出走。馬なりのまま走り、2着ヴァーニーに1馬身差で楽勝した。次走の英チャンピオンS(T10F)でも単勝オッズ1.44倍の1番人気に応えて、この年のコロネーションCを筆頭にシティ&サバーバンH2回・トライアルS(現クイーンアンS)2回・リヴァプールサマーC・セレクトSを勝っていたディーンスウィフトを首差の2着に、ウッドコードS・ナショナルブリーダーズプロデュースS・サセックスS・シティ&サバーバンHの勝ち馬で英セントレジャー・コロネーションC2着・英2000ギニー3着のホワイトイーグルを3着に抑えて勝利した。なお、この英チャンピオンSではレース前にトラブルがあったのだが、それは後述する。
さらに2日後のロウザーS(T14F)では、単勝オッズ1.09倍の1番人気に応えて、馬なりのまま走り、2着ホワイトイーグルに1馬身半差で勝利。さらに2日後のライムキルンS(T10F)では、ペルセウスという馬との2頭立てとなった。結果は単勝オッズ1.03倍の1番人気に支持された本馬が、9ポンドのハンデを与えたペルセウスに1馬身差で勝利した。ところで、このライムキルンSの着差に関して、“Legends of the Turf:Bayardo”には15馬身差と書かれており、他にも15馬身差とする資料を見かけた。15馬身という大差は本馬にはあまり似つかわしくないような気はするが、対戦相手のペルセウスが特に実績が無い馬だった事からすると、馬なりのまま走ってもこのくらいの差がついてしまったとも考えられ、どちらが正しいか判然としない。次走のサンダウンフォールS(T10F)も、1馬身差で勝利。英チャンピオンSからサンダウンフォールSまでの4戦は僅か15日間で消化している。
3歳時最後の出走となったリヴァプールセントレジャー(T12F)は、これまた特に実績が無いキングアミンタスとの2頭立てとなった。斤量は本馬の140ポンドに対して、キングアミンタスは116ポンドだったのだが、それでも本馬が単勝オッズ1.02倍の1番人気に支持された。レースではキングアミンタスに半馬身差で勝利したが、“Legends of the Turf:Bayardo”には、レース中にキングアミンタスと衝突しながらも5馬身差で勝ったと書かれている。5馬身差でも本馬には大きすぎるような気がするが、衝突した本馬が頭にきて差をつけたとも考えられるから、ライムキルンSと同じくどちらが正しいか判然としない。いずれにしても、春の英国クラシック競走2連敗の後は11連勝で3歳シーズンを終えた。
競走生活(4歳時)
4歳時はアスコット金杯制覇を目標として、4月のニューマーケットバイエニアルS(T12F)から始動。140ポンドという酷量をものともせず、3/4馬身差で勝利した。続くチェスターヴァーズ(T12F)では、前年の英ダービー3着後にアスコットダービーを勝っていたウィリアムザフォースとの対戦となった。ウィリアムザフォースは不利が無ければ英ダービーを勝っていたと言われた実力馬だったのだが、ここで単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持されたのはやはり本馬だった。しかしここではマハー騎手が本馬の末脚を過信したため後ろ過ぎる位置取りとなり、最後はウィリアムザフォースを頭差差し切る辛勝だった。危うく負ける寸前だったため、マハー騎手は各方面から批判を受けた。テイラー・ジュニア師はそこまで抑えなくても本馬は走ると繰り返しマハー騎手に忠告したらしいが、マハー騎手は、本馬は先頭に立つと気を抜くと主張して、あくまで後方待機策に固執した。マハー騎手はよく言えば信念の人、悪く言えば粘着質で頑固な人で、かつて名牝プリティポリーに騎乗してプリティポリーに生涯初の敗戦を喫しさせてしまった後に、その敗因は自分の騎乗ミスではなくプリティポリーのスタミナ不足である事を証明するために躍起になり、アスコット金杯で他馬に騎乗してプリティポリーに生涯2度目の黒星をつけたという前歴がある。
そして迎えた本番のアスコット金杯(T20F)では、前走コロネーションCを勝ってきたサーマーティンを筆頭に、ロイヤルレレム、ウィリアムザフォースといった本馬と対戦経験がある馬達に加えて、愛ダービー・レイルウェイプレート・シティ&サバーバンHの勝ち馬で前走コロネーションC2着のバチェラーズダブル、後のドンカスターCの勝ち馬ブロンツィーノ、そして仏ダービー・仏共和国大統領賞(現サンクルー大賞)・ラクープドメゾンラフィット・ロンシャン賞(現ケルゴルレイ賞)・グラディアトゥール賞を勝っていた現役仏国最強長距離馬シーシックも仏国から遠征してきて豪華メンバーになった。本馬は1番人気には支持されたが、他馬も強豪馬揃いだったために、単勝オッズは本馬としては高い2.75倍だった。スタートが切られるとシーシックが先手を取り、マハー騎手はいつもとおりに後方待機策を選択した。しかし本馬は残り6ハロン地点からマハー騎手の制止を振り切って一気に加速し、先に仕掛けたシーシック以下を瞬時にかわすと、最後は2着シーシックに4馬身差をつけて完勝。本馬の競走馬経歴中における最も劇的な内容であり、本馬のベストレースであるとしばしば言われるし、20世紀のアスコット金杯における最高のレースの1つであるとも言われる。
