グロースターク

和名:グロースターク

英名:Graustark

1963年生

栗毛

父:リボー

母:フラワーボウル

母父:アリバイ

陣営の無理使いが祟ってケンタッキーダービーを目前に故障して早期引退を余儀なくされたが種牡馬としては父リボーの後継として大活躍

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績8戦7勝2着1回

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ダービーダンファームにおいて、同牧場の所有者でもある米国の不動産業者ジョン・W・ガルブレイス氏により生産・所有された。ガルブレイス氏は135万ドルという大金を払って父リボーを5年間米国にリースした人物である。本馬が誕生した時期、ガルブレイス氏は馬主として絶頂期にあり、同年にはシャトーゲイでケンタッキーダービーとベルモントSを制し、前年にはシャトーゲイの全姉プリモネッタが米最優秀ハンデ牝馬に選ばれ、ブラマリー(英ダービー馬ロベルトの母)がCCAオークスに勝つなど所有馬が大きな活躍を見せていた。しかしダービーダンファーム自体は本馬誕生の2年程度前からやや経営難に陥っていた。同牧場の専属調教師は長年ジェームズ・コンウェイ師が務めていたのだが、同牧場が経営難となったことが原因で、同牧場の運営管理者でガルブレイス氏の片腕だったオーリン・ジェントリー氏とコンウェイ師の仲は悪化していた。本馬は2歳2月時点で2ハロンを23秒で走破するほどの素質を見せていたが、ジェントリー氏は本馬をコンウェイ師に任せようとせず、自身の甥であるロイド・ジェントリー・ジュニア調教師に任せた。

競走生活(2歳時)

2歳7月にアーリントンパーク競馬場でデビューすると、未勝利戦・一般競走と瞬く間に2連勝して、大器出現と大きく騒がれた。さらにアーリントンパーク競馬場3戦目となったアーチワードH(D7F)では不良馬場の中を快走して、2着ポートワインに6馬身差をつけて圧勝してステークス競走初勝利を挙げたが、その直後に脚を故障して長期休養を余儀なくされた。それから間もなくして、コンウェイ師はダービーダンファームを去った(ただしガルブレイス氏とコンウェイ師の関係はその後も良好のままだったという)。

2歳時は結局3戦のみで終わったが、2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)においては、ナショナルスタリオンS・トレモントS・サプリングS・ホープフルS・アーリントンワシントンフューチュリティ・シャンペンS勝ちなど11戦9勝のバックパサーに次ぐ第2位にランクされた。

2歳12月にフロリダ州ハイアリアパーク競馬場で調教に復帰したが、ジェントリー・ジュニア師はケンタッキーダービーを目指して本馬に非常に過酷な調教を課した。当時の米国における一般的な調教は、全力疾走を少しと、速度を調整しながらの駆け足を行った後で、厩舎周囲で歩行訓練を行うというという内容を、ある程度の休みを挟みながら数日間のスパンで実施するものだったが、本馬にはほとんど休みが与えられなかった。

競走生活(3歳初期)

3歳1月にハイアリアパーク競馬場で行われた一般競走で復帰して5馬身差で圧勝したが、この頃には既に本馬に対する過酷な調教は米国競馬界で話題になっており、故障するのではないかという懸念が囁かれていた。この件について質問をされたジェントリー・ジュニア師は「何も伝えることは出来ません」と応じた。

2月にはバハマズS(D7F)に出走して、サラトガスペシャルSの勝ち馬インプレッシヴを2着に破って勝利したが、それから間もなくして左後脚の踵を負傷してしまい、次走に予定していたレースには出走できず、復帰戦は4月にケンタッキー州キーンランド競馬場で行われた一般競走となった。このレースを勝利した本馬は、次走の一般競走も勝利し、デビューから7戦無敗とした。

