スターシュート

和名:スターシュート

英名:Star Shoot

1898年生

栗毛

父:アイシングラス

母:アストロロジー

母父:ハーミット

競走馬としては大成できず、種牡馬としても誤った牝系研究の影響で英国から米国に放出されたが、その地で5度の首位種牡馬に輝き英国競馬関係者を嘆かせる

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績10戦3勝2着1回3着3回

誕生からデビュー前まで

愛国エアフィールドロッジスタッドにおいて、同牧場の所有者ユースタス・ローダー卿により生産・所有された。ローダー卿は後に世紀の名牝プリティポリーの生産・所有者となる人物であり、その経歴についてはプリティポリーの項に記載している。

本馬は目立つ栗毛に、整った流星と後脚2本の白毛が印象的な美しい馬だったが、生後間もなくしてウイルス性の疾患に侵され、生死の境をさまよった。ローダー卿は本馬がすぐに死んでしまうと確信し、そのまま放置する事に決めた。しかしエアフィールドロッジスタッドの厩務員“エアイールド・ダン”マクナリー氏は弱々しい小さな子馬を見捨てるにしのびず、本馬の身体を毛布でくるむと、炎が燃え盛る暖炉の前に寝かせて看病に当たった。マクナリー氏によると、ローダー卿が午前中に本馬の死を確信したその日の午後には回復に向かったという。こうして一命を取り留めた本馬は、すくすくと成長して競走年齢に達した。成長するとより美しく見栄えがする馬となったが、脚部不安を抱えているという欠点があった。

競走生活

英国のジョン・ハギンズ調教師に預けられると、2歳6月にマンチェスター競馬場で行われたサマーブリーダーズフォールズプレートでデビューして、後のモールコームS勝ち馬プリンセスメルトンの1馬身差2着と好走した。それから8日後に出たニューS(T5F)ではベイメルトン、オーキッドに続く3着だった。それから9日後にはサンダウンパーク競馬場で行われたブリティッシュドミニオン2歳プレートに出て、ここで初勝利を挙げた。さらに1週間後に出走したハーストパークフォールプレートでは134ポンドという過酷な斤量が課せられたが、それでも同父の牝馬グラソルト(英1000ギニー馬キャニオンの母で、英オークス馬トボガンや英2000ギニー馬コロラドの祖母。米国三冠馬サイテーションの4代母でもある)以下を打ち破って勝利した。

ごく短い休養を経て、7月下旬のナショナルブリーダーズプロデュースS(T5F)に向かった。本馬には135ポンドが課せられたが、9ポンド軽い126ポンドだった牡馬イアンと同着で勝利を収め、ニューSで屈した相手であるベイメルトン(3着)にも雪辱を果たした。このレースには後のヨークシャーオークス馬サンタブリジッダ(世界的名牝系の祖であり、歴史的名馬サーアイヴァーや、日本で活躍したシャダイアイバーやエアジハードなど多くの名馬の先祖となった)も出走していたが着外だった。

しかしこの激闘が祟ったのか、次走のチャンピオンブリーダーズバイエニアルフォールSでは同父の牝馬サジッタ(19世紀最高の名牝と言われる英国牝馬三冠馬ラフレッチェの娘で、名馬スウィンフォードの父となるジョンオゴーントの3歳年上の全姉に当たる)の着外に敗退。次走の英シャンペンS(T6F)も、ニューSで3着に破ったオーキッドに借りを返されて3着に敗退。続いて出走したミドルパークプレートでは、フロリフォーム、オーキッドとのゴール前の接戦に屈して、フロリフォームの首差3着と惜敗した。2歳時の成績は8戦3勝だった。

その後は翌年の英国クラシック競走に備えて調整されていたが、冬場になって喘鳴症を発症してしまった。そのため英2000ギニーも英ダービーも断念して夏場まで休養した。そしてアスコット競馬場で行われたトリエニアルSで復帰したが、競走能力は戻っておらず着外に敗退。ニューマーケット競馬場で出た次走のミッドサマーダービーも着外に敗れ、3歳時2戦未勝利の成績で現役引退となった。