しかしマハー騎手はそれでも本馬の後方待機策に固執し続けた。その理由は“Legends of the Turf:Bayardo”においても「推測不能」と書かれているが、プリティポリーの逸話に見られるようなマハー騎手の病的なまでに頑固な性格が理由であろうと筆者は推測している。続くダリンガムプレート(T12F)は1馬身差で勝利。
次走のグッドウッドC(T20F)は、僅か3頭立てのレースだった。対戦相手はいずれも無名の3歳馬マジックと3歳牝馬バッドの2頭であり、本馬が単勝オッズ1.05倍の1番人気に支持された。スタートが切られると、マジックが先頭に立ち、バッドが2番手、マハー騎手騎乗の本馬はマジックから実に1ハロンも離された最後方を追走した。しかし136ポンドの本馬より36ポンドも軽い100ポンドの斤量だった上にマイペースで逃げたマジックはなかなか失速しなかった。本馬は残り2ハロン地点から猛然と追い込んできたが、マジックに首差届かずに2着に敗れた。ちなみにこのマジック、デビュー前調教において本馬に苦も無くちぎられたシードケーキの2歳年下の全弟に当たるという、因縁めいた事実が存在する。これでマジックがその後も活躍すれば少しは言い訳が出来るのだが、マジックはこの後に鳴かず飛ばずで終わってしまった。プリティポリーの生涯初の敗戦はマハー騎手の騎乗ミスによるものだとは筆者は思っていないのだが、今回の敗戦はマハー騎手に全責任があると言わざるを得ない。日頃は寡黙であり、あまり騎手の騎乗をとやかく言わないテイラー・ジュニア師も、さすがに今回のマハー騎手の騎乗に関しては「ベイヤードよりも1ハロンも前でマジックを逃げさせて、それを最後の末脚だけで捕らえようとしたのは、斤量差を考慮すると、悪い騎乗だったのではないかと思います」と顔面蒼白で語った。当のマハー騎手の反応については伝わっておらず、おそらく弁解のしようが無かったためにノーコメントを通したのであろう。この敗戦により本馬の連勝は15で止まり、このレースを最後に4歳時5戦4勝の成績で引退した。
本馬の主戦を務めたマハー騎手は、本馬の引退後も1913年の英国平地首位騎手になるなど活躍したが、1916年に肺結核のため35歳の若さで死去した。本馬が他界する前年の事だった。マハー騎手は21年間の騎手生活において欧米通算で12465戦3192勝、勝率25.6%という素晴らしい成績を誇っており、最後に味噌をつけてしまったけれども、本馬の好成績の裏には彼の手腕もあった事は事実である。
馬名と競走馬としての特徴に関して
日本において本馬が紹介される際には「ベイヤード」ではなく「バヤルド」という発音である事が多いが、父の名前であるベイロナルドに揃えて本項ではベイヤードとした。
本馬は距離5ハロンから20ハロンまでのステークス競走を勝っており、華麗な短距離馬と同様のスピードと、最高級の長距離馬と同様のスタミナを併せ持つと評された距離万能の名馬だった。胴長で筋肉質の美しい馬体を誇っており、抜群の威圧感があったという。膝が前方に湾曲しており、脚元はあまり丈夫ではなかったとされているが、英2000ギニー前の事故による故障を除けば、現役時代に脚部不安を想起させるような話は伝わっていない。それは、テイラー・ジュニア師の卓越した調教手腕の賜物でもあるのだろう。
これは非常に有名な逸話だが、本馬には飼い葉桶を顎で叩いて厩務員に食事をねだる癖があった。「ベイヤードのドラム」として知られるこの癖のために、本馬の顎には硬いタコができていたと言われる。
気性は落ち着いた馬だったが、英チャンピオンSの際に大歓声のスタンド前を通る事を嫌ってテコでも動かなくなってしまい、結局スタンドの裏手の駐車場を通ってスタート地点に向かえるように陣営が特別にニューマーケット競馬場側から許可を貰う羽目になるなど、自分の意に反する事は聞き入れないという頑固な一面も持ち合わせていた。また、とても好奇心が強く、常に耳を動かしながら歩いており、英チャンピオンSのスタート前にスタンドの裏手の駐車場を通過する時には周囲の景色を楽しみながら歩くなど、馬というよりも人間じみた性質の持ち主だった。こういった本馬の性質は孫のハイペリオンに非常に通じるものがあった。
血統
Bay Ronald | Hampton | Lord Clifden | Newminster | Touchstone |
Beeswing | ||||
The Slave | Melbourne | |||
Volley | ||||
Lady Langden | Kettledrum | Rataplan | ||
Hybla | ||||
Haricot | Lanercost | |||
Queen Mary | ||||
Black Duchess | Galliard | Galopin | Vedette | |
Flying Duchess | ||||
Mavis | Macaroni | |||
Merlette | ||||
Black Corrie | Sterling | Oxford | ||
Whisper | ||||
Wild Dayrell Mare | Wild Dayrell | |||
Lady Lurewell | ||||
Galicia | Galopin | Vedette | Voltigeur | Voltaire |
Martha Lynn | ||||
