オービー

和名:オービー

英名:Orby

1904年生

栗毛

父:オーム

母:ローダビー

母父:ハノーヴァー

愛国調教馬として史上初めて英ダービーを勝っただけでなく、愛ダービーも制して両競走を勝った史上初の馬ともなった快速血統の始祖

競走成績:2・3歳時に愛英で走り通算成績7戦4勝3着2回

誕生からデビュー前まで

リチャード・クローカー・シニア氏により、彼が所有する愛国グレンケアンスタッドにおいて生産・所有された。愛国南部にあるコーク州アードフィールド出身のクローカー・シニア氏は2歳時に両親に連れられて渡米し、米国で育った。愛国からの移民の支援に積極的だった米国の政治団体タマニーホールの中心人物として「ボス」と呼ばれ、ニューヨークの市会議員などを歴任した彼は1900年頃に主要職を辞し、隠居生活に入った。それに先立つ1895年頃から、彼は当時の米国において良くも悪くも有名だった馬主ドワイヤー兄弟と共同で馬主業を営むようになっていた。ドワイヤー兄弟とは間もなく決別したが、彼は馬主業を続け、さらにドワイヤー兄弟は全く興味が無かった馬産も開始していた。

一般的には本馬は愛国産馬だと言われているが、実際に誕生したのは英国であるらしい。本馬が3歳当時の愛国オタゴ・ウィットネス紙には、生後すぐに母ローダビーと一緒に愛国に移動して成長したものであり、父オームは英国産馬で、母ローダビーは米国産馬だから、本馬は「英国と米国のハーフである」と載っている。確かにそのとおりらしいが、本馬を英国産馬だとするのは、伊国の誇りたるリボーを英国産馬だとするのと似たようなものであり、そんな主張に何の意味があるのかという印象は拭えない。リボーは母ロマネラが交配のために英国に来ていた際に産まれたから形式上は英国産馬となっているが、いったいどこの世界に「リボーはイタリアではなくイギリスの馬だ」という人間がいるというのだろうか。ローダビーもオームとの交配のために英国に行っていたというだけに過ぎず、本馬が成長したのは紛れもなく愛国であるから、愛国産馬と言い切ってしまって構わないと筆者は考える。

それはさておき、愛国で育った本馬を、クローカー・シニア氏は英国ニューマーケットの厩舎に預けようとした。ところが、英国ジョッキークラブは、本馬に限らずクローカー・シニア氏が所有する馬の全てに関して、ニューマーケットの厩舎に預けるのを拒絶したと当時の「ターフ・トピックス」なる記事にある。しかしこの記事には英国ジョッキークラブが拒絶した理由が一切書かれていない上に、記事自体もフリーランスの記者が書いたもので裏付けがどの程度取れているのかは定かでなく、今ひとつ信用できない。しかしいずれにしても本馬は英国の調教師に預けられることは無く、愛国の調教師が管理する事になった。

最初はザテトラークの共同所有者でテトラテーマの管理調教師でもあったヘンリー・シーモア・“アティー”・パース師により簡単な訓練が施された。続いてキルデア州に厩舎を構えていたジム・パーキンソン調教師の管理馬となった。パーキンソン師は本馬を「かつて私が手掛けた馬や私が見知っている馬と比べると、オービーは遥か上位に位置する最高級の馬」と非常に高く評価した。

競走生活(3歳初期まで)

しかし本馬は蹄が弱く、パーキンソン師は本馬を無理に2歳戦に使うことに否定的だった。しかしクローカー・シニア氏の主張により、止むを得ず、レパーズタウン競馬場で行われたレースに出走させたが、堅い馬場状態も影響したのか蹄から出血を起こし、3着という結果に終わった。その後はカラー競馬場で行われたレイルウェイS(T6F)に出た。しかし結果はエレクトリックローズ、シルヴァーフォウルという2頭の牝馬に先着されて、前走と同じ3着だった。2歳時はこれ以上レースに出ることは無く、この年の成績は2戦未勝利だった。

3歳になった本馬は、ダブリンに厩舎を構えていたフレッド・マッケイブ調教師の管理馬となった。この段階で未勝利の本馬だったが、英ダービーの前売りオッズでは21倍がついていたらしく、その素質を評価する人は決して少なくなかったようである。

