シニョリネッタ

和名:シニョリネッタ

英名:Signorinetta

1905年生

鹿毛

父:シャルルー

母:シニョリーナ

母父:セントサイモン

好き合っていた馬同士が結ばれるというサラブレッド界では稀有の出来事から誕生した英ダービー・英オークスのダブル優勝馬

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績13戦3勝

誕生にまつわる逸話

本馬について紹介するには、まずその誕生にまつわる逸話を語らなければならない。20世紀初頭の英国に、カヴァリエーレ・エドアルド・ジニストレーリ氏という人物がいた。1880年代初頭に生国である伊国から英国に移住してきたジニストレーリ氏は、自身で生産・所有した馬を自分が調教師として育成して走らせるというスタイルで競馬活動を行っていた。かなり以前の英国競馬であれば所有者が調教師を兼務することは珍しくなかったが、この当時は既に専門の調教師に育成を任せることが一般的となっていた。そのため彼は「風変わりで常識にとらわれない人物」と評された。

ジニストレーリ氏が競馬活動を開始してから数年後に所有した馬の中に、シニョリーナという牝馬がいた。シニョリーナは2歳時にジニストレーリ氏が無料で貰い受けた馬だったが、2歳時はミドルパークプレートなど9戦全勝の成績を誇り、3歳時には英オークスで2着、4歳時にランカシャープレートを勝つなど、通算18戦11勝の成績を残した名牝となった。競走馬を引退したシニョリーナについては高額で売ってほしいという申し出があったが、ジニストレーリ氏はそれを断り、自身が英国ニューマーケットに所有する牧場で繁殖入りさせた。

その優れた競走成績から繁殖牝馬としても大きな期待を寄せられていたシニョリーナだったが、非常に子出しが悪い馬で不受胎や死産を繰り返し、繁殖入りしてから実に10年間も産駒がいなかった。それでもジニストレーリ氏は辛抱強く交配を継続。シニョリーナが15歳時の1902年に、オーモンド産駒でジュライCなどを制していた種牡馬ベストマンとの間に、ようやく初子となる牡駒が誕生した。後にシニョリーノと名付けられたこの牡駒は競走馬としての勝ち星は僅か1勝だったが、英2000ギニーでヴェーダスの2着、英ダービーでキケロの3着と健闘することになる。

しかしシニョリーノを産んだ後もシニョリーナは子宝に恵まれず、翌1903年に産んだ2番子は幼少期に他界。この年の交配では受胎せず、翌1904年の産駒はいなかった。

この頃、シニョリーナが繋養されていた牧場にシャルルーという種牡馬がいた。このシャルルーは種付け料が僅か9ギニーという無名種牡馬で、“teaser(ティーザー)”、すなわち当て馬として使役されていた種牡馬だった。シニョリーナはこのシャルルーの事をとても気に入っていたようで、シャルルーが毎日の日課である散歩中にシニョリーナが暮らす厩舎の前を通りかかると、必ずシニョリーナはいなないていた。他にも、出会うたびに顔を擦り付けあったとか、他の種牡馬と交配されるために種付け場に向かう途中のシニョリーナがシャルルーを見て立ち止まり身動きしなくなったなど複数の説があり、どこまでが真実なのかは定かではないが、とにかく傍から見ていても2頭は好きあっていると感じさせるほどだったのは間違いないようである。それに気付いたジニストレーリ氏は、シャルルーとシニョリーナの愛を成就させてあげる事を決定した。

優秀な競走成績を残したシニョリーナに、当て馬をしていたシャルルーを交配させる事を決定したジニストレーリ氏は、周囲の競馬関係者達から愚か者呼ばわりされた。それでもジニストレーリ氏は「思いやりと愛情こそが無限の可能性を持つのです」が座右の銘だったらしく、自分の意志を曲げずに交配を決行(通常の種付け場における交配ではなく、シニョリーナとシャルルーを同じパドックで放牧するという手段を用いたという説もある)。そして翌1905年にシニョリーナは3番子となるシャルルー牝駒を無事に出産した。前置きが長くなったが、この牝駒が本項の主人公シニョリネッタである。