Mrs. Ridgway | Birdcatcher | |||
Nan Darrell | ||||
Flying Duchess | The Flying Dutchman | Bay Middleton | ||
Barbelle | ||||
Merope | Voltaire | |||
Juniper Mare | ||||
Isoletta | Isonomy | Sterling | Oxford | |
Whisper | ||||
Isola Bella | Stockwell | |||
Isoline | ||||
Lady Muncaster | Muncaster | Doncaster | ||
Windermere | ||||
Blue Light | Rataplan | |||
Borealis |
父ベイロナルドは当馬の項を参照。
母ガリシアもコックス氏の生産・所有馬。2歳時のアスコットバイエニアルSで後の英オークス2着馬サブリネッタを半馬身差の2着に抑えて勝利したが、その後に故障して2歳シーズンを棒に振った。3歳時に復帰したが活躍できないまま同年のダービーCで故障してしまい、それを最後に7戦1勝の成績で引退・繁殖入りした。
繁殖牝馬としては4頭の勝ち上がり馬を産んだが、その4頭で合計42勝を挙げている。産駒の質も高く、本馬の1歳下の半弟レンベルグ(父サイリーン)【英ダービー・英チャンピオンS2回・エクリプスS・コロネーションC・ドンカスターC・セントジェームズパレスS・デューハーストプレート・ミドルパークプレート・ジョッキークラブS・ニューS・2着英2000ギニー・3着英セントレジャー】を産み、歴史的名馬2頭の母となっている。他の産駒には、本馬の半弟グワンス(父キケロ)【2着英2000ギニー・2着英ダービー】がいる。
本馬の半妹シレジア(父スペアミント)の子にはマイディア【英オークス・デューハーストS・英チャンピオンS】、キケロネッタ【トライアルS】、孫には悲運の名馬ピカルーン【ミドルパークS・英チャンピオンS】、ジョコンダ【ヨークシャーオークス】、コンコルディア【チェヴァリーパークS】、玄孫世代以降には、エスキモープリンス【AJCサイアーズプロデュースS・ゴールデンスリッパー・ローズヒルギニー】、イマージュル【VRCサイアーズプロデュースS・ローズヒルギニー・カンタベリーギニー・AJCダービー】、アラモーサ【ダイヤモンドS(新GⅠ)・ソーンドンマイルH(新GⅠ)・オタキマオリWFA(新GⅠ)・トゥーラックH(豪GⅠ)】などがいる。
また、シレジアの曾孫イサベリーンは日本に繁殖牝馬として輸入され、ヒカルメイジ【東京優駿・スプリングS・NHK杯】、コマツヒカリ【東京優駿・東京盃】と2頭の東京優駿勝ち馬の母となっている。
ガリシアの半妹にはアンゲリカカウフマン(父メラニオン)【伊1000ギニー】が、ガリシアの半妹シェールレン(父フロリゼル)の子にはアレッポ【アスコット金杯・ジョッキークラブC2回】、テーレポス【デューハーストS】、クイーンズスクエア【ジョッキークラブC・グッドウッドC】、玄孫世代以降には、日本で走ったテツノオー【川崎記念】、タイヨウ【宝塚記念】などがいる。
ガリシアの祖母レディマンカスターはジムクラックSの勝ち馬。レディマンカスターの祖母ボレアリスは、英ダービーと英セントレジャーを制した名馬ブレアアソールの半姉。ボレアリスの母は英ダービーと英オークスを勝利した名牝ブリンクボニーで、その母は英国有数の名牝系の祖であるクイーンメアリーである。→牝系:F10号族②
母父ガロピンは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、テイラー・ジュニア師が所有していたマントンスタッドで種牡馬入りした。種牡馬入り当初から非常に人気が高く、種付け料は早々に300ギニーまで値上がりした。しかし1917年に血栓症により下半身が麻痺してしまい、立てなくなった本馬はそのまま11歳という若さで他界した。しかし、この1917年に産駒のゲイクルセイダーが英国三冠馬となり、翌1918年もゲインズボローが英国三冠馬となって、2年連続で英愛首位種牡馬に輝いている。また、1925年には英愛母父首位種牡馬になった。ゲインズボローが名馬ハイペリオンの父となったことで、本馬は血統史に名を刻んでいる。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1913 |
Sir Dighton |
クレイヴンS |
1914 |
英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・アスコット金杯・英チャンピオンS |
|
1915 |
英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・アスコット金杯 |
|
1916 |
Bayuda |
英オークス・チェヴァリーパークS |
1916 |
Manilardo |
コロネーションC |
1917 |
Allenby |
セントジェームズパレスS |
1917 |
Braishfield |
サセックスS |
1918 |
Pompadour |
ナッソーS |
1918 |
Samic |
セーネワーズ賞・ペネロープ賞 |