和名:ニジンスキー |
英名:Nijinsky |
1967年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ノーザンダンサー |
母:フレーミングページ |
母父:ブルページ |
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種牡馬としても超一流の成績を残した35年ぶり史上最後の英国三冠馬 |
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競走成績:2・3歳時に愛英仏で走り通算成績13戦11勝2着2回 |
史上15頭目にして20世紀最後の英国三冠馬。20世紀世界最高の種牡馬ノーザンダンサーの最高傑作であり、競走成績も種牡馬成績も超一流という真の名馬。
誕生からデビュー前まで
父ノーザンダンサーの生産・所有者でもあった加国の名馬産家エドワード・P・テイラー氏が所有する加国オンタリオ州ウインドフィールズファームで誕生して、当歳時のウッドバインセールに出品された。小柄な馬格のためにセリで売れ残った父と異なり、幼い頃から非常に立派な体格をしていた本馬は、ダイヤモンドなどの採掘で大富豪となっていた米国の事業家チャールズ・W・エンゲルハード・ジュニア氏の依頼で加国を訪れていた愛国の名伯楽ヴィンセント・オブライエン調教師に見出され、加国産馬としては当時史上最高額となる8万4千ドルで落札された。そしてエンゲルハード・ジュニア氏の所有馬、オブライエン師の管理馬として愛国で競走馬デビューする事になった。
本馬の名付け親はエンゲルハード・ジュニア氏の妻ジェーン夫人であり、その由来はロシアの伝説的な舞踏家兼振付師ヴァツラフ・ニジンスキーである。このヴァツラフ・ニジンスキーは空中でまるで静止したように見える跳躍で観衆を魅了した舞踏の天才であったが、晩年は統合失調症を患って精神病院をたらい回しにされ、生まれ変わったら馬になりたいと言い残して1950年4月に死去している。ヴァツラフ・ニジンスキーの死から17年後に誕生した本馬が彼の生まれ変わりかどうかは定かではないが、本馬の優雅で力強い走りは、まさにヴァツラフ・ニジンスキーを彷彿とさせるものだったと言われる。
歴史的名馬というものは往々にして見栄えが良くないものだが、本馬はその例外的存在であった。成長すると体高16.3ハンドに達したかなり大柄な馬で、しかも非常に均整が取れた素晴らしい馬体の持ち主だった。とても知的な顔立ちをしており、額は広くて耳は離れている美形の馬でもあった。後に競馬場で本馬を見た英国エリザベスⅡ世女王陛下は、本馬が発する素晴らしいオーラを見て、とても喜んだとされている。レーシングカーを想起させる加速力を誇っており、しかも心肺機能も抜群でスタミナ面の不安も無いなど、卓越した競走能力の片鱗を早い段階から示していた。さらには脚元の不安もまったく無く、健康そのものだった。唯一の問題点はその気性の激しさであり、名伯楽のオブライエン師をもってしてもその扱いには相当てこずったという。かなり神経質な性格で、走る事や食べる事を拒否したり、多量の発汗を見せたりと、しばしば問題を引き起こしていた。こうした本馬の気性もまた狂気の天才ヴァツラフ・ニジンスキーを髣髴とさせるものだったという。経験と技術が共に豊富だったオブライエン師は、子どもを見守り、時には叱りつける母親のように忍耐強く本馬を育成していった。
競走生活(2歳時)
2歳7月にカラー競馬場で行われたアール未勝利S(T6F)で、リアム・ウォード騎手を鞍上にデビュー。いきなり単勝オッズ1.36倍という圧倒的な1番人気に支持された。結果は2着エブリデイに半馬身差の辛勝だったが、それでもデビュー戦を見事に飾った。翌月には愛国を代表する2歳戦レイルウェイS(T6F)に出走。ここでは後に愛ナショナルS・愛2000ギニーを勝つ実力馬デシースとの対戦となったが、単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された本馬が、2着デシースに5馬身差をつけて圧勝した。それから2週間後に出走したアングルシーS(T6F)でも単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持されると、2着エブリデイに3馬身差をつけて快勝した。翌9月に出走したベレスフォードS(T8F)では、重馬場の中を逃げたデシースがよく粘ったが、本馬がデシースを叩き合いの末に3/4馬身差の2着に破って勝利した。
その後は英国ニューマーケット競馬場に赴き、同国の2歳王者決定戦であるデューハーストS(T7F)に出走した。ここで本馬は初めて名手レスター・ピゴット騎手とコンビを組んだ。単勝オッズ1.33倍の1番人気に支持された本馬は道中で6頭立ての最後方を追走していたが、やがて「まるで巡航ミサイルのような」と評されたほど抜群の末脚を発揮して全馬をごぼう抜きにしてしまい、2着リコールドに3馬身差をつけて快勝した。
2歳時の成績は5戦全勝で、英愛両国でこの年の最優秀2歳牡馬に選出された。なお、この後も本馬の鞍上は愛国ではウォード騎手、愛国以外の国ではピゴット騎手が務める事になる。
競走生活(3歳初期)
3歳時は4月にカラー競馬場で行われた古馬相手のグラッドネスS(T7F)から始動した。一昨年のデューハーストSと前年の愛セントレジャーで2着していたベレスフォードSの勝ち馬ディープラン、コヴェントリーSを1番人気に応えて2馬身半差で快勝していた同世代馬プリンステンダーフットなどが対戦相手となった。しかもレースは不良馬場で行われたが、単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された本馬が馬なりのまま走り、2着ディープランに5馬身差をつける圧勝劇を演じた。
