トップフライト

和名:トップフライト

英名:Top Flight

1929年生

黒鹿

父:ディスドンク

母:フライアティット

母父:ピーターパン

2歳時7戦全勝の完璧な成績を残し20世紀米国競馬史上最高の2歳牝馬と讃えられ3歳時も活躍する

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績16戦12勝

誕生からデビュー前まで

1920年代の米国競馬をリードした名馬産家ハリー・ペイン・ホイットニー氏により米国ケンタッキー州において生産された。しかし本馬が1歳の時にハリー・ペイン・ホイットニー氏が58歳で死去したため、本馬は1歳年上のエクワポイズなどと共に、息子のコーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニー氏の所有馬となった。無名種牡馬ディスドンク産駒である上に、気まぐれな性格だったと評された本馬は、デビュー前の期待はそれほど高くなかったとされる。しかしトマス・J・ヒーリー調教師の管理馬としてデビューすると、驚異的なパフォーマンスで同世代の馬達を圧倒した。多くの活躍馬を管理してきたヒーリー師は、自身が手掛けた最高の2歳馬であると本馬を評した。

競走生活(2歳時)

2歳6月にアケダクト競馬場で行われたクローバーS(D5F)でデビュー。いきなり泥だらけの馬場状態におけるレースとなったが、ファッションS・スカイラヴィルSを勝ってきたポロネーズを1馬身差の2着に破って勝利した。翌7月に出走したアーリントンラッシーS(D5.5F)では2着モダンクイーンを5馬身ちぎった。

8月に出走した3戦目のサラトガスペシャルS(D6F)は、過去2戦と異なり牡馬相手の競走だった。ここでは主戦となるレイモンド・ワークマン騎手を初めて鞍上に迎え、後にスターズ&ストライプスHを2連覇する牡馬インディアンランナーを1馬身1/4差の2着に下して勝利した。牝馬が同競走を勝ったのは1914年のリグレット以来17年ぶり史上2頭目だった。

それから僅か1週間後に出走したスピナウェイS(D6F)では2歳牝馬としては過酷な127ポンドが課せられたが、2着ディナータイム(米国顕彰馬エイトサーティの母)を5馬身ちぎって圧勝。翌9月に出走したメイトロンS(D6F)でも127ポンドを課せられたが、後に好敵手となるパリィを1馬身半差の2着に破って勝利した。

それから10日後には2度目の牡馬相手となるベルモントフューチュリティS(D7F)に出走した。そして、サンフォードSを勝っていたマッドパースート、ユナイテッドステーツホテルS・フューチュリティトライアルSを勝っていたモルフェアといった牡馬勢を一蹴して、2着マッドパースートに2馬身半差をつけて完勝した。

その後は少し間隔を空けて、11月のピムリコフューチュリティ(D8.5F)に向かい、3度目の牡馬との対戦に臨んだ。ここでは、翌年のケンタッキーダービー・プリークネスSを勝つことになるバーグーキング、ホープフルSを勝ってきたチックオンが本馬を迎え撃ってきたが、チックオンを首差競り落として勝利した。

2歳時は7戦全勝の完璧な成績を残した本馬のこの年の獲得賞金総額は21万9千ドルに達し、19世紀の名馬ドミノが保持していた2歳馬の最多獲得賞金記録17万790ドルを39年ぶりに更新した。後年になってこの年の米最優秀2歳牝馬に選ばれた。

競走生活(3歳時)

3歳時は4月のウッドメモリアルS(D8F70Y)から始動して、単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。しかしユースフルSの勝ち馬ユニヴァース、トレモントSの勝ち馬エコノミック、サラトガスペシャルSで本馬の3着に敗れていたキュラソーの3頭の牡馬に屈して、勝ったユニヴァースから7馬身半差をつけられた4着と大敗し、初黒星を喫してしまった。

しかし2週間後のエイコーンS(D8F)では、2着パリィに6馬身差をつけて圧勝した。さらに約1か月後のCCAオークス(D11F)に出走して、2着アルゴシーに3/4馬身差で勝利した。ちなみに本馬の時代には、後にニューヨーク牝馬三冠競走の第2戦目に位置づけられるマザーグースSは存在しなかった(同競走の創設は1957年)。