血統

Isinglass Isonomy Sterling Oxford Birdcatcher
Honey Dear
Whisper Flatcatcher
Silence
Isola Bella Stockwell The Baron
Pocahontas
Isoline Ethelbert
Bassishaw
Dead Lock Wenlock Lord Clifden Newminster
The Slave
Mineral Rataplan
Manganese
Malpractice Chevalier d'Industrie Orlando
Industry
The Dutchman's Daughter The Flying Dutchman
Red Rose
Astrology Hermit Newminster Touchstone Camel
Banter
Beeswing Doctor Syntax
Ardrossan Mare
Seclusion Tadmor Ion
Palmyra
Miss Sellon Cowl
Belle Dame
Stella Brother to Strafford Young Melbourne Melbourne
Clarissa
Gameboy Mare Gameboy
Physalis
Toxophilite Mare Toxophilite Longbow
Legerdemain
Maid of Masham Don John
Miss Lydia

アイシングラスは当馬の項を参照。

母アストロロジーは本馬の生産者ローダー卿が馬産を開始するために愛国カラーで購入した繁殖牝馬の1頭で、購入額は450ギニーだった。競走馬としては英国で2歳時のみ走り、モリニューSというマイナーステークス競走で3着したのが唯一の入着で、5戦未勝利に終わった。繁殖牝馬としては本馬を含めて14頭の子を産み、1910年に23歳で他界した。

本馬の1歳年上の半姉セイントセレストラ(父セントアンジェロ)の子にはセイントアストラ【仏オークス】がおり、セイントアストラの子にはディアヴォレッツァ【仏1000ギニー】が、ディアヴォレッツァの甥にはアステリュー【仏2000ギニー・英チャンピオンS】がいる。

さらにセイントアストラの牝系子孫からは、プリンスシュヴァリエ【仏ダービー・リュパン賞・サラマンドル賞】、ファーリー【フォレ賞(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】、ソヴィエトスター【仏2000ギニー(仏GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・フォレ賞(仏GⅠ)・ジュライC(英GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】、ブラックタイアフェアー【BCクラシック(米GⅠ)・フィリップHアイズリンH(米GⅠ)】、フライティルドーン【エディリードH(米GⅠ)・ワシントンDC国際S(米GⅠ)・サンルイレイS(米GⅠ)・サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)】、グルメガール【ミレイディH(米GⅠ)・アップルブロッサムH(米GⅠ)・ヴァニティH(米GⅠ)】、マカイビーディーヴァ【メルボルンC(豪GⅠ)3回・コックスプレート(豪GⅠ)】、ゲットストーミー【メイカーズマークマイルS(米GⅠ)・ターフクラシックS(米GⅠ)・ガルフストリームパークターフH(米GⅠ)】、キャンフォードクリフス【愛2000ギニー(愛GⅠ)・セントジェームズパレスS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・ロッキンジS(英GⅠ)・クイーンアンS(英GⅠ)】、それに日本で活躍したメジロラモーヌ【桜花賞(GⅠ)・優駿牝馬(GⅠ)・エリザベス女王杯(GⅠ)】、ブロードマインド【中山大障害秋・中山大障害春】、アドマイヤマックス【高松宮記念(GⅠ)】、ラインクラフト【桜花賞(GⅠ)・NHKマイルC(GⅠ)】、フィールドルージュ【川崎記念(GⅠ)】、ソングオブウインド【菊花賞(GⅠ)】、スーニ【全日本2歳優駿(GⅠ)・JBCスプリント(GⅠ)2回】など、各国の活躍馬が続々登場している。

本馬の4歳年下の全妹レトワールの子にはエクアン【仏グランクリテリウム・リュパン賞】がいる。レトワールの牝系子孫は姉セイントセレストラには遠く及ばないが、それなりに発展しており、シーカデット【ドンH(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)・メドウランズCH(米GⅠ)】、カレッシング【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)】などが出ている。→牝系:F9号族①

母父ハーミットは当馬の項を参照。繁殖牝馬の父として当時非常に名高く、ローダー卿がアストロロジーを購入する決め手の1つになったようである。

競走馬引退後:英国で種牡馬入りできなかった理由

競走馬を引退した本馬は、英国で種牡馬入りすることは出来なかった。競走馬としては早熟の短距離馬という評価ながらも、その英国クラシック向きの血統構成から、種牡馬として期待する意見も全く無かったわけではなく、何事も無ければ英国で種牡馬入りできた可能性もあった。しかし複数の理由により本馬は英国における種牡馬入りを阻まれた。