続いて臨んだ英2000ギニー(T8F)では、ジムクラックS・インペリアルS・ケンプトン2000ギニートライアルSの勝ち馬でミドルパークS2着のイエローゴッド、ロベールパパン賞・モルニ賞の勝ち馬でサラマンドル賞2着のアンバーラマ、ミドルパークS・ジュライS・コーンウォリスSの勝ち馬ハンターコム(この3頭は全て後に種牡馬として日本に輸入されている)などを抑えて、1934年のコロンボ以来の圧倒的評価となる単勝オッズ1.57倍の1番人気に支持された。パドックを堂々と歩く本馬の馬体は光り輝くオーラを発していたと評されている。スタートが切られるとアンバーラマが猛然と飛び出して先頭をひた走り、イエローゴッドなどがそれを追撃、本馬は馬群の中団後方からレースを進めた。そしてピゴット騎手が残り3ハロン地点で仕掛けると一気に伸びて、前を行くイエローゴッドを残り2ハロン地点で並ぶ間もなく差し切り、最後は2着イエローゴッドに2馬身半差、3着ロワソレイユにはさらに2馬身半差をつけて優勝した。
続く英ダービー(T12F)でも1番人気に支持されたが、父ノーザンダンサーが同距離のベルモントSで敗れていたことや、その素晴らしすぎるスピードから、距離不安説が流れ、単勝オッズは生涯で最も高い2.375倍だった。2番人気は仏国から遠征してきたオカール賞・ダリュー賞の勝ち馬ジルで、かつてジルの父シーバードを管理していたエチエンヌ・ポレ調教師が、この馬で英ダービーを再度勝つために調教師引退を1年遅らせたほどの逸材だった。他の出走馬は、オブザーヴァー金杯・ダンテSの勝ち馬アプルーヴァル、前走イスパーン賞でカロの3着してきたクリテリウムドサンクルー・ギシュ賞・リュパン賞の勝ち馬スティンティノ、リングフィールドダービートライアルSを勝ってきたメドウヴィル、愛2000ギニー3着馬モンプレジール、ロイヤルS(後のサンダウンクラシックトライアルS)の勝ち馬クライベイビーなどだった。本馬はレース2日前(正確に書くとレース発走の29時間前)に疝痛を発症しており、少しばかりの米糠とベーキングパウダーを混ぜた飼い葉を食べただけで臨んできていたから、万全の体調とはとても言えない状態だった。
スタートが切られると、クライベイビーやロングティルなどが激しく先頭を争い、本馬は馬群の中団内側につけた。そのまま道中は馬群の中でじっと我慢し、タッテナムコーナーを回りながら前方のロングティル、メドウヴィル、モンプレジールなどに詰め寄っていった。そして4番手で直線を向くと、先に抜け出そうとしていたジルや後方から来たスティンティノなどと一緒にスパートした。しばらくはこの3頭が争っていたが、残り1ハロン地点でピゴット騎手が本馬に右鞭を振るうと、一気にジルとスティンティノを引き離し、最後は2着ジルに2馬身半差、3着スティンティノにはさらに3馬身差をつけて優勝した。
勝ちタイム2分34秒68は、1936年にマームードが2分33秒8を計時して以降の英ダービー最速タイムだった(第二次世界大戦の影響により英ダービーがニューマーケット競馬場で代替開催された時期を除く)。ピゴット騎手はレース後に「彼はずっと馬なりでした」とコメントしたが、仕掛け時に明らかに鞭を使用しているため、この発言はやや誇張気味である。しかしジルに騎乗していたビル・ウィリアムソン騎手のコメントである「ニジンスキーは、まったくもって強すぎました」は誇張も何も無い本心からの言葉であろう。なお、2着に敗れたジルは仏国に戻り、翌月のサンクルー大賞を2馬身差で勝利している。英ダービーの翌日に英国のザ・ガーディアン紙には「ニジンスキーは昨日のダービーにおいて、世紀の名馬である事を証明しました。この1970年のダービーは、競馬史上最も偉大なレースの1つとして記憶されるでしょう。確かにニジンスキーは史上最も優れたダービー馬でした」という記事が掲載された。
なお、ヴァツラフ・ニジンスキーのロモラ未亡人が、エンゲルハード・ジュニア氏により当日のエプソム競馬場に招待されており、本馬が勝った瞬間にロモラ未亡人は泣き崩れたという出典不明の逸話が日本語版ウィキペディアに載っている。しかし海外の資料(本馬だけでなくヴァツラフ・ニジンスキーやロモラ未亡人に関する資料も含む)には見当たらない話である。こうした逸話を好む傾向がある原田俊治氏の「新・世界の名馬」にも載っていないから、はっきり言って眉唾である(ただしロモラ未亡人はこの年に79歳の高齢ながら存命中だったのは事実であるから、まったく否定できるわけでもない)。
競走生活(3歳中期)
その後は本国に戻って愛ダービー(T12F)に出走した。ここではピゴット騎手が騎乗する英ダービー着外のメドウヴィル、ジャンプラ賞を勝ってきたマスターガイなどが対戦相手となったが、もはや距離不安も無くなった本馬が単勝オッズ1.36倍という圧倒的な1番人気に支持された。スタート前に激しく焦れ込んで、全身から泡状の汗を流していたが、いざレースが始まると関係なく、後方待機策からインを突いて先頭に踊り出ると、後は馬なりのまま走り、2着メドウヴィルに3馬身差、3着マスターガイにもさらに3馬身差をつけて勝利した。