競走生活(3歳初期まで)

母シニョリーナと同様にジニストレーリ氏が自分で調教も手掛けて競走馬となったシニョリネッタは2歳時にデビューしたが、いきなり5戦連続着外。6戦目となったニューマーケット競馬場の下級ハンデ競走でようやく初勝利を挙げたが、2歳戦はここで終了となった。ジニストレーリ氏の調教方法がいかなるものだったのかは資料に詳細な記載が無く不明であるが、常識からはかけ離れた内容だったのは確かだったようで、他の競馬関係者達の間で笑いの対象とされていたそうである。

3歳初戦は英1000ギニー(T8F)となったが、デューハーストSを勝っていたロドーラの着外に敗れた。次走は2週間後のニューマーケットS(T10F)となった。このレースは牡馬相手であり、本馬は単勝オッズ26倍の人気薄だった。レースでは勝負どころで優れた加速力を見せたものの、ゴール前であっさり失速して、プライマーの5着に終わった。

英ダービー

次走は英ダービー(T12F)となった。対戦相手は、英2000ギニーを勝った米国産馬ノルマン、デューハーストS2着馬ペリエ、前走で本馬を破ったプライマー、後の英チャンピオンS勝ち馬ラングウムなど17頭の牡馬であり、牝馬は本馬のみだった。牝馬が英ダービーに出走すること自体は当時それほど珍しくは無かったが、普通は十分な実績を挙げた牝馬が挑戦してくるものだった。この時点における本馬の成績は8戦1勝着外7回で、唯一の勝ち星がハンデ競走という有様であり、常識的には英ダービーに出すなど恥以外の何物でもなかったはずなのだが、ジニストレーリ氏はそんな常識など全く気に掛けていなかった(そもそも英ダービーに出走したという事は、幾度か必要となる事前登録を怠らずにきっちりと行っていたという事になる)。

ジニストレーリ氏がどの程度自信を持っていたのかは分からないが、客観的に見れば本馬が勝つ可能性は限りなくゼロに近く、どうやらブックメーカーが適当に設定したらしい単勝オッズ101倍はそれでもまだ高い部類だったかもしれない(前走で本馬を破ったプライマーも単勝オッズ41倍の人気薄だった)。もっとも、英国の作家ロード・アルフレッド・ブルース・ダグラス(著名な作家オスカー・ワイルドの同性愛の相手だった事で有名)は、友人達からあの馬だけは絶対に勝たないと散々止められながらも本馬の単勝に5ポンドを賭けていたという。

所有馬ペリエを出走させていた当時の英国王エドワードⅦ世やアレクサンドラ王妃、ウェールズ皇太子(後の英国王ジョージⅤ世)を始めとするロイヤルファミリーや、1番人気に推されていたノルマンの所有者だった米国の大馬主オーガスト・ベルモント・ジュニア氏(後にマンノウォーの生産者となる)、やはり所有者シーシックを出走させていた米国の大富豪アルフレッド・グウィン・ヴァンダービルト氏(ネイティヴダンサーの生産者アルフレッド・グウィン・ヴァンダービルトⅡ世氏の父)といった有名人達がエプソム競馬場内に勢揃いする中でスタートが切られると、ラングウムやマーキュティオが先頭に立ち、ノルマンは先行、ウィリアム・ブロック騎手騎乗の本馬はひとまず後方からレースを進めた。レース中盤辺りに差し掛かるとノルマンの位置取りが徐々に下がり始め、入れ代わるように本馬がどんどん位置取りを上げていった。その勢いはタッテナムコーナーを回って直線を向いても衰えず、先に抜け出していたマウンテンアップルという馬を残り2ハロン地点でかわして先頭に立った。そして後は危ない場面は少しも無く、ニューヨーク・タイムズ紙の記事に「まったくの馬なり」と書かれるほどの走りで、前走ニューマーケットSで本馬を破ったプライマーを今度は2馬身差の2着に破って優勝。当日の天候は快晴であり、レースが終わって引き揚げてきた馬達の多くは暑さと疲労のため大量に発汗していたが、本馬だけは汗もかかずにけろりとしていた。