翌7月に出走したアーリントンオークス(D9F)では、パリィに加えて、フロリダダービーやチェサピークSを牡馬相手に勝利したイブニングが対戦相手となったが、イブニングを2馬身差の2着に下して勝利した。しかしさらに2週間後に出走したアーリントンクラシックS(D10F)では、後にアメリカンダービー・ジョッキークラブ金杯なども勝つガスト、ラトニアダービーの勝ち馬でケンタッキーダービー3着のステペンフェチットといった牡馬勢に屈して、勝ったガストから7馬身差をつけられた5着に大敗した。

それでも地元ニューヨーク州に戻って出走した8月のアラバマS(D10F)では、パリィを4馬身差の2着に、セリマSの勝ち馬ラフィングクイーンを3着に破って完勝した。次走は約2週間後にサラトガ競馬場で行われたデラウェアH(D8F)となった。このレースは後の1937年にデラウェアパーク競馬場において創設されて現在は牝馬限定GⅠ競走として施行されているデラウェアHとは同名だが全く関係が無い牡馬混合戦で、1937年を最後に廃止されて現存しない競走である。結果はローレルSを勝っていた4歳牡馬フラッグストーン、前年のベルモントフューチュリティSで3着に破ったモルフェア、アーリントンメイトロンHなどを勝ってこの年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれる4歳牝馬トレッドエイボンの3頭に屈して、勝ったフラッグストーンから5馬身差をつけられた4着最下位に敗れた。

それでも翌9月に出走したレディーズH(D8F)では、パリィを1馬身半差の2着に、スピナウェイS・アーリントンラッシーS・アラバマS・アーリントンメイトロンHを勝っていた4歳牝馬リスクを3着に破って勝利した。それから10日後にハヴァードグレイス競馬場で出走したポトマックH(D8.5F)では、後にジョッキークラブ金杯2回・ブルックリンH・サラトガC・マンハッタンH2回などを勝つダークシークレット、ナショナルスタリオンS・グレートアメリカンSの勝ち馬でベルモントS・アメリカンダービー・ウィザーズS2着のオスキュレーター、ラトニアCSS・メリーランドHの勝ち馬ギャラントサーの3頭の牡馬に屈して、勝ったダークシークレットから2馬身差の4着に敗退。ここで競走馬生活に終止符を打った。

後年になってこの年の米最優秀3歳牝馬に選出されているが、3歳時の成績は9戦5勝で、敗れた4戦は全て牡馬混合戦だったとはいっても、やはり2歳時に比べると物足りなく、早熟傾向があったと思われる。それでも2歳時の強さは本物で、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトにおいては、20世紀米国競馬史上最高の2歳牝馬の1頭として讃えられている。また、本馬の獲得賞金総額は27万5900ドルに達し、これは牝馬としては当時米国競馬史上最高額だった。

血統

Dis Donc Sardanapale Prestige Le Pompon Fripon
La Foudre
Orgueilleuse Reverend
Oroya
Gemma Florizel St. Simon
Perdita
Agnostic Rosicrucian
Bonnie Agnes 
Lady Hamburg Hamburg Hanover Hindoo
Bourbon Belle
Lady Reel Fellowcraft
Mannie Gray
Lady Frivoles St. Simon Galopin
St. Angela
Gay Duchess Rosicrucian
Bonnie Katie
Flyatit Peter Pan Commando Domino Himyar
Mannie Gray
Emma C. Darebin
Guenn
Cinderella Hermit Newminster
Seclusion
Mazurka See Saw
Mabille
Afternoon Prince Palatine Persimmon St. Simon
Perdita
Lady Lightfoot Isinglass
Glare
Matinee Broomstick Ben Brush
Elf
Audience Sir Dixon
Sallie Mcclelland

父ディスドンクはサルダナパル産駒の仏国産馬。古い時代の仏国産馬である故か、その競走成績については不明瞭であり、脚部不安で1戦未勝利だったとする説と、仏国のステークス競走(競走名は不明)を勝っているという説がある。いずれにしてもそれほどの活躍馬ではなかったようだが、半兄シクルが米国でシャンペンS・ブルックリンダービーなどを勝ち、種牡馬としても成功を収めた(後の1929年には北米首位種牡馬に輝いている)こともあって、米国で種牡馬入りを果たした。本馬以外にもそれなりの活躍馬を出しているが、それよりもニジンスキーの母父ブルページの祖母の父として血統表にその名を刻んでいる。