再び英国に渡って出走したキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(T12F)では、出走馬中で唯一の3歳馬だった。対戦相手は、前年の英ダービーとこの年のオーモンドSを勝ちアスコット金杯で2着していたブレイクニー、ハードウィックSを勝ってきた前年のワシントンDC国際S・ラクープドメゾンラフィット・コンセイユミュニシパル賞の勝ち馬カラバス、コロネーションCを勝ってきた前年のリュパン賞2着馬キャリバン、一昨年の伊ダービーとこの年の伊共和国大統領賞の勝ち馬でイタリア大賞・ミラノ大賞2着・エクリプスS・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS3着のホガース、前年の仏オークス馬でヴェルメイユ賞・イスパーン賞2着のクレペラナの5頭だった。単勝オッズ1.47倍の1番人気に支持された本馬は、道中は後方2番手を追走。そして残り2ハロン地点で仕掛けると、前を行くキャリバンを残り1ハロン地点で悠々と抜き去った。最後はゴール前で手綱を緩める余裕を見せて、必死に追ってきた2着ブレイクニーに2馬身差、3着クレペラナにはさらに4馬身差をつけて快勝した。
このレース後に、米国ケンタッキー州クレイボーンファームが中心となり、544万ドル(当時の為替レートで約13億5000万円)の種牡馬シンジケートが組まれた(540万ドルとなっている資料も多い)。これはそれまでの世界記録だったヴェイグリーノーブルの500万ドルを上回る当時史上最高額の種牡馬シンジケート額だった。
キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSが終わった翌月の8月に、本馬は白癬という皮膚病(人間で言えば要するに水虫・たむしである)を患ってしまい、しばらく調教を休む事になった。白癬自体は競走馬にとってそれほど珍しい病気ではないのだが、本馬の症状はかなり酷く、鬣は殆ど抜け落ちて、全身は禿げ上がってしまった。僅かな刺激でも出血するため、背中に鞍を置くことも不可能だったという。その治療には、生卵やら愛国産の黒ビールやらを使った食事療法も用いられたという。
英セントレジャー
なんとか白癬から回復した本馬の次走として選択されたのは、英国三冠競走最終戦の英セントレジャー(T14F127Y)だった。ドンカスター競馬場で行われる英セントレジャーは世界で最も古い歴史のあるレースだが、当時既にレースの権威は低下していた。そのためオブライエン師の出走意欲はあまり強くなかったようであるが、ドンカスター競馬場側の強い出馬要望をエンゲルハード・ジュニア氏の競馬マネージャーだったデヴィッド・マッコール氏が受けて、エンゲルハード・ジュニア氏とオブライエン師を説得して出走することになったと言われている。対戦相手は、愛ダービー2着後にグレートヴォルティジュールSを勝っていたメドウヴィル、チェスターヴァーズの勝ち馬だが英ダービーには不参戦だったポリティコなどだった。
スタートが切られるとデイヴィスという馬が逃げを打ち、単勝オッズ1.18倍(1.29倍とする資料もある)の1番人気に支持されていた本馬は例によって後方につけた。そして直線で仕掛けて残り1ハロン半地点で先頭に立つと、例によってゴール前では手綱を緩める余裕を見せて、2着メドウヴィルに1馬身差をつけて優勝。これで1935年のバーラム以来35年ぶり史上15頭目の英国三冠馬が無敗で誕生した。しかし本馬の消耗はかなり激しく、レース後は29~31ポンドも体重が減っていたという。ピゴット騎手がゴール前で抑えたのも、可能な限り本馬の体力を節約させるためだったようである。これだけ体重が減ったということは、英セントレジャーというレースは本馬には不適だった事を証明していると海外の資料では述べられている。
英セントレジャーの次走に関しては、本馬の種牡馬シンジケートを組んでいたクレイボーンファームの牧場主アーサー・“ブル”・ハンコック・ジュニア氏が意見を述べたという。彼の意見は、本馬を渡米させてマンノウォーSに出走させるというものだった。しかし本馬陣営は、マンノウォーSでは英セントレジャーからの間隔が短すぎるとして、その意見を退けた。
凱旋門賞
結局本馬の次走は凱旋門賞(T2400m)となった。日本においては「欧州三冠」と総称される、英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS・凱旋門賞の3競走は、実際にも欧州における3大競走として当時から認知されており、この3競走全てに勝利する史上初の馬になるべく、本馬はドーバー海峡を渡ったのだった。英ダービーの雪辱に燃えるジルを筆頭に、リボーの再来と言われていた伊ダービー・イタリア大賞の勝ち馬オーティス、仏ダービー・ロワイヤルオーク賞・フォルス賞の勝ち馬ササフラ、英ダービー3着後にシャンティ賞を勝っていたスティンティノ、イスパーン賞・ガネー賞・ギシュ賞・ドラール賞・アルクール賞・ゴントービロン賞の勝ち馬でサンクルー大賞2着・前年の凱旋門賞3着のグランディエ、ミラノ大賞・オカール賞・トーマブリョン賞の勝ち馬で前年の仏ダービー2着のボージャンシー、フィユドレール賞の勝ち馬でヴェルメイユ賞2着のミスダン、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSから直行してきたブレイクニー、プランスドランジュ賞を勝ってきたアチャラ、ドーヴィル大賞の勝ち馬でサンクルー大賞3着のソワユーなどの強豪馬が参戦していたが、本馬が単勝オッズ1.4倍という圧倒的1番人気に支持された。
本馬の人気はハリウッドスター並みになっていたとされており、パドックでファンに取り囲まれたり、報道関係者のしつこい取材を受けたり、カメラのフラッシュを大量に焚かれたりした。神経質な本馬にとって、これは極めて邪魔な行為だったようで、レース前にはかなりナイーブになっていたという。