生産者・所有者・調教師全てを1人の人間が兼ねた馬が英ダービーを勝ったのは史上初の快挙だった(後にアーサー・バジェット氏という人物が1969年にブレイクニーで、1973年にモーストンで勝利を収めて史上2人目となっている)。本馬の単勝オッズ101倍は、1898年のジェダー、1913年のアボワユールと並ぶ英ダービー史上最高タイ記録で、後の2002年に英オブザーヴァー紙が選定した「スポーツの歴史上最もショッキングな瞬間」の1つにこの年の英ダービーが含まれている。

英オークス

そして英ダービーの2日後に本馬は英オークス(T12F)に出走。1番人気は英1000ギニーで本馬を一蹴したロドーラだったが、本馬も単勝オッズ4倍で対抗馬としての評価を受けていた。しかしロドーラはフレンチパートリッジという馬が落馬した煽りを受けて自身も落馬して競走中止(大事には至らなかった)となってしまった。その一方で好位につけていた本馬は不利を受けることは無く、2番手で直線に入ってくると、エプソム競馬場の長い直線を見事に押し切り、2着コーテシーに3/4馬身差をつけて優勝。同一馬による英ダービーと英オークスのダブル制覇は、1801年のエレノア、1857年のブリンクボニー以来51年ぶり史上3頭目であり、本馬以降には1頭も存在しない。英ダービー勝利時にエプソム競馬場を包んだのは静寂だったが、今回の勝利はファン達から熱狂的に迎えられ、この日もエプソム競馬場に来場していたエドワードⅦ世は貴賓席からジニストレーリ氏に直々に賞賛の言葉をかけた。

次走のロイヤルS(T10F)では単勝オッズ2.625倍の1番人気に支持されたが、スローペースの罠に嵌ってしまい、英2000ギニー3着馬で後のサセックスS勝ち馬ホワイトイーグル(大種牡馬ブランドフォードの母父)の4着に敗退。その後も2戦したがいずれも着外に敗れ、3歳時7戦2勝の成績で引退した。

血統

Chaleureux Goodfellow Barcaldine Solon West Australian
Birdcatcher Mare
Ballyroe Belladrum
Bon Accord
Ravissante Clanronald Blair Athol
Isilia
Makeshift Voltigeur
Makeless
Lete John Davis Voltigeur Voltaire
Martha Lynn
Jamaica Liverpool
Preserve
Fandango Mare Fandango Barnton
Castanette
Sleight of Hand Mare Sleight of Hand
Bay Middleton Mare
Signorina St. Simon Galopin Vedette Voltigeur
Mrs. Ridgway
Flying Duchess The Flying Dutchman
Merope
St. Angela King Tom Harkaway
Pocahontas
Adeline Ion
Little Fairy
Star of Portici Heir at Law  Newminster Touchstone
Beeswing
The Heiress  Birdcatcher
Inheritress
Verbena De Ruyter Lanercost
Barbelle
Singleton Lass St. Lawrence
Gaberlunzie Mare

父シャルルーは現役成績26戦10勝、シザレウイッチH・マンチェスターHを勝っている。種牡馬としては前述のとおり当て馬の立場に甘んじており、後にも先にも本馬以外の活躍馬を出すことは無かった。実はシャルルーは非常に気性が悪い馬だったらしく、そんな馬にシニョリーナが惹かれたからには余程美形の馬だったのだろうと筆者は思うのだが、残念ながら写真を見つけられなかったために確認できなかった。

