和名:ハワイ |
英名:Hawaii |
1964年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ウトリロ |
母:エタン |
母父:メラリ |
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南アフリカ時代はゴールデンマイル三冠を達成したマイラーだったが米国に移籍すると距離を克服して米最優秀芝馬に選ばれた南アフリカの歴史的名馬 |
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競走成績:2~5歳時に南阿・米で走り通算成績28戦21勝2着2回3着3回 |
南アフリカ共和国の競馬は、英国の植民地時代だった18世紀末まで遡る古い歴史を持つ。欧州から優れた血統の馬を多く輸入しており、そのレベルは高いが、国外に進出する馬は少なく(近年は増えてきている)、南アフリカの馬は日本では殆ど馴染みが無い。その中でおそらく日本における知名度が最も高いのは、米国に移籍して競走馬・種牡馬として活躍した本馬であろう。
誕生からデビュー前まで
南アフリカのコールスバーグにあるプラットベルク牧場において、同牧場の所有者A・L・デル氏により生産された本馬は、幼少期から素晴らしい馬体を有しており、1歳時の品評会においてはサラブレッド部門で優勝を果たした。その直後に品評会の審査員だった南アフリカの調教師ジョージ・アッツィー師により、9030ランドという高額(と言っても当時の為替レートで何円相当なのか調べても分からない)で買われ、後にハビタットやニジンスキーの馬主となる米国の事業家チャールズ・W・エンゲルハード・ジュニア氏の馬主名義クレイグウッドステーブルの所有馬となった。エンゲルハード・ジュニア氏は鉱石の採掘で一財を成した人物だけに、金やダイヤモンドで知られる南アフリカとも縁が深く、本馬も当初は南アフリカで競走生活を送ることになる。
競走生活(2歳時)
アッツィー師の調教を受けた本馬は、1966/67シーズンの11月に、R・ローズ騎手を主戦としてデビューした。まずは地元ベノニ競馬場で芝800mの未勝利戦に出走して、7馬身差の圧勝で勝ち上がった。翌月にターフフォンテン競馬場で出走したペプシコーラC(T1100m)も8馬身差で圧勝した。年が明けて1月にベノニ競馬場で出走したイーストランドジュヴェナイルS(T1000m)も8馬身差で圧勝した。
その後はしばらく休養し、5月にグレイヴィル競馬場でアフリカンブリーダーズS(T1200m)に出走して勝利。次走は7月にグレイヴィル競馬場で行われる南アフリカの2歳戦における大競走チャンピオンナーサリーS(T1400m)となったが、ここではマスタービルダーの3着に敗れて連勝は4で止まった。しかし同月に出走したマーゲートH(T1200m)では勝利。2歳時は6戦5勝の成績をマークして、南阿最優秀2歳牡馬に選出された。
競走生活(3歳・4歳当初)
翌67/68シーズンには主に短距離路線を進む。これは、距離不安という理由だけではなかった。南アフリカの競馬は3つの地域で行われており、それぞれの地域でクラシック競走が設けられている。しかしいずれの地域においても、距離が長いダービーより、距離が短いギニーの方が格上だったのである。3地域で行われる3ギニーの名称はそれぞれ、トランスヴァール州ベノニ競馬場で行われるロイヤルリザーヴギニー(通称ベノニギニー・現サウスアフリカンクラシック)、ケープ州ミルナートン競馬場で行われるケープメローグッドギニー(通称ケープアーガスギニー)、ナタール州グレイヴィル競馬場で行われるサウスアフリカンギニーの3競走であり、合わせてゴールデンマイル三冠(ギニー三冠)と呼ばれていた。
さて、3歳になった本馬は9月にターフフォンテン競馬場で行われたターフフォンテンスプリント(T1100m)に出走して勝利。翌月にターフフォンテン競馬場で行われたダービートライアルS(T1600m)も制したが、前述したとおりダービー路線には向かわなかった。11月にはやはりターフフォンテン競馬場で行われたチェアマンズH(T1100m)に出走して勝利。続いて出走したのが、本馬の地元ベノニ競馬場で行われるロイヤルリザーヴギニー(T1600m)であった。結果は本馬の楽勝で、まずゴールデンマイル三冠の初戦を制覇した。
年が明けて1月にケニルワース競馬場で出走したギニートライアルS(T1400m)も勝利。そしてミルナートン競馬場に向かい、ケープメローグッドギニー(T1600m)に参戦。このレースは南アフリカにおける3歳馬限定戦としては最高賞金のレースだった。結果は道中4番手から鋭く抜け出した本馬が2馬身差で快勝し、ゴールデンマイル三冠の2戦目も制覇した。その後は6月のサウスアフリカンギニーまで時間があったため休養した。