スタートが切られると、オーティス陣営が用意したペースメーカー役のラーと、ジル陣営が用意したペースメーカー役のゴールデンイーグルの2頭が先頭を引っ張り、ササフラ、オーティス、ジル、ブレイクニー、ミスダンなどが先行。そして本馬は後方4番手につけた。やがてオーティスが失速してジルとミスダンが上がって行き、続いてササフラが上がっていった。そして直線に入ると本馬は外側に持ち出して、先に抜け出したミスダンとササフラの追撃を開始した。そして2頭との差を見る見るうちに縮めると、残り150m地点でササフラを抜いて先頭に立った。ところが、ここで予想外の事態が起きた。ピゴット騎手が本馬に右鞭を使った瞬間に、本馬が左側に大きくよれてしまったのである。その間隙を突いて再びササフラが先頭を奪った次の瞬間がゴールだった。頭差の2着に敗れた本馬のデビューからの連勝記録は11で止まってしまった。
本馬の敗戦が与えた衝撃は計り知れないほどであり、ロンシャン競馬場は「偉大な指導者の葬式」又は「ワーテルローの戦いでナポレオン皇帝が敗れた報を聞いた瞬間のような」と評されるほど静まり返ってしまった。ササフラに乗っていたイヴ・サンマルタン騎手のレース後における第一声は「今日は私が勝った日ではなく、ニジンスキーが負けた日です」だった。
本馬の敗因については、「ピゴット騎手が楽に勝たせようとした(ピゴット騎手の勝手な判断ではなく、次走の英チャンピオンSに備えようと考えたオブライエン師の指示によるものだったとする見解もある)ために、ササフラをかわした後に引き離そうとしなかった」説がよく言われており、実際にレース後はピゴット騎手を非難する論調が多かった。しかし直接の敗因が、ピゴット騎手が右鞭を入れた瞬間に左側に大きく斜行した事であるのは映像を見る限りでは明白である。
ただし本馬がよれた原因については様々な説が取り沙汰されており、明確な回答は出ていない。筆者が海外の資料を色々調べてみると、最も多かった論調は「起伏が激しく距離も長い英セントレジャーを使ったことにより、体重が大幅に減って疲労が溜まっていた」「夏に患った白癬の影響で体調が万全でなかった、又はその影響で調教が不十分だった」「レース前にファンや報道関係者が本馬の周囲で大騒ぎしたために精神的ダメージを受けていた」の3つである。この中で一番多く見受けられたのは、英セントレジャーではなく白癬である。おそらく原因はどれか1つではなく、これら複数の理由が重なった結果だったのだろう。
なお「新・世界の名馬」には、エンゲルハード・ジュニア氏がワシントンポスト紙のインタビューにおいて「それまで鞭で叩かれたことのないニジンスキーはこの初体験に驚き、その途端左へよれてしまった」と語ったという記事が掲載されている。しかしピゴット騎手が本馬に初めて鞭を使用したのは英ダービーである(英ダービーの映像を見れば一目瞭然である)し、それも使用したのは凱旋門賞と同じ右鞭だったから、この見解は明らかに誤りである。これがエンゲルハード・ジュニア氏の思い違いなのか、それとも記事自体が何かの間違いなのかは筆者には判断できない。初めて鞭を入れられたからよれたのではなく、疲れている状態で鞭を入れられたためによれたと考えるのが妥当であろう。
本馬が敗れた理由に関しては、競馬が存続する限りは永遠に議論される事になりそうだが、この日の本馬が最善の状態ではなかった事だけは確実であるとされている。なお、本馬の敗戦が皮肉にも英セントレジャーの権威失墜を決定的なものにしてしまった事もまた確実なようである。
英チャンピオンS
まさかの敗戦を喫した本馬は雪辱を期して、2週間後に英チャンピオンS(T10F)に出走した。ジャンプラ賞・ジュライS・クインシー賞・フォワ賞の勝ち馬で前年の英チャンピオンS3着の5歳馬ロレンザッチオ、コロネーションS(現ブリガディアジェラードS)・プレイヤーウイルズSの勝ち馬で愛2000ギニー・プリンスオブウェールズS2着のホットフット、ロシェット賞の勝ち馬ディクタスなどを抑えて、単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された。元々オブライエン師は英国伝統のニューマーケット競馬場において本馬に有終の美を飾らせる事を望んでいたとされ、凱旋門賞出走前から引退レースは英チャンピオンSにするつもりだったようである。しかしスタート前から本馬はいつも以上に焦れ込んでおり、見る者を不安にさせるほど酷く発汗していた。それでも全盛期であればおそらく問題なく勝てたと思われるのだが、逃げるロレンザッチオを捕らえきれずに1馬身半差の2着に敗れてしまった。この敗戦を見る限り、凱旋門賞の時点で既に本馬の全盛期は過ぎていたようである(それが疲労や体調不良によるものかどうかは分からないが)。ピゴット騎手やオブライエン師は口を揃えて「もはや彼は闘志を失っている」とコメントした。
このレースを最後に3歳時8戦6勝の成績で競走馬を引退したが、当然のように英年度代表馬に選出された(しかし英年度代表馬の選考においては40票中38票の獲得だったという。いったいどこの誰がこの年の本馬を差し置いて他馬に入れたのであろうか)。この1970年に、本馬の活躍を収めた“A Horse Called Nijinsky(ニジンスキーと呼ばれたA級馬)”というドキュメンタリー映画が作成された(ナレーターは映画史上に残る傑作「市民ケーン」の監督として知られるオーソン・ウェルズ)。また、本馬陣営はこの年の英国放送協会(BBC)のスポーツ賞を受賞した。なお、本馬の所有者エンゲルハード・ジュニア氏は、本馬の競走馬引退から半年も経たない1971年3月に54歳で死去している。