出走したレースは短距離戦ばかりであり、しかもバックパサーなど同世代トップクラスの馬との対戦は無かったが、その素質は非常に高く評価されており、ケンタッキーダービーの前売りオッズではバックパサーと並んで1番人気に推されていた。しかしバックパサーは3月のフラミンゴSを勝った後に裂蹄を発症してケンタッキーダービーを回避することが決まったため、本馬が単独で大本命と目された。本馬の主戦を務めた前年の北米首位騎手ブラウリオ・バエザ騎手(バックパサーの主戦でもあった)は、本馬を自身が乗った最良の馬であると語り、本馬は1948年のサイテーション以来18年ぶりの米国三冠馬になれるのではないかとの声まで挙がった。本馬はマンノウォーに匹敵するほど跳びが大きい栗毛馬だったため、マンノウォーの愛称“Big Red”にちなんで“The Big G”と呼ばれるようになっていた。

ブルーグラスS

しかし本馬は故障した脚を保護するための特製の重い蹄鉄を装着するようになっており、重馬場を走るのは苦手だろうと考えられていた(ただし前年のアーチワードHでは特製蹄鉄装着前ではあるが不良馬場の中を圧勝しており、全く駄目だと考えられていたわけではないようである)。ガルブレイス氏とジェントリー・ジュニア師はケンタッキーダービーの9日前にブルーグラスSを使うつもりだったが、不運にも大雨が降り続いたために馬場状態は不良になってしまった。しかしガルブレイス氏は本馬の出走を決断した。ジェントリー・ジュニア師は「この馬は非常に偉大であり、馬場状態など関係ありません」と繰り返したが、その発言を耳にしたフィル・ジョンソン師という調教師(前年に管理馬をクレーミング競走に巧みに出走させて25万ドル以上を獲得していた)は、「あの男がグロースタークを扱っているのと同じように私が管理馬を扱い始めたら、1週間で私に馬を任せる馬主は皆無になるでしょう」と酷評した。他の競馬関係者達も誰もが同意見であり、後に米国三冠馬セクレタリアトを手掛けるルシアン・ローリン調教師は「優れた馬を扱う場合、持っていなければならないものの一つは忍耐なのです」と苦言を呈した。しかしガルブレイス氏は周囲からの圧力に負けるつもりなど無かったようで、本馬のブルーグラスS出走を取り消そうとはしなかった。

本馬はブルーグラスS前の最後の調教において、滑りやすい馬場状態でありながら3ハロンを33秒8という、前哨戦に過ぎないレースの準備としては非常識な好タイムで走破したが、その直後に脚を引きずる仕草を見せた。調べると、本馬の蹄に安全ピンが刺さっている事が判明した。ジェントリー・ジュニア師は、本馬の調教を担当したブラックスミス・ヒロック氏にその責任を転嫁すると、本馬の脚をアイシングした上で、それでも予定どおりブルーグラスS(D9F)に出走させた。対戦相手は、フラミンゴS2着馬エイブズホープと、シティオブマイアミビーチHの勝ち馬リハビリテートの2頭だけだった。レースではスタートから後続を大きく引き離して逃げたが、既にレース途中でバエザ騎手は異常を感じていた。向こう正面で奪った6馬身ほどのリードは瞬く間に縮まり、後方からエイブズホープが襲い掛かってきた。本馬は脚が痛いのか、いつもよりも短いストライドで走りながら必死にエイブズホープの追撃から逃れようとしたが、ゴール直前で遂に捕まって鼻差2着に敗れた。

ケンタッキーダービーに出ることなく引退

そしてレース直後に左前脚の蹄骨を骨折していることが判明。ケンタッキーダービー出走は絶望的となり、そのまま3歳時5戦4勝の成績で競走馬引退に追い込まれてしまった。バックパサーに続いて本馬までもケンタッキーダービーを欠場する事を知った米国の競馬ファン達は一斉に不満の声を挙げ、その結果、ジェントリー・ジュニア師は“Boo Gentry(ブーイング・ジェントリー)”という不名誉な渾名で呼ばれることになってしまった。この年のケンタッキーダービーは、本馬やバックパサーだけでなく、デルマーフューチュリティの勝ち馬コーシング、アーリントンワシントンフューチュリティ・カウディンS・ピムリコフューチュリティで各2着だったファーザーズイメージ、ジュヴェナイルS・タイロS・グレートアメリカンSの勝ち馬でシャンペンS2着のアワマイケル、ガーデンステートSの勝ち馬プリンスセイムといった前年の2歳時フリーハンデ上位6頭全てが回避してしまい、非常に盛り上がらないレースとなってしまった(結局1番人気に押し出されたファウンテンオブユースS勝ち馬カウアイキングが優勝している)。