5月にクレアウッド競馬場で行われたクレアウッド記念プレート(T1200m)で復帰して楽勝。そしていよいよサウスアフリカンギニー(T1600m)に出走した。そして2馬身3/4差で楽勝を収め、ゴールデンマイル三冠を9連勝で達成した。このレース後にエンゲルハード・ジュニア氏は、本馬をいずれは北米へ移籍させる事を発表した。
次走は前走から約1か月後に同じグレイヴィル競馬場で行われるロスマンズジュライH(T2100m・現ダーバンジュライ)となった。距離に不安があったが、本馬の3歳年上の半兄で、やはりサウスアフリカンギニーなどを勝っていた名馬ウィリアムペンを差し置いて、本馬が1番人気に支持された。しかし結果は勝ったチンボラから3馬身差の4着(ウィリアムペンが2着)に敗れてしまい、連勝は9で止まった。次走のクレアウッドウインターH(T1800m)では、後にクイーンズプレート・J&BメトロポリタンHなど南アフリカの大競走を勝つピータービウェアを2馬身半差の2着に破って快勝。3歳時は10戦9勝の成績で、このシーズンの南阿最優秀3歳牡馬に選出された。
その後は翌8月にグレイヴィル競馬場で行われる南アフリカの大競走の1つであるケープメトロポリタンチャンピオンS(T2000m)に出走して、ウィリアムペンとの2度目の兄弟対決となった。しかしここでもウィリアムペンが勝ち、本馬は首差2着に敗れた。10月にターフフォンテン競馬場で出走したスプリングチャンピオンS(T1300m)では、2着カフリンクに2馬身半差で快勝したが、このレースを最後に本馬は母国を離れ、後に米国競馬の殿堂入りも果たす米国の名調教師マッケンジー・ミラー師の厩舎に転厩することになった。南アフリカにおける成績は18戦15勝だった。
競走生活(米国時代)
しかし北米に向かった本馬は、長距離輸送の最中に体調を崩してしまい、米国の競馬場に姿を現したのは前走から8か月も経過してからだった。米国デビュー戦は、1969年6月にベルモントパーク競馬場で行われた芝7ハロンの一般競走となった。マヌエル・イカザ騎手とコンビを組んだ本馬は、ブランディワインターフH・チェリーブロッサムHなどを勝っていたベイトマンを7馬身差の2着に切り捨てる圧勝で米国初戦を飾った。続いてベルモントパーク競馬場ダート8ハロンの一般競走に出走したが、初ダートに戸惑ったのか、スライバードの6馬身3/4差6着に完敗。そのため、以降は芝路線に専念することになる。
翌7月にアーリントンパーク競馬場に赴いてスターズ&ストライプスH(T9F)に出走すると、後方からの差し切りを決めて、スウィンフォードSの勝ち馬グレートコーホーズを3/4馬身差の2着に、チリの大競走エルエンサーヨ賞を勝った後に米国に移籍してコロナドSを勝っていたクイルチェを3着に抑えて勝利を収め、米国における初のステークス競走勝利を記録した。
同月末にアケダクト競馬場で出走したタイダルH(T9F)では、フォートマーシーとの対戦となった。フォートマーシーは、名馬ダマスカスを2着に破った一昨年のワシントンDC国際Sを筆頭に、ロングブランチH・ナシュアH・タイダルH・バーナードバルークH・スターズ&ストライプスH・サンセットH・ブーゲンヴィリアH・ハリウッドターフ招待Hなどを勝ち、一昨年・前年と2年連続で米最優秀芝馬に選出されていた当時の米国芝路線におけるトップホースだった。フォートマーシーの主戦でもあったイカザ騎手がフォートマーシーを選択したため、本馬にはブラウリオ・バエザ騎手が騎乗した。本馬はフォートマーシーより2ポンド斤量が軽かった事もあり、フォートマーシーを抑えて1番人気に支持された。しかし結果はフォートマーシーが勝ち、追い込んで届かなかった本馬は米国初戦で一蹴したベイトマンにも遅れて、フォートマーシーから1馬身半差、2着ベイトマンから1馬身差の3着に敗れた。
翌8月にサラトガ競馬場で出走した分割競走バーナードバルークH(T8.5F)ではフォートマーシーが不在であり、イカザ騎手が本馬に騎乗した。そして、愛ナショナルSで3着した後に米国に移籍していたラインランダーを4馬身差の2着に、ウッドローンS・オーシャンポートHの勝ち馬マララークを3着に破って圧勝した。
同月末にアトランティックシティ競馬場で出走したケリーオリンピックH(T9F)では、タイダルHから直行してきたフォートマーシーと2度目の対戦となった。やはりイカザ騎手がフォートマーシーに騎乗したため、今回も本馬の鞍上はバエザ騎手だった。本馬はフォートマーシーから5ポンドのハンデを貰っていた事もあり、フォートマーシーと並んで1番人気に支持された。しかし結果は、フォートマーシー、レオナルドリチャーズS・モンマス招待H・ヴェントナーH・フィラデルフィアHを勝っていたバルストレードの2頭に届かず、勝ったフォートマーシーから3/4馬身差、2着バルストレードから首差の3着と惜敗した。その後、陣営は本馬の主戦としてジョン・ベラスケス騎手を固定することにした。