血統
Northern Dancer | Nearctic | Nearco | Pharos | Phalaris |
Scapa Flow | ||||
Nogara | Havresac | |||
Catnip | ||||
Lady Angela | Hyperion | Gainsborough | ||
Selene | ||||
Sister Sarah | Abbots Trace | |||
Sarita | ||||
Natalma | Native Dancer | Polynesian | Unbreakable | |
Black Polly | ||||
Geisha | Discovery | |||
Miyako | ||||
Almahmoud | Mahmoud | Blenheim | ||
Mah Mahal | ||||
Arbitrator | Peace Chance | |||
Mother Goose | ||||
Flaming Page | Bull Page | Bull Lea | Bull Dog | Teddy |
Plucky Liege | ||||
Rose Leaves | Ballot | |||
Colonial | ||||
Our Page | Blue Larkspur | Black Servant | ||
Blossom Time | ||||
Occult | Dis Donc | |||
Bonnie Witch | ||||
Flaring Top | Menow | Pharamond | Phalaris | |
Selene | ||||
Alcibiades | Supremus | |||
Regal Roman | ||||
Flaming Top | Omaha | Gallant Fox | ||
Flambino | ||||
Firetop | Man o'War | |||
Summit |
父ノーザンダンサーは当馬の項を参照。
母フレーミングページは現役成績16戦4勝。テイラー氏の自家生産馬で、3歳前半までは加国だけでなく米国でも積極的に走った。2歳時にはシャディウェルSを勝ち、プリンセスエリザベスSで2着、コロネーションフューチュリティSで3着している。3歳時にはケンタッキーオークスでシケーダの2着になっている。その後は加国を主戦場とし、僅か8日間の間に加国最大の競走クイーンズプレートと加オークスを勝利した。3歳中に競走馬を引退して、生まれ故郷のウインドフィールズファームで繁殖入りしていた。繁殖牝馬としては9歳時の1968年までに3頭の子を産んだが、出産時合併症のために不妊となってしまい、10歳以降は子を産むことは無かった。しかしフレーミングページが産んだ3頭は、母としてザミンストレル【英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ)】を産んだ本馬の半姉フルーレ(父ヴィクトリアパーク)、本馬、1970年の愛最優秀2歳牡馬に選ばれた本馬の全弟ミンスキー【レイルウェイS・ベレスフォードS・グラッドネスS(愛GⅢ)】と、活躍馬ばかりだった。これらの繁殖成績も考慮され、フレーミングページは1980年に加国競馬の殿堂入りを果たしている。なお、ミンスキーは競走馬引退後に日本で種牡馬入りした。供用僅か3年で早世したが、シルクスキー、ヨシノスキーなどの重賞勝ち馬を出した。
フレーミングページは背が高くて非常に長い四肢を有していた優れた馬格の持ち主だったが、同時に非常に激しい気性を有していた。本馬の体格や気性は、フレーミングページから受け継いだ部分が大きいと言われる(気性面に関しては幼少期に去勢されかけたほど気性が激しかった父ノーザンダンサーから受け継いだ部分もありそうである)。フレーミングページとフルーレの牝系子孫は現在も残っているが、それほどの活躍馬は出ていない。
しかしフレーミングページの母フレアリングトップはかなり優秀な牝系を構築しており、フレーミングページの半姉グリーム(父トウルノイ)の孫には本邦輸入種牡馬ロイヤルスキー【ローレルフューチュリティ(米GⅠ)】、曾孫にはこれまた本邦輸入種牡馬のアレミロード【オイロパ賞(独GⅠ)・オークツリー招待H(米GⅠ)・2着ジャパンC(日GⅠ)】が、フレーミングページの半妹メリーアンドブライト(父メネトリア)の牝系子孫にはシュバルヴォラント【ハリウッドスターレットS(米GⅠ)・ラスヴァージネスS(米GⅠ)】、ラハン【英1000ギニー(英GⅠ)】、2011年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬マイミスオーレリア【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・フリゼットS(米GⅠ)・コティリオンS(米GⅠ)】などが、フレーミングページの半妹フレーミングヴィクトレス(父ヴィクトリアパーク)の牝系子孫にはシーンアヴェリー【アルフレッドGヴァンダービルトH(米GⅠ)】などが、フレーミングページの半妹フレンドリーリレイションズ(父ニアークティック)の孫には本邦輸入種牡馬モーニングフローリック(バンブーメモリーの父)、曾孫には日本で走ったスーパーホーネット【スワンS(GⅡ)・京王杯スプリングC(GⅡ)・毎日王冠(GⅡ)・マイラーズC(GⅡ)】などがいる。フレアリングトップの半妹にはダブルドッグデア【メイトロンS・アッシュランドS・スピンスターS】がおり、フレアリングトップの母フレーミングトップの半妹スノーフレイムの曾孫スキップトライアル(名馬スキップアウェイの父)【ハスケル招待H(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)2回】も同じ牝系。→牝系:F8号族②