シャルルーの他の功績としては、英国三冠馬ロックサンドの半妹ロケットの父となったことが挙げられ、ロケットの牝系子孫であるベラパオラ達の誕生に貢献している。

シャルルーの父グッドフェローはバーカルディン産駒だが、競走馬としての記録は不明。

母シニョリーナについては前述のとおり。本馬を産んだ後にもシャルルーと交配されて、本馬の2歳年下の全妹スターオブナップルズを産んでいる。スターオブナップルズの孫にはセシル【コロネーションC・グッドウッドC】がいる。セシルは凱旋門賞馬ラインゴールドの曾祖母の父として後世にその血を伝えている。また、スターオブナップルズの牝系子孫にはクリエイター【ガネー賞(仏GⅠ)・イスパーン賞(仏GⅠ)】やダンスデザイン【愛オークス(愛GⅠ)】などがいる。また、シニョリーナの初子で本馬の半兄であるシニョリーノは競走馬引退後に伊国で種牡馬となり、伊ダービー馬を8頭、伊オークス馬を7頭(本馬と同じくダービーとオークスをダブル制覇した馬も1頭いる)出すなど大成功を収めた。→牝系:F23号族①

母父セントサイモンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はジニストレーリ氏の牧場で繁殖入りした。しかし本馬が繁殖入りしてしばらくするとジニストレーリ氏は金銭的に行き詰ってしまった。彼は本馬が英ダービーを勝った1908年の時点で既に75歳という高齢であり、競馬界から身を引いて生国の伊国で余生を過ごすことを決めた。そして1911年12月にジニストレーリ氏は本馬をニューマーケットの繁殖牝馬セールで売却すると、伊国へと戻っていった(この9年後の1920年に87歳で死去)。

本馬を購入したのは英国首相を務めた事もある第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・フィリップ・プリムローズ卿だった。プリムローズ卿は政治家としても大物だったが馬主としても大物であり、英ダービーは、ラダス、サーヴィスト、キケロ(本馬の半兄シニョリーノを負かしている)で3勝していた(ウィンストン・チャーチル英国首相の名言と一般的に言われている「英ダービー馬のオーナーになるのは一国の宰相になるより難しい」という言葉はプリムローズ卿には該当しなかった)。なお、本馬が売却された際にジニストレーリ氏の姿が見えなくなると本馬は落ち着きを失って暴れ出したが、プリムローズ卿の担当厩務員がジニストレーリ氏から譲り受けた煙草の匂いを本馬に嗅がせると、落ち着きを取り戻したという逸話が日本の資料にある(海外の資料では確認できず)。その後の本馬はプリムローズ卿が所有する牧場で繁殖生活を送り、1928年に23歳で他界した(1916年に11歳で他界したとする日本の資料があるが、1920年生まれの産駒がいるため明らかに誤りである)。

本馬の産駒には特に目立つ馬はいないのだが、孫世代以降からは活躍馬が出ている。まず、牝駒パスタ(父スラッシュ)の息子ハンティングソングは新国で種牡馬入りして6シーズン連続首位種牡馬になる活躍を見せた。パスタの牝系子孫は細々と続き、パスタの玄孫には1957年の米最優秀ハンデ牝馬パッカーアップ【ベルデイムH・ワシントンパークH・メイトロンH】が登場。その後は活躍馬こそ殆ど出ていないものの、その牝系は今世紀に入っても残っている。また、本馬の産駒として唯一のステークスウイナーである牡駒ザウインターキング(父サンインロー)【ロウザーS・チャーチルS】は種牡馬としてパリ大賞や仏共和国大統領賞(現サンクルー大賞)を制したバルヌヴェルドを出した。バルヌヴェルドは種牡馬として1940年の英ダービー馬ポンレヴェクを送り出している。ポンレヴェクは後に亜国に輸出されており、その血を引く馬は現在も南米にいる。ちなみに1976年の東京優駿優勝馬クライムカイザーの4代母の父はポンレヴェクであり、本馬の血が僅かながら入った馬は現在の日本にも存在している。

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