まず、喘鳴症を患っていた事。当時の英国競馬界は喘鳴症の因子が広まる事を極度に恐れる傾向があり、16戦無敗の成績を誇りサラブレッド史上最強馬の誉れ高かった英国三冠馬オーモンドでさえも、競走生活後半に喘鳴症を発症したために、英国では殆ど種牡馬生活を送ることが出来ずに亜国を経て米国へ放出されたほどだった(オーモンドの場合は受精率が悪かったという理由もあった)。

次の理由は脚部不安を抱えていたこと。脚部不安は遺伝しやすい上に、競走馬にとって最も厄介な欠点の1つであるから、それが嫌われたのは止むを得なかっただろう。

上記2つの理由は正当なものであると言えるのだが、問題は最後の3つ目の理由だった。本馬が誕生する3年前の1895年に、豪州の競馬研究家ブルース・ロウ氏がサラブレッドの牝系について研究した結果を著書“Breeding racehorses by the figure system(番号制度による競走馬の繁殖について)”の中において発表していた(実際には1895年時点でロウ氏は既に死去しており、彼の友人ウィリアム・アリソン氏が研究結果をまとめて本にした)。毎年多数の産駒を出せる種牡馬と比べると、基本的に毎年1頭ずつしか産駒を出せない繁殖牝馬の研究を実施したほうが、より正確に優れた系統を見出すことが出来ると考えたロウ氏は、英国血統書(ジェネラルスタッドブック)の第1巻まで遡って牝系を整理。英ダービー・英オークス・英セントレジャーの優勝馬が多い順に若い番号を割り振り、1号族から43号族までの牝系を設定した。当然1~5号族までの番号が若い牝系から最も多くの優れた競走馬が出ていたわけだが、優秀な種牡馬が出ていたのは3・8・11・12・14号族であり、優れた競走馬が出る牝系と優れた種牡馬が出る牝系は必ずしも一致しないという研究結果となっていた。本馬が属していたのは9号族であり、番号自体は比較的若いから優れた競走馬が出る可能性は高めだが、優れた種牡馬が出ない牝系であると結論付けられていた。

当時の英国競馬関係者はロウ氏の研究結果に惑わされており、9号族から登場した牡馬達は偏見を受けて苦しんでいた。本馬より3歳年上のサイリーンは英国クラシック競走未登録ながらもアスコット金杯勝利など卓越した競走成績を残し、英国クラシック競走に登録されていれば英国三冠馬になれただろうと評されたほどの逸材だったが、やはり9号族出身だったために英国においては種牡馬人気が上がらず、後に亜国へと放出される要因となった。サイリーンほどの名競走馬でさえも偏見の目で見られたのだから、そこまでの競走成績を残せなかった上に、喘鳴症や脚部不安を抱えていた本馬に対する目はもっと厳しく、本馬が種牡馬として活躍できる場は英国には無かった。

米国で種牡馬入りして大成功

本馬が競走馬を引退した1901年、米国からジョン・ハニング氏という人物が英国にやってきていた。彼は、ケンタッキー州競馬委員会の委員長エゼキエル・クレイ大佐とケンタッキー州競走馬馬主協会の会長ケーツビー・ウッドフォード大佐(この両名は、ヒンドゥーミスウッドフォードハノーヴァーベンブラッシュといった米国競馬黎明期の名競走馬・名種牡馬を所有していた)の依頼を受けて、種牡馬探しに英国に来ていたのだった。ハニング氏は英国では種牡馬としての需要が無かった本馬を入手すると米国に送った。

米国に到着した本馬は、クレイ大佐とウッドフォード大佐が所有していたケンタッキー州ラニミードスタッドにおいて4歳時から種牡馬生活を開始した。喘鳴症・脚部不安・9号族のレッテルという三重苦を抱えていた本馬だったが、最初の2つはともかく、英国血統書に載っていないアメリカンファミリー牝系が幅を利かせていた米国の事であるから、9号族云々という議論は殆ど無視されていたと思われる。また、喘鳴症についても本馬の産駒に遺伝する事は無かった(脚部不安だけは遺伝させてしまった)。