母父ブルページはブルリーの直子で、現役成績21戦9勝。元々は米国産馬で、1歳時のセリにおいてテイラー氏により3万8千ドルで購入された。体質が弱かったため2歳時は出走できず、3歳時も米国の下級競走で勝ち星を挙げるに留まっていたが、4歳時に加国で走るようになると本領を発揮し、加チャンピオンシップS・フレッドS・リビングストンH・オータムHなどを勝ち、1951年の加年度代表馬に選ばれた。種牡馬としてもフレーミングページの他に加国三冠馬ニュープロヴィデンスなどを出して活躍した。1970年には本馬の活躍で英愛母父首位種牡馬になり、1977年には加国競馬の殿堂入りを果たしている。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はクレイボーンファームで種牡馬入りした。なお、本馬が種牡馬入りする前に、既に米国には同名の種牡馬がいた(1958年産まれのトムフール産駒)ため、本馬の馬名には「ニジンスキーⅡ」と「Ⅱ」が付せられた(上記のトムフール産駒と本馬以外にもニジンスキーと名付けられた馬は7頭いる。ただし本馬以降にこの名を付けられた馬は存在しない)。
競走馬としても超一流だった本馬だが、種牡馬としても超一流であり、父ノーザンダンサーにもひけを取らない成績を残した。産駒のステークスウィナーは155頭に達し、これはノーザンダンサー(146頭)よりも多い。1986年には英ダービー・愛ダービーを勝ったシャーラスタニなどの活躍により英愛首位種牡馬に輝き、同年にはケンタッキーダービー馬ファーディナンドの活躍で北米種牡馬ランキング2位に入った。同じ年に英ダービー馬とケンタッキーダービー馬両方の父となったのは本馬が史上唯一の例であり、その万能性を如実に物語っている。北米では首位種牡馬になることは無かったが、種牡馬ランキング10位以内に10回も入っている。
産駒はとにかく世界中で活躍し、その万能ぶりは他の追随を許さないほどだった。産駒の取引価格も高騰し、例えば1982年のキーンランドセールにおける1歳馬の平均取引価格は80万ドルだったが、1983年は130万ドル、1984年は290万ドルまで上昇。そして1985年には、世界最高額の1310万ドルで購買されたシアトルダンサーなどの1歳馬が平均340万ドルで取引された。
1976年に加国競馬の殿堂入りを果たした。1985年に蹄葉炎を発症してしまったが、その後も種牡馬生活を継続した。しかし1992年に老衰の影響もあって蹄葉炎の症状が悪化。同年4月に25歳で安楽死の措置が執られ、遺体はクレイボーンファームに埋葬された(墓碑の場所はセクレタリアトとリヴァリッジの間)。この年に産まれたラムタラが、後に父の成し得なかった英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS・凱旋門賞の欧州3大競走制覇を無敗で達成している。死後の1993・94年には、フローレスリー、コロニアルアッフェアー、スカイビューティ、ヘヴンリープライズなどの活躍により北米母父首位種牡馬になっている。現在、本馬が暮らした愛国バリードリル厩舎には本馬の銅像が建てられている。2000年に英国の夕刊紙「サン」の読者参加型企画において“Horse of the Millennium(過去1000年間で最高の馬)”に選出された。これは“tremendous honor(途方も無い名誉)”であるとされている。
日本で種牡馬としてGⅠ競走勝ち馬を出した産駒には、マルゼンスキーやカーリアンの他に、ヤマニンスキー、ナグルスキー、ラシアンルーブル、グランドオペラ、ラッキーソブリン、シアトルダンサーなどがおり、日本における影響力も絶大である。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1972 |
Caucasus |
愛セントレジャー(愛GⅠ)・サンセットH(米GⅠ)・サンルイレイS(米GⅠ)・マンハッタンH(米GⅡ)・アーケイディアH(米GⅢ) |
1972 |
Dancing Champ |
マサチューセッツH(米GⅡ)・ウッドローンS(米GⅢ) |
1972 |
仏2000ギニー(仏GⅠ)・オブザーヴァー金杯(英GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ) |
|
1972 |
Lighted Glory |
フロール賞(仏GⅢ) |
1972 |
Quiet Fling |
コロネーションC(英GⅠ)・ジョンポーターS(英GⅡ) |
1972 |
Summertime Promise |
ギャロレットH(米GⅢ) |
1973 |
African Dancer |
パークヒルS(英GⅡ)・チェシャーオークス(英GⅢ) |
1973 |
Bright Finish |
ヨークシャーC(英GⅡ)・ジョッキークラブC(英GⅢ) |
1973 |
Javamine |
ダイアナH(米GⅡ)・アーリントンメイトロンH(米GⅡ)・ロングアイランドH(米GⅢ)・ニッカボッカーH(米GⅢ) |
1973 |
Nijana |
スカイラヴィルS(米GⅢ) |
