和名:ヒムヤー |
英名:Himyar |
1875年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:アラーム |
母:ハイラ |
母父:レキシントン |
||
ドミノ、プローディットという2頭の後継種牡馬を出し、米国土着の快速血統として21世紀まで生き延びたヒムヤー直系の始祖となる |
||||
競走成績:2~6歳時に米で走り通算成績27戦14勝2着6回3着4回 |
誕生からデビュー前まで
米国の馬産家兼馬主だったバラク・G・トーマス少佐により、彼が所有していた米国ケンタッキー州ディキシアーナスタッド(本馬の父アラームの父であるエクリプスが一時的に種牡馬生活を送っていた場所でもある)において生産・所有された。
本馬の命名の由来については、以下の有名な話が伝わっている。ある日トーマス少佐はディキシアーナスタッドを訪ねると、そこにいた牧夫に、ここにいる馬で一番出世する馬はどの馬か尋ねた。すると牧夫は本馬を指差して「Him yar(この馬です)」と答えた。トーマス少佐はその答えを気に入り、牧夫の台詞をそのまま本馬の名前としたのだという。
競走生活
2歳時に地元ケンタッキー州でデビュー。デビュー戦のコルト&フィリースウィープSは3着だったが、その後はコルトS(D6F)・コルト&フィリーフォールS・ルイビルベルメードS(D6F)などを制して2歳時を終えた。
3歳時は、ナッシュビルベルメードS(D12F)・フェニックスホテルS(D14F)・ジャニュアリーS(距離1マイルのヒート競走)に勝利した。ケンタッキーダービー(D12F)にも出走しているが、デイスターの2馬身差2着に敗れている。エルクホーンSではカミーエフの2着だった。
4歳時は初戦が9月と遅かったが、オールエイジSなど4戦全勝の成績を残し、ケンタッキーダービーで敗れたデイスターにも借りを返している。また、この年には単走での勝利も経験している。
5歳時はマーチャンツS(D9F)・ターフS(D9F)を勝ち、シチズンズSで2着している。
6歳時も現役を続けたが、5月に脚を故障してしまい、初戦となった9月のレースで4着に敗れたのを最後に6歳時は1戦のみで引退した。
10ハロン以上の距離でも活躍しているが、どちらかと言えばスタミナよりはスピードに秀でた馬だったらしい。また、とても穏やかな性格だった父アラームとは異なり、気性は非常に激しかったという。
血統
Alarm | Eclipse | Orlando | Touchstone | Camel |
Banter | ||||
Vulture | Langar | |||
Kite | ||||
Gaze | Bay Middleton | Sultan | ||
Cobweb | ||||
Flycatcher | Godolphin | |||
Sister to Cobweb | ||||
Maud | Stockwell | The Baron | Birdcatcher | |
Echidna | ||||
Pocahontas | Glencoe | |||
Marpessa | ||||
Countess of Albemarle | Lanercost | Liverpool | ||
Otis | ||||
Velocipede Mare | Velocipede | |||
Cerberus Mare | ||||
Hira | Lexington | Boston | Timoleon | Sir Archy |
Saltram Mare | ||||
Sister to Tuckahoe | Ball's Florizel | |||
Alderman Mare | ||||
Alice Carneal | Sarpedon | Emilius | ||
Icaria | ||||
Rowena | Sumpter | |||
Lady Grey | ||||
Hegira | Ambassador | Plenipotentiary | Emilius | |
Harriet | ||||
Jenny Mills | Whisker | |||
Cerberus Mare | ||||
Flight | Leviathan | Muley | ||
Windle Mare | ||||
Charlotte Hamilton | Sir Charles | |||
Lady of the Lake |
父アラームは当馬の項を参照。
母ハイラは本馬と同じくトーマス少佐の所有馬として走った。競走馬としてはステークス競走(名称不明)の勝ち星を挙げて、他にもプロスペクトパークダッシュで2着、ジェロームパーク競馬場のレースで3着するなどした。ハイラの競走馬としての活躍により、一時的に金欠に陥っていたトーマス少佐の財政状況が改善したというから、なかなかの活躍馬だったようである。本馬の半姉ハズエム(父オーストラリアン)の曾孫エリザベスエムは英国に競走馬として輸出され、キングズスタンドプレートを勝利した。しかしそれ以外に本馬の牝系から目立った活躍馬は出ておらず、ハイラの牝系子孫も現在では残っていないようである。→牝系:F2号族④
母父レキシントンは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、生まれ故郷のディキシアーナファームで種牡馬入りした。受精率が非常に悪く、毎年の平均産駒数は一桁だったという。それでも数少ない産駒の中から名馬ドミノが出て、1893年にはドミノの活躍により北米首位種牡馬を獲得。さらにドミノが輩出した名馬コマンドを経て直系を繁栄させた。1897年にトーマス少佐の財政状況が再び悪化すると本馬は売りに出され、エドウィン・サムナー・ガードナー氏により2500ドルで購入された。その後はガードナー氏がテネシー州に所有していたアヴォンデールスタッドファームで種牡馬生活を続けた。
本馬は1897年7月に6歳で夭折したドミノや1905年3月に7歳で夭折したコマンドと異なりかなり長生きをした馬で、他界したのは1905年12月、30歳の時だった。本馬の墓碑には“From his ashes speed springs eternal.(彼の遺灰から永遠のスピード時代が到来します)”と刻まれた。ケンタッキー州にはヒムヤーという名前の町が存在するが、それは本馬に由来する。
本馬の直系はコマンド産駒のピーターパンを通じて一時期米国で繁栄したが、ピーターパンの直系は既に滅亡。コマンド産駒の名馬コリンの直系が細々と続き、21世紀まで残っているが、現在は風前の灯となっている。また、ドミノと並ぶ本馬の代表産駒であるケンタッキーダービー馬プローディットの直系からはドクターファーガーやホーリーブルといった快速馬が出て、現在はホーリーブルの直系が残っている。また、母系に本馬の血を有する馬は数多く、現在もそのスピード能力により競馬界を裏で支えている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1888 |
Correction |
トボガンH |
1891 |
ベルモントフューチュリティS・ウィザーズS・メイトロンS |
|
1895 |
ケンタッキーダービー・クラークH |
|
1901 |
St. Valentine |
クイーンズカウンティH |