3歳初戦は英国リヴァプール競馬場で行われたアールオブセフトンプレートとなり、勝利を収めた。その後はいったん愛国に戻り、バルドイル競馬場で行われたバルドイルプレート(T12F)に出走した。当時の愛国においては優れたメンバー構成となっていたらしいが、単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された本馬が、実に容易に勝利を収めた。この印象的な勝利により本馬は英ダービーの有力候補と目されるようになった。

英ダービー

本馬が英ダービーで好勝負できる器である事を理解したクローカー・シニア氏は、後にグレートジュビリーHを勝利するヘイデンという馬を2500ギニーで購入し、本馬の調教における併せ馬の相手とした。さらに彼は本馬の護衛役として17人の屈強な愛国の人達を雇い入れた。彼等に護られながら再び英国に向かった本馬は、英ダービー(T12F29Y)に参戦した。

ここでは、英2000ギニーを3馬身差で快勝してきたニューS・英シャンペンS・クレイヴンSの勝ち馬でミドルパークプレート2着のスリーヴガリオンが、単勝オッズ1.62倍の1番人気に支持されていた。一方の本馬は単勝オッズ12.11倍の評価に過ぎなかった。本馬は英ダービーの有力候補と書いてきたが、それはどうも愛国内における評価が中心だったようである。本馬が登場するより前の過去10年間には、英国三冠馬ガルティモア、英ダービー馬アードパトリック、世紀の名牝プリティポリーなど、愛国産馬が英国内で大活躍しており、愛国産馬自体が格下に見られる風潮はかなり払拭されていた。しかしながら上記3頭は全て英国の調教師に預けられており、愛国の調教師が管理する馬が英ダービーを勝った例は一度も無かった。おそらくそれが本番における本馬の評価に影響を及ぼしたと思われる。

クローカー・シニア氏は、米国出身の名手ダニエル・マハー騎手に本馬への騎乗を依頼した。しかしマハー騎手に拒否されてしまったため、仕方なく同じ米国出身のジョン・ライフ騎手に本馬の鞍上を託した。レース当日のエプソム競馬場は「雨が降り風は強く寒い悲惨な日」だったようで、馬場状態もかなり悪化していた。そのために観衆は平素より少なかったようで、普段より静かな英ダービーとなった。出走頭数も9頭しかおらず、前年にスペアミントが勝った英ダービーの22頭から半分以下になっていた。この年以降に英ダービーが9頭立て未満になった事は1度も無く(キャメロットが勝った2012年に同じ9頭立てとなった事はある)、第一次世界大戦や第二次世界大戦中の代替開催でも最低10頭は出走してきたから、それもまた競馬場の静かさに拍車をかけていた。

そんな静かな中でスタートが切られると、本馬は5~6番手につけた。馬群の中団やや後方といった位置取りだったが、なにしろ9頭立てなので、先頭からそれほど離された位置では無かったようである。最初はジョンブルという馬が先頭にいたが、しばらくして1番人気のスリーヴガリオンが先頭を奪い、そのまま馬群を牽引した。スリーヴガリオンが先頭に立ったのを見たライフ騎手は本馬の順位を少し上げて3番手に落ち着かせた。そのままの態勢で直線に入ったが、タッテナムコーナーの急な下り坂にうまく対処できなかったスリーヴガリオンは大きく外側に膨らんだ。そしてその隙を突いて本馬が先頭に立った。そしてエプソム競馬場の長い直線を見事に押し切り、2着ウールワインダーに2馬身差、3着スリーヴガリオンにはさらに1馬身半差をつけて優勝。愛国調教馬として史上初めての英ダービー制覇を成し遂げた。

スリーヴガリオンの敗因に関しては距離が長すぎたためだと当時は一般的に言われたが、スリーヴガリオンを管理していたサム・ダーリン調教師は「強い馬に負かされました」と素直に敗戦を認めた。クローカー・シニア氏はこのレースで獲得した賞金を悉く慈善事業に寄付したという。彼はこのレースで本馬の単勝に賭けて優勝賞金の数倍の利益を得ていたが、それでも賞金を全額寄付してしまったのはかなりの太っ腹である。

競走生活(英ダービー以降)

英ダービーからしばらくして、スリーヴガリオンの敗因が距離であると言われていた事に少々おかんむりだったらしいクローカー・シニア氏は、スリーヴガリオン陣営に対して、より短い距離でマッチレースを行おうと持ち掛けたが、スリーヴガリオン陣営はそれを受けなかったと伝えられている。