母フライアティットは競走馬としては2歳時のみ走り10戦5勝。大競走勝ちは無いが、その快速には定評があったらしい。しかし気性面に問題があり、スタートで出遅れる事が多かったという。フライアティットが本馬を産んだ年にハリー・ペイン・ホイットニー氏が個人で出版した馬産記録において、フライアティットは“a very fast, but flighty filly(とても速いが、気まぐれな牝馬)”と記載されている。娘である本馬の馬名がこの記載に由来するかどうかは不明だが、気まぐれな性格はおそらく母譲りであろう。

フライアティットの半弟にはザナット(父マッドハター)【ローレンスリアライゼーションS】、トゥデイ(父ウィッチワン)【ウッドメモリアルS】がいる他、フライアティットの半妹バージー(父ペナント)の子にはジャックエスエル【クラークH】、牝系子孫にはブルーピーター【サラトガスペシャルS・サプリングS・ベルモントフューチュリティS・ホープフルS】、大繁殖牝馬フォールアスペン【メイトロンS(米GⅠ)】とその子孫であるティンバーカントリー【プリークネスS(米GⅠ)・BCジュヴェナイル(米GⅠ)・シャンペンS(米GⅠ)】、オキュパンディステ【モーリスドギース賞(仏GⅠ)・フォレ賞(仏GⅠ)】、ドバイミレニアム【ドバイワールドC(首GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・クイーンエリザベスⅡ世S(英GⅠ)・プリンスオブウェールズS(英GⅠ)】、日本で走ったレジネッタ【桜花賞(GⅠ)】、それに、コジーン【BCマイル(米GⅠ)】、ディキシーユニオン【ハスケル招待H(米GⅠ)・マリブS(米GⅠ)】、日本で走ったテイエムオペラオー【皐月賞(GⅠ)・天皇賞春(GⅠ)2回・宝塚記念(GⅠ)・天皇賞秋(GⅠ)・ジャパンC(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)】、ブルーメンブラット【マイルCS(GⅠ)】、アジアエクスプレス【朝日杯フューチュリティS(GⅠ)】などがいる。

フライアティットの祖母マティニーはケンタッキーオークス馬オーディエンスの娘で、史上初のニューヨークハンデキャップ三冠馬ウィスクブルームの1歳年下の全妹に当たる。同じ牝系にはもっと多くの活躍馬がいるが、その詳細はウィスクブルームの項を参照してほしい。→牝系:F4号族③

母父ピーターパンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はホイットニーファームで繁殖入りした。母としては7頭の子を産んだが、そのうちステークスウイナーはユナイテッドステーツホテルSを勝つなど6戦2勝の成績だった牡駒フライトコマンド(父ピースチャンス)の1頭に留まり、繁殖牝馬としてはあまり成功する事は出来なかった。マンノウォーとの間に産まれた牡駒スカイレイダーは現役成績3戦2勝でステークス競走の実績は無かったにも関わらず血統が評価されて種牡馬入りしたが、あまり成功できなかった。牝系子孫に関しては、牝駒ホワイトレディ(父マームード)の孫にウォッチフォブ【ベッドオローゼズH・クラークH】が出て、さらにウォッチフォブの孫にはサイクストン【伊グランクリテリウム(伊GⅠ)・伊2000ギニー(伊GⅠ)・ヴィットリオディカプア賞(伊GⅠ)2回・伊共和国大統領賞(伊GⅠ)2回・ローマ賞(伊GⅠ)】が出ている。1949年に20歳で他界し、遺体はホイットニーファーム(現ゲインズウェイファーム)に埋葬された。

1955年に米国調教師協会がデラウェアパーク競馬場において実施した、米国競馬史上最も偉大な牝馬はどの馬かを決める調教師間の投票において、本馬は第4位にランクされた(本馬より上位の馬は順に、ギャロレットトワイライトティアー、リグレットの3頭)。1966年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第66位。

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