1974 |
Lucky Sovereign |
ダンテS(英GⅢ) |
1974 |
Pas de Deux |
パレロワイヤル賞(仏GⅢ) |
1974 |
Upper Nile |
サバーバンH(米GⅠ)・ナッソーカウンティH(米GⅢ) |
1974 |
Valinsky |
ジェフリーフリアS(英GⅡ) |
1974 |
マルゼンスキー |
朝日杯三歳S・日本短波賞 |
1975 |
Cherry Hinton |
フィリーズマイル(英GⅢ) |
1975 |
キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)・コロネーションC(英GⅠ)・キングエドワードⅦ世S(英GⅡ)・ジェフリーフリアS(英GⅡ) |
|
1975 |
Nizon |
ローマ賞(伊GⅠ)・リボー賞(伊GⅡ)・リス賞(仏GⅢ)・リューテス賞(仏GⅢ) |
1975 |
Stradavinsky |
ホワイトホールS(愛GⅢ) |
1975 |
Summer Fling |
オープンファイアS(米GⅢ) |
1975 |
Terpsichorist |
シープスヘッドベイH(米GⅡ)・ロングアイランドH(米GⅢ) |
1976 |
Czaravich |
メトロポリタンH(米GⅠ)・ウィザーズS(米GⅡ)・ジェロームH(米GⅡ)・カーターH(米GⅡ) |
1976 |
Niniski |
愛セントレジャー(愛GⅠ)・ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)・ジェフリーフリアS(英GⅡ)・ジョンポーターS(英GⅡ)・オーモンドS(英GⅢ) |
1977 |
Muscovite |
ホワイトホールS(愛GⅢ) |
1977 |
Nice Havrais |
フォンテーヌブロー賞(仏GⅢ) |
1977 |
Night Alert |
ジャンプラ賞(仏GⅡ)・グラッドネスS(愛GⅢ) |
1977 |
Princesse Lida |
モルニ賞(仏GⅠ)・サラマンドル賞(仏GⅠ) |
1977 |
Shining Finish |
セントサイモンS(英GⅢ) |
1978 |
Balletomane |
プリンセスS(米GⅢ) |
1978 |
De La Rose |
ハリウッドダービー(米GⅠ)・サラナクS(米GⅡ)・ダイアナH(米GⅡ)・ロングブランチS(米GⅢ)・アシーニアH(米GⅢ)・EPテイラーS(加GⅢ) |
1978 |
Kings Lake |
愛2000ギニー(愛GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・ジョーマクグラス記念S(愛GⅠ) |
1978 |
Leap Lively |
フィリーズマイル(英GⅢ) |
1978 |
Nijinsky's Secret |
ハイアリアターフCH(米GⅠ)2回・タイダルH(米GⅡ)・ブーゲンヴィリアH(米GⅡ)・WLマックナイトH(米GⅡ)・キングエドワード金杯(加GⅢ) |
1979 |
Golden Fleece |
英ダービー(英GⅠ)・バリモスS(愛GⅡ)・ニジンスキーS(愛GⅡ) |
1979 |
Hostage |
アーカンソーダービー(米GⅠ) |
1979 |
Khatango |
ディキシーH(米GⅡ)・セネカH(米GⅢ) |
1979 |
Number |
フィレンツェH(米GⅡ)・ヘンプステッドH(米GⅡ)・ファーストフライトH(米GⅢ) |
1979 |
Peacetime |
サンダウンクラシックトライアルS(英GⅢ) |
1979 |
Rose Crescent |
アシーニアH(米GⅢ) |
1980 |
Beaudelaire |
モーリスドギース賞(仏GⅡ) |
1980 |
Bemissed |
セリマS(米GⅠ)・ミスグリオS(米GⅢ) |
1980 |
Brogan |
ベルトゥー賞(仏GⅢ) |
1980 |
仏ダービー(仏GⅠ)・ベンソン&ヘッジズ金杯(英GⅠ)・アングルシーS(愛GⅢ) |
|
1980 |
Gorytus |
英シャンペンS(英GⅡ) |
1980 |
Solford |
エクリプスS(英GⅠ)・リス賞(仏GⅢ) |
1980 |
Val Danseur |
ゴールデンゲートH(米GⅡ)・ローリンググリーンH(米GⅢ) |
1981 |
Empire Glory |
ロイヤルホイップS(愛GⅢ) |
1981 |
Key Dancer |
マッチメイカーS(米GⅡ)・アシーニアH(米GⅢ) |
1981 |
Nagurski |
ウッドローンS(米GⅢ) |
1981 |
Tights |
シルヴァースクリーンH(米GⅡ)・ラホヤマイルH(米GⅢ)・ヴォランテH(米GⅢ) |
1981 |
Vidalia |
クリテリウムフェミニーレ(伊GⅢ) |
1981 |
Vision |
セクレタリアトS(米GⅠ)・ピリグリムS(米GⅢ) |
1982 |
Duty Dance |
ダイアナH(米GⅡ)・ボーゲイH(米GⅢ) |
1982 |
Fire of Life |
ローマ賞(伊GⅠ)・伊セントレジャー(伊GⅡ) |
1982 |
Folk Art |
オークリーフS(米GⅠ) |
1982 |
Gallant Archer |
ルイジアナダウンズH(米GⅢ) |
1982 |
Moscow Ballet |
レイルウェイS(愛GⅢ) |
1982 |
英2000ギニー(英GⅠ)・クイーンエリザベスⅡ世S(英GⅡ)・クレイヴンS(英GⅢ) |