その後はスリーヴガリオン共々ロイヤルアスコット開催に向かうのではないかとも言われた。スリーヴガリオンは実際にアスコット競馬場に向かい、セントジェームズパレスSを勝利した。しかしクローカー・シニア氏は、地元の愛ダービー(T12F)出走を選択した。このレースの時点で本馬はマッケイブ師とジェームズ・アレン調教師の共同管理馬となっていた。愛国調教馬として初めて英ダービーを勝った本馬が愛国に戻ってきた際には、愛国民から熱狂的な歓迎を受けたと伝えられている。そして単勝オッズ1.1倍という断然の1番人気に支持された本馬はあっさりと勝利を収め、英ダービーと愛ダービーを両方勝った史上初の馬となった。

次の目標は秋の英セントレジャーだったが、夏場に本馬をアクシデントが襲った。喘鳴症を発症してしまったのである。本馬の父オームは喘鳴症を患っていたという話は無いが、オームの父オーモンドが喘鳴症に悩まされていたのは非常に有名な事実であり、これは遺伝によるものである確率が高そうである。

それでも本馬は早くも7月終わりには英国に戻り、リヴァプール競馬場で行われたアトランティックSに出走した。単勝オッズ1.57倍の1番人気に支持されたのだが、結果は英2000ギニー3着馬リナカーが勝利を収め、本馬は4着最下位に終わった。レース後に本馬を診察した獣医はクローカー・シニア氏に向かって、本馬には休息が必要である旨を進言した。しかしクローカー・シニア氏は、英ダービーで2着だったウールワインダーを英セントレジャーで再び打ち負かすことを希望していた。ウールワインダーの英ダービーにおける敗因は重馬場を上手くこなせなかったもので、実力負けではないという意見が多かったらしいのである。それにアトランティックSにおける斤量は本馬よりリナカーのほうが18ポンド軽かったらしいから、これをもって本馬の競走能力が減退したと決めつけるのは早計だったのも確かだった。

そして英セントレジャーに向けた調整が開始されたのだが、そんな本馬を再びのアクシデントが襲った。調教中に脚を負傷してしまったのである。それが英セントレジャーの直前だったために、さすがのクローカー・シニア氏も出走を断念せざるを得なくなった。本馬不在の英セントレジャーは、サセックスSを勝って臨んできたウールワインダーが1番人気に応えて6馬身差で圧勝した。一方の本馬は3歳時にもはやレースに出ることは無く、この年を5戦4勝の成績で終えた。4歳時も復帰を目指してしばらく競走馬登録が残っていたが、結局は復帰することなく引退となった。

血統

Orme Ormonde Bend Or Doncaster Stockwell
Marigold
Rouge Rose Thormanby
Ellen Horne
Lily Agnes Macaroni Sweetmeat
Jocose
Polly Agnes The Cure
Miss Agnes
Angelica Galopin Vedette Voltigeur
Mrs. Ridgway
Flying Duchess The Flying Dutchman
Merope
St. Angela King Tom Harkaway
Pocahontas
Adeline Ion
Little Fairy
Rhoda B. Hanover Hindoo Virgil Vandal
Hymenia
Florence Lexington
Weatherwitch
Bourbon Belle Bonnie Scotland Iago
Queen Mary
Ella D Vandal
Falcon
Margerine Algerine Abd-El-Kader Australian
Rescue
Nina Boston
Frolicsome Fanny
Sweet Songstress Doncaster Stockwell
Marigold
Melodious Peppermint
Harp

オームは当馬の項を参照。

母ローダビーは米国産馬で、1歳時にクローカー・シニア氏により1千ドルで購入されて、英国に送られた。競走馬としての経歴はよく分からないが、1勝は挙げているそうである。初子を産んだのが5歳時であるから、4歳時には既に繁殖入りしていた。母としては本馬の1歳年下の半妹ロードラ(父セントフラスキン)も産んでいる。

ロードラは2歳時にデューハーストプレートを勝っただけでなく、3歳時には英1000ギニーを優勝し、兄妹で英国クラシック競走の勝ち馬となった。しかしロードラは英オークスにおいて、直前を走っていた馬の落馬に巻き込まれて競走中止となってしまった。しかし生命には大事なく、通算14戦7勝の成績を残して引退・繁殖入りした。しかしロードラは非常に受胎率が悪く、生涯で1頭しか生きた子を産むことが出来なかった。もっとも、それはロードラ自身だけの責任では無かったようである。ロードラは恐ろしいことに半兄である本馬と交配されるなど、交配相手の種牡馬の選択に非常に問題があった(本馬との間の子は死産だった)。後にクローカー・シニア氏により手放されたロードラは、ドナルド・フレイザーなる人物の所有馬となったが、ロードラが結局自分の元では1頭も生きた子を産むことが出来なかった事に腹を立てたフレイザーは、自身が所有する猟犬の敷地に当時16歳のロードラを放して食い殺させるという非道極まりない方法で彼女を始末した。