本馬の種牡馬能力は仕上がりの早さを求める米国競馬には適合していたようで、初期の段階から着実に実績を残し始めた。1908年に初めて北米種牡馬ランキングでトップ20入りすると、1911年には遂に北米首位種牡馬を獲得。その翌年にはかつて名馬ハンブルグを所有していた米国の調教師兼馬主のジョン・E・マッデン氏に購入されて、彼が所有するケンタッキー州ハンブルグプレイスファームに移動した。この1912年に2度目の北米首位種牡馬を獲得。さらに1916・17・19年にも北米首位種牡馬を獲得し、通算5回のタイトルを手にした。1914・15・21年には北米種牡馬ランキングで2位、1913・18年には同3位に入るなど、長年にわたって安定した種牡馬成績を残し、1908年から1923年まで16年間連続で北米種牡馬ランキングのトップ20入りを果たした。

ハンブルグプレイスファームに移動した1912年には、1シーズンで90頭の繁殖牝馬と交配した記録があり、これは当時としては異例の交配数だった。なお、この90頭との交配により52頭の産駒が誕生し、36頭が勝ち上がり(そのうち27頭は2歳戦で勝ち上がった)、11頭がステークスウイナーとなったが、これらは全て1頭の種牡馬の1世代の産駒が挙げた成績としては当時の米国競馬における新記録だった。最終的には61頭のステークスウイナーを出している。

初期の産駒は仕上がり早い短距離馬が目立ったが、ハンブルグプレイスファームに移動した後は、長距離戦で活躍する産駒が目立ち始めた。代表産駒である初代米国三冠馬サーバートンも、米国顕彰馬グレイラグも共にハンブルグプレイスファームにおいてマッデン氏が生産した馬である。マッデン氏は20世紀初頭における米国有数の名馬産家として名を馳せることになるが、それは本馬がいてくれたからこそだった。

一方、本馬の米国における大成功は当然英国にも伝わり、本馬の放出は、サイリーンの放出(1908年に亜国に放出されたが、その翌年1909年から1912年までの4年間で産駒が英ダービーを3勝し、1909・10年の英愛首位種牡馬を獲得)と並ぶ大失敗として当時の英国競馬関係者を多いに嘆かせた。本馬やサイリーンの種牡馬としての成功により、前述したロウ氏の研究結果はその信頼性を大きく損ない、後に同じ9号族からフェアトライアルマームードブルリー、そして極めつけにナスルーラが登場した事により、完全に崩壊した。現在では、ロウ氏の研究結果は牝系の番号を見ればその馬の出自が概ね分かるという程度の意味しか持たなくなっている。筆者がこの名馬列伝集においてファミリーナンバーという用語を使用する際にほぼ必ず「所謂(いわゆる、つまり俗に言うという意味)」という文字を頭につけているのは、ファミリーナンバーという用語に対してほぼ存在価値を認めていないからである(牝系図に関してはファミリーナンバーを使用しているが、これは番号付けという意味だけは認めているからである)。

米国競馬界に偉大な足跡を残した本馬は1919年11月に肺炎のため21歳で他界し、ハンブルグプレイスファームが所有する墓地に埋葬された。本馬は後継種牡馬にはあまり恵まれず、1950年代頃には本馬の直系は殆ど見かけなくなり、現在では完全に途絶している。

しかし本馬は繁殖牝馬の父としても優れており、1924・25・26・28・29年と5度の北米母父首位種牡馬に輝いている(1923年以前に関しては北米母父種牡馬ランキングを集計した資料を見つけられなかったため、もしかしたらそれ以前にも獲得した年があったのかもしれない)。そのため米国で発展した牝系の中には本馬の血が含まれているものも散見される(一例を挙げると、本馬の牝駒ロイヤルメッセージの牝系子孫からはハビタットスワーヴダンサーが出ている)。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1904

Wing Ting

ケンタッキーオークス

1907

Ocean Bound

アラバマS・ガゼルH

1908

Star Charter

クラークH

1910

Star Gaze

サラトガC

1911

Addie M.

アラバマS・エクセルシオールH

1912

Charter Maid

メイトロンS

1913

Milestone

ゴールデンロッドS

1914

Fairy Wand

ガゼルH

1914

Star Master

クイーンズカウンティH・ヴィクトリーH

1914

Stargazer

マンハッタンH

1914

Wistful

CCAオークス

1916

Audacious

サバーバンH・カーターH2回・クラークH

1916

Sir Barton

ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントS・ウィザーズS

1918

Grey Lag

ベルモントS・ブルックリンH・メトロポリタンH・サバーバンH・ドワイヤーS・クイーンズカウンティH・エクセルシオールH

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