|
1983 |
Dance of Life |
マンノウォーS(米GⅠ)・タイダルH(米GⅡ)・フォートマーシーH(米GⅢ) |
1983 |
ケンタッキーダービー(米GⅠ)・BCクラシック(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・マリブS(米GⅡ)・グッドウッドH(米GⅢ) |
|
1983 |
Fred Astaire |
ラトガーズH(米GⅡ) |
1983 |
Manzotti |
カンタベリーCH(米GⅢ)・トレントンH(米GⅢ)・サンダウンクラシックトライアルS(英GⅢ) |
1983 |
Manzotti |
ジョンBキャンベルH(米GⅢ) |
1983 |
英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・ダンテS(英GⅡ) |
|
1984 |
Dancing All Night |
ロングアイランドH(米GⅡ) |
1984 |
Helenska |
ヴァインランドH(米GⅢ) |
1984 |
Merce Cunningham |
モーリスドニュイユ賞(仏GⅡ) |
1984 |
Seattle Dancer |
デリンズタウンスタッドダービートライアルS(愛GⅡ)・ガリニュールS(愛GⅡ) |
1984 |
Sword Dance |
デルマー招待H(米GⅡ) |
1985 |
Banker's Lady |
レディーズH(米GⅠ)・トップフライトH(米GⅠ)・シュヴィーH(米GⅠ)・ロングルックH(米GⅡ)・ベッドオローゼズH(米GⅡ) |
1985 |
Dancing Spree |
BCスプリント(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)・カーターH(米GⅠ)・トゥルーノースH(米GⅡ) |
1985 |
Jeanne Jones |
ファンタジーS(米GⅠ) |
1985 |
Lake Como |
アングルシーS(愛GⅢ) |
1985 |
Love You by Heart |
クイーンエリザベスⅡ世CCS(米GⅡ)・ブラックヘレンH(米GⅡ)・シープスヘッドベイH(米GⅡ)・ニジャナS(米GⅢ)・スワニーリヴァーH(米GⅢ) |
1985 |
Maplejinsky |
モンマスオークス(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ) |
1985 |
Mister Modesty |
ペンシルヴァニアガヴァナーズC(米GⅢ) |
1985 |
Mystery Rays |
フィユドレール賞(仏GⅢ)・ミネルヴ賞(仏GⅢ) |
1985 |
Nikishka |
ラスパルマスH(米GⅡ) |
1986 |
Classic Fame |
愛ナショナルS(愛GⅠ)・ベレスフォードS(愛GⅡ)・アメリカンH(米GⅡ)・サンガブリエルH(米GⅢ)・サンマルコスH(米GⅢ) |
1986 |
Connie's Gift |
ルイビルBCH(米GⅡ) |
1986 |
Destiny Dance |
シープスヘッドベイH(米GⅢ) |
1987 |
Crockadore |
オーキッドH(米GⅡ)・シープスヘッドベイH(米GⅢ) |
1987 |
Glorify |
エドヴィル賞(仏GⅢ) |
1987 |
BCマイル(米GⅠ)・ジュライC(英GⅠ)・テトラークS(愛GⅢ) |
|
1987 |
Savina |
ミスグリオS(米GⅢ) |
1987 |
Single Combat |
アングルシーS(愛GⅢ) |
1987 |
Sky Classic |
ロスマンズ国際S(加GⅠ)・マンハッタンH(米GⅠ)・ターフクラシック招待S(米GⅠ)・シーザーズ国際H(米GⅡ)・アーリントンH(米GⅡ)・サマーS(加GⅢ)・グレイS(加GⅢ)・キングエドワード金杯(加GⅢ)・ディキシーH(米GⅢ) |
1987 |
Victory Piper |
ベレスフォードS(愛GⅡ) |
1987 |
ミュージックタイム |
ニュージーランドトロフィー四歳S(GⅡ) |
1988 |
Green Pola |
カルヴァドス賞(仏GⅢ) |
1988 |
Jaded Dancer |
ローレンスリアライゼーションS(米GⅢ) |
1988 |
Jendali |
クイーンズヴァーズ(英GⅢ) |
1988 |
Mashaallah |
ミラノ大賞(伊GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ)・愛セントレジャー(愛GⅠ) |
1989 |
Niodini |
ランカシャーオークス(英GⅢ)・パークヒルS(英GⅢ) |
1990 |
Likeable Style |
ラスヴァージネスS(米GⅠ)・セニョリータBCS(米GⅢ)・ハネムーンH(米GⅢ) |
1990 |
Winged Victory |
フォートローダーデールH(米GⅢ) |
1992 |
African Dancer |
エルクホーンS(米GⅢ)2回 |
1992 |
英ダービー(英GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)・凱旋門賞(仏GⅠ) |
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1992 |
イブキニュースター |
フラワーC(GⅢ) |