本馬が引退に追い込まれた後、ジェントリー・ジュニア師は取材に訪れたニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の競馬記者ピート・アクセイム氏に対して「何故あなた達は私に何も言わせようとしなかったのですか」と不満を漏らし、確かにジェントリー・ジュニア師には弁明の機会が与えられるべきだと思ったアクセイム氏がコメントを求めると、「何もありません。ここからすぐに出て行ってください」とだけ応じたという。アクセイム氏は、ジェントリー・ジュニア師を「優秀だが内気で神経質な人物」と評している。

本馬の馬名は米国の小説家ジョージ・バー・マッカッチョンの作品「ビバリー・オブ・グロースターク」に登場する欧州の架空の国グロースタークに由来する。

血統

Ribot Tenerani Bellini Cavaliere d'Arpino Havresac
Chuette
Bella Minna Bachelor's Double
Santa Minna
Tofanella Apelle Sardanapale
Angelina
Try Try Again Cylgad
Perseverance
Romanella El Greco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Gay Gamp Gay Crusader
Parasol
Barbara Burrini Papyrus Tracery
Miss Matty
Bucolic Buchan
Volcanic
Flower Bowl Alibhai Hyperion Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
Teresina Tracery Rock Sand
Topiary
Blue Tit Wildfowler
Petit Bleu
Flower Bed Beau Pere Son-in-Law Dark Ronald
Mother in Law
Cinna Polymelus
Baroness La Fleche
Boudoir Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Kampala Clarissimus
La Soupe

リボーは当馬の項を参照。

母フラワーボウルはデラウェアH・レディーズHなどを勝ち32戦7勝の成績を残した活躍馬だった。フラワーボウルは元々ブルックミードステーブル名義で走り、競走馬引退後もブルックミードステーブルで繁殖入りしていた。1962年にブルックミードステーブルの所有者イザベル・ドッジ・スローン氏が死去した後、ガルブレイス氏の手に渡った。本馬はフラワーボウルがダービーダンファームにやって来て最初に産んだ子である。フラワーボウルは競走馬としても活躍したが、繁殖牝馬としてはさらなる大成功を収め、初子で本馬の半姉に当たる米国顕彰馬ボウルオブフラワーズ(父セイラー)【フリゼットS・エイコーンS・CCAオークス・スピンスターS・ナショナルスタリオンS・ガーデニアS】、本馬の全弟で1982年の北米首位種牡馬に輝いたヒズマジェスティ【エヴァーグレイズS】を輩出した。しかしフラワーボウル自身の牝系は孫世代以降あまり発展せず、活躍馬と言えるのは、ボウルオブフラワーズの子であるスプルースブーケ【ホーソーン金杯H(米GⅡ)】くらいである。フラワーボウルの全妹フローラルパークの牝系子孫からは、グルーピードール【BCフィリー&メアスプリント(米GⅠ)2回・ヴァイネリーマディソンS(米GⅠ)・ヒューマナディスタフH(米GⅠ)】が、半妹マルチフローラ(父ビューマックス)の娘には米国顕彰馬ギャラントブルーム【メイトロンS・モンマスオークス・デラウェアオークス・ガゼルH・マッチメイカーS・スピンスターS・サンタマリアH・サンタマルガリータ招待H】が出ている。

フラワーボウルの母フラワーベッドはユアホスト【デルマーフューチュリティ・サンフェリペS・サンタアニタダービー】の半姉であり、牝系からは多くの活躍馬が出ているが、その詳細はユアホストやボウルオブフラワーズの項に記載したのでそちらを参照してほしい。→牝系:F4号族①