ロードラの牝系子孫は残らなかったが、ローダビーの牝系子孫は、ロードラの6歳年下の半妹バーナキュリア(父クロンメル)により障害血統として後世に伝えられ、キャプテンクリスティ【チェルトナム金杯・キングジョージⅥ世チェイス2回・愛チャンピオンハードル・ジョンダーカン記念パンチェスタウンチェイス】などが出ている。

ローダビーの近親にはあまり活躍馬がおらず、ローダビーの祖母スウィートソングストレスの半姉マリブランの孫にキンリーマック【ブルックリンH・サバーバンH】が、スウィートソングストレスの祖母ハープの半姉グリーの子にザプロミストランド【英2000ギニー・グッドウッドC】がいる程度である。母系はヘロドと同じだが、あまり繁栄している系統では無い。→牝系:F26号族

母父ハノーヴァーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、自身が育ったグレンケアンスタッドで種牡馬入りした。自身は英ダービーと愛ダービーの勝ち馬であるが、種牡馬としては短距離向きの優れたスピードを産駒に良く伝えて活躍した。1915年に英愛種牡馬ランキングで7位に入ると、1916年に同6位、1917年に同3位、1918年に同5位、1919年に同2位、1920年に同7位に入り、6年連続でトップ10入りを果たした。1918年4月に14歳で他界した。

後継種牡馬としては初年度産駒の1頭ザボスと、代表産駒の1頭グランドパレードが成功した。

ザボスは大競走の勝ち鞍は無いが、16戦6勝の成績を残した。勝ったレースは全て距離5ハロンという完全なる短距離馬だった。種牡馬としても完全な短距離向きで、ジュライCを勝ったサーコスモ、キングズスタンドプレート2回・ナンソープSを勝ったゴールデンボス、愛2000ギニー馬サリスベリーなどを出した。サーコスモはコヴェントリーS・英シャンペンSを勝ったパノラマ、ゴールデンボスは父と同じくキングズスタンドプレート2回・ナンソープSを勝ったゴールドブリッジという有力後継種牡馬を出し、ゴールドブリッジの末裔からは英国障害界のアイドルホース・レッドラムも登場した。しかしザボス直系の不幸は、直系を伸ばす事に無頓着な日本競馬界に見初められた事だった。例によって直系種牡馬の殆どを買い漁られたザボスの直系は、1980年代頃に日本において滅亡した。それにしてもザボスの直系は距離6ハロンでも長すぎるという超短距離血統だったのに、短距離戦よりも明らかに長距離戦を重視していた1960年代当時の日本競馬界がこの系統を買い漁ったのは少々不可解ではある。

一方のグランドパレードは父子2代の英ダービー馬だが、やはりスピードに長けた馬だったらしく、産駒はマイル~短距離で活躍した。特にグランドパレードの孫であるダイオライトが三冠馬セントライトを出すなど日本で種牡馬として成功したため、この系統は日本で繁栄した。ザボスの系統と異なるのは、英国ではあまり成功せず、日本に導入されて繁栄したという点であり、グランドパレードの系統は日本競馬界のおかげで生き長らえたと言える。結局1980年代頃には完全に滅亡してしまったことにはザボス直系と変わりが無いが、それはダイオライトの項に記載したとおり第二次世界大戦敗戦の影響もあるから、ザボスの系統とはやや事情が異なっている。いずれにしても本馬の2大直系は共に日本で終焉を迎えたわけだが、上記に名前を挙げた馬を母系に有する馬は現在も少なくない。本馬自身も日本の名種牡馬シアンモアの母父となっているし、サーコスモはラウンドテーブルの母父となっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1912

Flash of Steel

MRCフューチュリティS

1913

Eos

チャイルドS・ケンブリッジシャーH

1914

Diadem

英1000ギニー・キングズスタンドプレート2回・ジュライC2回・コヴェントリーS・チャレンジS・オールエイジドS

1916

Glanmerin

サセックスS

1916

Grand Parade

英ダービー・セントジェームズパレスS

1917

Orpheus

英チャンピオンS2回・ニューS・プリンセスオブウェールズS

TOP