翌9月にアトランティックシティ競馬場で出走したユナイテッドネーションズ招待H(T9.5F)でも、イカザ騎手騎乗のフォートマーシーとの対戦となった。ここでも本馬は1番人気に支持され、そして本馬も今回はその期待に応えた。ケントS・ロングブランチS・レオナルドリチャーズSを勝ってきた上がり馬ノースフライト(言うまでもないが日本のマイル女王ノースフライトとは同名異馬で性別も違う)を差し切って半馬身差で勝利を収め、フォートマーシーはノースフライトからさらに7馬身後方の3着だった。もっとも、本馬の斤量123ポンドに対して、フォートマーシーは130ポンドであり、本馬の実力がフォートマーシーを超えたとは即断できなかった。
次走は10日後にアトランティックシティ競馬場で行われたサンライズH(T12F)となった。このレースにはフォートマーシーは不在だったが、2000m以上の距離では過去勝利した事が無い本馬にとっては距離不安という新たな難敵が待ち構えていた。しかし陣営としては、米国芝の大競走には12ハロン前後の距離が多いため、本馬の実力を試す必要があると判断したものと思われる。そして、一昨年のマンノウォーSと前月のフィラデルフィアHを勝っていたラッフルドフェザーズを1馬身1/4差の2着に、バルストレードを3着に抑えて勝ち、見事に距離を克服した。
その後は10月のマンノウォーS(T12F)に出走した。ここにはイカザ騎手鞍上のフォートマーシーも参戦してきて、本馬とフォートマーシーの最終決戦となった。定量戦のため2頭の斤量は同じであり、ハンデ差無しの実力勝負となった。結果は1番人気の本馬が逃げるノースフライトを差し切り、2分27秒2のコースレコードを樹立して2馬身1/4差で完勝し、フォートマーシーはノースフライトからさらに1馬身1/4差の3着に敗れた。本馬とフォートマーシーの対戦成績は2勝2敗の五分だった。
本馬の現役最後のレースは、ワシントンDC国際S(T12F)となった。フォートマーシーは不在だったが、英国からはシティ&サバーバンH・ラクープドメゾンラフィット・コンセイユミュニシパル賞を勝ってきたカラバス、独国からは独2000ギニー・ユジェーヌアダム賞などの勝ち馬で独ダービー・バーデン大賞・オイロパ賞3着のヒッチコック(後に米国に移籍してサバーバンH・ギャラントフォックスH2回などに勝利)、日本からは前年最下位の雪辱に燃える、東京新聞杯・京都記念・天皇賞春・毎日王冠・スプリンターズSなど8連勝中の怪物タケシバオー、地元米国からはマンノウォーS・ディキシーH・ボーリンググリーンH・オークツリーSなどを勝っていた前年2着馬ツァーアレクサンダーといった世界各国の実力馬が集まった。結果はカラバスが勝ち、本馬は1馬身1/4差の2着だった(なお、タケシバオーはレース前に熱発しており2年連続の最下位に終わった)。本馬はこの年10戦6勝の好成績で、この年の米最優秀芝馬に選出された。
血統
Utrillo | Toulouse Lautrec | Dante | Nearco | Pharos |
Nogara | ||||
Rosy Legend | Dark Legend | |||
Rosy Cheeks | ||||
Tokamura | Navarro | Michelangelo | ||
Nuvolona | ||||
Tofanella | Apelle | |||
Try Try Again | ||||
Urbinella | Alycidon | Donatello | Blenheim | |
Delleana | ||||
Aurora | Hyperion | |||
Rose Red | ||||
Isle of Capri | Fair Trial | Fairway | ||
Lady Juror | ||||
Caprifolia | Asterus | |||
Carissima | ||||
Ethane | Mehrali | Mahmoud | Blenheim | Blandford |
Malva | ||||
Mah Mahal | Gainsborough | |||
Mumtaz Mahal | ||||
Una | Tetratema | The Tetrarch | ||
Scotch Gift | ||||
Uganda | Bridaine | |||
Hush | ||||