母父アリバイはユアホストの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、短い現役生活にも関わらず、その圧倒的な潜在能力を評価されて、当時としては非常に高額な240万ドルのシンジケートが組まれてダービーダンファームで種牡馬入りした。種牡馬としても優秀で、トムロルフヒズマジェスティとともに、リボーの直子としては最高レベルの種牡馬成績を挙げた。また、繁殖牝馬の父としてはさらに優秀で、1985年には英愛母父首位種牡馬の座を獲得している。1988年8月に25歳で他界し、遺体はダービーダンファームに埋葬された。本馬の血が入ると、スピードのみならずスタミナと底力を確実に強化してくれると評されている。日本にはジムフレンチが種牡馬として輸入され、東京優駿馬バンブーアトラスを出す成功を収めた。バンブーアトラスはさらに菊花賞馬バンブービギンを出したが、国内外共に本馬の直系は衰退している。母父としてはオーソーシャープティファニーラスペイザバトラーアサティスサンシャインフォーエヴァーブライアンズタイムなどを出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1968

Grafitti

ブラックヘレンH(米GⅡ)・レディーズH

1968

Grenfall

ガリニュールS(愛GⅡ)

1968

Jim French

レムセンS・サンタアニタダービー・ドワイヤーH

1969

Key to the Mint

ブルックリンH・ホイットニーH・トラヴァーズS・ウッドワードS・サバーバンH(米GⅠ)・レムセンS・ウィザーズS・エクセルシオールH(米GⅡ)

1969

Prove Out

ウッドワードS(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)・グレイラグH(米GⅡ)

1969

Ruritania

マンハッタンH

1970

Groshawk

デルマーフューチュリティ・ノーフォークS・ウィルロジャーズH(米GⅡ)・ラホヤマイルH(米GⅢ)

1970

Java Moon

カムリーS(米GⅢ)

1970

Prince Dantan

サンタアニタH(米GⅠ)・サンアントニオH(米GⅠ)

1971

Caracolero

仏ダービー(仏GⅠ)

1971

Maud Muller

ガゼルH(米GⅡ)・アッシュランドS(米GⅢ)

1971

Shady Character

ニッカボッカーH(米GⅢ)2回

1972

Avatar

ベルモントS(米GⅠ)・サンタアニタダービー(米GⅠ)・サンルイレイS(米GⅠ)

1972

Distant Land

スタイヴァサントH(米GⅢ)

1972

Resident Nurse

パジャントS(米GⅢ)

1973

Glowing Tribute

シープスヘッドベイH(米GⅡ)・ダイアナH(米GⅡ)・シープスヘッドベイH(米GⅡ)

1973

Naples

ホワイトマーシュH(米GⅢ)

1974

Ida Delia

レディーズH(米GⅠ)

1974

Monseigneur

コンセイユドパリ賞(仏GⅡ)・アルクール賞(仏GⅡ)

1975

Tempest Queen

エイコーンS(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)・ガゼルH(米GⅡ)・ポインセチアS(米GⅢ)

1976

Gregorian

ジョーマクグラス記念S(愛GⅠ)・ゴードンリチャーズS(英GⅢ)・ブリガディアジェラードS(英GⅢ)

1977

Proctor

ラトガーズH(米GⅢ)・カナディアンターフH(米GⅢ)

1978

Don't Sulk

ロワイヤリュー賞(仏GⅢ)

1978

Protection Racket

愛セントレジャー(愛GⅠ)・ドンカスターC(英GⅢ)・エボアH

1980

Feu de Guerre

プリンチペアメデオ賞(伊GⅡ)

1982

Proud Truth

BCクラシック(米GⅠ)・フロリダダービー(米GⅠ)・フラミンゴS(米GⅠ)・ファウンテンオブユースS(米GⅡ)・ピーターパンS(米GⅠ)・タイダルH(米GⅡ)・ディスカヴァリーH(米GⅢ)

1983

Steal A Kiss

シープスヘッドベイH(米GⅡ)

1987

Memories of Pam

ボイリングスプリングスH(米GⅢ)

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