Ethyl | Clustine | Captain Cuttle | Hurry On | |
Bellavista | ||||
La Mauri | Roi Herode | |||
La Maula | ||||
Armond | Lomond | Desmond | ||
Lowland Aggie | ||||
Arcola | Sir Visto | |||
Ebba |
父ユトリロは伊国の名匠フェデリコ・テシオ氏のリディア・テシオ未亡人の生産・所有馬で、現役成績は17戦2勝。英国のハンデ大競走シザレウィッチHを勝ち、伊2000ギニーで3着している。伊ダービーでは1位入線しながら失格となった不運な馬でもあった。競走馬引退後は南アフリカに種牡馬として輸入され、本馬の活躍で南阿首位種牡馬になっている。ユトリロの父トゥールーズロートレックはダンテ産駒で、テシオ氏の生産・所有馬だった。大柄な馬体が災いして常時前脚に不安を抱えており、伊国以外で走ることは無かった。通算成績は10戦7勝、3歳時にエマヌエーレフィリベルト賞・イタリア大賞・ミラノ大賞などを勝ち、伊ダービーで3着して伊最優秀3歳牡馬に選ばれている。種牡馬としても1959年の伊首位種牡馬になるなど成功。母父としては本邦輸入種牡馬ドン、サンクルー大賞を勝ち英ダービーでニジンスキーの2着したジルなどを出している。
母エタンは現役成績こそ14戦1勝と振るわなかったが、13頭の子のうち、本馬や本馬の半兄ウィリアムペン(父ネザーウッド)【サウスアフリカンギニー・J&BメトロポリタンH・ダーバンマーチャントH・チェアマンズプレート・カープマーチャントC・ケープメトロポリタンチャンピオンS】を含めて11頭が勝ち上がり、産駒は合計で50勝以上を挙げたという優秀な繁殖牝馬となった。エタンの祖母アーモンドは英国からの輸入繁殖牝馬で、英2000ギニー・英ダービーを勝ったラダスや英1000ギニー馬チェランドリーの姪の娘に当たる。アーモンドの牝系子孫は南アフリカで大きく発展しており、数々の活躍馬が登場している。→牝系:F1号族⑤
母父メラリはマームードの直子で、英2000ギニーなどを勝ったパレスタインの半兄。自身は42戦6勝と、それほど優秀な競走成績を挙げられず、パレスタインが活躍する前に南アフリカへ輸出されて彼の地で種牡馬として成功を収めた。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はそのまま米国に留まり、112万ドルのシンジケートが組まれて、ケンタッキー州クレイボーンファームで種牡馬入りした。種牡馬としても活躍し、英ダービー馬ヘンビットなどを出した。1990年に26歳で他界した。
後継種牡馬に恵まれなかったために既に直系は残っていないが、後世への影響力は根強い。例えば牝駒セイラウェイはケンタッキーダービー馬リルイーティーの祖母でBCクラシック馬ゴーストザッパーの曾祖母であるし、牝駒アイランドキティはホープフルSの勝ち馬ヘネシーの母、牝駒サニースワップスは日本でアルゼンチン共和国杯を勝ったサクラサニーオーの母で日本のダート王トランセンドの曾祖母、牝駒ルムーリンはスーパーダートダービーの勝ち馬メイショウモトナリの祖母、牝駒ヘレアラーは関屋記念・セントウルSの勝ち馬ニフティニースの祖母でオールカマーの勝ち馬シンゲンの4代母となっている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1971 |
Triple Crown |
サンハシントS(米GⅡ)・サンヴィンセントS(米GⅢ) |
1972 |
Hunza Dancer |
ボーリンググリーンH(米GⅡ)・アメリカンH(米GⅡ) |
1972 |
Princess Papulee |
リンダヴィスタH(米GⅢ) |
1972 |
Sun and Snow |
ケンタッキーオークス(米GⅡ)・アッシュランドS(米GⅢ) |
1975 |
Hawaiian Sound |
ベンソン&ヘッジズ金杯(英GⅠ)・アールオブセフトンS(英GⅢ) |
1975 |
Kamehameha |
シネマH(米GⅡ) |
1977 |
Henbit |
英ダービー(英GⅠ)・サンダウンクラシックトライアルS(英GⅢ)・チェスターヴァーズ(英GⅢ) |
1977 |
Island Charm |
ヴェイグランシーH(米GⅢ)・ギャロレットH(米GⅢ) |
1980 |
Kilauea |
レキシントンS(米GⅡ) |
1981 |
Qualique |
デモワゼルS(米GⅠ) |
1983 |
Captain Hawai |
エマヌエーレフィリベルト賞(伊GⅡ) |
1986 |
Porter Rhodes |
ガリニュールS(愛GⅡ) |